A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

Recording Words 096 パン

2010-05-27 22:22:32 | ことば
或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭に似たりと思ひけるかな

(石川啄木『一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)』新潮社/新潮文庫、1952年、p.45)

「麺麭」はパンと読む。京都ではパン屋をよく見かける。パン好きの私としては胸躍る心地なのだが、京都出身・在住の方にそれを報告しても、「言われてみればそうかもしれない・・・」ぐらいの反応しか返ってこない。
 京都で見かけるパン屋(名称はブーランジェリーでもベーカリーでもいい)は東京と違って個人経営の店が多いようである。私はそれが嬉しくてならない。東京ではチェーン店のパン屋が多く、パンの種類も味も(一部を除き)それほど差はないように思える。だが、京都では、各店ごとに味に個性があるし(それでいて「素直」な味なのである!)、販売するパンもそれぞれ傾向が異なり、ディスプレイや店内の雰囲気まで含めてパン屋でパンを買うことの至福と食への期待感に満ちている。もちろん、パンのチェーン店として、志津屋(昭和23年創業)、進々堂(大正2年創業)が有名だし、近県では神戸のDONQ(明治38年創業)がある。
 では、なぜ京都では個人経営のパン屋が多いのだろうか。米食ではなく、パン食の人が多いのだろうか。確かに、隣県の大阪はお好み焼きやたこ焼きなどの粉もの食文化で有名な県である。だが、お好み焼きやたこ焼きとパンでは、同じ粉系食品でも、食感や味がかなり異なる。たしかに、お好み焼き屋やタコ焼き屋は京都でも多い(ラーメン屋も多い気がする)。だが、それらとパン屋は異質な領域に位置しているのではないだろうか。
 これらの理由として家賃が安いこと。京都には和菓子文化があり、その延長上にパンが食されていること(あるいは、作られること)が考えられるが、筆者はまだ具体的な解答を得るには至っていない。今後も各店のパンを食べ歩き、焼きたてのパンのようなこころを維持していきたいと考えている。