ようやく自分自身を発見したならば、時々自分を見失い――それからまたあらためて発見することを心得ねばならない、ただし、彼が思索家であることを前提とした上で。つまり思索家にとっては、しょっちゅうひとつの人格に結わえつけられていることは害になるからである。
(フリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的Ⅱ』中島義生訳、筑摩書房/ちくま学芸文庫、1994年、p.487)
決まった「自分」なんてありません。
(フリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的Ⅱ』中島義生訳、筑摩書房/ちくま学芸文庫、1994年、p.487)
決まった「自分」なんてありません。