A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記157 「宮本武典」

2008-01-25 23:02:11 | 書物
タイトル:αmプロジェクト2007 ON THE TRAIL Vol.4 宮本武典
キュレーター:鷹見明彦
コーディネーター:岡部あおみ
デザイン:長内研二、河野伊央
発行:武蔵野美術大学
発行日:2008年1月15日
内容:
2008年1月15日-1月26日まで東京・京橋のart space kimura ASK?にて開催された<αmプロジェクト2007 ON THE TRAIL Vol.4 宮本武典>展のカタログ。

テキスト
「双子の星、ジェミニのうた」鷹見明彦(美術評論家/αmプロジェクト2007キュレーター)
図版8点、作家略歴

入手日:2008年1月19日
入手場所:art space kimura ASK?
宮本武典氏の作品は2004年にLA GALERIE DES NAKAMURAと2005年にINAXギャラリーにおいて開催された個展を見ている。氏自身が双子であることから、私自身も双子なため少なからずシンパシーを感じたことを憶えている。今回久しぶりに作品を見たのだが、ドキュメンテーション中心による展示となり、わからなさを残す展示であった。
双子性については鷹見氏もテキストで指摘しているように、「一人でありながらふたりでもあること」の意識をつねにもってしまうということだ。おそらくほとんどの人は自分は一人だという意識を持っているだろう。顔や身体は他の誰かではなく、例え好むと好まざるに関わらずそれは「自分」だ。この「顔」を持っているのは「自分」しかいないと確定できる。だが、双子(一卵性双生児)というのは、他者から見た場合、身体がほぼ同一であるため「わたし」が「わたし」であることの自己同一性が確実には保障されえない。例えば、あなたが街中を歩いていて別の兄弟(姉妹)に間違われるという経験はほとんどないだろう。だが、双子というのはつねに他者から間違われる可能性を持つ、その存在に誤認を含む存在なのだ。「私」が「私」であることの不確実性。兄弟(姉妹)とはいえ確実に別の他者の人生を歩んでいるはずのもう一人の人間と間違われ、比較され続けること。双子に対しては人は双子間のシンクロニシティや神秘性について想像するかもしれない(そのほとんどは神話や物語の中の世界なのだが)。だが、「一人でありながらふたりでもあること」の意識・存在を引き受けることは想像以上に重たいことだと今のわたしは思う。

そう考えると、双子=複数の人生を生きる(引き受ける)というのは、大量生産品のように簡単なことではないと思える。ものと人は違う。外見が同じボールペンが2本あるのと、外見が同じ(ように見える)人間が2人(あるいはそれ以上)いるのとではその存在はまったく異なる。

もちろんこの複数性を拡張するならば、自然が生み出すものすべてに言えることだ。リンゴやオレンジはみな同じように見えるし、サンマもマグロもどれもこれも同じに見える。だがひとつづつその形状に差はある。その微かな差異へのまなざし。双子から複数であることの存在を考えてしまったが、まだ思いつきの域を出ないので今はここでやめておこう。
最後に断っておくが、すべての双子がこのような双子観について考えているわけではないし、またその必要もない。私も双子について考えたのは何年ぶりかだ。ただ、このような展示・テキストに出会うと人より余計に考えてしまうだけなのだ。