<天野遠景の想像図(※イメージです)>
また系図のお話。系図なんていくつも見ても何も楽しくないと思われるかも知れません。(私も系図キライ)。ごめんなさい。でも、天野遠景のことを考えるにはまずあれこれ眺めてみなければならぬ必要な物なのです。こんな(鬱屈した心境の)時じゃないとこんな記事書けないし(本当はカメラ持って車で出かけたいんですよぅ)、私以外にこんなことに興味を持つ人もあんまりいないと思いますのでね。
天野遠景、マイナー武将だと思われるので不本意ながら一言解説しておきますと、「源頼朝の配下で九州大総統となった人。各地を鬼のように暴れ回った」です。享楽的で気ままな伊豆人の性格の最もアグレッシブな部分を象徴している人だと言ってもいい。本当に外に向かう一族だったらしくて、全国各地に天野氏の末裔がいます(天野さんの故郷は伊豆ですよ!)。でも遠景は、北条一族以上に系図を眺めていると何が何だかわからなくなってくる、不思議な人なんです。もはや、天野遠景の人生って系図を迷路にする為に存在したと言ってもいいくらい。(←早くも言ってることがわからない)
さてさて、天野遠景は知られている詳細が多くない人ですが、
平凡社の世界大百科並びにウィキペディアでは、「藤原南家の流れを汲む狩野工藤家の傍系(入江工藤家)」としていて、一致しています。きっとこれが定説なんですね。
で、系図と言ったら尊卑分脈。ところが尊卑分脈は入江氏の系図部分が非常に充実してるくせに、遠景の名が見えません。尊卑分脈では遠景は入江氏じゃないのです。
でも慌てなくて大丈夫、群書類従にはちゃんとありますから。尊卑分脈はほんと問題資料です。狩野氏の部分だって変な所がたくさんあるんですよ。
今日のこの記事(系図)は、大部分を中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』 (静岡教育出版社、2005年)に負っています。ご了承ください。
これを見ると、初めて木工助となった「工藤氏の祖」藤原為景が、同時に入江氏にもなっている事が分かりますね。そして、遠景の父景光の代に伊豆国住人となっているところが注目ポイントだ。別に代々伊豆に住んでいたわけじゃなかったのね。
ところが実は群書類従には、もうひとつの天野氏系図が収録されているのです。
(…と、件の御本には書いてある)
なんだこりゃ。
と思ってネットで情報収集してみますと、もうちょっと詳しい同じ系図が見つかります。「天野遠景の謎 その一-『萩藩閥閲禄』」さんより。
天野遠景はもっとダイレクトに皇族の近い縁戚ですよー。(後三条源氏というらしい)
こりゃ大胆だ。藤原南家とか工藤氏の縁戚とか、そんなことはもうどうでもよくなっています。ただし、これは何の根拠もないムチャクチャな系図かというとちょっと注意が必要で、この資料自体は毛利氏の萩藩に由来するものですが、実はたぶん我らが伊豆長岡に伝わる伝説も深く関わっているらしいということです。伊豆の歴史に詳しい人なら有名なことですが、後三条天皇の皇子・輔仁親王とは白河天皇の弟で、父の後三条帝から「白河の後に天皇にしてやる」と言われていたのに、白河はその約束を守らなかったんですね。やがて「輔仁親王がクーデターを画策している」という噂が立ち、バタバタと首謀者が捕まって親王の師父だった仁寛大僧正が伊豆に流され、伊豆はエロ宗教のメッカとなるのです。源平盛衰記には「仁寛流されの事」という一章があって、これがほぼ同じ境遇の以仁王が源頼政の力を借りて挙兵する物語の布石となっています。で、伊豆には仁寛だけではなく「輔仁親王も伊豆に流されていた」という伝承があるのです(笑)。「輔仁親王が住んでいた屋敷のあと」だとされている場所もあって、それが「天野遠景が住んでいた場所」とされている所と同じ場所なのです。あやめ御前も親王のむすめとされているんですよ。これほんと。
ま、そんなのは置いといて、狩野氏系流の系図の方をもっと追求してみますと、
入江流の流れを示した系図ですね。
伊豆の天野氏は遠景以降もいたそうで、現在も御子孫が天野郷にはうようよいらっしゃいますが、勢力を持つ一族としては後北条氏の時代に絶えてしまったらしいです。しかし戦国武将としては甲斐武田、駿河の安倍川の奥、遠州の徳川家康の家臣にそれぞれ天野遠景の子孫を名乗る武将たちがいたそうで、相良系図ってことはそのどれかが伝えていた系図ってことでしようかねえ。
やべ、うっかり工藤狩野介茂光の名を書き入れ忘れていましたけど、茂光とは七親等の親族ということになります。(遠い)。
ふーん、という感じですが、参考までに次の系図と対比してみますと、面白い事になります。(遠景は出てきませんけど)
治承4年の「波志田山の戦い」で突如名前の出てくる、甲斐の工藤庄司景光と行光の親子。系図上からは、「工藤氏は伊豆へ行く本流と駿河に留まる一族と甲斐に新天地を求める一派に分裂した」ということが読み取れると思うのですが、工藤庄司景光の一党は甲斐の武田氏と深い結びつきを持ったらしいのです。
ところが、1981年に山縣明人という人が『豆州水軍の奥州兵乱における役割~工藤行光の遠征参加への史的考察~』という論文の中で、「狩野茂光の息子の行光と、甲斐の工藤庄司行光は同一人物」だと断じ、それが定説となっている。山縣氏いわく、工藤行光と、工藤景光・工藤茂光の関係が「どちらが実父であり養父であるか問題であるが、政治経済的関係を配慮しての養子縁組であることは確かであろう」と述べておられるのです。石橋山の戦いでの当主狩野茂光の死と大庭景親による狩野郷占領によっても狩野氏がなんとか崩壊しなかったのは、甲斐に養子に行っていた行光の存在があってのことだと述べておられる。甲斐武田氏と伊豆との深い結びつきは北条時政だけじゃなかったのね。
で、私が問題としたいのはここ!
相良系図での「入江景澄-入江景光-天野遠景」の流れと、
二階堂系図でも「工藤景澄-工藤庄司景光-工藤行光」の流れ。
かつてさがみさんに、「工藤庄司景光と天野遠景の父景光が同一人物という事はありえますか?」とお尋ねした原因がここにあります。天野景光は息子の遠景と共に何度か伊豆に出現しているんですよね。
ま、材料が無いのでこれ以上先を考察する事ができません。
先程、「尊卑分脈の藤原南家には遠景が出てこない」と言いましたが、実は尊卑分脈では遠景は「藤原北家」の一員にされているのです(笑)。この系図が一番問題だ!
えーーーと、安達藤九郎盛長の弟の息子が足立遠元で、その息子が天野遠景… 絶句。
しかし、これが「天野遠景が足立遠元の養子となった」という説の根拠にされているんですよね。(藤九郎盛長も遠元の養子なんじゃなかったっけ?) この系図では安達藤九郎が「小野田藤九郎」で、その弟(とされる)遠兼が安達藤九郎だし。ややこしいわ。
足立遠元は関東中央に勢力を持つ幕府の宿老です。でも、いわば建国の功臣の一人で九州大元帥として戦功を挙げまくり、精力絶倫で各地にぽこぽこ大量に子供も設けている天野遠景が、どうして彼の養子にならないといけないのでしょうか。何らかの深く暗い事情があるように思えます。群書類従の天野氏系図でも遠景の子孫が足立氏を相続しており、まんざら無根拠とも思えないですし。
で、この項の最大の問題点。
どの系図にも、吾妻鏡で天野藤内遠景と並んで出てくる天野平内光家の名がどこにも出てこない!ということだ。これが最大のミステリーかもしれない。だって吾妻鏡だよ吾妻鏡! これに先祖の名前が出てくるということは最大の誉れだと思うのに。もしかして天野平内光家は頼朝の脳内にしか存在しない人だったのかも。(※伊豆にはちゃんと光家のお墓もあります)