オセンタルカの太陽帝国

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天野遠景の系図。

2007年09月15日 03時17分26秒 |   源頼朝


<天野遠景の想像図(※イメージです)>

また系図のお話。系図なんていくつも見ても何も楽しくないと思われるかも知れません。(私も系図キライ)。ごめんなさい。でも、天野遠景のことを考えるにはまずあれこれ眺めてみなければならぬ必要な物なのです。こんな(鬱屈した心境の)時じゃないとこんな記事書けないし(本当はカメラ持って車で出かけたいんですよぅ)、私以外にこんなことに興味を持つ人もあんまりいないと思いますのでね。
天野遠景、マイナー武将だと思われるので不本意ながら一言解説しておきますと、「源頼朝の配下で九州大総統となった人。各地を鬼のように暴れ回った」です。享楽的で気ままな伊豆人の性格の最もアグレッシブな部分を象徴している人だと言ってもいい。本当に外に向かう一族だったらしくて、全国各地に天野氏の末裔がいます(天野さんの故郷は伊豆ですよ!)。でも遠景は、北条一族以上に系図を眺めていると何が何だかわからなくなってくる、不思議な人なんです。もはや、天野遠景の人生って系図を迷路にする為に存在したと言ってもいいくらい。(←早くも言ってることがわからない)

さてさて、天野遠景は知られている詳細が多くない人ですが、
平凡社の世界大百科並びにウィキペディアでは、「藤原南家の流れを汲む狩野工藤家の傍系(入江工藤家)」としていて、一致しています。きっとこれが定説なんですね。
で、系図と言ったら尊卑分脈。ところが尊卑分脈は入江氏の系図部分が非常に充実してるくせに、遠景の名が見えません。尊卑分脈では遠景は入江氏じゃないのです。
でも慌てなくて大丈夫、群書類従にはちゃんとありますから。尊卑分脈はほんと問題資料です。狩野氏の部分だって変な所がたくさんあるんですよ。

今日のこの記事(系図)は、大部分を中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』 (静岡教育出版社、2005年)に負っています。ご了承ください。
これを見ると、初めて木工助となった「工藤氏の祖」藤原為景が、同時に入江氏にもなっている事が分かりますね。そして、遠景の父景光の代に伊豆国住人となっているところが注目ポイントだ。別に代々伊豆に住んでいたわけじゃなかったのね。

ところが実は群書類従には、もうひとつの天野氏系図が収録されているのです。
(…と、件の御本には書いてある)

なんだこりゃ。
と思ってネットで情報収集してみますと、もうちょっと詳しい同じ系図が見つかります。「天野遠景の謎 その一-『萩藩閥閲禄』」さんより。

天野遠景はもっとダイレクトに皇族の近い縁戚ですよー。(後三条源氏というらしい)
こりゃ大胆だ。藤原南家とか工藤氏の縁戚とか、そんなことはもうどうでもよくなっています。ただし、これは何の根拠もないムチャクチャな系図かというとちょっと注意が必要で、この資料自体は毛利氏の萩藩に由来するものですが、実はたぶん我らが伊豆長岡に伝わる伝説も深く関わっているらしいということです。伊豆の歴史に詳しい人なら有名なことですが、後三条天皇の皇子・輔仁親王とは白河天皇の弟で、父の後三条帝から「白河の後に天皇にしてやる」と言われていたのに、白河はその約束を守らなかったんですね。やがて「輔仁親王がクーデターを画策している」という噂が立ち、バタバタと首謀者が捕まって親王の師父だった仁寛大僧正が伊豆に流され、伊豆はエロ宗教のメッカとなるのです。源平盛衰記には「仁寛流されの事」という一章があって、これがほぼ同じ境遇の以仁王が源頼政の力を借りて挙兵する物語の布石となっています。で、伊豆には仁寛だけではなく「輔仁親王も伊豆に流されていた」という伝承があるのです(笑)。「輔仁親王が住んでいた屋敷のあと」だとされている場所もあって、それが「天野遠景が住んでいた場所」とされている所と同じ場所なのです。あやめ御前も親王のむすめとされているんですよ。これほんと。

ま、そんなのは置いといて、狩野氏系流の系図の方をもっと追求してみますと、

入江流の流れを示した系図ですね。
伊豆の天野氏は遠景以降もいたそうで、現在も御子孫が天野郷にはうようよいらっしゃいますが、勢力を持つ一族としては後北条氏の時代に絶えてしまったらしいです。しかし戦国武将としては甲斐武田、駿河の安倍川の奥、遠州の徳川家康の家臣にそれぞれ天野遠景の子孫を名乗る武将たちがいたそうで、相良系図ってことはそのどれかが伝えていた系図ってことでしようかねえ。
やべ、うっかり工藤狩野介茂光の名を書き入れ忘れていましたけど、茂光とは七親等の親族ということになります。(遠い)。
ふーん、という感じですが、参考までに次の系図と対比してみますと、面白い事になります。(遠景は出てきませんけど)

治承4年の「波志田山の戦い」で突如名前の出てくる、甲斐の工藤庄司景光と行光の親子。系図上からは、「工藤氏は伊豆へ行く本流と駿河に留まる一族と甲斐に新天地を求める一派に分裂した」ということが読み取れると思うのですが、工藤庄司景光の一党は甲斐の武田氏と深い結びつきを持ったらしいのです。
ところが、1981年に山縣明人という人が『豆州水軍の奥州兵乱における役割~工藤行光の遠征参加への史的考察~』という論文の中で、「狩野茂光の息子の行光と、甲斐の工藤庄司行光は同一人物」だと断じ、それが定説となっている。山縣氏いわく、工藤行光と、工藤景光・工藤茂光の関係が「どちらが実父であり養父であるか問題であるが、政治経済的関係を配慮しての養子縁組であることは確かであろう」と述べておられるのです。石橋山の戦いでの当主狩野茂光の死と大庭景親による狩野郷占領によっても狩野氏がなんとか崩壊しなかったのは、甲斐に養子に行っていた行光の存在があってのことだと述べておられる。甲斐武田氏と伊豆との深い結びつきは北条時政だけじゃなかったのね。
で、私が問題としたいのはここ!
相良系図での「入江景澄-入江景光-天野遠景」の流れと、
二階堂系図でも「工藤景澄-工藤庄司景光-工藤行光」の流れ。
かつてさがみさんに、「工藤庄司景光と天野遠景の父景光が同一人物という事はありえますか?」とお尋ねした原因がここにあります。天野景光は息子の遠景と共に何度か伊豆に出現しているんですよね。
ま、材料が無いのでこれ以上先を考察する事ができません。

先程、「尊卑分脈の藤原南家には遠景が出てこない」と言いましたが、実は尊卑分脈では遠景は「藤原北家」の一員にされているのです(笑)。この系図が一番問題だ!

えーーーと、安達藤九郎盛長の弟の息子が足立遠元で、その息子が天野遠景… 絶句。
しかし、これが「天野遠景が足立遠元の養子となった」という説の根拠にされているんですよね。(藤九郎盛長も遠元の養子なんじゃなかったっけ?) この系図では安達藤九郎が「小野田藤九郎」で、その弟(とされる)遠兼が安達藤九郎だし。ややこしいわ。
足立遠元は関東中央に勢力を持つ幕府の宿老です。でも、いわば建国の功臣の一人で九州大元帥として戦功を挙げまくり、精力絶倫で各地にぽこぽこ大量に子供も設けている天野遠景が、どうして彼の養子にならないといけないのでしょうか。何らかの深く暗い事情があるように思えます。群書類従の天野氏系図でも遠景の子孫が足立氏を相続しており、まんざら無根拠とも思えないですし。

で、この項の最大の問題点。
どの系図にも、吾妻鏡で天野藤内遠景と並んで出てくる天野平内光家の名がどこにも出てこない!ということだ。これが最大のミステリーかもしれない。だって吾妻鏡だよ吾妻鏡! これに先祖の名前が出てくるということは最大の誉れだと思うのに。もしかして天野平内光家は頼朝の脳内にしか存在しない人だったのかも。(※伊豆にはちゃんと光家のお墓もあります)


 

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映像も矛盾されたみたい(BlogPet)

2007年09月11日 10時25分45秒 | 追加カテゴリー
きょう歌声喫茶テケリリは、映像も矛盾されたみたい…

*このエントリは、ブログペットの「歌声喫茶テケリリ」が書きました。
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北条氏の系図について②

2007年09月10日 12時31分42秒 |   源頼朝


<願成就院にある北条四郎時政像>

すんません、わたくし、平直方の末裔の北条氏も当然「関東八平氏」のひとつだと思い込んでいたのですが、さっき調べたら違うという事を知りました。(ちょっと落ち込んでいます)。正確には関東8平氏とは平良文の子孫の一統のことで、土肥、畠山、上総、千葉、三浦、大庭、秩父、梶原、長田なんですって。(あれ、9こある)。北条氏も同族という事で彼らと近しい親戚づきあいをしていたと思ったのに、実は仲間はずれだったのか。だから狩野氏や伊東氏や武田氏や牧氏の方にも手を伸ばさなければならなかったのか。

さてさて、系図の話の続きです。
『続群書類従』と並んで同じぐらい重要な資料だと考えられているのが、『系図纂要』です。ネットで調べてもこの資料の成立についての詳細が(群書類従とは違って)さっぱり分からないのですが、出来たのは幕末らしい。しかし、ほとんどの系図サイトはこの系図纂要に重みを置いていて、とても信頼できる資料と考えられているらしい事が分かります。これも群書類従と同様に、各武家に伝わる系図を総蒐集して、検討を加えた上で組み立て直した物なんでしょうかね。(一応、皇室・公家の系図がメインで、加えて藤原氏・紀氏・平氏・宇多源氏・清和源氏並びに古代氏姓の系図があるそうです。官位・幼名・通称・法名・没年月日などの記述がかなり詳しいそうだ )。

で、それに含まれた北条氏の系図ですが、、、
やっぱり群書類従のとちょっと違う。
でも、問題となるのが、「北条介」と記されている北条時兼の位置づけなんですね。この人が時政の兄弟なのか伯父なのか。
ただ、どちらにしてもこの二つの資料で時政とは直系ではないことにされている時兼が「北条介」と記されている事で、よく言われる「北条時政は北条家のうちの傍流で、本家は別にある。おそらく平六時定が本家の血筋」っていう説が出来ているらしいということが分かります。
ただ、「北条介」なんていう称号が本当に存在しうるのかということに関しては、検討が必要だという事は奥富氏も言っておられます。
この系図の注目点。
時方の項に「初めて北条郷に住す」と書かれていること。北条家が北條に住み始めたのは時政の2代前です。(そんなので土着の土豪というのか!と思われる方もあるかも知れませんが、実は狩野氏や伊東氏も似たような物です)。北条氏はそれ以前にはどこに住んでいたのかな。関東かな、京都かな、熱海かな。
熱海禅師聖範についての注釈が無いこと。
やっぱり直方から時政までが4代しか無いこと。

本で見られる系図に比べて、圧倒的に充実しているのはネット上の情報です。
家系図の倉庫さん。
これはいったい何の情報をもとにしているんだろう!
きっと群書類従や系図纂要みたいな資料が他にもあるってことですね。
直方の数多くの息子たちの名前の列がまず目を惹きますが、この系図で大事なのは尊卑分脈では「名前がない本もある」と書かれている半透明な人物「時直」をもう一度系図に入れ直していることです。これで見事に直方→時政の間が5代になりました。「5代」という数字にこだわっているのは吾妻鏡の記述だけで、とりわけ北条氏の活躍の実際に関しては美化・改竄・隠蔽が多いとされる吾妻鏡のことですから、そんなに気にしなくてもいいかもしれませんが、何しろ同時代の当事者による証言ですからね。さらに、直方から時政までが150年という事実から考えて、その間に挟まっている人数が3人か4人かで、印象が大分変わってくるのです。常識では一世代が30年と考えられていますから、いろいろあったこの時代に一人の時代があまりに長すぎるのも困る。

 

・・・まとめ。
「あたみ禅師」と呼ばれた聖範は北条時政の直系の御先祖なのかどうか。
どうでもいいことに見えるかも知れませんが、これによって熱海が北条氏の故地のひとつであるかどうかが決まる。…残念ながら証拠は見つからないんですけど、尊卑分脈と群書類従を見る以上、その可能性は充分にあると思います。(群書類従の場合は聖範の子である平時方が、聖範の父であるこ維方の養子となったと書かれていますね。そうしなければならなかったという理由があったということです)
次に、「阿多美禅師」の称号は、聖範が一族を連れて熱海に移住したことを意味するのか、それとも単に聖範がひとりだけで出家して伊豆山に入ったという事か。残念ながら系図を見比べると、聖範だけが系図の中でポツーンと浮いていますので、彼は一族の中では特異な存在だったと思われます。おそらく、聖範はふたり兄弟で(兄は維方だったのか盛方だったのかどちらか)、兄の方が嫡男で聖範は出家する立場だったと思われます。ただし、子供がある事から見て彼は彼の家を構えられるほどの存在であったらしい。果たしてそのとき家族は熱海にいただろうか、そして一族の他の人たちはどうだっただろうか。…じつは私が無い頭をひねらなくても、ウィキペティアこちらのサイトさんを見てみますと、聖範だけでなくて、彼の兄弟あるいは甥である平盛方も阿多見姓を名乗っているのでした。…ほんとに北条氏は一族で熱海で過ごしていた時期があるかもしれん。(なお、関係ないですが、伊豆山神社は神社なのにどうして禅師や阿闍梨(←仏教用語)がいるのかというと、伊豆山の中に般若院という寺社があって、そこの人たちが山ぐるみで頼朝と親しかったのでした。伊豆山は修験者でいっぱいというイメージがありますが、本によると江戸時代には行者は7人で、そのうち伊豆山に常勤するのは交代制で4人ずつ、と決まっていたそうです。7人か、、、 少ないな。全盛期には5倍ぐらいいたと仮に考えたとしても、、、、 少ない。修験者の他に神官とか巫女さんがいたかどうかというと、、、、、 知りません。なお、聖範は阿多美禅師と呼ばれていますが、禅が日本に渡来したのは鎌倉時代じゃん、おかしいじゃん、と一瞬思ったのですが、調べてみると禅が渡来する以前は、宮中の祈祷師のような人や山に籠もる修験者みたちな人のことを“禅師”と呼んでいたそうです。役行者も伊豆山では禅師と呼ばれていました。)

話を戻しましょう。
奥富敬之氏は御本の中で、この辺りのことを推理し、大胆且つエレガントな説を立てています。奥富氏は系図上で半透明な存在である「時直」の存在には目も向けません
「平直方の子孫は○方と時○という名前のふたつの系統に分かれるが、○方系の方が直系であり、摂関家の家人として京都に勤めた。聖範は多分、直系の代理として関東にいた」。
「直方の嫡流の系譜は、直方-維方-盛方の3代だったが、盛方は何か不名誉なことをしでかして処刑された。その子・直貞は北関東に退いて謹慎し、熊谷氏となった」、
(ついでに、「平直方」は何故かたいらのなおつねと読むらしいです。←平凡社の世界大百科による。最初、誤植か?と思ったけど百科事典でそれはありえませんでしょう。奥富氏もなおつねとルビを振っています。ということは、その子たちもこれつね、もりつねだったのでしょうか。一方で、曾我物語にはひらがな混じりで「北条時政の先祖は上総守なほたか」と書いてあります)
「慌てた盛方の父・維方は聖範の子・時方を本家の養子として迎えた。その系譜が、時方-時家-時政である。ここで○方系から時○系に移行した」。
奥富氏は触れてはいませんが、当然これに伴って平直方系平家の活動の舞台は京都から東国に移ったのでしょう。そして、これで見事に直方から時政までの間が系図上は4代だけど系譜上は5代になるわけです。ついでに「聖範以降は四郎を名乗るのが嫡流のあかし」と言っておられる。(小四郎義時の「小」とは何でしょう? また義時の嫡男は太郎泰時(幼名金剛丸)なわけですが。これもまた、江間家が北条家とは別のルールを持つ別の家だというあかしなのかもしれません)。また、奥富氏は「時政は北条氏の傍流で、本流はほかにいた」の説には、注意深く結論を出す事をしていません。(出しようにないからね)。
ただ、個人的な考えを言わせて貰えば、時政はふたたび彼の代に北条氏のルールを変更することをやっているのです。それは、自分の子供達の名前を時○系から○時系にしてしまっていること。宗時と義時が生まれたのは頼朝挙兵前ですから、彼が嫡流のルールに従わなくてもいい何らかの理由があったと考えても良いのかも知れません。時政の五郎は時房(頼朝挙兵時は5歳。改名前は時連)なんですけどね。
ウィキペディアの平直方の項には、「北条氏は平直方の子孫を称しているが信憑性は薄い」「熊谷氏は直方の子孫の傍系」と書いてあって奥富氏の説とは違っていて、私などはもはや定説が何なのかも分からなくなってしまいますが、まあ、そういうのも楽しいと言えば楽しいです。でも「北条氏は桓武平氏・平貞盛の子孫で坂東平氏と称し、時方のとき伊豆介となって伊豆国北条郷に土着し、北条氏を名乗ったというが、詳細はわかっておらず、平氏ではなく、東国から北条の地に移り住んだ豪族とする説が有力である。その傍証として、伊豆の他の豪族と比べて地元に同族が少ないことが挙げられる」と書かれちゃうのは、、、、、、 現在ある材料をすべて否定しちゃうのはまた不適切な態度だと思いますよ。北条氏が平家じゃなかったとしたら、さらに不都合なことがたくさん出てきちゃったりすると思う。

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北条氏の系図について①

2007年09月10日 05時05分42秒 |   源頼朝

伊豆の地図にばかり書き込んでるのも疲れてしまったので(…あれって字が小さくてとても目が疲れます)、今日は気分転換にこっちに記事を書きますー。

もともと私は歴史の中では「負ける方の側」が好きなので、源平時代では断然平家の公達たちの方が好きだったのです。それが、このブログを始めてたった1年の間に、こんなに源頼朝とその愉快なしもべたちのことを好きになるなんて、思ってもいなかったなぁ。とりわけ謎と矛盾に満ちた北条一族と狩野一族、本を読めば読むほどメロメロになります。

北条氏については、私がちゃんと読み込んでいる本は奥富敬之氏の『新版・鎌倉北条一族』(新人物往来社、2000年)ただ一冊しかなくて、私の知識のほとんどはこの本の受け売りです。
しかし、北条氏の出自については、読めば読むほどわけがわからなくなる。結局のところ鎌倉幕府以前の北条氏については、史料がほとんどなくて研究家でもお手上げだって事ですね。北条氏ほどの一世を風靡した一族であるのに、奇妙な事だ。

で、目下のところ伊豆の地図づくりで精一杯で、私の今一番の関心事は「熱海にはゆかりの何かが無いか?」「北条氏はいつから伊豆に住み着いたか?」ということなのですが。

「伊豆の頼朝伝説」、「伊豆妖怪伝説」のどちらを眺めていても、熱海の部分の充実度が低いんです。熱海は伊豆の玄関口であり、温泉郷伊豆の顔なので、これはとても悔しいのです。
で、石橋山の戦いの直前に北条政子が難を避けて熱海の伊豆山神社に避難し、石橋山の敗戦を聞いて秋戸郷に退いているのですが、私はこれに目を付けました。
いくら頼朝が伊豆山の覚淵阿闍梨の学問上・神学上の弟子だったからと言って、政子がことあるごとに伊豆山に逃げている理由はなに? 修行僧ばかりの伊豆山で、女ばかりが住める住房はあったの? そもそも秋戸郷ってどこ?(永井路子の「北条政子」では現在の熱海の中心街近く、みたいなことが書かれていますが)。政子には熱海に身を寄せるにたる何か他の理由もあったのではないでしょうか。
私が目を付けたのは、北条時政の御先祖のひとりとして系図に名前が出てくる“阿多美禅師”聖範。北条氏の先祖は桓武平氏で、先祖はずっと京都にあったのですが、時政から150年ぐらい前に、平直方が房総半島で起こった「平忠常の叛乱」を平定する為に関東に派遣されてきて、このときに(勝てなかったんだけど)関東に勢力を持つようになった。北条氏は多分直方の直系ではなかったとは思いますが、でも関東にまず根を張って関東8平氏のひとつつなり、聖範の代に熱海(阿多美)に来て、それからさらに北伊豆に移住したんじゃないか。そんな夢想を持ちました。政子の時代には熱海には有力な豪族がおらず(伊豆山の神領だったから)、でもそこは北条家の故郷として認識されていたんじゃないか、そう考えればいろんなことが納得できます。北条郷の守山は韮山平野の中ですごく重要な場所なのに新参の北条家が領有できたこと。(伊豆みたいな所では平野の山ぎわが一等地なんですけどね)、蛭ヶ小島が伊豆山領であること。北条氏と熱海郷の結びつきが実証出来れば、私の地図にも熱海が書き入れられるんです!

・・・・・でも、結果的に北条と熱海の結びつきはちっとも発見できませんでした。
だって材料が無いんだもん。北条氏の系図すらが矛盾に満ちているんですもん。「阿多美の禅師」であると記されている聖範が何て読むのか、姓は北条なのか平なのかこれが出家名なのか、彼が時政の直系の血縁者なのか、どれもがさっぱりわからないんです。そして私は延々と系図を眺めているのです。
私、系図ってどちらかといえば苦手で「系図サイトって何が面白いのか分からない」と思っていたはずだったのに、この歳になっていきなり好きになるとは思ってもいませんでしたよ。

 

くだんの『新編・鎌倉北条一族』には4つの北条氏の系図が掲載されています。
これが全部、食い違っている事が人を悩ます諸悪の根元なのです。
奥富氏すら本の中で、「4つの系図のうちの1つだけが正しいというものではなく、全部が一部ずつ正しい部分と正しくない部分を含んでいると考えるのがいいだろう」と書いている始末です。まったく「正確な像が現時点では有り得ない」といっておられるということです。…これはこれで燃えます。
(※文字を打ちこんでキレイに系図を書く自信がありませんので、アナログの図版で失礼しますね。系図サイトの人たちって心底スゴイや!)

吾妻鏡には「平直方から北条時政まで5代だった」と明記されています。これは最も信頼に足る情報です。ところが吾妻鏡には北条氏の系図が載っていません。北条氏の一族の氏名が大量に出てきますが、それを繋げて系図にする為の情報は無いようです。北条時政の父の名前すら分からないくらいだもの。
最も古いちゃんとした系図が『尊卑分脈』です。これは南北朝時代に諸国の有力者達の系図をかきあつめて集大成したもので、とりわけ重要な史料とされますが、一方で「京都で作られたので東国の武家の系図は誤りが多い」とされます。北条氏の部分に関しては吾妻鏡の記述どおり直方から時政までがちゃんと5代で、とても綺麗で見事な系図になっているのですが、他の重要な人の名前が無くて一直線過ぎるので、残念ながら信頼性はあまりない、とされているようです。残念。平盛方は熊谷氏の祖となった人ですね。
時直のところに「或本無シ」、時家のところに「聖範子云々」とあるところが注目?

続いて重要なのが、江戸時代中期に塙保己一がまとめた『群書類従』。
「古い史料が散逸しないようにすべてを集めよう」という壮大な構想をもとに始められた大事業だそうで、幕府や諸大名の協力を受けながら41年かけて完成したそうです。さぞかし膨大な物が集まったんでしょう、完成直後に保己一は『続群書類従』を編纂し始めるんですが、企画の時点で彼はこの世を去り、事業は子孫・弟子たちに引き継がれ、全巻完成したのは明治44年だそうです。気が遠くなる。
系図部はこの『続~』の方に含まれるんですが、武家各家に伝わっていた系図が集大成されているんでしょうね。尊卑分脈のとはかなり違います。
どういう元資料をもとにどう組み立てられたかがわからないので、詳しく批評できないのがのが悔しい。…しかし、直方と時政の間が4代しかないぞ。
この系図の注目ポイントとしては、聖範と時政は系図上では直系ではないが、時方のところに「実聖範子」と書いてある事、
盛方のところに「依違勅被誅(命令に従わなかったので処刑された)」とあること(←これは熊谷氏が関東へやってきた理由として有名だそうです)
尊卑分脈では三郎だった時綱が、五郎になっている事、
時兼が「北条介」になっていること
・・・・・・などなどでしょう。

続群書類従ではもうひとつの北条家系図が存在します。
先の詳しい方の系図は「北条家系図」として独立して構成されたものだったのですが、こちらの方は「桓武平氏系図」の全体の中の一部分に含まれている物です。…なんだこりゃ。簡単すぎる。っていうか先のと全然違う。明らかに簡略化された粗雑版ですが、群書類従の中にある以上なんらかの資料に基づいたものであるはずです。気になります。ただ、「僧・聖家」は聖範のことでしょうがそれに付された「叔歟」の文字、時方が「伊豆守」とされていること、時政に姉妹がひとりいることになっていること。詳細が知りたいです。

 

…つづきます。
調査上に見つけた、ネケトさんが作っていた北条氏系図に笑いました。ネケトさんはすごいや。

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喫茶(BlogPet)

2007年09月04日 10時27分45秒 | 追加カテゴリー
きのう歌声喫茶テケリリが、拡大するはずだった。

*このエントリは、ブログペットの「歌声喫茶テケリリ」が書きました。
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