オセンタルカの太陽帝国

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可睡斎と徳川家康。

2015年03月04日 18時39分41秒 |   神君家康


天気がとても良かったので、袋井市の可睡斎に行ってきました。
とても好きなお寺なのですけど、来るのはいつぐらいぶりなのだろう。可睡斎と秋葉山は私にとって何にも変えられない聖地です。もっと頻繁に折りを見つけて来なくてはなりません。私がいま現在こんなに健康なのは、8年前に秋葉様に無心に祈ったおかげなのですから。

行ってみますと、以前には無かった標識が山門前に建っていた。
「徳川家康公深きゆかりの禅寺」ですって。
確かにゆかりは深いが、家康公が何度この寺に来たことがあるのかは定かではない。
よく見ますと、「家康公歿四百年記念」と書いてありますので、今年建てたばかりの物なようです。

今年は浜松市は一生懸命に「家康イヤー」を盛り上げようとしているのですけど、袋井市でも動きがあったのですね。嬉しいですね。
公式サイトを見ると「徳川家康公顕彰四百年記念事業」は「静岡部会」と「浜松部会」「岡崎部会」と「静岡県部会」の4部制になっていたのでした。なるほどね。



「徳川家康公ゆかりの可睡斎ひなまつり」。
「家康とひなまつりに何かまつわる逸話ってあったっけ?」と思ったのですけど、この家康公「ゆかりの」は「ひなまつり」ではなく「可睡斎」にかかる修飾語。



可睡斎は天狗の御真殿にお参りするだけでしたら拝観無料ですが(駐車場代は300円)、ひなかざりや牡丹園を見ようとすると500円かかります。























案外私のカメラ(XQ1)はこういう場所は苦手でした。



でも前回来たときの写真を見返すと、もっとひどかったので、これで良いこととする。









わたし、牡丹の花ってひどく好きかも。




キンキラキンの額の裏側には「明治十九年六月 二品熾仁親王書」と書かれています。
有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は個人的に好きな歴史人物です。
(ただし本当はこの年のこの月、熾仁親王は一品に昇叙している)
「アリス川」ってのが不思議の国っぽいですよね。その悲恋のアリスの人が征東軍を率いたんです。
15年ぐらい前に「ニセ有栖川宮事件」てありましたよね。
問題は、この額が本堂(本尊聖観音)ではなくて御真殿(秋葉山三尺坊)の前に掲げられていることで。
この寺にとって本堂と御真殿はどちらが本体なのだろう?



記憶が定かで無いのですけど、この見事なお面も以前は無かったような気がする。鼻に何本も掛かっている細い縄のわっかは「三尺坊の願いのこもった念珠」だそうでこの効験は極めて鮮やか、お値段300円だそうです。



なんと4月11日から秘伝の三尺坊像のご開帳が始まるそうで、一瞬「しまった!」と思ったのですが(またしばらく来ないだろうから)、よく考えるとわたし、これ以前に見たことありますね。


さてさて、
前回来たときに私は書きました。
徳川家康が可睡和尚と初めて会ったのはいつでどこだったのかということについてです。

「調べてみると、この逸話は相当胡散臭いですぞ。
お寺には「このお寺が窮地の家康を救った」然と書かれておりますが、家康が仙麟等膳に可睡斎を与えたのは家康の浜松移住後です。つまり、幼い家康をこの寺で救うことは不可能」

この記述は、当時、可睡斎の公式サイトにそういう説明があり、実は現在でもウィキペディアにはその記述に従った文章が残っているのですけど、だいぶ前にその説明はサイトから撤去されており、今回行ったら出世六の字穴前の看板も新しい立派なものに変わっておりました。



無難・・・。
“伝説の一つとして”武田軍に追われた少年竹千代が父広忠と共に袋井のこの穴に逃げ込んだという話はとても微笑ましいので、その記述が無くなってしまったのはとても惜しいです。「出世六文字」もなんか哲学的な説明になってしまいましたね。

で、現在のお寺の見解はどうなっているのかというと、そもそもの見解がなんとかどうとかいうものでなく、もともと御真殿の前にこういう石碑が立っているんですよね。(明治30年の建立)



写真だとさっぱりわからないでしょうけど、可睡斎の由来がみっちり書いてあります。
漢文みっちりなのでこれまでは素通りしていましたけど、今日は敢えて読んでみます。ヒマだからな。

大意
「旧記によると、家康公が幼時駿府で人質になっていたとき、増善寺に等膳がいて家康と等膳の二人は仲良くなった。等膳は石橋氏の出身でその父は五右衛門尉といい、伊勢の国・篠島に住んでいた。家康公が駿府を脱出して国に帰ろうとしたとき等膳に相談し、等膳はその父に相談した。等膳の父は自分の一族の船に商売の装いをさせて清水港に入港した。等膳は家康公を葛籠に盛り、背負って間道を駆け、船に乗せて篠島へ逃がした。家康公はやがて岡崎城に帰ることができ、壮年になって浜松城に移ったとき、等膳が妙見斎の住持として篠島にあることを聞いて、急いで彼を篠島から呼んで感謝を述べた。親しく話し合っているうち、等膳は昏昏としてしまった。公はそれを見て笑って言った。すごく遠い所から来たんだから睡くなるのは当たり前だ。眠ってもいいんだよ。こうして目の前で寝てしまったのも私を子同然に思っていてくれるからだ。無二の絆を感じる。馬を賜て寝たまま帰ってもらいたいが、篠島は遠すぎる。東久野の地に東陽軒の跡があるので、そこに寺を建てて住職となるように・・・(後略)」

・・・なんだこれ。
とにかく私が以前抱いた「可睡和尚は幼い家康をどこで助けたのか?」という疑問のうち、選択肢①.静岡で助けた ②.伊勢篠島で助けた ③.袋井で助けた の中で、①番と②番の両方が正解だったのでした。(明治30年の時点では)。要は篠島に伝わる伝説(※参考)と駿府に伝わる伝説を両方組み合わせたって事ですよね。この伝説だと等膳その人よりも等膳の父とその一族の方が功が大きく、その後石橋氏が大名か高家になってる位でも良いと思うんですけど(そんな事実はない)、明治の時点では松平広忠の事跡は篠島でもそんなに知られていなかったのか(家康の父・広忠も篠島の石橋氏に助けられたことがある)、可睡斎においてはすべてがごっちゃに混じり合ってしまって、昭和末期に「出世六の字穴において、武田軍に追われた広忠と家康が隠れて、その後出世した」というものになってしまったのですね(おそらく)
でもそもそも「少年時代の家康が駿府から逃げた」という事実は無いので、実のところ等膳和尚がどこで家康を助けたのかは結局不明なのです。家康が篠島に行ったことがあるっていうのは本当なんですかね。
「等膳の父が家康の父を掛塚で助けた故事が転化したのか?」とも思うのですけど、とすると家康本人がそんなに可睡和尚に恩と信頼を持つ意味がよく分からなくなりますし。
なお、「武田軍に追われた家康が出世六の字穴に逃げ込んだ」というのはこれとは全然別のエピソードです。おそらく家康30歳ぐらいの頃の話でしょう。
それにしても篠島って伊勢国なのですね。義良親王伝説のある日間賀島と合わせていつか行こうと企んでいるのですが。



以前は崩れかけて危険だった「出世六の字穴」も、今は整えられて中を覗けるようにライトアップされています(入れませんけど)。改めて見ますと、鎌倉の護良親王の土牢のように、地下一階がありそうな雰囲気ですね。





可睡斎側は今後も「徳川家康公ゆかり」を強調していくようです。




せっかくなので、そこから10分の久野城にも行ってみました。
東名高速道路を走っていると大きな看板が目に入るので、場所はよく知っているんですけどこれまで一度も行ったことの無かったお城です。

久野(くの)氏というのは徳川家康の遠州獲りに際して大きな役割を果たした一族で、舘山寺の大沢氏や井伊谷の井伊氏と違い、久野宗能という人は最初から全面的に家康の味方をしたので家康はとても助かった。(とはいえ久野氏の内部では親徳川派の宗能と、親今川派の叔父の宗益の間には内紛があり、宗能留守中にクーデターが起ころうとしたこともあります)。ともかく久野宗能は家康が心から信頼した数少ない遠江武士の一人。



こっちの看板がいつも東名から見える看板ですね。
城で一番高い本丸の位置に立っています。




写真じゃ全然表現できないのですけど、歩き回ってみると起伏に富んでいて、曲輪がはっきりしていて、とても面白い城です。事前に勝手にしていた予想より遙かに大きかったです。





このあたりが「主税(ちから)屋敷」のあたり。下の屋敷。

さてさて、この付近で一番の勢力と言ったら、掛川城にいる朝比奈氏や小笠山にいる小笠原氏です。
大手門も東海道のある南方向では無くて、掛川城・駿府城のある東方面についているのですが、築城当時は掛川城・駿府城は重要な味方でした。たとえば浜松城の場合、浜松城の南側に大手門が付いていて南の東海道に臨んでいるのですが、浜松城の敵(武田軍)は常に北からやってきました。浜松城の戦闘的な主要門は搦め手(玄黙門)だったと思います。久野城の仮想敵とはどちらから来るものだったのでしょう。築城当時はいざしらず、宗能の時期には北からも西からも東からも敵が来ることが考えられましたから、父と兄の死によっていきなり名家の当主となった宗能は大変だったでしょうね。

城の南側に「高見」と題された曲輪があり、太平洋方向を見張るかせるようになっていますが、高見よりも本丸の方が高いので、本丸の方が眺望が良かったはずです。そもそもこのあたりの地形は起伏に富んでいて(丘ばかりで)本丸からでも敵方の動きなんてさっぱりわからなかったでしょう。



本丸から見る東名高速道路。現在は久野城の南に「シンドラーエレベーターの塔」が立っていて、そちらの方が物見の役にふさわしかろう。(でもシンドラーエレベータは眺望塔ではありません)。久野城からは小笠山がよく見えました。反対側の可睡斎のある丘はよくわかりませんでした。



とにかく、歩いていてとても楽しいお城でした。徳川家康史っておもしろいですね。




ついでなので、掛川駅のすぐ近くにある「ジェット家」にも行ってみました。
2012年9月開店のお店ですけど、こんなに家系を愛する私がなぜかこの店にはまだ来たことが無くて、忸怩としていたのでした。
定休日が不定なのだそうですけど、蔵前家と同じく11時から22時まで通しで営業しているのがありがたいです。この日は16時ぐらいに訪問。蔵前家もこのぐらいの時間が一番好みなのです。

噂には聞いてましたけど、店主がかなり不思議な雰囲気です。最初店の人なのか全然別の人なのか戸惑ってしまったくらい。
チャーシュー麺(800円)に海苔(100円)をトッピングして注文してみました。
麺は酒井製麺、海苔も横浜の丸曽根だそうです。

見てますと、本当に丁寧にラーメンを作っています。
こんなに長く麺を揉んでいる店、初めて見ました。

そしてビックリ、ゆで上がった麺を上げるとき、それまでまったく無言だった店主が麺に語りかけ始めたのです。盛りつけるとき、チャーシューにもさかんに語りかけています。それで一気にこの店主が好きになりました。



店主はチャーシューよりも先に海苔を入れました。また、作業台には沢山のチャーシューを入れたドンブリがあるのですが、店主はわざわざ奥から新しい肉の塊を持ってきて丁寧に切り分け、切ったばかりのを私の丼に入れました。(作業台のはいつ使うの?)。そして菠薐草はトッピングしていないのにこの量。とにかく具材の存在感の大きいラーメンです。



スープを飲んでみる。
圧倒的に支配しているのが鶏油。事前にたっぷり入れていた。その奥に控える醤油味。こよなく愛する吉田家の醤油味に似ていてとても好みでしたが、吉田家と違ってそんなにしょっぱくない。とにかくまろやかさを打ち出す初期の蔵前家とは全然正反対の思想でした。



麺は柔らかめ。具材の存在感が大きく、とりわけチャーシューの食いでのありといったら。チャーシューはやや肉臭くシーチキンぽい味わいの物で、好きなタイプでした。海苔も油にとても良く合う。ただし、具材全体がとても見事すぎて、スープをすぐにぬるくしてしまったのが残念だった。ほうれん草の匂いがとても気になりました。
全体的に、最初の一口と最後の一口がとても美味しいラーメンでした。この醤油の強さはまた食べに来たい。でもその後一晩、ラーメンの油が脳にまとわりついていました。後味がずっと引く。
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