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さて、ご好評いただいている、「S会潜入レポート(笑)」です。
そろそろ私の幸福の科学との出会いも近いのですけど、 その前に、どうしてもこの話を入れたくなりました。
当初は確かに、S会とのバトルでしたが、段々と自分自身との格闘記事となってきていますね。
私が24歳ごろ、仏陀やイエス・キリストが、日に日に偉大に思えた時期でした。
世界から戦争をなくすためには、宗教融和が必須であり、そのためには、仏陀やキリストなど、歴史上の巨人と相対峙しないといけなかったのですが、街の宗教オタクと化していた(笑)私は、日々自分の小ささを実感しておりました。
実はその時期、私が幸福の科学と出会う前に、ちょっとした神秘体験を経験いたしました。
まずはそのご報告から。
それは私が24歳の秋の夜、ふと自分の人生を振り返った時のことです。
その反省で、私はこれまでの人生の中で、少なくとも3回死にかけている体験をしていることに気付きました。
しかもその3回のいずれもが、私のわがままから起きた出来事であり、その度に、両親や肉親、そして他の方の助けがあって、そして今こうして、自分が生きながらえている事実に、生まれて始めて気付きました。
私は、
「ああ自分は、なんてわがままな人間なのだろう。心配してくれた大人たちの言うことを聞かず、自分のやりたいようにのみ生きてきた。」 「そんな愚かな自分を、人様は助けてくださった。なんとありがたく、そして僕は、なんと運のいいことだろう。」
愚かで、ちっぽけな自分と、両親を含めた出会った人たちへの感謝、 そして大きな神の導きの愛。それを強く感じ、涙が止めどなく流れました。
そして、「こんな愚かでちっぽけな自分ではあるけれども、今まで助けていただいたことに感謝し、これからはお返しの人生を生きよう。」
と思った後に、とても不思議な体験をしたのです。
肉体から意識が飛び出た・・・というより、はみ出した・・・という感じでしょうか。 私はそう思い、少し怖くなったのを覚えています。
あきらかに、「肉体と、自分と認識している意識とは別のものだ。」 その時に、はっきりと自覚いたしました。
この不思議な感覚に、私はしばらくの間、うろたえていました。
そして見上げると、そこには、『光』があったのです。
丸く柔らかな光 なんとも懐かしく、暖かい光。
私は思わず尋ねました。
すると、光が答えたので驚きました。
答えたのですけど、声が聞こえたのではありません。
しかし、その光が言おうとしていることが、自分にわかるのです。
実に、不思議な体験でした。
ばく
「あなたは・・・、神さま・・・、ですか・・・?」
光
「いえいえ、違います。私は神ではありません。神は遥かに偉大です。」
ばく
「では、守護霊さま・・・、ですか・・・?」
光
「そのように、受けとっていただいて結構です。」
当時の私は、丹波哲郎氏の書籍などによって、守護霊と言われる存在への、言葉の知識だけはありました。
不思議な光は、なおもメッセージを続けました。
光
「しかし、今あたなたが言ったことは、半分は当たっています。」
「神は、人の心の中に,いらっしゃるのです。」
「大宇宙の神と人とは、心と心で繋がっているのです。」
「人は心でしか、神を見ることはできないのです。」
そう言って、『光』は消えました。
暖かく、愛された感覚だけが残りました。
私は、
「神は、人の心の中にいらっしゃる。」「 神と人とは、心と心で繋がっている。」「 心」
「僕はまだ、心の探求ができていない。 そうか、宗教は心なんだ。」
「仏陀の言葉も、イエスの言葉も、心の教えなんだ。」「 そうか、心の教えか。」
と思い、生まれて初めて経験した、不思議な出来事と、初めて得た見解に、感謝の思いがあふれると同時に、 「何かが近づいている。」という感覚を、強く感じた出来事でした。
さぁ、皆様お待たせいたしました。
やっとやっと、私が幸福の科学に出会います。
その出会いは以外にも、とても身近にありました。
しかし、いったいどれだけの文字と、日にちをかければ気が済むのでしょうか? (爆笑)
これまでの私は、文献を中心に、真理探究を、ほぼ独学で行って参りましたが、神秘体験は、「それは単なる言語学であった。」と実感させられました。
つまりこれらは、文献では発見できなかったんですね。 これが言いたかったのです。
これらの学びは、当時の私にとっては、あくまでS会への反発心に使っていた、ツールであったと思います。
私はいつの間にか、S会信者さんとのお付き合いの中でも、「これからは宗教融和の思想が必要だし、仏教だったら生死の意味が解らないといけないし、世界を救うには、普遍的な心の教えが不可欠だ。」と言うようになって、彼らからも少し煙たがられる存在になっていました(笑)。
「偉そうに、正法を名乗るなら、これくらいは揃えとけよ!!」っていう感じですかね。 彼らS学会に、私はどんどんハードルを上げていっている訳ですね。 私は、とても意地悪ですね。(^@^)
でもこれは、現代に必要とされている宗教としては、至極当然でしょうし、知らず知らずとは言え、他の邪教と呼ばれる団体へのアプローチにも、使えるツールが手に入ったと私は考えています。
では、幸福の科学との出会いに移ります。
そのO君が、とある事情で、私の住処を訪問する機会がありました。 O君は、私の部屋の書棚を見て、こう言いました。
O君
「ばくちゃん、随分と宗教関係の本が多いんやね。意外やね。」
ばく
「ああ、ちょっと、期するところがあってね。」
O君は、私の本の演題を見て、こう言いました。
O君
「ふ~ん、ああ、結構いいセンスしてるじゃん。(笑)ちょっと見せてね。」
そう言って、彼は私の本を何冊かパラパラとめくり、そして、宗教用語を流暢に語り始めました。
ばく
「へえ~O君、君は宗教に詳しいんやね。」
O君
「まあね。多分、そこらへんの坊さんよりは知っとるで。(笑)」
この時私は、「自分以外にも、宗教を勉強しているに人間がいるのだ。」ということが嬉しかったのと、 「この男、結構知っているな。」と思い、彼に尋ねてみることにしました。
ばく
「なあO君。仏陀がまた生まれかわるという予言があるんだけど、君、そんなの知っとるか?」
そして、O君からあっさりと、ホントにあっさりと、(笑)とても思いがけない言葉を、私は聞いたのです。
O君
「仏陀? ああ、仏陀なら、もう法を説いといるよ。」
私は、びっくり!!!しました。
ばく
「え”~~~~~!!」
O君
「もう、3年位(当時)経つかな。」
私は、頭が真っ白になりました。そして、
ばく
「誰や!それは誰や!有名な人か!」
O君
「大川隆法・・・という方や。」
ばく
「オーカワ リューホー??? 知らんなぁ~???」
O君
「ここに、本があるやんかぁ~。アーッハハハハハ。ほれ、ここに。幸福になれない症候群・・・この人やでェ~。」
私は確かに、大川隆法著『幸福になれない症候群』を持っていました。 とてもためになる、良いことが書いてあったので、友人の辛坊君たちにも貸していました。(笑)
ばく
「こ、この方が??ブ・・・仏陀???随分、おじいちゃんなんやろな?」
私はこの本の著者は、人生の酸いも甘いも知り尽くした、ご老人だと思っていました。(笑)
O君
「アーッハハハハ。ちゃうちゃう。33歳(当時)やでェ~。(大笑)」
ばく
「33歳? え”----! 僕たちと、そんなに変わらんやんかー!」
O君
「まあ、仏陀やからな。」
ばく
「もっと他にも、本、書いているんか?」
O君
「ああ、100冊くらい(当時)、あるんちゃうかなぁ?」
ばく
「ひゃ、ひゃくさつ~~!!たった3年で、100冊やて~!!」
O君
「ああ、1週間で4冊出た時もあったわー。最近は、ちょっとゆっくりやな。1ヶ月に1冊くらいかな。」
ばく
「なんという、早いペースで書きはんのや。貸せ!いや、O君頼む。貸してくれー!!m(_)m」
O君
「あ、ああ・・・、ええよ~。じゃあ、取ってくるわ~。」
私の、運命の歯車が回り始めました。 私は当時24歳、年の暮れも押し迫った、寒い夜の出来事でした。
お待たせいたしました。
やっとたどり着きました。(笑)
さてここから私は、すんなりと、天から示された、進むべき道に進むのでしょうか?
それは次回からのお楽しみ・・・。(笑)
ということで本日は、話題に上った経典『幸福になれない症候群』(幸福の科学出版)より、家族の進行の不一致について、大川隆法総裁が語った一説をご紹介いたします。
(ばく)
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「人生の意味とは」 幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋
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どうしても相手の納得が得られず、信仰の不一致が続いている場合には、相手を無理に改宗させる必要はありません。
そうしたことをすると、家庭のなかが地獄になっていく場合が多いからです。
たとえば、奥さんが新しい信仰に目覚め、それが素晴らしい教えだとしても、ご主人が反対することに、まったく理由がないわけではありません。
多くの人は宗教的なものに対して警戒心を持つのが常であり、その教えの効果を見てみなければ、なかなか信じることができないものなのです。
そこで、大切な点は、相手の信条をすぐに変えてしまおうとするのではなく、まず自分自身が、新しい信仰にふれて心を変え、心境を向上させ、素晴らしい人間になることです。そうした状態が二年、三年と続いていけば、人は必ず認めてくれるものです。
あなたの職場の人や友人も認めてくれるでしょうし、ましてや、最も身近にいる妻や夫が認めてくれないはずはありません。
クリスチャンたちは「教会に登録しなければ救われない」という言い方をよくします。それも伝道方法の一つではあるかもしれませんが、「教会に登録する」ということと、「その人の魂が浄化され、向上する」ということとは、イコールではないはずです。
これが分からないほど愚かになってはいけません。
名前を登録することは一つのきっかけにすぎないのです。
「単に教団に名前を登録すれば救われる。入会さえすれば救われる」という考えは間違っています。
その教団がほんとうによい教えを説いているとしても、入会しただけで何も努力しなければ、救いにはならないでしょう。
その教えを真剣に学び、自分のものとして身につけなくてはならないのです。
まず、自分が変わることが必要です。ご主人を説得したければ、奥さん自身がまず変わってみせなくてはなりません。
その教団に入って、どれだけ立派になったかが大事なのです。「おまえがこれほど素晴らしくなる教えなら、おれも少し学んでみようか」という気持ちを、ご主人に起こさせるように頑張るべきです。
要するに、「自分がこう思うから、他の人もこう思うべきだ」という考えを持ちすぎないことが大切なのです。
ここが宗教的寛容性の試されるところです。
宗教がきらわれる場合、寛容さが失われているところに原因があります。
「特定の宗派に属さなければ救われない」「この教え以外では救われない」という考え方は、地上の人間に特有のものであり、高級霊の世界、仏の世界は、そうした不寛容なものではないのです。
「他の教えにもよいところがあれば、それを取り入れ、人生に役立てる」ということでよいではありませんか。
いま必要なことは、宗教的寛容性、寛容の心だと思います。
これは、実は非常に根源的な考え方でもあるのです。
『幸福になれない症候群』(幸福の科学出版)P282~284
釈量子 幸福実現党党首 https://hr-party.jp/
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そうなんですか。
なるほど。
私が幸福の科学を知ったときには、すでに経典「仏陀再誕」が発刊されていましたので、そういう、「お釈迦様の霊言はまだ?」という感覚がなかったので、勉強になります。
とにかくいっぱい本があったので、「早く読まないと、検証が終わらない。」という感覚を覚えています。(笑)
なぜ出ないの?生まれ変わっておられるのでは?
もしや・・まさか・・という思いはありました。そういう初期の頃のドキドキ感は覚えています。