私は男性ですけれども、看護師を職業としています。
人呼んで、「白衣のペ天使」です。(爆笑)
それも手術部という、血なまぐさい世界で生きております。
「人の生き血に手を染めて、やばい薬を動かして、命のやり取りの日々」でございます。(笑)
そんな日々の中で、人さまの体を、内側から毎日毎日見ておるのです。
きも~って思わないでくださいね。(笑)
私たちは、同業者以外の方のことを、「堅気(カタギ)の人」と呼びます。(笑)
ちなみに、私の妻は堅気の人です。(笑)
私の妹は10年ほど前に、足を洗いました。(爆笑)
私たちの身の回りには、刃物が沢山あります。
私たちは、刃物の取り扱いに長けています。
そしてこの業界に長くいると、血を見ると落ち着くようになります。(笑)
私たちは、赤い回転灯とサイレンのついた車に乗った人たちと、とてもご縁の深いお仕事です。(笑)
私たちは、あのサイレンの音が近づくとドキドキします。
もうホント、怖くて怖くて仕方ないです。(笑)
だってその後には、密室での取り調べで、ねほりはほり色々聞かれますし、体中あちこち調べられます。
その取調べは、嘘は通用しなくて、決して、ごまかしは効かないんです。(笑)
ちなみに、私たちの業界の禁句は、「いらっしゃいませ~。」と、「またどうぞ!!」と、「まいどありぃ~。」です。(爆笑)
以前同僚と飲みに行った際、そこのお店のママさんに、「お兄さん方、とても機嫌の良い人たちだけれども、何のお仕事なさっているの?」と質問されて、
「いやぁ、人の生き血に手を染めて、やばい薬を動かして、命のやり取りの日々ですわぁ。あーははははは。」とお答えしたところ、周りのお客さんがみ~んな帰っちゃって、ママさんを不機嫌にしちゃったことがあります。(爆笑)
こんな人間が、世間では医療者をしておりますので、皆さんご自分の健康は、ご自身で管理なさってくださいね。(爆笑)
さて、人の体は真に不思議で、神様がお創りになったとしか思えない、数々の不思議な事柄に満ちております。
たとえば、折れた骨が治ったところ、「骨折線」と言いますけれども、その骨折線は、もう二度と折れないんですね。
すごく硬い骨に変化するんです。
ある意味これは、「骨は折れて、治って、初めて完成する。」とも言えるんですね。
私は、「心」も同じだと思うんですよ。
辛く悲しく苦しいできごとがあると、心は痛み傷つきますが、努力して乗り越えて、経験と知恵を得ることで、それを乗り越え、しかも二度とその苦しみを味わうことがなくなる訳です。
結局これが、悟りの意味だと思うんですね。
その時に大事なことは 『正しく治す』ことです。
骨も必ずひっつきます。
必ずひっつくんですが、変な形にひっつきますと、後で痛んだり、グラグラしたりしますね。
心も同じです。
正しく治さないと、変なカルマ(業=心の傾向性)になったり、トラウマになったりします。
さて、医学には、基本的な3つの学問があります。
1.解剖学 = 身体の正しい仕組み
2.生理学 = 身体の正しい働き
3.病理学 = 病の状態と、その仕組み です。
お医者様は、これで人を診、治療している訳です。
また、心も同じです。
https://happy-science.jp/info/2017/26991/
「心も、折れて治って完成する。」そして、心を治すには、正しく治す必要があると思うのです。
そして「心を正しく治すには、正しい心の 解剖学・生理学・病理学を持つ宗教が必要だ。」ということも重要なことです。
幸福の科学は、心の解剖学・生理学・病理学 が完全に揃い、しかも日々の心の健康生活まで踏み込んだ、世界で唯一の宗教だと思うのです。
他にも良い教えはたくさんありますけれども、この3つが現代的な形で揃っているは、幸福の科学だけだと思うのですね。
偉大な信仰との出会いに、心より感謝申しあげます。
本日は、幸福の科学大川隆法総裁経典『釈迦の本心』(幸福の科学出版)より、心の調律に重要な、「視覚情報の処理」について語られた一節です。
これは伝統仏教的に言うならば、八正道の「正見」の現代的な説明と言えると私は考えます。
(ばく)
太陽の昇る国、日本 天使のモーニングコール1376回 (2018.2.10,11)
http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=151
人間の悩みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。
欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。
したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。
そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく必要があります。
そして、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。
この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。
たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。
その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。
しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。
ここが見方の分かれるところなのです。
この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。
その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。
そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。
『釈迦の本心』(幸福の科学出版)P66~69