飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

発問の条件

2006年03月06日 23時59分53秒 | 授業論
発問について考えてみる。
発問となりうるためにどんな条件があるのだろう。

1 何を問うているのか明確なこと。
2 簡潔にとうこと。よけいな言葉を徹底的に削ること。
3 平易な言葉で問うこと。
4 ぶれのない、揺れのない問いであること。

この条件を意識して発問を考えることは基本的なことだろう。
次に、質問と発問の違いは何か。
質問は一般的な言葉だが、発問は教師の世界でしか使われないだろう。
あらく区別すると、質問とは子どもたちが本文を前から順番にみていけば答えが見つかるもの。
この質問は、多くの子が発言のチャンスを得られると言う点では、いいが子どもたちの集中は続かない。
なぜなら、知的ではないからである。

発問はこれに対して、子どもたちの思考を促し、論理的な思考過程を必要とするもの。
さらには、教師と一人の子どもの間で完結してしまうようなツーウエイではなく、子ども同士で広がりを見せるような討論ができるような発問が望ましい。

拡散的発問から、集約的発問に移行させることも、基本的なことだろう。

(saitani)

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討論の授業 百羽のつる3

2006年03月05日 23時40分47秒 | 国語科
「知っていた」という子どもたちは次の部分を根拠として指摘した。

たちまち いっせいに、さっと 銀の矢 速く落ちました
 
このような記述から、つるたちがものすごいスピードで同一行動をとったことがわかる。
したがって、こんな行動をとるということは知っていなければできないことだ。

「知らなかった」という子どもから反論がでる。

とび方は、今までよりも少しだけ速くなりました 少しばかり速く飛び始めて

このようにつるたちは飛ぶスピードをあげている。
もし、病気であることを知っていたのなら、スピードは上げないはずだ。
さらに、反論。
いや、知っていたからこそ、速く飛んで目的地に早く着こうとしたのだ。

子どものつるの落ちるのを見つけて、そのすぐ前をとんでいたつるが、するどく鳴きました。
このことから、ある程度知っていたから、鳴き声に反応できたのだ。

子づるの飛んでいる位置も問題になった。
最後尾を一貫して飛んでいたという問題である。
子どもたちの中には、最初は前のほうだったけど、だんだん遅れて最後尾になったのだと考える子もいた。
その様子をみていたから、ほとんどのつるたちは子づるが調子が悪いことを知っていたのだという考えである。

知らなかったとしたら、どうやって子づるが落ちていくのをしったのかということも問題になった。
ある子の意見で、羽の音がしなくなったからだという主張をした。
本文中には、記述がないことであるが、面白い意見だった。

病気のことを知っていたなら、本文中のどこかに「知っていた」という表現があってもいい。
子づるはだまっていたのだから、仲間はしらなかったと考えるべきだ。

ある子が、こんな意見を言った。
本文にこう書いてある。
「子どものつるが落ちるのを見つけて、…」
「見つけて」と書いてあるということは、それまで知らなかったと言うことである。
知っていたら、「見て」という表現になる。
だから、初めてこのとき子どもつるが病気だと知ったのである。

これは、非常に有効な根拠である。
よく、この文章表現に気づいたと感心させられた。

若いときには、いかに子どもたちに討論の力を効率的に身に付けさせるかをずっと考えてきた。
しかし、何年かたったときふと自分の実践を振り返り、考えたことがある。
自分がしてきたことは間違いではないが、大事な部分を忘れかけていたのではないか。
その大事に事とは、こんな考えである。

ひとりひとりの子にとってその文を読み、その詩を知ることがどんな意味をもってういるか、それをとことんまで読み切ることをしないで、どういう指導ができるであろう。
教材研究はどんな意味をもつことができるであろう。
そのぎりぎりのつばぜりあいこそ、国語教育の核心ではないのか。
高度な技術を駆使して子どもをやたらにゆさぶってみても、教師の自己満足以外に何が残る。

つねに実践とは、このような教育に対する怖れにも似た、謙虚さを持ち続けることが大切である。
 
SCENE164(saitani)

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討論の授業 百羽のつる2

2006年03月04日 02時25分23秒 | 国語科
百羽のつるの授業参観。
討論の授業が成立するには、様々の要因が考えられるが、その一つに発問の質の問題がある。
たとえば、教科書を読めば答えがすぐに分かるような発問では討論にならない。
創造や思いつきでしか理由を言えないような発問も不適である。
きちんとした根拠が文中から探せる必要がある。
また、最初は意見が5個以下になり、討論を進めていく中で、最終的に二つになるものでなければならない。
そこからが本物の論争が始まる。
に、その発問をすることにより、子どもたちが何時間も熱中して意見を発表し続けるようなものである必要がある。
その発問を教材研究の中から見つけるのである。

前文をすらすら読みで通読させたあと、次のような発問をした。
「九十九羽のつるは、子どものつるが病気であることに気づいていましたか?」
ここで立場を決めさせる。
まず、どちらかの立場に立つと言うことが当事者意識を持たせる上で必要不可欠である。
当事者になって初めて、脳が活性化し、本気で考えるのである。
価値観が表面に出てくる道徳などでは、例外的に認めることもあるが基本的にはまず、立場を確定する。
知っていたという子と知らなかったという子の割合は約2対1と言ったところであった。
次にそれぞれの根拠を発表させた。
ここで教えるべきことは根拠と理由の違いである。
根拠は具体性をもつ。
すなわち、教科書の何ページの何行目にこう書いてある。
これは根拠である。
だからこう考えられるというのが理由である。
国語的にはこのような区別はないが、討論をする上でのルールの徹底は必要である。
根拠を持たない主張は、討論の中では、意味をもたない。

SCENE163(saitani)

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討論の授業 百羽のつる1

2006年03月03日 23時30分45秒 | 国語科
ある学級の授業を参観した。
テーマは討論の授業である。
すべての教師は討論に授業にあこがれる。
子どもの能力を最大限に発揮させることができる授業形態が討論だからである。
討論は、単なる意見発表とは本質が異なる。
授業参観をする。
参観者の中には、
「活発な討論でしたね。子ども達が次々に意見を言って驚きました。」
と授業の感想を述べる方もいる。
本来、討論の授業は簡単にできるものではない。
教師が、教育について真摯に学び、日々教材と格闘し、目の前の子どもたちをどのようなスモールステップで、どのレベルまで引き上げるかという具体的なビジョンをもたなければ到達できない境地である。

様々側面の鍛えが必要な授業形態である。
ノートに書いてあることや書き込みを行った内容を発表することは討論とは言わない。
ある意味はそれは、事前にシナリオができたものを読んでいるに過ぎない。
しかし、討論は即座に対応する技能が必要になる。
これは単なる技術を身に付けただけではできないことである。
技術をつかいこなす力、技能が必要なのだ。
発言に対する子どもたちの意欲を高める。
相手の意見を論破するロジックを理解する。
相手の発言の要点、矛盾点を論理的につく能力。
自分の考えを根拠をもとに理論立てて表現する能力。
これらのことが複合的にからみあい、理解できることが第一歩である。
当たり前のことだが、まず教師が出来ない限り、子どもに期待することは困難である。
したがって、討論の授業は、授業形態のなかでは最も高度で、高段の技と言われるのである。

SCENE162(saitani)

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