飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

科学的理解

2006年11月26日 02時05分04秒 | 授業論
新聞を読んでいたとき、こんな内容の投稿があった。

私たちが小学校から高校まで作文として書かせられてきたものはほとんど感想文を意味していた。
読書感想文、遠足や運動会などの行事作文と言われるものである。

この文を書いた人は、ドイツに住むことになって日本の作文とドイツの作文が根本的にちがうことに気づく。

ところがドイツの学校では、いわゆる感想文を書くことは皆無である。
小学校での作文は与えられた課題に対していくつかの決まった言葉を織り込む自由なお話創りだった。
中学校以降は、ひたすら与えられた教材(小説・社会問題)の分析と批判、その結果導き出される妥当な結論の表現練習を行う。
その場合、「思う」という言葉は禁句で、減点の対象になる。
あなたがどう思うかではなく、偏らずしかも論理的に筋が通っているかどうかが問題であると言われる。
自分の書いた結論が、論理的に妥当であれば、世の常識と異なっていても評価される。

これは外国の話かも知れないが、日本人の学生は論理的な文章を書くことが苦手だと言う。
若者が書く文章は、論文ではなく、感想文に近い。
感情的で論理に飛躍があり、ユニークさに乏しいのはこういった日本の教育にも問題があるように感ずる。

国語とは、学問としての原理も原則もなく、適当な場当たり的ないい加減な勘が支配するもの。
問題を数多くやっているうちにただなんとなくわかってくるものが国語力。

国語教育に対してこんな印象を持ってしまうのは私だけだろうか。

saitani
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