分析批評の授業を組み立てて、子どもたちの指導をする。
そのゴールとはなんだろうと改めて考えてみる。
絶対的なゴールはないのかもしれない。
それは授業者一人ひとりがイメージしている子ども像が異なるからだ。
では自分ならと考えてみる。
その一つとして思い浮かぶ姿がある。
1年間の国語科の指導も終わりを告げる頃、2月。
子どもたち図書室へ行く。
そして物語や小説のコーナーにある思い思いの本を手に取る。
そして、自分が分析、読解する本を探し出す。
自分が分析したいと思う本を選ぶのだ。
そして教材を選択したら、これまでの学習で習得した教材を分析・批評する分析技術を用いて、教材を自力で読み解いていく。
そして最終的に、主題へとたどり着く。
その過程を、詳細に評論文にまとめあげる。
それが、私の学級における卒業論文となる。
しかし、何もしないで子どもたちこういう姿になることはあり得ない。
それは誰にもでもわかる。
では、前段階として何が必要になるのか。
それは、この実践に到達するまでには、子どもたちが分析批評における用語を理解し、技術として習得してい必要がある。
さらに、その技術を自由に使いこなす、技能も身に着けておくことも必須となる。
したがって、年度当初から教材を読み進めながら用語指導をしていくことが重要となる。
言い換えると、用語指導とは子どもたちが自分で作品を分析・批評するときに用いる「ものさし」を持っている状態のことを指している。
少し具体的に言うなら、話者・視点・対比などの基本的用語の他に、類比・対語・類語・エピソード・象徴性・ピナクル・イメージ語・クライマックス・客観視点・限定視点・全知視点・色調・主題などを指導しておくこと。
また、音・数・明暗などの分析観点も指導しておくほうがよい。
これらの用語からいくつかのものさしを子どもたちが選択して、それを使って自分で選んだ作品を分析・批評して評論文を作成する。
ここで必要となるのは、分析しようとする作品にどのものさしをあてることが最善なのかを決定する力も必要になってくる。
しかし、自分の力では子どもたちにここまでの力をつけることはできなかった。
夢は夢のまま終わってしまった。
しかし、その高みを目指し、ひたすら追い求めたからこそ、たどり着けた場所があったことも事実なのだ。
saitani
そのゴールとはなんだろうと改めて考えてみる。
絶対的なゴールはないのかもしれない。
それは授業者一人ひとりがイメージしている子ども像が異なるからだ。
では自分ならと考えてみる。
その一つとして思い浮かぶ姿がある。
1年間の国語科の指導も終わりを告げる頃、2月。
子どもたち図書室へ行く。
そして物語や小説のコーナーにある思い思いの本を手に取る。
そして、自分が分析、読解する本を探し出す。
自分が分析したいと思う本を選ぶのだ。
そして教材を選択したら、これまでの学習で習得した教材を分析・批評する分析技術を用いて、教材を自力で読み解いていく。
そして最終的に、主題へとたどり着く。
その過程を、詳細に評論文にまとめあげる。
それが、私の学級における卒業論文となる。
しかし、何もしないで子どもたちこういう姿になることはあり得ない。
それは誰にもでもわかる。
では、前段階として何が必要になるのか。
それは、この実践に到達するまでには、子どもたちが分析批評における用語を理解し、技術として習得してい必要がある。
さらに、その技術を自由に使いこなす、技能も身に着けておくことも必須となる。
したがって、年度当初から教材を読み進めながら用語指導をしていくことが重要となる。
言い換えると、用語指導とは子どもたちが自分で作品を分析・批評するときに用いる「ものさし」を持っている状態のことを指している。
少し具体的に言うなら、話者・視点・対比などの基本的用語の他に、類比・対語・類語・エピソード・象徴性・ピナクル・イメージ語・クライマックス・客観視点・限定視点・全知視点・色調・主題などを指導しておくこと。
また、音・数・明暗などの分析観点も指導しておくほうがよい。
これらの用語からいくつかのものさしを子どもたちが選択して、それを使って自分で選んだ作品を分析・批評して評論文を作成する。
ここで必要となるのは、分析しようとする作品にどのものさしをあてることが最善なのかを決定する力も必要になってくる。
しかし、自分の力では子どもたちにここまでの力をつけることはできなかった。
夢は夢のまま終わってしまった。
しかし、その高みを目指し、ひたすら追い求めたからこそ、たどり着けた場所があったことも事実なのだ。
saitani