飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

生活科における気付くということ

2024年05月14日 06時32分03秒 | 生活科
気付くという言葉は、主体的に、自分から働きかけて分かっていくこと。
気付くということは自分から進んでいろいろなことがわかるということを意味している。
しかし、教科のよってこの気付くという言葉も微妙に異なる印象がある。

社会科における気付くは、身の周りの社会的事象に気付くことを意味している。
例えば、お店やさんはどんな努力や工夫をして品物を売っているのか。
その答えは、きれいにわかりやすく並べてあるとか、値段がわかりやすいように表示されているとか。

理科では、ある客観的事象や現象に対して、子どもたちが気づいていくことを示している。
ザリガニはどんな動き方をしているのか、植物はどんな成長の仕方をするのか。

では生活科の気付くとはどんなことを意味しているのか。
社会科のように店の工夫や努力に気がつくことが主たる目的ではなく、自分が実際にお店に出向いて、どんなことがわかればいいのか、自分がお店屋さんに言ってどんなことができればいいのかということに気付くことが生活科における気付くとなる。
したがって体験重視と言われるように実際に行って学ぶことが必須となる。
さらに言うと、自分との関わりの中で物事が考えられるかどうかという視点も重要だ。
そのお店に行って、自分が買いたいものがあるか、ないときにはどうすればいいのか。
買いたい者がふたつあったときに、その値段が違う、それはどうしてなのかというように自分事として捉えられるかどうかがポイントだ。

気付くということのレベルが問題ではなく、順序性の問題が関わっている。
気付くということがまずあるのではなく、自分がいろいろなことをやっていく中で、例えば、お店屋さんに行く、動物を飼う、植物を育てる、という体験を通して気付くことを生活科では重要視しているということ。

saitani