飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

雑感 ある参観授業

2024年05月10日 05時04分33秒 | 教師論
仕事柄多くの授業の参観をする。
その授業は、通常の授業から、研究授業、模範授業、参観会の授業等様々な授業形態がある。
よく「普段の授業」という言い方を教師はする。
例えば、参観会の授業。
若い頃、先輩教師に尋ねたことがある。
「参観会の授業はどんなことをしたらいいのですか?」
その方は、
「普段の授業でいいのよ。」
と答えた。
その頃はなんの疑いもなく、「そんなものか」と思い、普段の授業を行っていた。
正確に言うと何の技術も力もない駆け出し教師がする授業なので、普通以下の授業だったことは確実だ。
それでも、授業に関する苦情はなかった。
そんな時代だった。

今ははっきりと言うことができる。
参観会の授業は普段の授業では絶対にいけない。
子どもたちが、何らかの自己表現をしている場面を保護者が見られるような工夫と仕掛けが必要となる。
全員の子が発表する姿を見せることがいいことかもしれないが、45分間で全員発表を目指すことは難しい。
したがって発表にこだわる必要はないと思う。
子どもたちが集中して、10マス計算に取り組んでいる、班活動で意見交換をしている。音読をしている、合唱や群読をしている等、一人一人が活動している姿を見せるのである。
当然そうなると、45分間のいくつかのパーツに分けて、多種多様な活動を組み込むことになる。
普段とは異なる組み立てになるのである。

子どもたちの姿も普段の教師の指導が見える形にしなければならない。
子どもたちに恥をかかせるようなことを担任はしてはならない。
もし、そんな場面があるとすればそれは教師の技量が低いことの証明となる。
保護者は、我が子の姿を見に来ているのである。
間違っても発表会を行ったり、親子工作教室などでごまかすようなことはしてはならない。
少なくとも私は一度も行ったことはない。

ある授業を参観した。
参観会である。
ベテランの教師。
チャイムがなり、国語の授業がはじまった。
まずは音読の発表会。
グループごとに前に出て発表する。
おせじにも、声の大きさ、強弱、間等どの観点も指導があとがまったくみられない。
それは子どもたちのせいではない。
子どもたちを鍛えるという観点が欠如している。
指示や教態、授業の組み立てにいたるまで思いつき程度の授業だった。
教職経験数十年の教師であっても、努力の方向性と計画性を間違うとこうなるという内容だった。

若いときに先輩教師に言われたことがある。
「先生、教師の技量が劣るということはそれは必然的に差別者であり、ある意味犯罪にも似た行為を行うことになる。」
その頃はその意味が分からなかった。
しかし、多くの経験をする中でこの言葉の重さを肌で感じる。

satani