建築の模型って、現代ではたくさん作られていますが、
やはり建築は空間を作っていく仕事で、しかも多くの人間が関わっていく作業。
なるべく認識が共有できるようにという図面以上のものは
普遍的にあり得るものと思います。
先日行った堺の「利晶会館」で見かけた茶亭展開模型。
「高台寺時雨亭建て地割り・茶室起こし絵図」。
下の図面説明では、利休が好むところなり、という記述が伝聞されている。
江戸期の旗本・大工頭中井家が所有していた記録文書ということ。
この中井家というのは、京都府立京都学・歴彩館京の記憶アーカイブに、
〜関ヶ原合戦の後、徳川家から五畿内および近江の大工・杣・木挽の
三職の支配を許され、近世を通じて、ほぼ500石40人扶持でその職を勤めた
旗本の家柄である。元禄6(1693)年ごろ、自分の屋敷内に中井役所を設け、
以前は中井家の負担で行われていた建物の破損見分・仕様帳等、
あるいは絵図の作成まで作事に伴う手続事務を幕府経費で行なうようになり、
役所は公的側面をもち、文書保管機能は強化されることになる。
これにより多量の文書が残った〜ということだそうです。
いまで言えば国土交通省の建築局といったような位置になるのでしょう。
このたぶん江戸時代初期、すでに「利休」という名が
公的文書で記載され、いわば共有言語になっていたことが知れる。
茶道というのは、中世から近世に掛けて勃興した富裕な貿易商利権集団が
自分たちの「値付け」を陶器茶碗などに行っていく過程で
それが一種の「権力」構造を持ち、武権の側でもそのことに強く興味を深めた
そういった過程で生起した文化現象だったと思われます。
商人たちが鑑定の権力からさらに政治権力にまで力を得た、
そういう極限的状況で、秀吉から利休への賜死という事態も起こった。
この「高台寺」は秀吉の正室・ねねの私寺。
ここにも利休の名が出てくるというのは、いろいろな消息を伝えてくれる。
やはり歴史時間が繋がっている関西圏、
ふとした建築的展示からも、さまざまに想像力が刺激されます。
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