超マイナーな個人的歴史探究ネタのようですが(笑)
秋田県南部・大仙市大曲で古代城柵「払田柵」にほど近い古四王神社について
その建築的異形性を感じ取っている件、
秋田の建築サークルで情報発信していますが、まだ返信はありません。
これは建築史のみなさんに直接聞くしかないかと、やや閉塞感。
そんな思いを持ちながらWEBで検索していたら、
「古四王」という名称について、実は古代の国制である「越〜こし〜の国」と
関連しているのではないかという説があることに思い至った。
この「古四王神社」については、秋田城資料館の学芸員の方から、
「大阪の四天王寺が国家鎮護思想に基づいて勧請された」
「その後、神仏混淆思想の結果、寺院から神社に変更されて、その出自を
名にあらわすために四王という名称が付与された」と説明された次第。
たしかにそのような見解が、古代史の「常識」ではあるのかも知れません。
しかし、であればなぜ「古」という接頭語がついたのかの説明がむずかしい。
四王神社であれば、すんなりと受容できるけれど、古四王となれば、
やはりその読み、音に強い意味づけがあったと思われるし、
この地は日本海側文化圏の最北地域である秋田であるのです。
言うまでもなく、日本海側の古代国制として「越の国」は広大な地域を表現していた。
越前から始まって、上越、中越、下越というように4カ国規模だった。
近江に隣接して「北国」概念の総称として広大な地域が認識されていた。
太平洋側の「東海道」諸国家群とも対比できるような広大な地域。
さらに古代には継体という「越前王朝」まで出現している。
そのような「越の国」の王権という存在が、この「古四王」表記には
深く含意されているという説明は大いに留意されるべきではないか。
そのようであるからこそ、古代政庁としての政治的安定を計って
この「越王」を宗教的存在として尊崇することで
地域との融和を意図していた可能性は大いにあるのではないか。
けっこう魅力的な想像のように思われてなりません(笑)。どうなんかなぁ?
秋田県南部・大仙市大曲で古代城柵「払田柵」にほど近い古四王神社について
その建築的異形性を感じ取っている件、
秋田の建築サークルで情報発信していますが、まだ返信はありません。
これは建築史のみなさんに直接聞くしかないかと、やや閉塞感。
そんな思いを持ちながらWEBで検索していたら、
「古四王」という名称について、実は古代の国制である「越〜こし〜の国」と
関連しているのではないかという説があることに思い至った。
この「古四王神社」については、秋田城資料館の学芸員の方から、
「大阪の四天王寺が国家鎮護思想に基づいて勧請された」
「その後、神仏混淆思想の結果、寺院から神社に変更されて、その出自を
名にあらわすために四王という名称が付与された」と説明された次第。
たしかにそのような見解が、古代史の「常識」ではあるのかも知れません。
しかし、であればなぜ「古」という接頭語がついたのかの説明がむずかしい。
四王神社であれば、すんなりと受容できるけれど、古四王となれば、
やはりその読み、音に強い意味づけがあったと思われるし、
この地は日本海側文化圏の最北地域である秋田であるのです。
言うまでもなく、日本海側の古代国制として「越の国」は広大な地域を表現していた。
越前から始まって、上越、中越、下越というように4カ国規模だった。
近江に隣接して「北国」概念の総称として広大な地域が認識されていた。
太平洋側の「東海道」諸国家群とも対比できるような広大な地域。
さらに古代には継体という「越前王朝」まで出現している。
そのような「越の国」の王権という存在が、この「古四王」表記には
深く含意されているという説明は大いに留意されるべきではないか。
そのようであるからこそ、古代政庁としての政治的安定を計って
この「越王」を宗教的存在として尊崇することで
地域との融和を意図していた可能性は大いにあるのではないか。
けっこう魅力的な想像のように思われてなりません(笑)。どうなんかなぁ?
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