三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

十三湊の古城・福島城

2008年09月07日 08時47分47秒 | Weblog


福島城というと、一般に福島県の方をまずは思い出すけれど、
こちらは津軽半島西側の十三湊の内湖、十三湖の北方台地上に建てられていた城郭。
大きな1辺1kmの三角形の外堀と、その内部に四方180mの正方形の内堀で仕切られた古代城郭。
外郭の東側および内郭の東側に門があった、とされている。
Wikkipediaで見てみると、

平安時代後期の10世紀後半に築かれたとみられる。10世紀後半から11世紀までの土師器が城域から出土するが、これは北緯40度以北の東北地方北部が中央政権の影響下から離れて北海道で9世紀に始まった擦文文化圏に合流していた時期にあたる。同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であると考えられる。
内郭は室町時代前期の14世紀後半から15世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3キロメートルの位置にある十三湊が最も栄えた時期にあたる。
「十三湊新城記[1]」に記された、安倍(安藤)貞季が正和年間(1312年-1317年)に築いたとする新城を福島城にあてる見解がある。

というような記述があります。
どうにも謎が一杯です。
築造が10世紀半ばといえば、胆沢城国府などで安倍氏が勃興する時期にも符合する。
正史、朝廷内裏の側からのこの福島城への記述も見られないようだ。
ただし、規模や作られ方は、律令国家の古代城郭と似ている感じがする。
港湾都市・十三湊から岩木川をさかのぼっていけば
古くからの農耕地帯である津軽平野の富の集散も可能。
そうした交通上の要衝地に立地していることは明白。
律令の時代に、津軽地方の農業生産物を収奪したという記述はないだろう。
なにより、律令体制はここまで及んできていない。
だとすると、この城郭はどういう人々が、どのような目的で活用したのか?
ここに記載されているように「擦文文化人」が登場するのであれば、
十三湊の性格は、北海道やその以北の勢力が
日本本州地域に打ち込んだくさびのようなものとなるのか?

擦文文化人という存在の研究はまだまだ、考古に属する研究で
人文的な色合いが乏しいけれど、
この十三湊で、ついに北方世界の考古と律令国家的人文要素が
混じり合ってくるように見えます。
文字を持たず、記録を持たなかった民族の息づかいのような部分が
断片的に交差するようになってきます。
十三湊、どうも大きな湖さながら、ハマってしまいそうです(笑)。ふ~む。


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