三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

里山集村の景観

2014年05月27日 06時10分10秒 | Weblog


住宅の取材をずっとやってきていて
はじめは、個性主張型の現代的な住宅に強く興味を持った。
住宅を持つと言うことは、現代において「個人の自由を実現する」
もっとも普遍的に可能なことがらであることは明らか。
そのかたちをできるだけ克明にあきらかにして、
ひとつの「表現領域」を構成したいと考えた。
そういった可能性への探求は、住宅雑誌のなかで建築家の仕事を
積極的に取材して、そのエッセンスを掘り起こすことに繋がった。
家を建てる個人が、さまざまなプロセス、
主に設計者と対話しながら、どんなすまいを実現するに至ったか、
その一連の過程に強く興味を抱いたのですね。
このことは、基本的なスタンスとして持っています。
しかし、取材を進めていくウチに、
「なにげない」背景として成立している住宅群にも
強く喚起されるようになってきた。
北海道・東北の住宅を取材し続けてきて
自分自身が、根がらみニッポン人であることに気付いてきて
そのことの住宅表現を確認したくなってきた、ということでしょうか。
仕事の出張などの機会をとらえて、
日本各地の民家の取材探訪・探求を続けています。
それは主に歴史的古民家がベースだけれど、
現代の暮らしを包み込んでいる住宅のありよう全般に及んでくる。

写真は、里山の農家景観であります。
里山というのは、基本的な生産手段である田畑を平面の土地に造作し、
山裾に住宅の立地を求めるというスタイル全般を言うようです。
言葉自体、近代になって成立したようです。
しかし、この人間居住形態には、
歴史的な日本人のくらしようが明瞭に表現されている。
それは、縄文期からの採集生活の宝庫である森山と
弥生以降、受容した農耕生活が、バランス良く保たれているからです。
しかも、それらの住宅が寄り添うように集まって
「集村」形式でくらしが営まれてきた。
田んぼでの生産活動には、集団的営農労働が不可欠であり、
その基本的な生活基盤を実現させている。
このような集村形式では、気候風土条件に対しても
安全安心を確保することも可能だったことも窺い知れる。
季節風などから、おたがいの家屋をお互いが守りあうという
思想が、見るからに明確に示されている。
一見整然としてはいないような各家屋が不整合に並んでいるけれど、
いろいろな自然災害のありよう、季節風の悪影響に対する防御と
考えれば、その合理的な対応として見て取れる。
しかも、建築的には住宅は規格化されていて
どの家の部材も共通化していることが見て取れる。
これは、仕入購入するときに有利に働いたに違いない。
このような意味で、こうした住宅には
日本人の歴史的な生活合理性が明瞭に示されている。

「なにげない」住宅群の、こういった合理主義に
気付き始めてから、住宅への興味がよりいっそう深まってきたと思います。
結局は、ひとであり、ひとのくらしということが、
いちばん興味深いことであることに思いが集中してきた。
そんな気分がどんどんと深まってきている次第です。

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