昨日のブログですこし触れた北関東・栃木県の「寺平遺跡」の様子。
石器時代から縄文、古墳時代、さらに奈良平安期、
さらに室町期までの「豪族」の居住施設痕跡が相次いでいる遺跡。
そのなかでもこの遺構は興味をそそられました。
約1200年前の「東国」の豪族居館の全容が見えてくる。
上の写真は発掘された中心建物「大型竪穴住居」。
8本の主柱をもつ10.8m×7.8m(84.24㎡・25坪)の特大住宅で、
ふたつの大型かまどがあったそうで、併用されていた。
ということは、多人数の食事がここでまかなわれていたことが明らかで
須恵器の杯など大量の食器が出土する。
この居館に関わる主人・家族・奉公人などの豪族集団の炊事施設。
その下の写真図は、「大型掘立柱建物」のもので、
主柱に対してその周囲にひさしの柱跡があることから、
威信をあらわす「四面ひさし」を持った建物ということ。
4間×3間の規則的建築で、12坪の平面積の「主屋」。
この遺構の中心施設だったことが推定されている。
これらの「中心施設」を囲むように、多くの建築跡が密集配置された、
一見すると「都市的集住」形態を見せている。
なかには、酒造施設や食料保存のための「氷室」と推定される
建物跡も発掘されているのだそうです。
全体として1辺が60mの「コの字」型に建物群が配置されている。
このようなコの字型配置は、当時の「官衙」(役所)を模したものとされる。
ちょうど、これからやや時代を下った東北における
安倍氏・清原氏のような、官衙模倣の豪族居館に通じる建築意図。
仏堂とおぼしき建築跡、「支配地」での生産物のための倉庫群、
さらに周辺には奉公人の住んだと想定される竪穴住居群もある。
歴史的には、743年の「墾田永代私財法」の結果、
8−9世紀に出現した関東の富豪層の居館だということ。
ヤマト権力の地方支配施設「官衙」の建築様式を模しているのは、
「支配構造」機能としては、ごく自然なことだと思われます。
当時の経済構造を「支配」すると目的に合致した実質的形式として、
このような建築的態様が、「支配」に適していたと言えるのでしょう。
この10月29日にはこの集住的支配層建築群について
発掘結果に踏まえた発表講演会も予定されているそうです。
考古から「歴史」への中間的な「建築群遺構」という意味が感じられる。
どちらも人間社会がどのように発展してきたかを表しているし、
その間、実質的には継続的な社会構造があったのだと明瞭にわかる。
北海道に住む古建築研究愛好者としては、
まことにうらやましい史的環境があるものと思わされます。
う〜〜む、すごい興味深いですね。
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