三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【歴史時間トリップ宮城県南・竹駒神社】

2019年02月03日 10時31分06秒 | Weblog
小野篁という平安期の有名人がいる。
遣隋使として高名な小野妹子の子孫だということ。
孫には小野小町が、という説もあるそうです。
学者として名のあった父が「陸奧守」を受任して多賀城に赴任していたころに
その地で少年期を過ごし、弓馬の道が大好きになったとされる。
高級官僚の子息、さらに学者の父の子なのに、と時の天皇が嘆いたので、
その後、心を入れ替えて勉強して高級試験をパスしたという。
歌人としての才能もあり、貴族社会のなかで名声が高まったとされる。
遠祖の故事に習って遣唐使副使に任命されたが、正使との対立から辞表を出して
左遷され、また天皇に愛されて復権したりという事跡があるそうです。
事跡を見ていると、なにやら現代人にも通じるような「個性」を感じる。
司馬遼太郎さんの文章などを読むと、日本人というのは
私よりも「家」というもの、それは「公」ではないけれど、
個人としての生き方よりもはるかに優越する概念としての家の存続発展が
もっとも優先する規範意識を持って生きてきたのだと思う。
そういった一般的な生き方からはすこし距離のある「個性的」な生き方をして
それが、多くの人の半ばの共感を得たのではないかと想像できる。
天皇から「あいつは、父が立派な学者だったのに、弓馬の道にふけりすぎだ」
みたいな苦言を呈されて、それを正面から受け止めてマジメに勉強して
試験に見事パスする、というあたり、上の人間からすると
かわいらしさも感じられるのだろうと推測できる。
だから、国の命令をほっぽり出して「筋を通す」辞表提出に対しても
一応は左遷させられたけれど、1年半で旧ポジション以上に復権したりしている。
そういう人物が、創建したという伝承のあるのがこの「竹駒神社」。

たまたま宮城県南を巡っていて、ふと見掛けた古社だった。
見学してみたら、小野篁の名が縁起に書いてあった。
こういう日本史の中の有名人がふとした土地にも遺されているのがすごい。
明治以降でなければ日本史とはほぼ無関係の北海道とは違う。
たまたま見掛けたので立ち寄ったら、前から名前を知っていた
小野篁の名前が縁起表示に書かれていたという次第。
こういう「人物」を想定すると、歴史理解というのは格段に面白みと深みが出る。
その個性と事跡を重ね合わせることで、歴史の実相が見えてくる瞬間がある。
少し調べてみると、かれは「陸奧守」は受任したようだけれど、
どうも現地には赴任しない、「遙任」だったように思われます。
ただ中央での「政治力」はあったことが推定でき、
こういう縁起に名前を遺した方が、現地側としてもメリットがあったのでは?
こんな時間タイムトラベル、大好きであります。
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