三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

日本という国のかたち

2009年11月22日 07時46分23秒 | Weblog




最近、いろいろな機会を通して
官僚機構などと接触したり、関係を持ったりすることが多い。
とくに住宅についての補助金などの政策が施行されるようになって
好むと好まざるとに関わらず、関与するようになってくる。
そういう経緯の中で感じることなので、
特定のだれかれ、ということではないと申し上げた上でなのだが・・・。
やはり、東大という存在はものすごいピラミッドを構成していると感じます。
東大が悪いという話ではないのだけれど、
どうしてこういう構造になってしまったかについては、
もうちょっと、論議があってもいいのではないか。

明治までの国のかたちは、
封建であり、身分制が固定された社会が300年間続いてきた。
そういう社会の閉塞感を打ち破ったのが、
明治の維新だった。
そして、明治の政権が基本的な国家戦略として打ち出したのが
教育勅語という大方針だったのは疑いがない。
まことに近代国家にとって、教育は国家の礎石になってきた。
このことは、その後の独立運動に目覚めた民族国家すべてに言える基本だった。
ここまではまったく正しいと思える。
それまでの社会のように、個人の能力と関係なく
生まれついての身分によって生き方が定められている社会よりも
はるかに開放された社会だと思う。

しかし今日、その教育の結果、
東大を頂点とする社会構造が固定化され、
とくに官僚機構トップにおいては、厳然と東大閥が国家を専断している。
かれらは自負心も強く、責任感にもあふれ、
まさにエリートとしての教育も徹底されていて、モラルも一般的に高い。
江戸時代の武士階級が、かれらに置き換わった、と考えればわかりやすいのだろうか。
明治維新も、結局は支配階級内部での政権交代的なものであったように
これからも、こうした構図の中で進行していくのが
日本の国のかたちなのだろうか?
結局、勉強ができる、ということが
すべてにおいて優先される社会が今後も継続していくのだろうか?

別にそれでもいいのだけれど、
そういう判断基準だけで、国が運営されていっていいものかどうか、
まぁ、論議をリードするのも東大だろうから(笑)、
一般庶民は、ただただ、頼み参らせるしかないのでしょう。
まぁ、武士にはどうやってもなれなかったのに比べて
勉強さえして、いい成績を取れば、道自体は開けているのだから、
やはりいい社会といえるのでしょうか。
社会人入学枠というのも東大にはあって、
現にその制度を利用して、50を過ぎて東大に入って活躍しているひともいます(笑)。
さて、どうなんでしょうか?
さっぱり勉強ができなかったひがみが
歳とともに強くなっているようですね(笑)。






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