くらげのごとく…

好きなことを考えてふわふわ漂ってるような
時間が心地良かったりする。
たとえ時間の無駄遣いだったとしても…。

成人式の思い出

2007年01月08日 | 日常あれこれ
今日は成人の日なんだね。私が二十歳の頃は1月15日だった。あの日から、さらに20年以上の年月が流れた。中身はあまり変ってない気もするけど、思い起こせば、確かに若かった。青春を謳歌していた。

高校を卒業する頃は、振袖なんか着たくないドレスにして目立ってやろうなんて思っていたが、20歳を目前にしてやはり振袖が着たくなった。日本の民族衣装でもあるし、女性の第一礼装でもあるし一度は着ておかなきゃいけないって。お家が呉服屋さんの友達のつてで、武道館で行われた大振袖市みたいなのに母と出かけ、数ある中から朱色の振袖を選んだ。個人的には、紺とか黒とかシックなものを大人っぽく着たいなんて思っていたんだけど、小柄な私には、明るい色がいいと周りの大人達から口をそろえて言われた。なるほど、あわせてみたら、シックなものより断然、似合う気がした。袋帯と共に、母は、少しばかり予算をオーバーしてかなり良いものを買い揃えてくれた。いよいよ、仕立てあがってきて、成人式前に1回、リハーサルをした。美容院で髪をアップにして着付けてもらい、写真を撮った。やっぱり、嬉しかった。人生でこんなきれいしにしてもらえる日ってもうこれから先そんなにあるもんじゃない。大人になっちゃたんだ、ひとつのけじめだなあって思った。

当時、横浜市の成人式は横浜文化体育館で行われた。私たちの世代は第二次ベビーブーム前後で子どもの数も多かったから、関内駅から延々と振袖の列が続いていたのを覚えている。友達もみんなそれぞれ違ってて、きれいだったな。市長の話は覚えていない。つまらなかったよ、たぶん。だけど、今の若者みたいにすぐに暴れずに静かにしていた。なにもつまらないからって、暴れることないんだよ、聞かなきゃいいんだからさ。来賓にはコーラスグループのサーカスが来て♪ミスター・サマータイム~♪を歌ってくれた。今でもサーカスがTVに出てこの歌を歌うと成人式を思い出す。

帰りはバイト先のデニーズでステーキをごちそうしてもらった。店長からじゃないよ。デニーズさんから新成人へふるまわれたのよ。そのデニーズももう潰れてなくなってしまったけど、あの頃は景気も良くて太っ腹だったんだよな。バイトしていてもめったに食べられなかったステーキだから、帯が苦しかったけど、残さず完食した。

振袖はその後、卒業式、結婚式などで何度か活躍した。30歳を過ぎたら、たもとを切って訪問着にする予定だったけど、なんとなくもったいなくて、今はそのまま桐の箪笥の中で眠っている…。

成人式が終わっていよいよ就職が決まった時、今まで体験したことがない様な緊張や不安を感じて眠れなくなった時期があった。給料をもらうということは責任が伴う。果たして、社会人としてやっていけるかなあって。でもなんとかここまでやってこれた。新成人よ諦めるな、嫌なことがあってもとりあえず続けてみれば、なんとかなるってこともあるし違った道だって見えてくるものだ。

“継続は力なり。”

この20年間、平々凡々と、でも結構真面目に歩んできたと思う私の座右の銘である。

そして八王子へ

2007年01月08日 | ピラティス
ロープ観劇後、井の頭線で下北沢へ出る。そこから小田急で新百合ヶ丘を経由し多摩センターへ。さらに多摩モノレールで一駅進む。そう、夜はピラティスの練習会。遠くの方から八王子へ4名が集合!試験まで1ヶ月を切ったのでホントは遊んでる暇なんかないのよね~。皆さんプロだから、実際、仕事にも活かしておられるようで、どんどん上達してらっしゃる。私もうかうかしてられないよ~ひとりずつ、指導練習をしたので、中級マットのフルコースをみっちり4回通した。さすがに、腹筋が痛くなったしお腹もすいちゃった

それにしても、言葉って難しい。言葉の中には野田さんのお芝居のように洪水のように溢れて心の中に押し寄せてくるものもある。一方、ピラティスを指導する時の言葉は言い方を少し変えただけで、動きが全く変ってきたりする。言葉って、人の心に届かせて、感動や気づきにつなげていくことが出来るんだね。いままで、私はあまり言葉を大切に考えていなかったかもしれない。言葉の中には言霊があるのよね。話下手な私だけど、ピラティスを指導することで思わぬことを発見した気がする。もう一度、自分で言葉をよく考えながら指導台本を作ってみなくっちゃ。

横浜→渋谷→八王子→藤沢→帰宅
我ながら行動的な一日だったなあ。

ロープ

2007年01月08日 | 観劇
新年、初ロープ!お天気も良いし、いそいそと渋谷へ出かける。新宿ラインが出来て便利になったもんだ。乗り換えなしで、30分で渋谷へいける。途中、横浜で思わぬ人に声をかけられた。なんと卒園児のお父様。車内でばったりというのもめずらしい。なんか妙に緊張してしまったよ。

2ヶ月という長丁場の舞台も、折り返し地点を過ぎて、役者さんたちもだいぶこなれてきた。加えて、笑える前半と、考えさせられる後半の対比がより明確になった。後半は、背筋が寒くなるくらいの描写とそれを表現する言葉が投げかけられる。だけど、前半にも現代社会を象徴するいろいろなことが隠されているんだよね。引きこもり、偽装結婚、不法入国、家庭内暴力、校内暴力に視聴率問題…。“青年の純情”を疑わないえりこさん演じるJHNDDTからは、子どもが見えない親みたいなのも感じたし。究極の暴力として戦争が描かれる後半へ向かって、そこに至るまでに交錯する人間のエゴや罪の数々が並べられている気がした。

りえちゃんの実況も迫力を増していたけど、竜也くんの兵士も衝撃的。明確に的を絞って、冷徹に射撃する。それを正義と信じて疑わずに。虐殺場面がモノクロフィルムのように色あせて、彼が正気へ戻る時、悲嘆と絶望が入り混じった叫び声が細く、長く響き渡る。現に、イランでもこうやって苦しんでいる青年たちがいるのだと思うとなんともいえない気持ちになる。

“力とは人間を死体に変えることができる能力だ。”

警鐘どころではない。人類はかなり切羽詰った状態にいる。ベトナムの場面から、脳みそを打ち抜かれ、顔のない死体としてリング中央に横たわる野田さんの姿から、若い人にこの現実を伝えブレーキをかけていかなくてはならないのだという強烈な主張と意志を感じた。“とまれるはずだ、人類ならば…。”でも、本当にとまれるのだろうか…。

3年ぶりの新作で野田さんは、凄い作品を書上げたものだ。

“人類の力が猛り狂い押しとどめようのない姿に変ったときに、リングの下から、どうかどうか、君そっくりの、びしょびしょになったタマシイが、どうか姿を見せますように。”

人類の地球の未来に託された、ほんの一縷のわずかな希望…それを、持ち続けられたら、どうかどうか、何かが変っていく時がどうか訪れますように。