華やぐ時間

時の豊潤なイメージに惹かれて 。。。。

 芝居  ” タンゴ ・ 冬の終わりに ”

2006-11-25 00:07:03 | ★芝居
ず~っと以前に テレビで放映された この芝居 ( 主役は 平 幹二郎 )を観たことがある
政治闘争とかの時代に青春だった主人公の挫折が主題かなと思い  学生運動とか社会変革とか  
男性のそういう意識改革のようなものは まるでわからないので  暗く重い芝居 という印象だった
今の時代に再演の意味はなんなのだろうと思いながらも  主役は 堤 真一   ぜったい 観ます♪

堤 真一の舞台や映画はほとんど観ている   現代の平凡なサラリーマン 古い時代の都落ちの武者
快活で哀しく 朗らかで暗い  台詞回しの緩急で病んでいる主人公の心の明暗が切実に伝わってくる
ひたむきで一途な  それゆえの哀切 清潔感が  長身の佇まいから 醸し出されて 魅せる

”タンゴ・冬の終わりに”の物語は  時代の特定はないが 日本海に面した町の映画館が舞台である
スター俳優だった清村盛(きよむら せい)は3年前に引退して 妻と共に生家の映画館へ戻ってきた
弟が継いでいるが  春には売却されて取り壊される話が進んでいる
盛は 現実とかつて演じた主人公のセリフが交互して自分の言葉を失い  幻の孔雀を追い求めている
精神を病んでいる夫が現実を取り戻すきっかけになるかと 妻は夫を騙って別れた恋人へ手紙を出す
今は結婚している水尾(みずお)と その夫が映画館へやってくる
盛の記憶に水尾はいない   若い女性のかつての恋の話を聞きながら 盛は 「その男はあなたを
愛していたのだ」と 分析し解説する    水尾の指先が ゆっくり いとおしそうに盛の頬を触れていく
震えるような指先は  かつての恋人へ 今も変わらぬ愛を伝えて 盛と水尾の気持ちがひとつになる
一瞬のその静かなしぐさは美しく 時が止まり  観ていて 涙がこぼれた 
水尾をわからないまま動揺した盛は少年の頃に盗んだ孔雀の剥製をみつけたと 古い座布団を抱える
探していた孔雀が見つかってよかったわとうなづく妻  それは ただのボロボロの座布団よ と言う水尾
孔雀は 冬の終わりに 美しく輝くのだという    予期せぬ悲劇が起きて 物語は終わる

哀しい芝居なのに  なぜだか観終わって ほっとする気持ちがあった
盛が 「美しい人は若くして死ぬべきだ」という引退の言葉を そのように生きたから?
少年の頃から夢と理想の象徴であった孔雀を みつけたとボロ座布団を抱きしめることができたから? 
水尾が誰かわからないまま  あのきらめきが眩しい と ふたたび 盛が恋し始めるから?
妻は夫を救いたいがために 水尾を町へ呼ぶ  すべてを覚悟する夫への強い愛と悲しみ
誰もが 今の自分の時を 精一杯 まっすぐ生きて 崩壊していく  その潔さ

蜷川幸雄の演出は 群衆のうごめきから 物語の幕が開く
吉原の紅灯の人込みだったり  ジャングルの行進だったり  町の往来を行き来する人々だったり
この芝居の舞台の幕開きは 映画館で映画を観ている100人ほどの若者の感情の怒涛で始まる
客席のほうを向いて 映画の場面に怒り 歓喜し 嘆き 失望を体中で表現して 映画館を去っていく
若いときの剥き出しの喜怒哀楽の感情は 失われていくものなのだろうか
生きる時間が長くなるほどに 自分の中で良き熟成となり 芳香の時を待つものであればいいなと思う

  
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 ” ユダの福音書を追え ”    ハーバード・クロスニー  著

2006-11-18 20:04:52 | ★本
” ダ・ヴィンチ・コード ”を読んだ時 キリスト教の世界を もっと知りたくなり 関連文献として
あげられていた本を  何冊か図書館に予約した
日経ナショナル・ジオグラフィック社から出版された ”ユダの福音書を追え ”を読むことができた
読みやすい語り口なのだけれど  390ページの本の九割までが 謎のパピルス書を巡っての 
中近東の古美術商たちの駆け引きと内情に ついやされている
偶然 砂漠の洞穴から発見されて  買い手を求めてエジプトからヨーロッパ  アメリカへと渡り
二十年余を経て やっと 専門家の手で修復 翻訳に至るまでの経緯が述べられている
砂漠の洞窟には 聖書のテキスト パウロの書簡 ”ユダの福音書”写本  古代数学の指導書が
たくさんの人骨と共に埋葬されていたという   どういう人物が葬られたのだろうと 興味がわく
エジプトで発見されたものを国外へ持ち出し売却すると 売り手も買い手も罰せられるので 
古書収集の者も学者たちも欲しくても手が出せず  また 価値のある書なのか分析もできず 
法外な値段のパピルス書はあちこちを移動するうちに  どんどん劣化し もろくなっていく

出来事は それを見た人 聞いた人の感じ方で  どのようにも解釈される
それが何年にもわたって 人から人へ言い伝えとして語られていくとき 見えた事実 聞こえた事実は
真実として残るだろうか
イエスを役人へ引き渡し いくらかの金を受け取ったユダを  この ” ユダの福音書 ”は
イエス自身がユダに裏切りを命じたのだと述べている     なんとも 不思議な読後感をもった
以下  本文を抜粋してみる

     

ギリシャ語の”ユダの福音書”をコプト語に書き写した写本は 1000個近いパンくずのような断片を
ピンセットで拾い上げ ガラス板の間にはさんで コンピューターで繊維の方向を見つけて修復したという   
この写本を 放射性炭素年代測定法で調べたところ  パピルスもインクも紀元240年~320年の間に
作成された文書という結果が出た     

紀元180年頃 司教エイレナイオスは グノーシス派の教えを異端と批判した
グノーシス派の世界観は 救済とはイエスの死と復活を信じることでなく どうすれば人間が肉体という
牢獄から解き放たれて  精神の王国へ戻ることができるかということである
正典と認められている新約聖書のマタイ マルコ ルカ ヨハネの福音書は ユダを悪者扱いしている
”ユダの福音書”は グノーシス派の文書であり その中でユダはイエスを理解する忠実な弟子であり
ユダは弟子の中でも抜きん出た存在であり  成就のためにイエスが選んだ道具だった
ユダはイエスのために  イエスの定められた運命を実現するために  イエスを覆っている人間を
犠牲にするという行動を取ったのだ

”ユダの福音書”は イエスを崇拝する作者の思いが 熱意とユーモアを交えた文章で伝わってくる
現代の新約聖書の四福音書と比べるとイエスの苦悩の度合いは小さく イエスが笑う場面は四ヵ所ある
作者は不明だが 楽しんで語っており  ユダとイエスに対する敬愛の情に満ちている

対話編『ティマイオス』の中でプラトンは 人それぞれ独自の魂と星を持つと言っている
グノーシス主義全般にいえることことだが 作者は明らかにこのプラトン思想の影響を受けている
ユダは自分の星を持っていたのである  イエスがユダに次のように語る部分がある
「 目を上げ 雲とその中の光 それを囲む星々を見なさい  皆を導くあの星が おまえの星だ 」
こうしてユダは自分の特別な立場を確信する 
「 ユダは目を上げると明るく輝く雲を見つめ その中へと入っていった 」

    
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 ” 東京奇譚集  ”   村上春樹  著

2006-11-13 09:46:34 | ★本
日本の作家で 作品が世界のいろいろな国で翻訳され 読まれている作家はどのくらいいるのだろう
たとえば村上春樹は その中の強力な一人であり  最近 カフカ賞を受賞した
わたしは ”ノルウェイの森 ”しか読んだことがない      そして ちっとも ハマれなかった
そのときも今も  村上ワールドと呼ばれる世界が  どういうふうによいのか  わからないでいる

書評が褒めているので ”東京奇譚集 ”を読んだ     5つの短編小説が収められている
「 偶然の旅人 」 「 ハナレイ・ベイ 」 「 どこであれそれが見つかりそうな場所で 」 「 日々移動する腎臓のかたちをした石 」 「 品川猿 」
ありそうでなさそうなお話の形をとっている
そういう不思議を読みたいのなら 視聴者の不思議体験を募集し  ラジオで公表したものを編んだ本
ポール・オースターの”ナショナル・ストーリー・プロジェクト”を 再読したいと思う 

”東京奇譚集 ”の語り口は 穏やかである     読みやすい文章で 静かに語っていく
たとえば  おいしいという噂のレストランに連れて行ってもらって食事をしたとする 
食器もオシャレで お料理の盛り付け方もきれい    おいしいね と言いながら残さず食べられる
きっと 十人が十人 そう感想を言うだろうと思えるおいしさである
「また 来たい? 」  「うーん  こういう感じってわかったから  もう 来なくてもいいわ 」
連れて来てくれたファンの友人の気持ちを害さないように わたしは でも正直にそう言うだろうな
村上春樹の小説は  わたしにとって  こういう印象である

シェフの胡椒の一振り  あえて一振りしたことで  料理の味がきりっと締まった胡椒
盛り付けのお皿の脇に食べられない真紅の小さい花を配している とか 遊び心が仄見えて
押し付けがましさがなく  料理人の個性がキラリと感じられるお料理を  たまに食べたいと思う
そのときのお天気や自分の体調  同行した友人との親しさ度で 体験の印象はちがうだろうけど 
手に取ったからには なにか 舌に 心に うん とうなづくものに出会いたい
村上春樹の本のよさを味わうには  まだまだ わたしの修行が足りないのかもしれない  かな  


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 ” 私の嫌いな10の人びと ”   中島 義道  著

2006-11-11 01:29:16 | ★本
びっくりするタイトルの本を読んだ    
ふつうは 好かれる人柄にいう言葉だと思っていたので  何を言いたいのだろうかと 読んでみた
電気通信大学の教授である「戦う哲学者」中島義道は いつも熱い
街の中の広告宣伝の騒音  バスや電車 駅構内の乗客へのアナウンスなどを うるさいと 怒る
世の中の大多数の人が しかたがない と思っているようなことへ 自分は嫌いだと 声を上げる
マジョリティ(多数派)の中に紛れてぬくぬくしていたわたしは  著者のその思いを読みながら  
わたしの中のマイノリティ(少数派)の部分を 気づかされた

著者は自分の感受性の物差しを持ち  自分にとって好きでないもの  心地よくないもの  あるいは
受け入れることができないものへ  その職業や立場に臆することなく 発言していく
学科会議の議論でも 義理と人情に汲汲として結論の出せない多数教授たちへ 規則はこれです と
さっさと明快に 反対の意思の挙手をする       情に薄いということではない
著者を慕ってきた学生が自殺した後は  三ヶ月 半年と その悲しさに泣き暮らしたという


この本は 10とおりの嫌いな人たちをあげている      著者のあとがきを 抜粋する

本書ではむしろ、大部分の現代日本人が好きな人、そういう人のみを「嫌い」のターゲットにしたのです。
それは、 さしあたり物事をよく感じない人、 よく考えない人と言うことができましょう。
「よく」とは自分固有の感受性をもって、自分固有の思考で、という意味であり、ですから世間の感受性に漠然と合わせている、 世間の考え方に無批判的に従っているような人は嫌いだということ。
感受性において、 思考において怠惰であって、 勤勉でない人、 「 そんなこと考えたこともない」とか
「そういう感じ方もあるんですねえ」と言って平然としている人、 他人の感受性を漠然と自分と同じようなものと決め込んで、 それに何の疑いももっていない人、 他人が何を望んでいるか正確に見きわめずに、 「 こうだ 」と思い込んでしまう人です。
定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。  自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。  
周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、  自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう人。
私はある人が右翼でも、左翼でも、テロリストでも、独我論者でも、「みんななかよし論者」でも、ちっともかまわない。  当人がその思想をどれだけ自分の固有の感受性に基づいて考え抜き鍛え抜いているかが決め手となる。    つまり、 その労力に手を抜いている人は嫌いなのです。
いちばん手抜きがしやすい方法は、 しかも安全な方法は何か?   大多数と同じ言葉を使い、同じ感受性に留まっていることです。   それからずれるものを自分の中に見つけるや、 用心深く隠しとおすことです。
あとは知らぬ存ぜぬで、 見ないよう、 聞かないよう、 気づかないようにしていればいい。
人生は平穏無事に過ぎていくことでしょう。
こういう人は「いい人」なのです。  しかも、 自分の「弱さ」をよく知っており、大それた野望など抱かず、つつましく生きたいと願っている。     こういう人が私は最も嫌いなのです。


 1  笑顔の絶えない人
 2  常に感謝の気持ちを忘れない人 
 3  みんなの喜ぶ顔が見たい人 
 4  いつも前向きに生きている人 
 5  自分の仕事に「誇り」をもっている人 
 6  「けじめ」を大切にする人 
 7  喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8  物事をはっきり言わない人 
 9  「おれ、バカだから」と言う人
 10 「わが人生に悔いはない」と思っている人


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” 遠い声  遠い部屋 ”   カポーティ著

2006-11-04 09:50:05 | ★本
映画に刺激されて カポーティが23歳の時に発表し 賞賛された半自伝的処女作を 再読した 
同性愛者への偏見が強かった時代1948年に ホモセクシャルであることを公言したのである
IQの高い早熟の美少年カポーティは 登場からして  すでに センセーショナルである
両親が離婚し 母が亡くなり 親戚を転々として育ち  学校へはあまり行けなかったようである
文壇デビューしてからの派手な私生活  露悪的な言動  アルコールとクスリに溺れていく後半生
”冷血”執筆では 自作のために犯人たちの死を間接的に願ったカポーティの少年時代の一端を読んだ 


小説のあらすじ
母が亡くなり  生存を知らなかった父親から 訪ねて来るようにと手紙が届く
埃っぽい風が吹きつけてるような 人の心もあけすけな南部の小さな町に 13歳のジョエルが着く
馬車で半日も乗るような まだ遠くの屋敷へ やっと辿り着く
荒れて大きな屋敷は 父の後妻エイミー  その従兄弟ランドルフ  台所仕事をするズーがいる
階上から密かな物音がし 赤い玉が転がってくる   なかなか 父に会わせてもらえない 
エイミーやランドルフの気だるさ  雪を希求するズーと過ごしながら 邸内の不気味さが増す
湖の奥には廃墟と化したホテルがあり  黒人のまじない師が住んでいる
遠く離れた近所には 同じ年頃の双子の女の子がいる  
町のお祭りで出会った小人のミス・ウィスティーリア
森を歩き 耳をすませ  かつての町の悪友たちを思い浮かべるジョエルの心は 饒舌で詩的である
ランドルフに誤って背中を撃たれ  父は全身麻痺で寝たきりになっていた
双子の一人 アイダベルと一緒に この環境から逃亡を試みる
もの言わぬ二つの空洞の目が自分を見つめていると思ったとき  探しに来たランドルフが立っていた
雨に濡れ 高熱で数日を病床で臥すベッドの中で ジョエルは さまざまのことを思い出し 振り返る
陽差しを喜び 樹々を見上げ 屋敷の暗闇に怯えた少年を  高熱は剥ぎ取っていったのだろうか
看病して いつもベッドのそばにいてくれるアルコール中毒のランドルフを 愛していると呟く     
遠い声 遠い部屋のドアを  自ら 開けて入っていく


黒人女性ズーへの暴行  ミス・ウィスティーリアの寂しい微笑み  少女愛への予感  女装趣味
こういうことを通して在る人の生を  13歳のジョエルは 無垢な視線でみつめている
心の底に 澄んだ詩情があるなら一歩を踏み出そうとも 失われるものではないだろうけど
少年が 少年を終わっていく予感が  なんとも哀しい
カポーティは ここから始まり  他人をも自分をも見つめ続けて  酒とドラッグで自滅を選んだ

  
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ヴィスコンティ 生誕100年祭

2006-11-01 20:27:26 | ★映画  
イタリアのルキーノ・ヴィスコンティ監督の生誕100年を記念して 代表作3本の映画を上映します
世代交代の象徴として描かれる舞踏会シーンが圧巻の『 山猫 』 1963年  187分
ヨーロッパでもっとも美しき王といわれた男の孤独と狂気を描いた『 ルートヴィヒ 』1973年 237分
貴族社会の愛欲と退廃を容赦なくあぶり出した 『 イノセント 』  1976年  124分
いずれも20世紀の映像遺産と呼べる作品です

                               _ 映画のチラシより  抜粋 _  


何度か観た映画であるけれど 今回は完全復元版であり  劇場の大きなスクリーンで観られるのなら 
物語の世界に たっぷり浸りたくて 陶酔したくて  十月初旬の開催と同時に観に行った
3本とも上映時間が長いので 一日で観るのは無理なので  日をおいて 二日間 劇場へ通った
上映期間は 約一ヶ月なので まもなく終了するけれど  さすがに もう一度は 観に行く元気がない

イタリア ミラノを統治した名門貴族の末裔という環境に 生まれ育ったヴィスコンティの映画は
この3本の映画に限らず  絢爛豪華な映像美 という言葉で 形容したくなる
作品のセット 衣装などのリアリティあふれる美しさだけではなく 登場人物たちの描かれ方にも感動する
主人公のみならず  ほかの人物たちにおいても  こういう人間いるだろうなと 存在感がある

人物の喜怒哀楽の感情の起伏  その行動   善だけでもなく 悪だけでもない人間性のありよう 
人間の本質を見つめるヴィスコンティの目線が深いのだろうなと 思わせられる
ヴィスコンティの作品は 明るくハッピーエンドというよりも  崩壊し 破滅する悲劇の色合いが濃い
主人公は  たいてい 他から孤立して独白し  一人で 暗く 重く 深く孤独である
そういう描かれ方ではあるが  人間の生への希望 強さ  人間性へのほのかな光明をも窺わせる
映画の中の人生  どの人物にも それぞれの真摯さがあり  それに感銘を受ける
わたしは わたしを ちゃんと生きているだろうか


『 イノセント 』  
 数年前の初回には おとなしく淑やかな妻の寂しさに寄り添うように観たけれど 今回は ヒロインの
 逞しさや頑なさ 利己的なところをも感じた      あの事が起きなければ  ヒロインは自分の中の
 こういう部分に未知のまま 表わす必要もなく  家族やしきたりに守られて慎ましく 退屈に暮らして 
 生を終えたのではないだろうか などと思ってしまう
 自分の眠っている資質 たくさんの可能性の芽  パンドラの箱を開けた者  開ける機会を逃した者
 幸せとか不幸とかではなく  人の出会いと運 知らぬことは良きことなのか など 考えさせられる 

『 ルートヴィヒ 』
 日本公開時には  184分にカットされて上映されたということを知って びっくり 
 初めて観る50分ほどのストーリー 画面を観て  いっそう ルートヴィヒの特異さが わかる気がした
 王家に生まれたからとて  国を豊かにする才覚がなく  国家間の友好にも政治力を持ちえず
 肉親の愛情に恵まれず 友も持たず  繊細に 華奢に か弱く 自分で自分を抱きしめるかのように
 現実から遊離した世界に逃げ込んでいく    18歳で王位継承者という立場は 痛ましく思えた
 巨費を投じて いくつも建築されたお城は  美しいまま 現存している  
 

『 山猫 』
 映画は それを観たときの自分の環境や気持ちの状況で 感動する場面が 変わるかもしれない
 今回は この映画のスケールの大きさ  時代の背景  人物の生きて動き回ってる様子に魅せられた
 物語の背景は1860年頃のイタリア    シチリアの貴族が書いた小説の映画化である 
 名門貴族の当主サリーナ公爵を バート・ランカスターが扮していて  鷹揚とした雰囲気がよく似合う
 活発行動的な若い貴族のアラン・ドロン  野性的な美しさが人目を引くクラウディア・カルディナーレ
 イタリア統一の戦争  新興ブルジョワの台頭  聡明な公爵の目は 貴族階級の終焉を予感している
 大舞踏会の場面は 華やかな香気に満ち 部屋の装飾 人物たちの衣装にいたるまで ゴージャス 
 長い時間続く舞踏会の倦怠の空気   はしゃぐ若い娘たちの様子を猿のようだ と呟く公爵
 たくさんのおまるが置かれている部屋  貴族の妻や娘の優雅さと生き方に固執するその退屈さ
 アラン・ドロンの狡さ  カルディナーレの品のなさ   公爵の目はすべてを見  受容している 
 舞踏会が終わり 明け方の石畳の街を歩いて帰る公爵の ゆっくり ゆっくり 歩を進める後ろ姿は
 悲嘆や憂鬱だけではなく  貴族階級の没落 世代交代を見つめる毅然とした雄々しさが感じられる 



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