イタリアのルキーノ・ヴィスコンティ監督の生誕100年を記念して 代表作3本の映画を上映します
世代交代の象徴として描かれる舞踏会シーンが圧巻の『 山猫 』 1963年 187分
ヨーロッパでもっとも美しき王といわれた男の孤独と狂気を描いた『 ルートヴィヒ 』1973年 237分
貴族社会の愛欲と退廃を容赦なくあぶり出した 『 イノセント 』 1976年 124分
いずれも20世紀の映像遺産と呼べる作品です
_ 映画のチラシより 抜粋 _
何度か観た映画であるけれど 今回は完全復元版であり 劇場の大きなスクリーンで観られるのなら
物語の世界に たっぷり浸りたくて 陶酔したくて 十月初旬の開催と同時に観に行った
3本とも上映時間が長いので 一日で観るのは無理なので 日をおいて 二日間 劇場へ通った
上映期間は 約一ヶ月なので まもなく終了するけれど さすがに もう一度は 観に行く元気がない
イタリア ミラノを統治した名門貴族の末裔という環境に 生まれ育ったヴィスコンティの映画は
この3本の映画に限らず 絢爛豪華な映像美 という言葉で 形容したくなる
作品のセット 衣装などのリアリティあふれる美しさだけではなく 登場人物たちの描かれ方にも感動する
主人公のみならず ほかの人物たちにおいても こういう人間いるだろうなと 存在感がある
人物の喜怒哀楽の感情の起伏 その行動 善だけでもなく 悪だけでもない人間性のありよう
人間の本質を見つめるヴィスコンティの目線が深いのだろうなと 思わせられる
ヴィスコンティの作品は 明るくハッピーエンドというよりも 崩壊し 破滅する悲劇の色合いが濃い
主人公は たいてい 他から孤立して独白し 一人で 暗く 重く 深く孤独である
そういう描かれ方ではあるが 人間の生への希望 強さ 人間性へのほのかな光明をも窺わせる
映画の中の人生 どの人物にも それぞれの真摯さがあり それに感銘を受ける
わたしは わたしを ちゃんと生きているだろうか
『 イノセント 』
数年前の初回には おとなしく淑やかな妻の寂しさに寄り添うように観たけれど 今回は ヒロインの
逞しさや頑なさ 利己的なところをも感じた あの事が起きなければ ヒロインは自分の中の
こういう部分に未知のまま 表わす必要もなく 家族やしきたりに守られて慎ましく 退屈に暮らして
生を終えたのではないだろうか などと思ってしまう
自分の眠っている資質 たくさんの可能性の芽 パンドラの箱を開けた者 開ける機会を逃した者
幸せとか不幸とかではなく 人の出会いと運 知らぬことは良きことなのか など 考えさせられる
『 ルートヴィヒ 』
日本公開時には 184分にカットされて上映されたということを知って びっくり
初めて観る50分ほどのストーリー 画面を観て いっそう ルートヴィヒの特異さが わかる気がした
王家に生まれたからとて 国を豊かにする才覚がなく 国家間の友好にも政治力を持ちえず
肉親の愛情に恵まれず 友も持たず 繊細に 華奢に か弱く 自分で自分を抱きしめるかのように
現実から遊離した世界に逃げ込んでいく 18歳で王位継承者という立場は 痛ましく思えた
巨費を投じて いくつも建築されたお城は 美しいまま 現存している
『 山猫 』
映画は それを観たときの自分の環境や気持ちの状況で 感動する場面が 変わるかもしれない
今回は この映画のスケールの大きさ 時代の背景 人物の生きて動き回ってる様子に魅せられた
物語の背景は1860年頃のイタリア シチリアの貴族が書いた小説の映画化である
名門貴族の当主サリーナ公爵を バート・ランカスターが扮していて 鷹揚とした雰囲気がよく似合う
活発行動的な若い貴族のアラン・ドロン 野性的な美しさが人目を引くクラウディア・カルディナーレ
イタリア統一の戦争 新興ブルジョワの台頭 聡明な公爵の目は 貴族階級の終焉を予感している
大舞踏会の場面は 華やかな香気に満ち 部屋の装飾 人物たちの衣装にいたるまで ゴージャス
長い時間続く舞踏会の倦怠の空気 はしゃぐ若い娘たちの様子を猿のようだ と呟く公爵
たくさんのおまるが置かれている部屋 貴族の妻や娘の優雅さと生き方に固執するその退屈さ
アラン・ドロンの狡さ カルディナーレの品のなさ 公爵の目はすべてを見 受容している
舞踏会が終わり 明け方の石畳の街を歩いて帰る公爵の ゆっくり ゆっくり 歩を進める後ろ姿は
悲嘆や憂鬱だけではなく 貴族階級の没落 世代交代を見つめる毅然とした雄々しさが感じられる
世代交代の象徴として描かれる舞踏会シーンが圧巻の『 山猫 』 1963年 187分
ヨーロッパでもっとも美しき王といわれた男の孤独と狂気を描いた『 ルートヴィヒ 』1973年 237分
貴族社会の愛欲と退廃を容赦なくあぶり出した 『 イノセント 』 1976年 124分
いずれも20世紀の映像遺産と呼べる作品です
_ 映画のチラシより 抜粋 _
何度か観た映画であるけれど 今回は完全復元版であり 劇場の大きなスクリーンで観られるのなら
物語の世界に たっぷり浸りたくて 陶酔したくて 十月初旬の開催と同時に観に行った
3本とも上映時間が長いので 一日で観るのは無理なので 日をおいて 二日間 劇場へ通った
上映期間は 約一ヶ月なので まもなく終了するけれど さすがに もう一度は 観に行く元気がない
イタリア ミラノを統治した名門貴族の末裔という環境に 生まれ育ったヴィスコンティの映画は
この3本の映画に限らず 絢爛豪華な映像美 という言葉で 形容したくなる
作品のセット 衣装などのリアリティあふれる美しさだけではなく 登場人物たちの描かれ方にも感動する
主人公のみならず ほかの人物たちにおいても こういう人間いるだろうなと 存在感がある
人物の喜怒哀楽の感情の起伏 その行動 善だけでもなく 悪だけでもない人間性のありよう
人間の本質を見つめるヴィスコンティの目線が深いのだろうなと 思わせられる
ヴィスコンティの作品は 明るくハッピーエンドというよりも 崩壊し 破滅する悲劇の色合いが濃い
主人公は たいてい 他から孤立して独白し 一人で 暗く 重く 深く孤独である
そういう描かれ方ではあるが 人間の生への希望 強さ 人間性へのほのかな光明をも窺わせる
映画の中の人生 どの人物にも それぞれの真摯さがあり それに感銘を受ける
わたしは わたしを ちゃんと生きているだろうか
『 イノセント 』
数年前の初回には おとなしく淑やかな妻の寂しさに寄り添うように観たけれど 今回は ヒロインの
逞しさや頑なさ 利己的なところをも感じた あの事が起きなければ ヒロインは自分の中の
こういう部分に未知のまま 表わす必要もなく 家族やしきたりに守られて慎ましく 退屈に暮らして
生を終えたのではないだろうか などと思ってしまう
自分の眠っている資質 たくさんの可能性の芽 パンドラの箱を開けた者 開ける機会を逃した者
幸せとか不幸とかではなく 人の出会いと運 知らぬことは良きことなのか など 考えさせられる
『 ルートヴィヒ 』
日本公開時には 184分にカットされて上映されたということを知って びっくり
初めて観る50分ほどのストーリー 画面を観て いっそう ルートヴィヒの特異さが わかる気がした
王家に生まれたからとて 国を豊かにする才覚がなく 国家間の友好にも政治力を持ちえず
肉親の愛情に恵まれず 友も持たず 繊細に 華奢に か弱く 自分で自分を抱きしめるかのように
現実から遊離した世界に逃げ込んでいく 18歳で王位継承者という立場は 痛ましく思えた
巨費を投じて いくつも建築されたお城は 美しいまま 現存している
『 山猫 』
映画は それを観たときの自分の環境や気持ちの状況で 感動する場面が 変わるかもしれない
今回は この映画のスケールの大きさ 時代の背景 人物の生きて動き回ってる様子に魅せられた
物語の背景は1860年頃のイタリア シチリアの貴族が書いた小説の映画化である
名門貴族の当主サリーナ公爵を バート・ランカスターが扮していて 鷹揚とした雰囲気がよく似合う
活発行動的な若い貴族のアラン・ドロン 野性的な美しさが人目を引くクラウディア・カルディナーレ
イタリア統一の戦争 新興ブルジョワの台頭 聡明な公爵の目は 貴族階級の終焉を予感している
大舞踏会の場面は 華やかな香気に満ち 部屋の装飾 人物たちの衣装にいたるまで ゴージャス
長い時間続く舞踏会の倦怠の空気 はしゃぐ若い娘たちの様子を猿のようだ と呟く公爵
たくさんのおまるが置かれている部屋 貴族の妻や娘の優雅さと生き方に固執するその退屈さ
アラン・ドロンの狡さ カルディナーレの品のなさ 公爵の目はすべてを見 受容している
舞踏会が終わり 明け方の石畳の街を歩いて帰る公爵の ゆっくり ゆっくり 歩を進める後ろ姿は
悲嘆や憂鬱だけではなく 貴族階級の没落 世代交代を見つめる毅然とした雄々しさが感じられる