養老 :
ヴィクトール・E・フランクルというユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』でアウシュビッツ収容所での体験を書いた著者のことです。 彼は自分の両親と妻、子どもを収容所で失います。かろうじて自らは死を免れ解放された後、一貫して「人生の意味」について論じていきます。そして、生きる意味は、自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる、と強調するのです。
彼は、いつ死ぬかわからない過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を問い続けます。息を引き取るまで奪われることがない精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、人生の意味はある。そう考えるのです。
「この各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。」(みすず書房)
そして、人生の意味というのは、人生からなにを期待するかではなく、人生がなにをこちらに期待しているかを考えることだと言うのです。ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、問われているのだと。それはそれぞれが自分に与えられた使命を全うすること、日常で正しい行動をとることにあり、人によって具体的にそれは異なるのだというのです。
養老 :
死ぬまでにはとても片付かない問題が多いですね。だけど、そういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。
内田 :
ぼくは「ディスクトップに並べておく」という言い方をしてます。自分の意識の「ディスクトップ」に開いたファイルをどれくらいたくさん載せられるか。どれだけディスクトップが散乱しているのに耐えられるか。この無秩序に対する耐性というのはけっこうたいせつじゃないかと思うのです。
整理したがる人は、解決できない情報でも「未整理ファイル」というタグをつけて整理してしまうでしょう。でも、一度ファイルしてしまうと、それはもう意識にはなかなかのぼってこない。問題というのは、デスクに載っていて「ああ、まだ片付かない。やだなぁ、困ったなぁ、めんどうくさいなぁ」といつもこちらのストレスの種になっているからこそ「問題」として機能している。
デスクトップがぐちゃぐちゃになっても相変わらず問題は増え続けますから、もうそうなるとデスクの面積を広げていくしかない。それで人間の脳の容量は増えてきたんじゃないかと思うんですよ。
問題を解決するのが悪いと言っているわけじゃないんです。でも、なにかしら解決方法を選んだときには、「どうして自分はこのソリューションを選んだのか?」ということが次の「ディスクトップ」事項になるはずなのです。「何で自分は他ならぬこの問題を優先的に解決しようと望んだのか?」という問題が次の問題になる。「どの問題から私は目をそらしたのか?」も問題になる。だから、一つ問題を解決するたびに問題はどんどん増える。絶対に減らない。
内田 :
自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うの向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
だいたい、自分の個性って、ほとんど他人に言われてはじめて気がつくものじゃないですか。「ウチダって意外といいやつだよな」と言われて「え! 意外にいいやつ…ということは一見するといやなやつなんだ」ということに気づくというものであって(笑)。「私はこれこれこういう人です」と自己申告するものじゃないですよ。
内田 :
翻訳するとき、原著を日本語のぼくの言語感覚に落し込めるものもありますけれど、とても手持ちの語彙や語法では手も足も出ないものもある。
憑依するというのは、言ってしまうとパンツを脱いで裸になって他人の家へはいっていくようなことなんです。すごく恥ずかしいことなんですよ。だから、パンツを脱いで入っていってもいいという覚悟があるところに限られる。
パンツを脱ぐというのは、文字通り、生まれてから何十年かかけて身につけてきたプリンシパルとか価値判断とか美意識とか、どんどん剝ぎ取ってゆくということです。
ぼく自身がフラジャイルな、傷つきやすい状態になって入っていかないと駄目なんです。ぼくがディフェンスを固めていたのではダメなんです。それって、けっこう怖いことですよ。うかつなことをしたら、そのまま人格解体してしまうかもしれない。だから、「この人は、私を決して傷つけない」という確信がないとそういうことはできません。でも、「何を言ってるかぜんぜんわかんないけど、この人は絶対いい人だ」ということは行間からわかるんです。
内田 :
師弟関係では、弟子の方が「これだけ先生に忠実にお仕えしているのに、先生、ちょっとぼくに冷たすぎない?」というぐらいの先生が、いちばんいい温度だと思いますね。
冷たいと感じているのは弟子の方でね。先生が冷たいわけじゃないのですよ。弟子の側がこれだけ先生に奉仕しているのだから、それと等価の教えを与えてくれてもいいじゃないかという等価交換で考えていると、先生は「冷たい」人に見えてくる。
でも、師弟関係が等価交換なわけがない。師匠の使っている物差しは、こっちのとはぜんぜん目盛りの打ち方が違うはずですから、これだけの努力をしたから、これだけの教えが対価として受け取れるはずだと考えちゃダメなんです。
弟子が求めるものと必ず違うものが師匠から返ってくる。先生は先生なりの基準で、弟子に向かって「はいよ」と贈り物をくれてるんですけれど、弟子は先生と価値の度量衡が違うから、「そんなものをお願いしたわけじゃないのに」といじけてしまう。そして、先生は自分に関心がないのだとか、先生はわざと意地悪をするとか、勘違いをする。
「先生、ビートルズとストーンズでは、どちらがよいのでしょうか?」と訊くと、「デイヴ・クラーク・ファイブだね」と、ぜんぜん関係ない答えを告げる。それが師匠というものなんです(笑)。
ヴィクトール・E・フランクルというユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』でアウシュビッツ収容所での体験を書いた著者のことです。 彼は自分の両親と妻、子どもを収容所で失います。かろうじて自らは死を免れ解放された後、一貫して「人生の意味」について論じていきます。そして、生きる意味は、自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる、と強調するのです。
彼は、いつ死ぬかわからない過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を問い続けます。息を引き取るまで奪われることがない精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、人生の意味はある。そう考えるのです。
「この各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。」(みすず書房)
そして、人生の意味というのは、人生からなにを期待するかではなく、人生がなにをこちらに期待しているかを考えることだと言うのです。ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、問われているのだと。それはそれぞれが自分に与えられた使命を全うすること、日常で正しい行動をとることにあり、人によって具体的にそれは異なるのだというのです。
養老 :
死ぬまでにはとても片付かない問題が多いですね。だけど、そういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。
内田 :
ぼくは「ディスクトップに並べておく」という言い方をしてます。自分の意識の「ディスクトップ」に開いたファイルをどれくらいたくさん載せられるか。どれだけディスクトップが散乱しているのに耐えられるか。この無秩序に対する耐性というのはけっこうたいせつじゃないかと思うのです。
整理したがる人は、解決できない情報でも「未整理ファイル」というタグをつけて整理してしまうでしょう。でも、一度ファイルしてしまうと、それはもう意識にはなかなかのぼってこない。問題というのは、デスクに載っていて「ああ、まだ片付かない。やだなぁ、困ったなぁ、めんどうくさいなぁ」といつもこちらのストレスの種になっているからこそ「問題」として機能している。
デスクトップがぐちゃぐちゃになっても相変わらず問題は増え続けますから、もうそうなるとデスクの面積を広げていくしかない。それで人間の脳の容量は増えてきたんじゃないかと思うんですよ。
問題を解決するのが悪いと言っているわけじゃないんです。でも、なにかしら解決方法を選んだときには、「どうして自分はこのソリューションを選んだのか?」ということが次の「ディスクトップ」事項になるはずなのです。「何で自分は他ならぬこの問題を優先的に解決しようと望んだのか?」という問題が次の問題になる。「どの問題から私は目をそらしたのか?」も問題になる。だから、一つ問題を解決するたびに問題はどんどん増える。絶対に減らない。
内田 :
自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うの向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
だいたい、自分の個性って、ほとんど他人に言われてはじめて気がつくものじゃないですか。「ウチダって意外といいやつだよな」と言われて「え! 意外にいいやつ…ということは一見するといやなやつなんだ」ということに気づくというものであって(笑)。「私はこれこれこういう人です」と自己申告するものじゃないですよ。
内田 :
翻訳するとき、原著を日本語のぼくの言語感覚に落し込めるものもありますけれど、とても手持ちの語彙や語法では手も足も出ないものもある。
憑依するというのは、言ってしまうとパンツを脱いで裸になって他人の家へはいっていくようなことなんです。すごく恥ずかしいことなんですよ。だから、パンツを脱いで入っていってもいいという覚悟があるところに限られる。
パンツを脱ぐというのは、文字通り、生まれてから何十年かかけて身につけてきたプリンシパルとか価値判断とか美意識とか、どんどん剝ぎ取ってゆくということです。
ぼく自身がフラジャイルな、傷つきやすい状態になって入っていかないと駄目なんです。ぼくがディフェンスを固めていたのではダメなんです。それって、けっこう怖いことですよ。うかつなことをしたら、そのまま人格解体してしまうかもしれない。だから、「この人は、私を決して傷つけない」という確信がないとそういうことはできません。でも、「何を言ってるかぜんぜんわかんないけど、この人は絶対いい人だ」ということは行間からわかるんです。
内田 :
師弟関係では、弟子の方が「これだけ先生に忠実にお仕えしているのに、先生、ちょっとぼくに冷たすぎない?」というぐらいの先生が、いちばんいい温度だと思いますね。
冷たいと感じているのは弟子の方でね。先生が冷たいわけじゃないのですよ。弟子の側がこれだけ先生に奉仕しているのだから、それと等価の教えを与えてくれてもいいじゃないかという等価交換で考えていると、先生は「冷たい」人に見えてくる。
でも、師弟関係が等価交換なわけがない。師匠の使っている物差しは、こっちのとはぜんぜん目盛りの打ち方が違うはずですから、これだけの努力をしたから、これだけの教えが対価として受け取れるはずだと考えちゃダメなんです。
弟子が求めるものと必ず違うものが師匠から返ってくる。先生は先生なりの基準で、弟子に向かって「はいよ」と贈り物をくれてるんですけれど、弟子は先生と価値の度量衡が違うから、「そんなものをお願いしたわけじゃないのに」といじけてしまう。そして、先生は自分に関心がないのだとか、先生はわざと意地悪をするとか、勘違いをする。
「先生、ビートルズとストーンズでは、どちらがよいのでしょうか?」と訊くと、「デイヴ・クラーク・ファイブだね」と、ぜんぜん関係ない答えを告げる。それが師匠というものなんです(笑)。