華やぐ時間

時の豊潤なイメージに惹かれて 。。。。

映画  ” メゾン ・ ド ・ ヒミコ ”

2006-04-24 00:07:39 | ★映画  
ヒロイン沙織(柴咲コウ)が幼い頃  父親は家を出る  
病気の母を亡くした後の24歳の沙織には  母の治療費の借金がある
塗装会社の事務員をしている沙織の前に  父親の愛人 春彦がやって来る
”ゲイ・バー 卑弥呼 ”を経営していた父ヒミコは引退して ゲイの人たちが老後を住める
ホームを作ったが  沙織の父親ヒミコは末期癌で  会ってやってほしいと晴彦が頼む
「日曜日のホームの手伝いに 破格の日当を支払う  ヒミコの遺産のこともあるし」と言われて
やって来たホーム ” メゾン・ド・ヒミコ ”では 個性的で朗らかなゲイの男たちが迎えてくれた
沙織の父親ヒミコ(田中 泯)の静かで 父性に満ちた厚い 圧倒的存在感
ベッドで目をつむり横たわっている様子にも  死期の近い人がそうであるかのような存在感がある
  映画 ”たそがれ清兵衛”の中で 清兵衛が斬り合わなければならない剣の達人役が 
  前衛舞踏家のこの田中 泯   暗い狭い家屋の中で 清兵衛と話す場面  殺陣の場面
  死を賭けた鬼気迫る立ち居  身ごなしに 強烈な凄みのオーラを感じたものです

春彦(オダギリ ジョー)がきれいだった   ほっそり 清潔な雰囲気  穏やかな話し方
白いシャツ  細い腰にピッタリのチノパンツ   長めの前髪の中から覗く静かな視線
ホームの運営資金を援助してくれそうな老人に誘われて クルマに同乗して行く春彦
あわてず  さわがず  さらっと行くところが  なんだか おかしかった
春彦が本当に愛しているのはヒミコであり  ヒミコが作ったこのホームなのだろうけど
「日ごとに死へ向かっていくヒミコを見てると 愛とか なんだと思ってしまう 」
「欲望がほしくなる   ただ強く激しい欲望に身を任せたくなる 」と 春彦が言う
いま在る自分の環境  社会の位置  いろんなことを忘れて  人の形を失くして 溶けたい
そういう意味でなら  春彦の気持ちをわかるような気がする

ルビィが脳溢血を患い  ホームでは面倒を看れなくなり  父親がゲイであることを伝えぬまま
その息子夫婦へ ルビィを渡してしまう
普通の気のいい若い息子夫婦は 父親の体がゲイの手術をしている事実を知ったら どう思うのだろう
沙織は 母と自分を捨ててゲイとして生きた父親を憎んでいる
沙織にナイショで たまに父親の店 卑弥呼へ 母はオシャレして遊びに来ていたとヒミコが話す
母は ゲイのヒミコを受け入れていたのだと思う
熱くなって父親をなじる沙織に 死の床のヒミコは 「 あなたが好きよ 」と言う
このヒミコの言葉のうしろに どんなにたくさんの思いがあるだろうと  心がしんとしてしまう

惹かれはじめた春彦と沙織がキス以上に進めない哀しさ
会社の専務と沙織の関係に 「 専務が羨ましかったなぁ 」と話す春彦に 沙織はボロボロ泣く
越えられない人のサガ  その人がその人であるためのサガ
世の中は 「知らない 」ということからくる偏見が多いと思う
人の外見や嗜好から  その人を評価判断するのは  自分自身にとっても  とても惜しいことだ
人は  もっと もっと 豊かで広く深い存在だと思う  

メゾン・ド・ヒミコに暮らす人たちは 温かい 
ときには  わたしもあのテラスに一緒に座って 海を眺めてみたいなぁと思う 
素敵なところもそうでないところも 人を丸ごと受け入れる   呟くのは容易いけれど
忘れられない映画になったなぁと思う

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映画  ” いつか 読書する日 ”

2006-04-20 00:11:50 | ★映画  
坂の多い長崎の街に暮らす50歳の高梨(岸部 一徳)と 美奈子(田中 裕子)の物語である
独身の美奈子は 早朝は牛乳配達  その後はスーパーのレジの仕事で 生計を立てている     
高梨の朝の時間と美奈子の朝の時間を   カメラが交互に映していく
夜の明けきらない 人の寝静まっている藍色の街を 美奈子が自転車で牛乳店へ走る
ズック製の鞄に牛乳瓶を入れ  家々への斜面の石段を リズミカルに駆け上がる
高梨は 余命わずかの病床の妻の朝の用事を済ませてから 出勤する
市電の電停に立つ高梨の近くを  スーパーへ向かう美奈子の自転車が走りすぎて行く
高梨の乗った市電が 自転車で走る美奈子を追い抜く    どの場面でも二人の視線は合わない

美奈子を温かく見つめる 亡き母の友人敏子の夫は 認知症の徘徊する老人
市役所に勤める高梨が気にかける子どもは  親が育児放棄をしている家庭の子
古い団地の乱雑なゴミ山のような部屋の中に 柱に紐で繋がれて青いビニールシートに座っている
空腹の幼い兄弟を見ると  映画の視覚の強烈さに慄然とする

高梨の妻は 毎朝牛乳を配達してくる美奈子と夫の高梨が かつて高校の同級生だったことを知る
夫に気づかれぬよう カラの牛乳瓶へ 「 会いに来てください 」と美奈子への紙片を入れる
高校時代に親しかった高梨と美奈子の親は 同時に交通事故で亡くなった  
自転車に相乗りをして山の方へ向かった高梨の父親と美奈子の母親が  トラックに轢かれたのである
美奈子は 一人で生きていこう と決心したのだという  レジの仲間に 「さみしくない?」と問われる
「 日中 クタクタになるまで働くと さみしくないわよ 」と言う美奈子は 買い求めたたくさんの本を
読めずに眠ってしまう

好意を告白したわけでもない高梨と美奈子は  同じ街で 会話することもなく生きてきた
見つめることもせず   無表情に通り過ぎて行く   
毎朝 牛乳を配達する美奈子   定刻に牛乳箱へ新しい瓶が入れられる音を蒲団の中で聞く高梨
スーパーで買い物をしても 美奈子のレジには並ばず  視線さえ合わせない二人
背中で感じる   目の端で確かめる   そこにその人が居る安心   無言で語り続けた30年間

二人の想いが叶ったとしても  美奈子は 今度こそ 一人
「 私には大切な人がいます  でも私の気持ちは絶対に知られてはならないのです 」
ラジオ番組に投稿したこの気持ちの先は  これから どこへ向かうのだろう
「 街中の人に牛乳を届けたい  生き甲斐なの 」 と言っていた気持ち  だいじょうぶかな
毎日クタクタになるまで  また働いていくのだろうか
本棚に並んだ本を  いつか読もうと思いながら 生きていくのだろうか
十代のときに 自分で決意した道なのだろうけど  このようにしか生きられなかったのだろうか
高梨の妻が呟いた「 気持ちを殺すって まわりのものも殺すことなんだからね 」という印象的な言葉
高梨も 高梨の妻も 美奈子も  普通に 平凡に生きてきたはずなのに  かなしい

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 ” 容疑者Xの献身 ”     東野 圭吾  著

2006-04-12 21:58:37 | ★本
数ヶ月前  この本の評判を聞いて  図書館へ予約したときの待ち番号は600番台でした
以前  この著者では ” 白夜行 ”を読んで ぞくぞく感激したものです
ですから  ”容疑者X ・・ ”は  おおいに期待して待っていました
やっと わたしの順番がきて わくわく この厚い本を読み始めたら  ほぼ一日で読んでしまいました
文章が読みやすいということがありますし  推理小説のような体裁の物語でもあると思えます
そのせいで  ぐんぐん読み進んでいけたかなぁと思います

この本を読みながら  ひとつ わかったことがあります
わたしは 謎解き小説  探偵小説  推理小説は  どちらかというと 好んでは読みません
” 容疑者X・・ ”を読みながら  なぜ 好きくないのか  やっと わかりました
殺人へのどんな状況 背景があろうとも  読者が犯人の理由へ感情移入し納得しようとも
頭脳優秀な正義の探偵のような人によって だんだん どんどん犯人が その動機の謎を解かれ 
パーフェクトに見えたトリックが解明されていくのが  とっても イヤなのです
勧善懲悪  悪は滅びるもの と世間一般はいうのでしょうが  わたしは推理小説は 苦手です

物語の前半は  なんということなく すいすい読んでいけます
魅力的な人物が 三人 登場します
天才的数学者の頭脳を持ちながら 今は高校の数学教師をしている石神(いしがみ)
大学の同窓生で 今は大学の物理の助教授をしている湯川
同じく同期生で 今は 刑事をしている草薙(くさなぎ)
著者の三人の男性への書き込みに 人間としての奥行き ふくらみを感じられます
美しい女性という設定の靖子に ちっとも魅力が感じられないのは なぜなのかなぁ

謎解き小説は  読み手をも欺かなければならないのかもしれません
わたしは 素直にぼんやり読み進み  終盤になって 意外なトリックが明かされます
だんだん 三人の男性の言動が魅力的に精彩を放ち  ラストは  じわんと感動してしまいました

出口のない孤独な生 という印象だった ” 白夜行 ”と あわせて思い浮べても
東野圭吾は  不遇の主人公を配して 物語ることの巧みな書き手だなぁと思いました 
                                      
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”  辻  ”     古井 由吉  著

2006-04-08 23:39:07 | ★本
十二篇の物語が編まれている小説短編集である  古井由吉の小説は かつて一冊読んだ記憶がある
わたしは あまり熱心な読者ではないなと思う    この ” 辻 ” を読んで そう思い出した
独特の物語  文体  雰囲気・・・  古井文学を好きな人はおおいに好むのだろうなぁと思える

タイトルが示すように  人の生きている時間の節目節目の思いを 辻に佇む様に暗示されている
この物語集を読みながら 土の匂いを思い起こした  男と女の出会い  関わり  繰り返す重い情念
一つ部屋に居ながら  ほとんど会話のない男と女  あるいは 母と息子  父と娘の話もある
何年も 共に暮らしながら 生活臭がなく 抱えてる思いだけが屹立している

十二篇の小説は タイトルも登場人物の名前も異なるが 幼少から成人 壮年 老人へと名を変え 
時と場所を変えて  どれかの話の人物の 数年後の生の軌跡のようにも読める    
なかでも ”辻” と ”風”の話が好きだ
好きという言葉を使うのは不謹慎かと思うような重たい物語であるけれども

”辻”は 幼少から父親に疎まれて育つ男の話  青年に成長していく息子の何に父は怯えるのか
”風”は 六年間同棲した男が病に倒れ 亡くなるまでのひと月足らずを病院へ通う女が主人公
亡くしてから  かつて看病に通った病室を外から見上げる   静かに哀しい話

どの物語の背景も主人公たちの思いも 明るく朗らかから遠く 読みながら 主人公の生の重さに 
あるいは 持ち続ける思いの鬱屈に からめ取られそうになる
古井由吉の独特の言い回しなのかもしれないが  主語述語のつながりが読み取りにくく 
誰の述懐なのか わからなくなったりしてしまう困ったわたし
それでいて 特に目を凝らすまでもなく 読んでいると 話の雰囲気の中に  ぐいっと浸っている

 
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 ” 河岸忘日抄 (かがんぼうじつしょう) ”   堀江 敏幸  著

2006-04-05 00:39:34 | ★本
人と話すときに大きな声音でものを言わない 物静かな男性の日記を読んだ という印象の本である
自分の考え方を掘り起こし 随筆のようでいて  少ない登場人物の動向をも追って 日が過ぎていく
フランスと思しき国の大きな河岸に停泊している船の中で数ヶ月を過ごす時間   たゆたう時間   
「ためらいは、断ち切られるためにある。  ためらいつづけることの、なんという贅沢」という文がある

日本にいる間にたくさん働き すべてを清算して かつて訪れたことのあるこの街へ立ち寄った時
知人の老人の急病を助けた縁で 「アパートを借りるくらいなら使ってくれ」と言う老人の持ち物の船に
起居することになる     毎朝 対岸の河べりで誰かがジャンベという太鼓を叩く音で目覚める
数日に一度 リュックを背負い  遠くの市場へバスを乗り継いで食材を買いに行く
吟味されて誂えられた調度品  たくさんの蔵書  クラシックレコードを好きに使用する許可を得て
彼は 船のキッチンでオムレツを焼き  クレープを作り  果物のジャムまでこしらえて自炊する

デッキで煙草をくゆらし 珈琲を飲み 本を読んでいる  郵便物を届けに郵便配達夫がやってくる 
近くに停泊中の船の少女が遊びに来る    船を管理する会社の人とのやり取り
病に臥した大家である老人を ときおり見舞いに行って話し込む時間  
その会話を日本にいる年長の旧友に伝え 東西の国の時間を問わずファックスの文が行き来する

       ***************


真実とは、本人がそこにあると信じているかぎりにおいて有効なのであり、 信じる力が弱まって
影が薄れた瞬間、 嘘に転じてしまう酷薄なものだ。

たんにひとりでいたかっただけなのだ。 そういう時間と空間を求めて、わざわざここまでやってきたの
だから。 とはいえ、 ひとりでいることの不可能をもっと自然に受け止められるようになれたら、とも
心の底で期待しているあたりに、 彼の本性的な弱さがあった。

いろいろなひとの、いろいろな言動にたいして、そして自分自身の言動にたいしても、 彼はしばしば
抑えきれない怒りの気配を感じることがある。  怒りの芽は、いったん散り散りの灰となって胸のうちに
音もなく降り積もり、やがて体内に溶け込んでいく。 この内爆の瞬間さえ把握できれば、本格的な暴発、
暴走を防ぎうるはずだとの確信が彼にはあった。

繋留された船の暮らしには、 たしかにどこか隠遁に似たにおいがある。   
隠れ家とは出ていくことを前提にしているからこそ存在しうるのであって、 きついのはそこで
何ヶ月も何年も禁欲的な暮らしを守ることにではなく、 いつでも出発できるのにあえてそれを拒み、
待機しつづけることにあるのかもしれない。

実人生のなかの「私」の像は、 あくまでも片側に、一面にすぎない。 
一対一の関係の順列の組み合わせだけなら、 人づきあいなんてじつに単純で、 薄っぺらな遊戯に
等しい。 
そこに多対一の、 多対多の関係が加算されてくるから話がややこしくなるのだ。
組み合わせしだいで楽しくもなり、鬱陶しくもなり、悲しくもなる。  そういう変化を厭えば厭うほど、
他人が所有する自分の人生のかけらが少なくなって、 証言の数が乏しくなる。

自分以外の存在、すなわち他者とのあいだの消しがたい距離の受け入れ「と」、距離があるからこそ
他者への理解に道が開かれるという認識。   自分とは異質の人間にたいして否定や拒否の盾を
かざさないある種の強さ「と」 やさしさを目指していくほかないのである。


        ******************


本を読みながら 音楽を聴きながら 観た映画を思い出しながら 彼は自分の思考を繰り返し思う
折々の彼の独白を読み進むのは 船底に寄せては返す波の水音を聞く感じに似て  ここちよい
大家である老人が亡くなり 季節が一巡した頃   久しぶりに 対岸の土手からなつかしい太鼓の
リズムが聞こえてくる   彼は手鏡を持って 対岸のジャンベの演奏者に光の合図を送るのである
「現状にゆったりと胡坐をかいている自分を、自分にたいして静かに破門してやることだ。
散歩に出てみよう  向こう岸に渡ってみよう  おそらく2時間ほどで着けるはずだ 」
主人公が行動の気持ちをもたげたところで物語は終わる
先ごろ1月31日に ”読売文学賞”を受賞した本である


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