青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
https://www.youtube.com/watch?v=CsI7GSs4d1s

小笠原諸島北之島(きたのしま)

2020年04月20日 00時00分00秒 | 投稿

高床式神殿の最奥には、現代の神道の祭祀に鎮座す、榊と鏡の代わりに、思考負荷を視認者に強いるのみが目的であると、問わせず効用をまとう、硬く大きな木の実の殻が絡まっている。
何かを、明かそうとする者がまとわざるを得ない、思考負荷、鎧。
絡まりにまとわりつく太い、濃く緑の葉は、結実を得たいとの愚鈍な欲を具現化中。
実のところ、正確な意味を理解しているのは詠唱中の司祭のみである祝詞の音鳴り、これは神殿に詰める者にとっては、日常から浮きし、今で言う経文に聞こえる。
ここに集うべしと自己に強いし民度は、聞こえへの意味解釈を強いずのまま、しかし遮二無二、無数の人触れざる世界粒子の清流、感得の時へ一人残らずをいざなう。
大推力は司祭が、完全支配出来ずである、祝詞言及対象の尊き、これの発されに仕える、この場の機会、空気、人々の座しを、認めつつ歌う、喉。
これらを意識する人間が統御出来ずなる、精神の揺れは喉と耳との素朴を通じ、必ず、参集者の精神を貫いた。
わだかまりについての、解決案無き自己へ、いきり立つ者が居たとして、参集の後、三日以内に精神の鎮撫を自覚していく。
司祭は神殿で確かに、現代に鳴る神名、コノハナサクヤヒメのお在り様を、周辺にて厳かに舞い歩くとの作法を、言及せしめられていっていた。
司祭は知っていた。
夜空、星々を包む、偏在なる虚空には人が言及にては捉まえざる、畏れ多き、力呼ばれをお望みにはならぬ、流れ、が確かに満ちている事を。
この流れの、一単位を、探すとして、一つぶては必ず、従者をおまといになる。
如何なる術を人が覚えたとしても、人は決してそうしたお在り様を、お止めする事は不可能だ。
そして、断固、科学そして思想性欲を以ってして、利用してはならない。
如何なる歴史を通じたとして、利用の果てとは、秘め、のお在り様を理解せずであった、との罰に、利益確保感覚との腹から、まみれゆくのみだ。
この眺望は、ただ人が、濃く、察する事により得るのが自然であり、口語伝承するのは不穏当だ。
人は、秘めを、利用してはならない。
お怒りを買わずの日々が為に、ただ霊妙に、周囲で舞い揺れ、秘めのお在り様へ、行為と霊を同時に捧げるまで。
時に人はただ、惟神に、クヲノハアナサクヤヒメ。
祝い事への供え物、持ち込み労働、融通会話との、空中での結い結びなら、虚空満つ、見えざる光の中で宇宙開闢以来、未来永劫、奔放振る舞いとの粒子が。
物理粒子学上の察知ごと、光の帯の中での、そこらの亜粒子への、あまりに野放図な高速、配下化をお働きとの子宮筋振る舞い粒子とは、物理学者による言及があれば、当該物理学者とその周囲の傾聴理性者を畏れで、無意味岩盤に追い立てる。
秘めへ言及してはならない、秘めを支配してはならない。
物理学者のみならず、真剣理性者は秘めの周囲では、ただ畏れ、これあるのみ。
しかして、神殿への参集民度者は三日後、ヒメのご神徳を知る。
融通事付随の憤慨への、間抜け諦観ならぬ、霊妙、平静精神にての正座観察との自己を。
この自己は次に、この姿勢により発見可能な、周囲で正座中の、融通事への貢献者への接近話法の考案に勤しんでいく。

クヲノハアナ、は勃興睡蓮への微量の精神緊張ながらの非陶酔観察との観念を、機械が一音ずつ音韻へ変換した結果の連続。
ク、ヲ、ノ、それぞれ全てはこの、非陶酔観察を認め、そして連語六文字もまた、それを認める。
サク、は非養殖でありし、睡蓮と観察者の二者による芸術的感激屏風、励起状態。
ヤ、は尊詠唱音韻。
ヒメ、は秘め、一連の観念、の励起可能性の内在を、先にさっさと他へ言わせ力、表札掲げ状態。
秘め、は異星人機器発案語。
花、は違う。
現代に残る神名イチキシマヒメの原型、イイチキリ、シマヌアナ、ヒメは光の中のある電磁波への科学的言及への、理想的聴講態度が、機械により音韻翻訳され、成立している。
光の中で、ある粒子を大量に生みし、ある電磁波は、不可避の織り成しにより、寂しく、遠方へと追いやられ、減弱しゆく。
この純正なお在り様を、嘲笑してはならない。
霊妙、丁寧な言及に逢われゆく様を、人は拝すべき。
小笠原の高床式神殿での、神名イイチキリシマヌアナヒメの祝詞の詠唱はそして、参集者に出産後の社会的不遇感一切について、堂々なる正視対象に据え置きたがる、高尚人生の額縁の材と捉えさせゆく。

人間が頭脳駆使にての、神名使役思考を許さずには、粒子取り巻く、眷属光との立ち位置を、確実に選びいく他は無い。
その際は神名の詠唱の後の、神名周囲との着席先を自ら見出しいく、作法を要する。
この、見出しとは、霊妙でなければならない。
司祭などが、直接介入してはならない。
神名使役思考とは、つまりは世の外界銘柄、本棚収めとの腕組み悩みの投資顧問、企業への隷従思考を、最短具象す。
これとは世の、荒れあらゆるの根源也。
喝破には長き苦悩を要する。

一神教:宇宙に過去、現在、無辺と存在している。
結果的に、人間の頭部への北極星君臨を、集団で合唱したいとの意欲が増幅されゆくが、他の便益は信者へは、損壊気味にもたらされる。
人間四肢と、人生関節、思春期希望視野は大急ぎでの日本の電気店の開店を求めるのだが、一神教はこれへも対応が遅い。
結果、体が堅い。
現世欲望多種への忌避を実践し続けたいとあらば、集団合唱意欲、頭上飛行が適切。
多神教は雑多性が、それを雑多に謳うとの素性か。
人間はそもそも、深く雑多。
電気店は、アニメ具象の家電製品伽羅が多く欲しい。
人間の頭部とは、人生に於いて、複数、雑多に存在する。
一個への君臨力では足りない。


北が励起機器、ムー沈没後、母なる大地への決別意識の上陸地で、機器は歴史と共に南に向かって行った

真の素性は知られず、修法の依代と化していた地

廃仏毀釈にて粉砕を迎える最後の四個、鎮座地



宝冠の森、の磐座いわくら、異星人機器のかけら

日本に上陸したその他の機器は、帯びし曰くの重きを厭がられての、火薬での爆破措置や石の槌つち、での粉砕措置、地に投げ落とされての破壊を経ての、NHK和歌山放送局辺りの石ころへの埋没。玉置山沿いの百六十八号線を南へ。


誰一人として侮辱ならぬべき、人間を動かす声色を溜める、発する生業の者達の頭部へ、君臨すべきを、選び行く、女を見初めにいく仕事とは、例えば上の宝冠の森の地図の、上半分の標高線への、余裕分け入り。
仕事で、こたび、蒸留されしとなった曰く付きのブス女捉えの、指標物を、十名、十二名の男達で隠しに行く。
江戸時代、足腰の強健は当然の山師は、異界属性、九・五以上だった。
宝冠の森奥は、絶壁の崖。
そして視界周囲の森とは、隠蔽物の数々。
玉置神社から森へと続く山路から、北へ逸れ、山師は大回りしていた。
“余裕”との事。
大回りしたところで、そこらは容赦無しの崖だらけ。
台車具象を、大勢の山師が崖、崖、崖、を歩かせる。
上には曰く重き漬物石が積載されている。
上の地図の標高線密度を、山師は踏破し、予定通り、爆裂の曰くを、隠蔽していた。
俺、常に青き青年とは、かつて宝冠の森から北のパイセな座標を、パソコン画面を触る指の震えで察知した。
無茶言うな、誰がどうやって、こげな奥に押し込んだとや。
大勢の山師が、台車でえいやさほいさと江戸時代に。
何で、や。
異界の者達、だった。

道は例えばこんな。
到達先は軽く二十。冷蔵庫重量を紐で崖を降ろしたり。標高線では分からんが宝冠の森の奥はとにかく、絶壁。足場無しで、いきなり遠い景色。こいつら合格だっ。


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