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ハイ・フライト〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-15 | 飛行家列伝

国立空軍博物館展示のメンフィスベルについて、
乗組員をさらっと紹介するつもりが、機長副機長爆撃担当と、
いきなりトップ3人の女性関係が派手すぎて時間を取られてしまいました。

 チャック・レイトン 航法士



本日ご紹介するナヴィゲーター、チャック・レイトン
見るからに純朴そうな青年なので、おそらくここからは
あっさりと進めていくことができると信じたい・・


・・・・とここまで書いてから、実際にレイトン大尉について調べたのですが、
写真の印象が、本当にその人となりを表す例であることがわかりました。



たとえばこの団体写真なんですが、メンバー(部下)の後ろから
半分だけ顔を出している彼の様子からはいい人の雰囲気しかしません。
少なくとも真面目そうです。

他の士官3人がどいつもこいつも女性関係とんでもなかった?せいで、
わたしは彼にも品行素行その他一切全く期待していなかったのですが、
実際の経歴とその後の人生を知ると、少しでも彼を疑ったことを
すまんかったと土下座して謝りたいほどの好青年であることがわかりました。

チャールズ「チャック」レイトンは1919年5月22日、
インディアナ州生まれ、ミシガン州育ち。

オハイオ・ウェズリアン大学で化学を学んだ後、
1942年1月20日にナビゲーター訓練のため、
米陸軍航空士官候補生プログラムに入隊し、その後
1942年に中尉任官、ナビゲーターのウィングマークを取得しました。

その後、B-17フライング・フォートレスの訓練を修了し、
B-17「メンフィス・ベル」のナビゲーターとしての任務を完遂。

ナビとしての彼の力量については一般に言及されていませんが、
メンフィス・ベルに最初から最後まで乗務し、機をその度無事に
任務先から基地に戻したのですから、相当な技量を持っていたことでしょう。

写真のキャプションで彼はこう語っています。

「リード・ナヴィゲーター(編隊の先頭機のナヴィゲーター)には
フォーメーション全体の全責任がかかってくる。
ときどき、その責任の重さが怖くなりました」

メンフィス・ベルは編隊のトップを任されることが多かったのですが、
さすがはそのナヴィゲーターであった彼ならではの言葉です。

25回の任務を完遂したメンフィス・ベルの航法士として、
見事任務を果たした彼は、その後、1943年6月から9月まで、
乗員とともにアメリカ全土を回る戦時国債ツアーを行いました。

戦争債券ツアーの後、レイトンは少佐に昇任し、
1945年11月27日に終戦を受けて名誉除隊しました。


彼の経歴には15歳での駆け落ち経験も、出撃二日前に結婚したことを忘れて
他の女と結婚することも、犬を餌に女の子を部屋に連れ込むとかもなし。
おそらく結婚相手も普通に出会い普通に恋愛して選んだのでしょう。

彼の訃報記事を探して読んでみましたが、さらにこんなことがわかりました。

現役を退いた後、チャールズはミシガン州立大学に入り直し、
改めて学士号と修士号を取得して教職に就き、
数学と科学の教師、指導カウンセラーとして働いていたと。

他の3人の士官と比べたら神々しいくらい清潔で実直な青年ですね。
いや、決してその3人を悪くいうわけではありませんが。

彼が教鞭をとったイーストランシング高校の同僚は彼を、

「彼は真の『ピースメーカー』でした。
特別な思いやりを誰に対して持っており、
決して敵を作らない穏やかな人物でした。

とても謙虚で、第二次世界大戦での任務には誇りを持っていましたが、
世間の注目を浴びることは好まない様子でした」

と語っています。
その言葉を裏付けるように、彼の訃報記事の出だしはこのようなものでした。

「イースト・ランシング高校の何百人もの出身者、学生にとって、
チャールズ・レイトンは友人でありカウンセラーだった。
しかし彼が第二次世界大戦の英雄であることを知る人はあまりいない」


彼は実生活で、戦時中の任務について自慢話をするどころか、
ほとんど語らなかったのだということがうかがい知れます。

そんな彼ですから、帰国後、英雄として騒がれ、注目され、
派手な場所に出たりすることを内心嫌がっていたに違いありません。

彼の人生の唯一の妻であるジェーン・レイトンは、
彼が1991年に亡くなったとき、亡夫から聞いていたであろう話として、

「帰国してからの国債ツァー、そしてヨーロッパでワイラー監督が
5回『ベル』に同乗して撮ったドキュメンタリーが
オスカーを取ったことが彼らを全米で有名にしましたが、

彼らはそれを『26回目のミッション』と呼んでいました」

と言っています。
これはどういうことかというと、乗組員の誰もが、
撮影されることを苦痛に感じていたという意味です。

メンフィス・ベルの搭乗員たちは、ワイラー少佐の映画撮影に際し、
必要な考証と助言のためにわざわざイギリスまで飛んだにもかかわらず、
映画スタッフは彼らに対し全く配慮をせず、多くの助言は無視され、
映画の登場人物や事件はすべて、何人もの人物や行動を合成したつぎはぎで、
何一つ本当のものはなかったことに失望していました。

レイトンもまた、映画の中での自分のキャラクターの描かれ方に
最後まで不満を持っていたと言います。

しかも、それから数十年後、彼らは同じような経験を繰り返すことになります。

彼が亡くなる前年に公開された映画「メンフィス・ベル」で、
おそらく彼は強い失望と不満をふたたび感じたに違いありません。


1990年作品の「ベル」の航法士、フィルは、小説によると、

「誰よりも自分の運の悪さを信じており、
何かあって死ぬのは絶対に自分だと思い込んでいる」


陰キャというか屈折した青年で、D・B・スウィーニーが演じています。

壮行パーティでハリー・コニックJr.が「ダニーボーイ」を歌っている時、
酔っ払って外で「死にたくねーーー!」と叫んでいたのはこの人です。

あまりにも死にたくなくて(?)最後のミッションで
「ベル」の脚部が片方手動でしか動かせなくなった時、
「死ぬもんか!死ぬもんか!」
といいながら降着装置のハンドルを回す、という役回りでした。


いずれにしても、実在のレイトンと似た要素はゼロのキャラクターです。

レイトンはこれを見て、ワイラー監督とそのチームに対して感じた
「全くこちらのことを配慮していない」
というネガティブな感情を数十年ぶりに蘇らせたにちがいありません。

■ スコット・ミラー 右腰部銃手



ウェストガンナー、というのがどこの配置のことか、
文面ではピンとこないと思いますので、
とりあえずこの図を見てください。


飛行機の胴体(ウェスト)に左右に一人ずつ銃手が配置されます。
これがウェストガンナーです。

この図は、映画「メンフィス・ベル」の登場人物配置の説明ですが、
映画の腰部砲手にはシカゴ出身で粗暴な荒くれ者のジャック(下)、
アイルランド出身、赤毛で信心深いジーン・マクベイが配置されています。

スコット・ミラーの配置はチンピラジャックと同じ右腰部でしたが、
写真を見る限り、ミラーも二人のどちらにも当てはまる要素がありません。

さて、このスコット・ミラーですが、本当の名前は
エマーソン・スコット・ミラー

エマーソンが気に入らなかったと見え、上から注意されたのにもかかわらず、
ファーストネームではなくミドルネームのスコットを名乗っていました。

彼はメンフィス・ベルの国内国債ツァーには参加せず、それどころか
帰国すらさせてもらえずにイギリスに取り残された何人かの一人でした。

理由は、以下の理由でベルの任務に途中から参加した結果、
彼個人の搭乗数が「マジック25」に達していなかったからです。

彼の代わりにツァーに参加したのは、同じ配置のトニー・ナスタル軍曹でした。


ミラーは1942年5月16日に航空砲手として戦闘任務につく資格を得ました。

一旦ワラワラでリチャード・ヒル中尉のB-17に配属されたのですが、
どういうわけか、ハネウェル社で自動パイロット制御メンテナンスを行う
技術者としての訓練を受けるため、ミネアポリスに転勤させられました。

彼が転勤してすぐ、ヒル中尉の機は定期訓練飛行で山に墜落し、
乗員全員が死亡しています。(その後片付けをさせられたのがモーガン)

彼は戦闘配置のない技術者としてイギリスに送られましたが、
自分には向いていないと感じ、飛行中隊の司令官のところに行って、
戦闘飛行機に乗りたいと申し出ました。

司令官はむしろその言葉を聞いて嬉しそうにしていたそうです。

というわけで、彼は凍傷を負った銃手の後任としてベルに配置されますが、
そのときベルはすでに10回ミッションを行った後だったというわけです。

ミラーがメンフィス・ベルに乗って行った任務は16回でした。

モーガン機長はミラーも帰国してツァーに参加させてほしいと言いましたが、
回数が足りていないということでそれは却下されたそうです。



この制服はスコット・ミラーの遺族の寄贈による展示です。



ミラーの遺族は軍グッズ一切合切を博物館に寄付しました。

ミラーは1943年7月4日に別のB-17に乗って25回目の任務を終えましたが、
帰国後のパレードも記者会見も映画スターに会うこともありませんでした。

メンフィス・ベルのコーナーが創設されることになった時、
博物館がスコット・ミラーの家族と連絡を取ったところ、

「彼らはトランク一杯の遺品を寄贈してくれた」

博物館スタッフは語ります。

「彼は自分の命を危険にさらし、そして一旦は忘れ去られていました。
しかし、この寄贈品によって、彼の名前は
何世代にもわたって記憶されることになるでしょう」



最後に、チャック・レイトンの死亡通知に添えられていた
カナダ空軍のパイロット、ジョン・ギレスビー・マギーJr.の詩を、
当ブログ的には2回目になりますが紹介しておきます。

当ブログで坂井三郎の「大空のサムライ」の英語版を紹介した時、
序文としてこの詩が掲げられていたのを翻訳したものでした。

マギーJr.は訓練中空中衝突の事故で殉職し、
戦闘を一度も経験せぬまま亡くなったパイロットでした。

この詩は彼が高高度のテスト飛行の経験から着想を得たものです。

 High Flight 高高度飛行

ああ、僕は地上の不遜な束縛から逃れ
笑いに包まれた翼で大空を舞った;
太陽に向かって登った
そして百のことをした
君が夢にも思わないようなことを

太陽に照らされた静寂の中で
そこでホバリングし
叫ぶ風を追いかけ、足跡のないホールの中を
僕の熱心な船は、足のない空気のホールを通り抜けた

上へ、上へ、長く譫妄のように燃える青を、
風の吹きすさぶ高台を、いともたやすく駆け上ってきた
ヒバリも鷲さえも飛んだことのない場所を

そして、静かな高揚した心で
そして、静かな高揚した心で、僕は宇宙の高みへと足を踏み入れた
そして手を差し伸べ、神の御顔に触れるのだ

続く。