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海軍のヴァイキングと陸軍のジュピターC〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている
ロケット群から、年代を追ってご紹介していきましょう。

さて、最先端を行っていたドイツのV-2ロケットの技術は、
その後究極の兵器を求める米ソ両国に受け継がれました。

しかしアメリカでは、1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
B-52ストラトフォートレス爆撃機が戦略的抑止力の主役だったのです。

V-2の技術の直系の継承にソ連の方が熱心だったのはなぜか。
それはソ連が長距離戦略爆撃機戦力で劣っていると自覚していたからです。
最初から不利な技術で勝負せず、相手のまだ手をつけてない技術で
優位に立とうとしたという訳ですね。


しかし米ソ共に、ロケット技術が未熟であった初期には、
遠方の敵を攻撃する方法として、ある技術に目をつけ始めるのです。

それが、こんにち巡航ミサイルと呼ばれる無軌道の飛行爆弾でした。

巡航ミサイルは、翼と空気で動くエンジンを持って飛びます。
つまりロケットと違って大気圏外では活動できないのですが、
さらに航空機と決定的に異なるのが、無人で操縦され、
自動航行装置によって目標まで誘導されるという、
当時として画期的な仕組みを持っていました。


そしてスプートニク1号の打ち上げに使われたソ連のR-7ロケット
世界最初のICBM(大陸間弾道ミサイル)でした。
両国はその技術を宇宙開発の名の下に昇華してゆき、
それはついに音速の5倍以上の速さ(極超音速)で移動し、
地上からの信号にも依存しないICBMに結集します。

これこそが人類に生み出せる「究極の兵器」とも思われました。


■ミサイル・観測ロケット・打ち上げロケット

というわけで、次のコーナータイトルが、いずれも同じ技術から発展し、
アメリカとソ連がその開発競争を長い間行ってきたロケット技術の結果、
ミサイル、観測ロケット、打ち上げロケットの「ロケット三兄弟」です。

三者の違いを簡単に言うと、

ミサイルロケット
爆発性の弾頭をもち目標に打ち込む兵器

観測用ロケット
大気圏上層部に科学観測機器を打ち上げる

ランチ・ビークル(打ち上げロケット)
宇宙船を地球周回軌道などに運ぶ

これらのロケット三兄弟は、ロケット工学の研究、国防、
そして宇宙開発の分野において重要な役割を持ちます。



スミソニアンにはこれらの歴代ロケットが、
まるでペン立てのボールペンのようにまとまって林立しており、
その眺めは壮観です。

今日はこれらをご紹介していきましょう。
まずは、この中の手前に見える、ほっそーいロケットからです。

■ WAC CORPORAL (ワック・コーポラル ロケット)
〜V2時代のアメリカのロケット技術(の限界)



TRYING CATCH UP WITH THE V-2

というのがWACコーポラルロケットの説明のタイトルです。
「V-2の背中を追って」「追いつくために」
みたいなイメージでしょうか。
いずれにしても、「トライ」のまま終わった感じダダ漏れです。

ドイツのV-2が第二次世界大戦中、ヨーロッパの各地を攻撃していた頃、
アメリカでは、まだ長距離ミサイルの研究は緒についたばかりでした。

V-2ロケットとこのWACコーポラルの見かけの違い、
それは大きさ太さだけでもスリコギとシャープペンくらいの違いですが、
それはそのまま、1945年現在における両国のロケット技術の違いでした。



WACという意味は、誰もが
「Women’s Army Corps」陸軍女子隊
の意味であり、さらにコーポラルは普通に伍長の意味だと思うでしょう。

ではワック・コーポラルとはなんぞや。


カリフォルニア工科大学、通称CAL-Techの中のジェット推進研究所
が開発したことから、こんな名前が付けられたという説もありますし、
例によって、アメリカ人の悪い癖で、自虐的に

"Without Attitude Control"(態勢コントロールなし)

という意味から取られたWACだったという説もあるようです。


カルテックというところは、もちろんアメリカの名門工科大学ですが、
規模としては(アメリカにしては)小さく、MKの大学選びのために
見学に行ったときには、なんかわからんが変人が多そうな印象があって
(印象ですよ)ドームも随分荒んだ様子が感じられ、
願書も出さずに終わり、わたしの中ではあまり良い印象がありません。

というのとは関係があるのかないのか(もちろんない)、この研究所は
1930年代にカルテックの中にできたロケット愛好団体が発祥で、
当初は団体名が「Suicide squadron」(自殺部隊)だったそうです。

ちなみにワック・コーポラルの前は
「プライベート・コーポラル」
という名前だったらしいのですが、これもいつの間にか昇進させています。

つまり、この団体のネーミングセンスはヘン、ということだけはわかります。



推進は海軍飛行艇のために開発された液体燃料エンジンが使われ、
フィンはなぜか革新的な3枚(黒1枚、白2枚)というものでした。

最初から大気圏観測ロケットとして構想されたもので、
実験では高度72キロメートルまで達したようです。

BUMPER WAC(バンパーワック)

BUMPER WAC

このWACをドイツ開発のV-2と組み合わせるという
画期的な実験が行われたことがあります。

世界初の2段式液体燃料ロケットとなる
「バンパー計画」として実験が行われました。

1949年、5回目の飛行で高度390kmを達成し、
この記録は1957年まで破られることはありませんでした。

WACコーポラルは、アメリカ発の観測ロケットでありましたが、
その最終目標は軍事弾道ミサイルであったのはいうまでもありません。

■ 海軍のヴァイキング〜V2の発展形



第二次世界大戦後、アメリカはドイツで大量に鹵獲してきた
ドイツのV-2ロケット超高層大気圏の研究に使用していましたが、
ほぼ使い捨てだったので、そのうち数が減少してきました。

そこでV -2の後継機として、アメリカ海軍研究所(NRL)による
大型液体推進観測ロケット、ヴァイキングVikingが開発されました。

これも最初から科学観測用とされていましたが、暗黙の了解として、
当時観測用ロケットは将来的に兵器になることを前提に設計されました。

元々兵器であるV-2の後継ですから、それを参考に開発されたロケットは
「根っこは同じ」であり、宇宙開発もすなわち潜在的な兵器開発となります。

バイキングに搭載された推力2万ポンドのXLR-10液体燃料ロケットエンジンは、
リアクション・モーターズ社が開発しました。

円筒形で先端が鋭く尖り、基部に4枚の十字型三角形のフィンがあります。
全体は白で塗装され、フィンのすぐ上に黒い帯のような塗装がなされました。

4枚のフィンはそれぞれSE、NE、NW、NWと名称がついていて、
各フィンは、飛行中のロケットを視認するために配色が少しずつ違います。

SEとNEは白と黒の半々、NWは黒、SWフィンは白、といった具合です。



1949年から1957年にかけて、14機のバイキングが製造・飛行され、
さまざまな機能のテストや、より大きな観測機器の搭載が行われました。

バイキングの設計には、制御、構造、推進力において
重要な革新が導入され、12基製作されましたが、
2つとして同じものはありません。

それらは主に長距離無線通信に影響を与える
上層大気の領域を研究するために使用されました。

しかし、海軍研究所が「戦術的弾道ミサイル」の可能性を調査するための
研究と試験発射を兼ねていたのは当然のことでしょう。




エンジン部品などはプレキシグラスを通して見えるのだそうです
(が見えません)
ロケットの機首に配置されている機器などは以下の通り。

航空機用カメラ(フォルマー・グラフレックス社製)
映画用カメラ、木製モックアップカメラ、太陽面カメラ、ラジオドップラー
20チャンネルテレメーター送信機、電離層用送信機など

ヴァイキングは1号の1949年初打ち上げ後、12号まで打ち上げられ、
一連の実験に成功を収めた海軍研究所の科学者たちは、
より強力なロケットを開発すれば人工衛星の打ち上げが可能と自信を持ち、
それがヴァンガード計画へと繋がっていくのです。

スミソニアン展示のヴァイキング12号は、オリジナルのロケットから
回収された部品をもとに復元されたものとなります。

形はバイキング8号機以降によく見られるもので、
主要メーカーであるグレン・L・マーチン社によって製作されました。


その後、ヴァンガード計画がどうなったかについては何度も書いていますので
ご存知のことかとは思いますが、もう少し後で述べます。


■ジュピターC
大気圏突入のための”ノーズコーン”実験



UEと書かれたロケットがジュピターCの実物大模型です。

ヴェルナー・フォン・ブラウン率いるアメリカ陸軍弾道ミサイル機関(ABMA)
クライスラー社製造によるサウンディングロケット=観測ロケットで、
「A」をベースに開発されたので「C」(なぜかBなし)と命名されました。

ジュピターC
ケープカナベラルでの初打上げ日 1956年9月20日
最終打上げ日 1957年8月8日
打上げ回数 3



レッドストーンMRBMを採用したジュピターCロケットは、
先ほども書いたようにジュピターAの後継機です。

ジュピターCは、1956年から3回の無人の準軌道宇宙飛行に使用されました。
観測ロケットと言いながらその任務の中でメインだったのは、ジュピター計画で
宇宙船が大気圏に再突入する際のノーズコーンをテストすることでした。

何度か書いていますが、1958年にNASAが設立されるまでは、
ロケット開発は陸海空がそれぞれ別に請け負っていたので、
中には協力的なプロジェクトもありましたが、ほとんどはご想像通り
互いに先んじようと激しく競争していた(特に陸海)というのが実態です。

ジュピターCが打ち上げられたハンツビルのレッドストーン工廠
元々1950年に陸軍のミサイル開発センターとして開設されました。

レッドストーン開発グループの中心は、戦後にドイツから渡米した
フォン・ブラウンを中心とするドイツのロケット技術者チームです。

彼らはドイツのV-2ロケットの技術をベースにロケット開発プロジェクト、
すなわちレッドストーンロケットの開発を行います。
それは射程100マイルの地対空ミサイルとして構想されました。

レッドストーンには、フォン・ブラウンがドイツで開発した(つまりV2)技術と、
ノース・アメリカン・アビエーション社がアメリカ空軍の
ナバホ(NAVAHO)巡航ミサイル計画
のために開発したエンジンの改良型が使用されました。

ナバホ

ナバホは1946年に開発された大陸間ラムジェット巡航ミサイルです。
これもV-2ロケットエンジンの研究から生まれた技術でした。

そしてロケットの設計が始まるわけですが、当時のアメリカでは
朝鮮戦争のため国防資金が限られており、グループは創意工夫を強いられました。

ロケットを試験するための「試験台」を作るために75,000ドルの入札を受けた後、
チームはわずか1,000ドルの材料でそのモデルを作り上げ、
自らそれを「プアマンズ・テストスタンド」と自嘲していたくらいです。

現在もハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターには、
「貧乏人の試験台」が歴史的な建造物として展示されています。


■陸軍までがヴァイキングを選んだわけ

さて、これでヴァイキングが海軍、レッドストーンが陸軍によって
制作されたロケットであることがお分かりいただけたかと思います。
この頃、空軍もアトラスミサイル計画を立てていました。

以上を頭に置いて次に進みましょう。

1955年、アメリカは地球の軌道を周回する
工衛星の打ち上げ計画を開始します。


これに、陸軍のレッドストーン、海軍のヴァイキング、そして
空軍のアトラス
が三つ巴となって競争することになりました。

ところが、です。

陸軍と業界と委員会がなぜか海軍のヴァイキングを選択し、
海軍がヴァンガード(衛星)計画を請け負うことになったのです。

陸軍がなぜ海軍のヴァイキングを選んだかというと・・あれですか?
レッドストーンの中心人物がドイツ人だったからかな?

そうだな?そういうことなんだな?

海軍のヴァイキングも、もちろん陸軍のレッドストーンも、
なんなら空軍のアトラスも、その出発点はドイツのV-2ミサイルです。

ならば、その開発者であるフォン・ブラウンを獲得した陸軍が
三軍の中で断然有利だったのでは、という気がするのですが、
そこはそう単純なものではなかったようです。

実はアメリカとしては、やはり国家初の宇宙事業の中核に、
ドイツ人を据えたくなかったというか、純国産でやりたかったのではないか、

と今では言われているようですね。

まあ仕方ないかもしれん。

その後、カリスマ的なリーダーであるエンジニアの
フォン・ブラウン率いる組織は、陸軍弾道ミサイル局と名称を変えて、
行政的な制約に縛られることなく、
ジュピターの開発を継続することになります。


そして、1957年10月4日、アメリカ(と海軍)にとって屈辱の日が訪れます。

ソ連がこの日世界初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功し、
「スプートニク・クライシス」
とまで言われるショックを国民に与えたのに続き、
期待された海軍のヴァンガード計画は失敗してしまうのです。

Vanguard (Flopnik)

打ち上げ時間は2秒で終了。

発射台から飛び立つことなく木っ端みじんこになってしまったというね。
Flopnikはスプートニクのもじりで「バタンとニク」みたいな意味があります。

この失敗を受けて、フォン・ブラウンが喝采したかどうかはわかりません。
わかりませんが、これで彼とレッドストーンの「出番」になったのは事実です。

・・・やっぱり喝采したんだろうな。
現にこんな話があるのですからね。

当時、次期国防長官が決まってたニール・マッケロイは、
「偶然」レッドストーン工廠を訪問しているその最中、
スプートニク打ち上げを知りました。

その夜、関係者によるマッケロイ歓迎のディナーが催されたのですが、
その席でレッドストーン工廠のジョン・メダリス司令官と、
ヴェルナー・フォン・ブラウンがしっかりとマッケロイの脇を固めて、
「閣下、人工衛星うちにやらせてください💏」
と両側からガンガン売り込んできたそうです。

なんとこの二人、ヴァンガード失敗以前から、
レッドストーン工廠なら4ヶ月以内にジュピター打ち上げできる!
と関係者に売り込んでいたのでした。

思うに、フォン・ブラウンは、ヴァンガードの欠点を知っていて、
失敗することも予測していたんではないでしょうかね。

その後11月3日、
ソ連がスプートニク2号で犬のライカを打ち上げに成功します。
これですっかり焦った国防省が、陸軍の申し入れを承諾した直後、
フォン・ブラウンの予想通り、ヴァンガード計画は見事失敗。

ほれ見たことか、と1月31日に満を持して打ち上げた
ジュノーI、レッドストーンロケット、ジュピターCに
衛星軌道用のブースターを追加した陸軍のミサイルは、
アメリカの期待を一身に担うことになったというわけ。

この計画を、軌道に乗せた衛星の名前をとって

エクスプローラー1号(Exporer I)

と言います。

エクスプローラーI型衛星はジェット推進研究所(JPL)が開発し、
JPLとレッドストーン工廠チームが固体燃料の上段ロケットを考案しました。



1958年1月31日、予定よりわずか2日遅れはしましたが、
ジュピターC(正式にはジュノーI)は、
エクスプローラーIを軌道に乗せることに成功したのです。


ばんざーい
エクスプローラー1実物大を持って万歳するフォンブラウン(右)

この衛星には、宇宙線、温度、微小隕石の衝突を測定する科学機器が搭載され、
地球周辺のヴァン・アレン放射線帯の存在を検出したことで知られています。

前にも書きましたが、この真ん中にいるのがヴァン・アレンです。
放射線帯に自分の名前をつけてしまうなんてラッキーな学者ですよね。

(ちなみに、ヴァン・アレン帯については、うちにあった手塚治虫全集
『鉄腕アトム』にその名前が出ていたことから、わたしは物心ついた時には
ヴァン・アレン帯という言葉だけは知っていたのですが、
もしかしたら手塚治虫先生は存在検出のニュースを受けてすぐ
この作品にこれを取り入れたのかも、と今にして思います)

このロケットは、エクスプローラーIII、IVの打ち上げにも成功しましたが、
エクスプローラーII、Vを軌道に乗せることには失敗しています。

その後もジュピターは陸軍の主力ロケットとして、
空軍のトールロケット、そしてアトラスロケットと競合する存在でした。
(え、ヴァイキングは?ヴァイキングはもうダメってことになったの?)

この3つのロケットはいずれも第1段ロケットとして使用されましたが、
レッドストーンロケットは、その後アメリカ人を初めて宇宙へ運ぶ
マーキュリー・レッドストーンシリーズのロケットとなりました。

その後、NASAが設立され、陸軍弾道ミサイル局・ABMAは
レッドストーン工廠の敷地内に新設された
NASAのジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターへ移管されました。

そして、フォン・ブラウンを中心としたABMAのジュピター開発チームは、
アポロ計画の推進システムであり、アメリカの宇宙飛行士を月に運んだ
あのサターンVロケットの開発にも携わることになります。


■ ジュピターCのノーズコーンの謎



宇宙に打ち上げ、回収された本物のノーズコーンです。

ノーズコーンは核弾頭を運ぶための中距離弾道ミサイル実験の、
文字通り、マイルストーンでもあります。

地球の大気圏への再突入中に経験する途方もない高温から保護するために、
セラミックで作られた熱シールドを備えた設計になっています。

陸軍弾道ミサイル局が1957年8月8日、ケープカナベラルから打ち上げた
ジュピターCロケットの先端に、このノーズコーンは装着されていました。

再突入時、温度は1100℃にまで達したと言われています。
その後、ノーズコーンは海上に着水し、海軍艦艇によって回収されました。


コーンはステンレス製の円錐形が白く塗られた素材で覆われています。
見る限り、表面の素材は滑らかで、炭化した形跡は一切ありません。

ここでちょっと不思議な話があります。
ここにあるのはジュピターCのノーズコーンには違いないのですが、
ある高官レベルの軍関係者の日誌によると、打上げ後の1957年11月、
ノーズコーンをホワイトハウスに運ぶ前に、
剥離材が「剥がされた」
というのです。

これがオリジナルのロッキードのコーティングの下地であるか、
1957年8月の飛行後に付けられたものであるかについては、
資料も残っていないのだそうです。

しかし、2006年に検査した応用物理学研究所の2人の科学者は、
そこにセンサーパスが見られたことから、
おそらくこの表面は「下地」であろうと述べています。

しかも後端部にはステンレス製の板が溶接され、ボルトで固定されており、
これがオリジナルの装備かどうかすら不明です。

内部には計器類は全く残されておらず、
熱電対などのセンサーに使われたと思われる継ぎ手があるのみ。



苦労して外側を削った後、みたいな?



1957年11月7日、ホワイトハウスで、
ジュピターCミサイルのノーズコーン模型を横に演説する
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領。

ノーズコーンの「模型」・・・?。

大統領はこれが本物だと信じて疑っていませんが、
なぜ本物を大統領の横に置いてあげなかったのでしょうか。

何のためにホワイトハウスに運ぶ前に
本物のノーズコーンから外側を剥離したのか。
何か本物を見られては都合が悪い事情があったのか。


宇宙は謎に満ちています。


続く。