ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊阪神基地隊 年末行事(餅つき大会)

2018-12-10 | 軍艦

昨年に続き海上自衛隊阪神基地隊の年末行事、通称餅つき大会に行ってまいりました。

開催日は土曜日、わたしはいつも通り日帰りの時には必ずそうするように
飛行機の変更不可切符を少し前に取りました。

チケットが変更不可の場合、断じて乗り遅れるわけにいかないので、
駐車場が猛烈に混雑する週末の羽田発に乗る時には、わたしはいつも
まだ空いている早朝の飛行機で行って向こうで時間を潰すことにしています。

この日も4時に起きて5時に家を出、いつもの駐車場のだいたい同じ場所に
車を停めることができたので、まずほっと一安心。
小さな達成感を感じながら(笑)ANAの空港ラウンジに到着し、
これもいつもの「青汁のミルク割り」(わたしオリジナル)を飲んでいると、
窓の外はちょうど朝日が上って空港の飛行機を朝焼けで染め始めています。

これもいつものようにカメラのチェックを兼ねて撮っておこう、と思い
肩に掛けたカメラを点検すると・・・・。

電池が入っていませんでしたorz

ふっふっふ、またやってしまったぜ。

「OPERATION・電池の入っていないカメラは漬物石にも劣るただの重石」

を。

同じことをしでかした今年の陸自降下始めの時には、不幸中の幸い、
ニコ1+望遠レンズを持ってきていたのですが、今回はこれ一本だけ。

幸いそんなこともあろうかと(嘘だけど)この日は伊丹から
レンタカーで動くことになっていたので、こうなったら、向こうに着いてから
家電量販店を探し、電池を買って阪神基地隊で充電させてもらおうかしら、と
実に厚かましいことを考えながら伊丹につきました。


調べてみると、阪神基地隊の極近いところにサンシャインワーフという
モールがあって、そこにヤマダ電機があることがわかりました。

とりあえずすることもないので11時まで前の道で開店を待ちました。
それにしてもこの辺も変わりましたなあ。

わたしが神戸に住んでいた頃には阪神電鉄より浜側は
人の住んでいない化外の地、じゃなくて工場しかない地域でしたが、
今ではサンシャインワーフの前にウォーターフロントを売りにした(多分)
大型集合住宅まで建っているではありませんか。

さて、車の中で映画を見て時間を潰し、オープンと同時に入店したヤマダ電機、
カメラ売り場で聞いてみると、たまたま今D810用バッテリーはないとのこと。

「仕方ない、iPhoneで撮ろう・・・・」

今日は拡大したり動くものを撮ったりするイベントもないし、
イベントといっても所詮餅つきだし、たまにはカメラを持たずに
身軽に参加するのもいいか、と気持ちを切り替えました。

そして阪神基地隊に到着。

受付は11時開始ですが、餅つき大会会場である体育館に入れるのは
開始時間の直前なので、皆それまで掃海艇を見学します。

確か去年は潜水艦も来ていましたし、サマーフェスタには
潜水母艦や護衛艦、陸自装備なども気前よく公開していましたが。

しかしあとで伺ったところによると、もともと餅つき大会というのは
自衛隊とその内輪でひっそりと行われてきたような行事で、
年々参加人数が激増してきている最近がむしろ「異常」とのことでした。

ところでこの餅つき大会、阪神基地隊だけでなく、基地隊隷下の

由良基地分遣隊(和歌山県日高郡由良)

仮屋磁気測定所(兵庫県淡路市東浦町)

でも日を別にして行われているそうです。

あまりみなさんがご存知ないかもしれないこの二つの基地について
ちょっと説明しておくと、まず、由良基地分遣隊とは、海軍時代には
大阪湾口の警備及び紀伊半島から四国南岸を警備する艦船の寄港・補給基地で、
当時は紀伊防遣隊という名称でした。

現在でもその地勢から与えられた役割は同じですが、それに加え、
神戸で建造される潜水艦の海上公試等の支援を実施しています。

仮屋磁気測定所は主に掃海隊の艦艇の磁気測定業務を実地する専門の基地で、
磁気探知装置など磁気兵器から艦艇を守るために磁気測定、
そして消磁作業を実施している施設です。

所長は二等海佐、由良の分遣隊長は三佐をもって充てられます。

展示公開されていた掃海艇は「なおしま」と「つのしま」、
第42掃海隊を編成するのはこの二隻です。

ちなみに、先ほどの仮屋磁気測定所の話をすると。

掃海艇は今新しいのから随時FRP素材に変わっていっていますが、
FRPでも時間が経つにつれ、地磁気の影響により、艇体が

自然に磁気を帯びてくるので、磁気信管機雷の感応を防ぐため、
磁気を取り払う「消磁」を行う必要があるのです。

このやり方は、水深の浅い海底にセンサーを等間隔に並べ、そこを
掃海艦艇を一定の速度で何度か通過させることによって、
もしセンサーが磁気を感知したら解析し、船体の磁気を帯びた部位と
その強度が測定される仕組みになっているのです。

消磁作業は、艦艇乗組員が行います。

この浮き輪から顔を出して写真を撮った人がこの日いたのかどうか。

「つのしま」のアイコンは「つの」のあるユニコーンです。
つのに機雷を突き刺して多分無力化しています。

これがオリジナル。
絵の上手い乗員が描いたのでしょうか。

上の黒板の絵を描いた人もさりげに画力高し。

信号旗は7旒揚げられ海から吹き上げる風にはためいています。
7文字ということは・・・当然、

「WELCOMEですか?」

近くの隊員に聞いてみるとその通りでした。

第42掃海隊の司令は今年の人事異動によって、前司令下窪剣三佐から
畑中政人三佐に交代しています。
餅つき大会会場では畑中三佐にご挨拶をさせていただきました。

「つのしま」に乗艇すると、ちょうど自衛官に案内されていた一団があり、
その人たちに向けてバルカン砲を動かして見せていました。

掃海艇には機雷処理のための銃が装備されています。

甲板には水中処分員のアクアスーツが展示してありました。
どこから着るのか聞いてみたところ、背中の肩甲骨部分にまっすぐ一文字に
ファスナーがあり、そこから「入っていく」とのことでした。

そこからラッタルをおりていくと後甲板を見学することができます。

掃海艇の後甲板にはオロペサ型係維掃海具(白いの)
などの掃海具などが収納されています。

国産型掃海具S-10の前の型である PAP104。
こちらはフランス製です。

掃海艇と機雷処分具はラインで繋がれているだけなので、
それが切れてどこかに行ってしまった、ってことはないのか、
一度どこかでこっそり聞いてみたことがあります。

それによると(以下略)

米軍が敷設した機雷を引き上げている我が海自の掃海艇。
作業は常に後部甲板で行うので船尾に揚げられた自衛艦旗が写り込みます。

さて、年末行事が始まりました。
携帯で撮る写真の限界を感じたのが室内です。
暗いので少しでも手が動いたり対象が動くとブレてこの通り。

開式に先立ち、阪神基地隊司令深谷一佐がまず挨拶。
今年は呉地方隊の警備区域内で多くの災害が起こり、それに対して
どんな活動を行ったかの報告が主な内容です。

また、本日テーブルに並んだ食事は、全て隊員の手作りによるものだと紹介。
会費徴収はなく、全くのお振る舞いということになります。

司令の挨拶が終わる前に、すでにカレーの前には人が並んでいました。
大阪で行われた練習艦隊の壮行会でもそうでしたが、今回もまた
乾杯の発声を待たずにテーブルの料理を皆が食べ出しています。

お行儀という点ではなかなか捌けた土地柄なんでしょうね。

後で司令から伺ったところによると、阪神基地隊の後援は
遡れば阪急の小林さんとか田崎真珠の田崎さんとか、
とにかく関西の錚々たる財界人で、かつ海軍「贔屓」だった
大物たちが立ち上げた組織が元になっているということでした。

壇上での餅つきは政治家が法被を着て行います。
もちろんその前に政治家らしく挨拶をするのが主な目的。

今杵を持っているのは衆議院議員佐藤章氏。

基地司令は餅をつく人が杵を振り上げるために
「よいしょ!よいしょ!」ととにかくよいしょするのが仕事です。

政治家の餅つきは、内輪の行事っぽかった昔から行われてきたとのこと。

ベトナムとアメリカからの招待者もいました。(領事とかかな)
ベトナムの方は通訳同行で来て、結構長々と挨拶を行っておられました。

おお、ベトナムとアメリカ、かつての敵同士が一つの臼を杵でつく。
よく考えたらなかなか感動的な光景が見られました。

前方には自ずと政治家などが集まっていたわけですが、その中に
夏に防衛シンポジウムを行ったご当地アイドルの姿がありました。

もし一般行事であれば、アイドル目当てに早朝から場所取りで並ぶ
ドルオタのおじさんたち(本当に!おじさんばかりなんです・・)が
目の色変えて周りにつめかけるところですが、この行事に来ている客で
彼女らが何者なのか知っている人は見たところ皆無。

というわけで、彼女らも普通の女の子として料理をパクつくことができます。

お揃いの制服を着ているので、もしかして歌でも歌うのかなと思ったのですが、
防衛ディスカッションもステージも紹介もなし。

おそらく営業活動の一環として参加していたのだと思いますが、
少なくともアイドルにとってあまり面白いイベントではなかったかな。

政治家先生の餅つきが終わってから広島カープとタイガースの
ユニフォームを羽織って、司令と副長が登場。
司令は広島出身、副長はlここ阪神地方出身ということで。

副長が近々退官するのでその紹介を兼ねて一緒に餅をつきます。

後で副長室の前を通りかかったら、このユニフォームがかかっていたので、
一緒にいた基地司令副官に

「本当にタイガースのファンでらっしゃったんすね」

というと、

「本当です。もう一枚あって、私それを着て一緒に甲子園に行きました」

「もしかして無理やりなんてことは」

「いえ、私もファンですので」

「それなら良かったです」

カープファンに虎のユニフォームを着せて応援に連れ出す、
なんてことがあったらそれは立派なパワハラです。

壇上の餅つきが終わったら、今度は希望する人誰でも参加できる餅つき大会が
ステージ脇で行われるというのもいつも通り。

ご当地アイドルの皆さんも一人ずつ参加。

この会の参加者は名札をつけることになっているのですが、驚いたのは
「自衛隊を〇〇〇〇〇会」という感じの団体がものすごく多かったことです。
応援する会、防衛を考える会、(自衛官を守る会はありませんでしたが)etc.
とにかく、自衛隊行事にバスを連ねてくる規模でそういう人たちがいっぱい。

自衛官の家族中心のもの、防衛団体、水交会以外にもとにかく人多すぎ。

これも、餅つき大会が年々たいそうなことになっている原因かと思われます。

ついた餅・・・と言いたいところですが、餅をつき始める前から
テーブルに並んでいたので、おそらく前もって作ってあったのでしょう。

きな粉餅が食べてみたくて一皿手にとってみましたが、
とにかく一個が大きくて、食べ終わるのに時間がかかりました。

閉会後、司令官室に表敬訪問を行い、司令夫人、司令のご親族、
そしてHARUNAさんなどをご紹介いただき、しばし歓談させて頂きました。

内容はわたしがブログで取り上げた大久野島についての噂、そしてHARUNAさんが
呉市のカレースタンプラリーを完食されたという豪快な話など、参加している
メンバーがメンバーだけに面白すぎて時間の経つのもあっという間でした。

ちなみにカレースタンプラリー、わたしもシールの一枚や二枚はもらってみましたが、
まさか全部完食することが人類に可能とは思っていなかったので、
思わず根掘り葉掘り聞いてしまいました。

「だってあれ、どう考えても無理なゴルフ場のレストランにあったりするでしょう」

「郷原っていうところのゴルフ場に行きましたよ。途中で道がなくなってて。
そうそう、瀬戸内の小島にあるレストランにも行きました。
そこに行くためには橋を渡る料金を払わなければいけないんですが、
食べに行ったら帰りの高速代をくれるんです」

「しかしなんだってそんな難易度の高いところに」

「カレースタンプラリー、達成する人が予想より多くて、
運営が賞品を出す関係でもう少し達成しにくくしようと思ったようです」

はあーそれでゴルフ場とか離れ小島とかか。

「例年どのくらいの人が完食してるんでしょうね」

完食してもらえる賞品(カレー皿かなんか)には
シリアルナンバーがついていて、HARUNAさんがもらった賞品には
No.37と刻印されていたんだそうです。

ということは、36人がこれを達成したと・・・(絶句)

 

話題は海上自衛隊について、陸自の新制服がどうもイケテナイ、
前の方がいいという話(ごめんね陸自の人)、此処を先途と
わたしが行う質問(笑)など多岐にわたりましたが、司令がふと
わたしがかつて書いた、潜水艦の

ウィリアムソン・ターン

について触れたため、話題はさらにディープに。(潜水艦だけに)

「なんでそんな話になったんですか」

なんでだったかな・・・・・。

あ、そうだこれこれ。これですよ。

「溺者救助のことを書いてたんです」

ちなみに「つのしま」の溺者人形には顔がありません。
いろんなところで溺者人形をチェックしてきましたが、顔のないのは初めてです。

というか、こっちが普通のはずなんですけどね。

その後わたしはレンタカーで伊丹空港まで実に楽に到着。
阪神基地隊に行くのはこれが一番楽、と改めて実感しました。

レンタカーを返して空港まで送ってもらうバスの運転手は
朝迎えに来てくれたのと同じ人だったのですが、バスに乗り込むと

「早かったですねー。お仕事だったんですか」

「神戸まで行ってお昼の会合にでただけでしたので」

「神戸・・・ファッション関係ですか」←注目

「いえ、自衛隊の行事です」

「はー」

あまりに予想外だったのか、おじさん無言になってしまいました。

羽田について家に帰っても一人なので軽く夕食を済ませてしまおうと
飲食店を探していたら、メルセデスカフェなるデリとエッグタルトの店発見。

ショウルームとロゴグッズを販売しているお店を兼ねたカフェです。

エッグタルトは美味しかったんですが、デリのチキン、キャロット、
サラダのドレッシングはほぼ味がありませんでした。

薄味=ヘルシーってことで納得しつつ心して頂きました。
多分二度と食べないけど。

 

と、取り留めもないご報告になりましたが、阪神基地隊年末行事、
餅つき大会の参加記を終わります。

ご招待頂きました阪神基地隊の皆様方に心よりお礼を申し上げます。

 

ところでこの日、実はカメラを忘れてやる気を無くしていたのに、
家で写真をチェックすると一部を除いて普通に写っているのにショック。
行事系ならiPhoneでもあまり不都合ないことに気が付いてしまいました。

重たい一眼レフの存在意義が、わたしの中で今猛烈に問われています(笑)

 

終わり。

 

 


島は完全に無毒化されたか〜広島県 大久野島

2018-12-09 | 日本のこと

週末、阪神基地隊で行われた恒例餅つき大会をちょっと覗いてきました。

その時、たまたま基地隊司令ご夫妻との話題が大久野島になったのですが、
司令夫人が幼い時、何かのきっかけで大久野島に遊びに行こうとしたら、
お祖母様から

『あんなまだ毒ガスの残っているところに行くものではない!』

と断固として止められたということを聞きました。

また、その日ご紹介頂いたあの『J-Navy World』のHARUNAさんも、
その時同席しておられて、広島在住経験者としておっしゃるには

「あそこが観光地になってるなんて信じられません」

うーん、特に最近のうさぎの島というイメージ戦略を、
近隣の人々、昔から大久野島を知っている人はかなり奇異なことに思っている?

やはり大久野島=毒ガス島のイメージがあまりに強く、
特に司令夫人が小さい頃にはまだ汚染が明らかに残っていて危険、
ということになっていたのだと思われます。

「なっていた」じゃなくて実際そうだったんですけどね。

 

ところで大久野島について書いてすぐに、いつものKさんから、
大叔父に当たる方が彼の地に勤務していたことについて以下のメールを頂きました。

実は大叔父が戦時中配属されていました。
階級は曹長(私は遺品から軍曹だったのではないかと疑問を持っていますが・・)。
多くの戦友と同じぐ喉頭癌&肺癌で亡くなりました。
鼻のなかに穴が開いてこそ一人前と言われた化学班でした。
戦後の闘病だ大変だったようですが、
島内での待遇は良かったと聞いています。
直に聴く機会もあったのですが、此の頃は私もガキっちょでしたからね。

 

Kさんの大叔父さんとその戦友がそうであったように、
毒ガス製造工場で働いていた者の多くが同じ運命を辿りました。
疾病の90パーセント以上が気管支炎などの呼吸器疾患だったそうです。

 

戦後進駐軍は(その後武器庫として使うのが目的で)島内の
防空壕を密閉し、海水とさらし粉を注入、
毒ガスの腐食を促進して無毒化するという処理をしました。

wiki

この写真に写っているのはウィリアムソン少佐。
チューブでさらし粉を注入しているところです。

wiki

これは埋設前のあか箱(くしゃみ剤)の箱ですが、写真には
指揮をとったらしいオーストラリア軍人の姿が見えます。
前回、ウィリアムソン少佐は

「連邦軍には危険な薬剤の処理を任せられない」(`・ω・´)

といってガス剤被災の病気から回復するや現場に復帰した、
という話をしましたが、どうやら連邦軍はウィリアムソンのいない間、
他のものに比べると比較的被害の軽微な嘔吐剤については
埋めてはいおしまい、という結構いい加減な処理をしていたらしいんですね。

資料を見ると、休暇村オープン計画に際し行われた1961年の
自衛隊調査以来、2009年まで8回に渡って島内や近隣海域で
このあか筒が継続的に発見されていますし、1995年の調査では
環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染が確認されているのです。

そしてそれは防空壕に埋設処理されたくしゃみ剤あか筒の化学物質が
腐食により土壌に流出したものではないかと言われています。

そりゃ埋めただけなら何十年も経てば土壌に流れ出しますわ。
司令夫人の「おばあちゃんの知恵袋」正しすぎ。

ちょ、ちょっと待って?
これもしかしたら中になんか埋まってたりする?
防空壕跡を掘り起こして処理したという話はないようだけど((((;゚Д゚)))))))

だいたい、今宿泊施設の土壌と水は本当に安心なの?

と、泊まってから心配になってしまった訳ですが(笑)
ご安心ください。
土壌の対策工事は1997年には終了し、周辺海水のモニタリングによると
ヒ素の存在は検出されていない上、休暇村で使われている水は全て、
船で島外から運んできたものを使っているそうです。
(ところで、あの『温泉』っていうのは一体なんだったのか)

 

実は、パイプで島まで水を送る事業を環境省が計画したこともあったそうですが、
2009年にあか筒が23本も島の北側に投棄されているのがわかり、
工事はこのために中止になってしまいました。

ここは1969年に海上自衛隊が近海を掃海した時の対象外区域だったそうです。

大久野島の西北端は地図で見てもお分かりのように、飛び出した
ツノ状の半島があり、その部分は立ち入り禁止になっています。

グーグルアースで確認すると砂浜には護岸後、テラスのように
階段まで作って整備された痕跡があります。
これも想像ですが、あか筒が見つかったため遊泳禁止とし、
この部分を資材置き場にしているのではないでしょうか。

島の西岸部分を「長浦地区」と言います。
ここには巨大な毒ガス貯蔵庫跡が残されています。

ご覧の通り、左右に3部屋ずつ、合計6つの縦長の区画がありました。

wiki

稼動時の同じ長浦貯蔵庫。
6つの区画にはそれぞれ縦に長い100トンタンクが収納されていました。

この「堅型毒物貯蔵槽」は直径4m、高さ11m、容量85トン。

写真は貯蔵槽を焼却する準備をしているところで、中の毒物を
抜き取った後、横に倒して天板を四角くくり抜いた様子です。

横倒しになっていて縦長の頭頂が見えているというわけです。

貯蔵庫のあったコンパートメントの壁はいまだに真っ黒です。
これはタンクと貯蔵庫そのものを火炎放射器で焼却処理した痕です。

wiki

ガスマスク着用の作業員が火炎放射器で建物を「滅菌」しているところ。
どうやらこれは発電所の建物ですね。

なるほど、それで発電所のガラスが一枚も残っていなかった訳がわかりました。
米軍はその後発電所をそのまま手を加えず武器貯蔵庫にしたのでしょう。

 

貯蔵庫跡から数分南に歩くと、毒ガス工場があった時代のトイレ跡があります。

ニーハオトイレじゃないので(日本ですから)昔はちゃんとした
個室になっていたと思われますが、一つの区切りがとても小さい。

中には入っていけなかったのでこれが限界でしたが、
便器の部分をアップにしておきます。
さすが陶器製の便器、完璧に原型をとどめているのに驚き。

通路反対側には男性用便器が並んでいた痕跡が。
左端に手洗い場がありましたが、どうしても写真が取れませんでした。

島内サイクルラリーという企画のために立てられた「クエスト」。

この大久野島は「毒ガス工場」ができるまでどんな島だったでしょう。

1、七戸の農家があった静かな島

2、700件の(原文ママ)民家があったにぎやかな島

3、海賊たちの秘密の隠れ場所

太古に遡れば、「3」も間違いではなかった時期があったようですが。

半分だけ埋められた状態の毒ガス貯蔵庫。
下の通路からはこんな角度でしか見ることができません。

かつての同じ場所、貯蔵庫内のタンクには、最も危険なイペリット、ルイサイトといった
毒ガス液が一つにつき10トン、貯蔵庫全体で80トン貯蔵されていました。

この写真は、タンクが横倒しにされて焼却された後に撮られたものでしょう。

危険なため、ウィリアムソン少佐が「連邦軍には任せられない」として
自ら指揮を執った作業がこれだったと思われます。

ただし、最前線で焼却処分を行ったのは日本人作業員でした。

西側の海岸沿い一帯にはテニスコートがなんと14面も作られていますが、
そのうち稼働しているのはどう見ても2〜4面といったところでした。
人工芝を敷き詰めたコートなど見るも無残に腐食しています。

「Kさんの大叔父さんの話にも「待遇は良かった」とありましたが、
島内には日本庭園も作られていました。

石橋などの痕跡が山中に転がっています。

今現在、休暇村で働く人たちは基本的に船で本土や別の島から通っているようですが、
毒ガス工場当時、労働者たちは中で生活をしていたのでしょう。

余暇の時間を過ごす場所、せめてもの潤いは与えられていたのだと思います。

おそらく昔は鯉などがいたに違いない池も。

5月には藤の花が咲き誇るであろう藤棚、そしてこの右側には
当時からあったに違いない桜の大きな木が枝葉を延ばしています。

この前面には広大な空き地が広がっていますが、もちろんここにも
かつては工場がありました。

日本庭園跡近くを歩いていると、走り寄ってくるうさぎがいました。
足下で立って手をかけてくる様子は実にいじらしいものです。

最初からうさぎにやるつもりで新鮮なキャペツなどを
持ってくる観光客も結構います。

フェリー着き場で売っているうさ餌ではどうも水分が足りないので
彼らにはありがたいことに違いありません。

このへんにいたうさぎの一族は皆薄茶に白の柄でした。

休暇村の建物のすぐ脇に、三軒家毒ガス貯蔵庫跡があります。

柵は一応ありますが、簡単に乗り越えられるもので、中に入り込んで落書きする人多数。

これは貯蔵タンクが乗せられていたクレイドルです。
いくら無効化されているとはいえ、猛毒のびらん性ガスイペリットが貯蔵されていた
貯蔵庫内に長居したいとはわたしにはとても思えないのですが・・。

当時の地図にも、この真横に「仏式黄」工場があった、と記されています。

クレイドルには10トンタンクが設置されていました。
横の工場で生産された「きい剤」は、腐食を防ぐため内部を銅で保護した
パイプを通ってここにあるタンクに直接送り込まれていたのです。

休暇村の前方にあたる部分にはプールがありました。
写真を検索する限り、夏場は観光客で賑わっているようです。

プール脇の機械室にカメラを入れて撮らせてもらいました。
プールの水まで本土から船で運ばれているということは考えにくいので、
海水を浄化して使っているのではないかと思われます。

昔を知る人たちは眉をしかめるかもしれませんが、周りの海からは
汚染はすでに確認されていないということですので、こちらも安心して良さそうです。

安心していいんですよね?

1960年代にできたという休暇村の部屋は、よくある和室に籐椅子をおいた
廊下、風呂なしトイレ有りという典型的な温泉宿の作り。
今時の客に合わせて延長コードを設置してあり、wi-fiも完備でした。

朝夕二食付きで一人12800円、これは安いと言わざるを得ません。

眼下にはうさぎを追いかけて遊ぶ子供達の姿がありました。



彼らが遊んでいるその場所は、この写真でいうと真ん中の通路に当たります。
広場はかつて「くしゃみ剤=赤」の工場があったところでした。

 

続く。

 


米軍進駐の事実をなぜ伝えないのか〜うさぎと毒ガス工場跡の島 大久野島

2018-12-08 | 軍艦

 

広島県は瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島が
「うさぎの島」として脚光をあびるようになったのはごく最近、
2015年頃からのことです。

前回も書いたように、うさぎは昔からいましたが、
近年大久野島は完全に寂れた観光地となっていたのです。

わたしも今回初めて休暇村という名前のホテルに泊ってみて、
明らかに昭和30年代のセンスが随所に窺える建物内部、
昔は大学のサークルが合宿などで訪れた名残らしいテニスコート、
温泉浴場の天井がカビで黒ずんでいるなど、
没落の痕跡が隠しようもなく残っているのに気がつきました。

テニス合宿をあてにしたらしい人工芝のコートもご覧の通り。

この島が「うさぎ島」として注目され、今や海外からの観光客も訪れる
ちょっと特殊な観光地になったきっかけはやはりソーシャルメディアの発達で
うさぎだらけ画像が世界にばら撒かれたことにありました。

卯年だった2011年にメディアが紹介し、旅行会社が商品を売り出したこと、
(卯年にうさぎに会いにいく旅とかなんとかいうツァー)
海外のメディアが取り上げたことでちょっとしたブームが起こり、
外国からも物好きな人たちが訪れるようになったのです。

わたしが訪れたこの時も、アジア系はもちろんのこと、
欧米系、インド系などの海外からの客の姿が見られました。

この動きを受けて、島は少しずつ観光客向けに再整備を行なっています。
ブルーシートの向こうは護岸工事中。
そのほかにも最近整備されたらしいところ(沿岸線中心)がありました。

さて、わたしは島を左回りに一周することにしたわけですが、
フェリー乗り場を通りすぎて数分行くと今度は桟橋が現れました。

現地の看板も新しいのに変えていただけると助かるのですが・・・。

雨ざらしになって劣化した画面が見にくいですが、これは
写真の桟橋を逆の角度から上っていく人たちの後ろ姿が写っています。
大久野島に毒ガス工場が開所したのは昭和4年でした。

開所式に出席する陸軍軍人の後ろ姿、堵列を作って
敬礼しながら来賓を迎えている兵たちの姿が確認できます。

この桟橋は、日本が日清戦争後、来るべき日露戦争に向けて
対ロシア海軍用に急ピッチで島を要塞化した時に整備されました。

毒ガス工場開所の日はこのように人が上陸していますが、
その後はほとんど資材の陸揚げのためにしか使うようになりました。

ただ、この桟橋の位置は本土に面していて良く見えたので、
毒ガスの材料など秘匿しなくてはいけない搬入作業のために
大三島からも本土からも見えない位置に桟橋を建設しています。

桟橋から上がっていくと、まっすぐこのトンネルをくぐる道に繋がります。
建物が島の外側から見えないように前部を小高い丘で覆い隠しているのです。

トンネルをくぐろうとしたら門番のように黒いうさぎが出迎えてくれました。

「ククク・・ウェルカム・トゥ・ザ・ダークサイド」

みたいな?

説明によるとここには発電所があったということですが・・。

トンネルの中には「喫煙許可」の文字があり。

「落書スルコト」というのはおそらく「禁ズ」という赤文字が
消えてしまったのだと思われます。

よくよく見ると、「落書スルコト」の下に、うっすらと英語で

「SMOKING PERMITTED IN THIS AREA」

と書いてあるではないですか。

わたしの想像ですが、この喫煙許可のサインは、終戦後進駐した
アメリカ軍とイギリス連邦軍、そして日本人作業員が
ここで毒ガス処理作業をしていたたときに書かれたのではないでしょうか。

ガス処理という作業上、建物内でも喫煙は固く禁じられていた彼らが
一服できる唯一の場所が空気の貯まらないここだったのでは・・・・。

「おおお〜・・・・」

思わず声が出てしまったほど見事な廃墟。
窓ガラスのほとんどは割れて逸失し、ドアも残っていません。

そしてわたしの目は壁にうっすらと残る

「MAG2」

の文字に吸い寄せられました。

「MAG」とは間違いなく軍用の弾薬庫を表す「マガジン」。
やっぱりここは米軍の弾薬庫になっていた建物なのです。

それと、2があるってことは1もあるよね。どこか別のところに。

わたしはこれを見るまで、アメリカ軍がここを接収後、
昭和30年まで軍用施設にしていたことを全く知りませんでした。

そして例の左翼くさいメッセージを掲げた資料館を具に見学した時、
わたしはなんとなく胡散臭いものを感じたのですが、ここにきて
その正体が見えてきた気がしたのです。


資料館では、元の所有者こそ日本軍だけど、結論として誰が棄てたか
はっきりしていない
中国の遺棄毒ガスによる人的被害だけは
妙に克明に展示をしてありました。

それはまるで大久野島の毒ガスだけが中国に遺棄されたような書きぶりでした。


ところで中国での遺棄された毒ガス問題ですが、

中国の毒ガスについて、誰が遺棄したのか? 西村眞悟

西村氏の説によると、当時の村山政権(プラスあの河野外務大臣)が
事実を明確にしないまま政治利用して中国に媚びた、というものです。

その考え方の是非はともかく、わたしとしては、
ここ大久野島の資料館は
日本が加害者となる問題にはやたら熱心な割に、
アメリカ軍がここに貯蔵した爆弾を朝鮮半島で使用していた、
という史実に全く触れていないということに意図を感じました。

つまり、アメリカ軍の軍事利用などは

「日本が悪うございました。懺悔いたします」

という資料館のテーマから外れるから触れる必要はない、ってこと?

 

辛うじて木製のドアが形をとどめている例。

三階建ての高さがありますが中は全くの吹き抜けとなっています。

発電所として使われていたときの内部の様子を見ると、
当時からガラス窓はほとんどが割れていたらしいことがわかります。

明治時代、あるいは毒ガス製造し始めた頃建てられた普通の建物から
発電所になった1929年の段階で床を取り去ってしまったのかもしれません。

の写真に写っているディーゼル発電機は重油を燃料にしたもので、
全部で8基設置されていたということです。

あれ?立ち入り禁止のはずなのに内部は落書きだらけ・・。

呉高専の古川さんとか、広島県三原市にある益谷建設(株)の
社員さんなんかが立ち入り禁止の構内に入って落書きしたわけですね。

後世に馬鹿を晒してどうするよって話ですが。

ところでこの「広三塗装」という文字の部分見ていただくと、
「EXIT」が「非常口」より上に書いてある、
明らかに進駐軍時代のペイントがうっすら見えます。

発電所の敷地内にあった蔦の絡まる小さな建物。
何に使われていたものかは説明がありませんでした。

金属が腐食して外れてしまった窓枠がなぜかぶら下がっています。
肉眼で見ただけではどうしてこんな状態なのかわかりませんが、
写真を拡大してみたら、内側から窓を開ける支え棒だけ残っているためと判明。

こちらも同じ仕組みで落ちずにぶら下がっています。

島内のそこここにはボランティアの人たちが用意したらしい
うさぎ専用の水飲み桶がありました。

その一方、行政側が立てたらしい

「夏は蚊が発生するので水は置かないで」

という立て札もあったのがなんとも不思議です。
もし水飲み場を無くしてしまったらうさぎは川も池もないこの島で
どうやって水を飲むのか、って話ですよ。

ボランティアは蚊が発生しないように毎日水を取り替えていたのかな。
どちらにしてもそういう活動をボランティア任せにせず、
もう少し行政の方でなんとかするべきなんじゃないのかしら。

うさぎあっての大久野島なんでしょう?

山頂や火薬倉庫に続く参道はことごとく通行止めとなっていました。
あとでホテルの人に聞いてみると、水害発災以来、環境省の指示で
安全調査が済むまで立ち入り禁止となっているとのことでした。

山頂の中部砲台跡、火薬倉庫、展望台。
これらを見ずして帰って来なければならないとは・・・・。

もう一度行く理由ができてしまったじゃないかー。

海岸に沿った岩壁の上を通る道は舗装されています。
あまり人通りがないのですが、ここのうさぎたちも近づいてきます。

違う毛色のうさぎが四種揃って撒いた餌を食べているところを上から。

人を見ると逃げるうさぎもいます。
餌はどうしているんだろう。

人情として、人通りの多いところより、こんなところで会ううさぎにこそ
餌をあげたいと思うのですが。

そういえば夏目漱石の「三四郎」にそんなエピソードありましたよね。

「乞食もこんな賑やかなところにおらず、
山中の寂しいところにいたら可哀相に思って皆ものを恵むだろうに」

「その代わり1日待っていても誰も来ないかもしれない」

みたいな。

ツーフェイスうさぎ。

「このこ靴下穿いてるね^^」

とみんなに餌をもらっていた灰色うさぎ。

島の北部の高台に到着しました。
ここには北部砲台観測所跡があります。

加農砲、というのは「キャノン砲」のこと。

斯加式十二糎速射加農砲(しかしきじゅうにせんちそくしゃかのん)

は帝国陸軍が1890年から輸入したシュナイダー製砲で、

斯式=シュナイダー式 加式=カネー式

という意味です。
シュナイダー社のギュスターブ・カネーが開発したので
斯加式、というわけですね。

ちなみに山側の地下兵舎跡付近も立ち入り禁止でした。

地図によるとこれが砲側庫。

砲側って何かしら。
陸自の装備に「87式砲側弾薬車」なるものがありますが、
弾薬と人員を運ぶというものなので、もしかしたら砲員のこと?

中はドームになっていて、天井に空気穴が空いています。
雨水が入り込むので、少なくとも弾薬庫ではないと思うのですが。

斯加式十二糎速射加農砲跡。
地面には、砲座を移動させたらしいレールの跡も見えます。

アメリカで砲台跡を今年たくさん見てきたわたしですが、
どうして日本にはこういう遺跡が残っていないのだろう、などと
思ってしまってすみません。

立派な砲台跡がほとんど手付かずで残っているではないですか。

こんなところにもうさぎ穴が(笑)

芸予要塞として砲台が稼働していたのは22年間です。

廃止の理由はまず要塞砲の機能が向上して射程距離が変わったこと、
第一次世界大戦で初めて戦争に航空機が登場したことにより、
国防方針が変更になって新たに大分の豊予海峡に要塞ができたことでした。

大正13年(1924年)、芸予要塞は一度も用いられないまま廃止となりました。

北端を歩いていると、うさぎがはっとこちらに気づき・・・、

早速駆けつけて靴を舐めます(文字通り)
そうか、そうまでして人間から餌が欲しいか!

駆けつけてきた一族の中に黒うさぎの双子がいました。
うさぎの家族意識とか対兎意識ってどんなんなんだろう。

群で暮らし集団行動を取ると言っても、実はうさぎ、
結構縄張り意識が強く、親族以外のうさぎに対しては
あからさまに敵対意識を持って攻撃もするんだとのこと。

道の脇にこんな感じのものがゴロゴロしてるんですが、これって
毒ガス作っていた施設の一部なんじゃないのかしら。

 

 この手付かず感がなんともわたし好みです。

続く。

 


うさぎの国のエリス〜瀬戸内海大久野島 毒ガス製造工場跡

2018-12-06 | つれづれなるままに

週末、わたしは呉地方総監部で行われた
「海将を囲む会」のご招待を受けて行ってまいりました。

諸般の事情によりそのご報告は10日ほど後にさせて頂きますが、
そのお知らせを頂き、またしても呉に赴くための計画を立てているとき、
わたしはものすごくいいことを思いついてしまったのです。

「海将を囲む前にうさぎに囲まれるというのはどうだろうか」

コメント欄で話題になった「うさぎの島」こと瀬戸内海に浮かぶ
小さな島、大久野島は呉より広島空港から近いのです。

というわけで、思い立ったが即実行、直前になって大久野島内にある宿泊施設、
大久野島休暇村の予約を取り、朝一の飛行機に乗りました。

なんども竅の飛行機に乗っていますが、このマークを見たのは初めて。
エンジンはロールスロイスだったんですね。

空港で車を借り、ナビを入れてたどり着いたのは忠海港。
最近観光客が激増しているのか、このような案内所がありました。

中でフェリーの切符を買おうとすると、

「大久野島は島内車で走れませんよ」

「車は停めておけるんですね。休暇村までは」

「シャトルバスが出てます」

「じゃ車で行きます」

いつも持ち歩いているカートでフェリーに乗るのはちょっと、
と思いそう告げたのですが、

「フェリー代がかかりますよ?」

そりゃ普通かかるだろう。
どうも、ほとんどの人は忠海に車を置いていく模様。
しかしわたしは何とかして車で行かせまいとするおばちゃんを振り切り、
2000円くらいのフェリー料金を払って車で行くことにしました。

「囲む会」出席のため着替えのガーメントもあったりして、
とにかく荷物が多かったのです。

車なしで行く人たちのための小舟に乗り込んでいくのは
何とインド人の一家。
お父さんは子供達に全て日本語で話しかけていました。

ホワイトフリッパー(白いヒレ)という名前の船です。
フェリーが来るのに30分くらいここで待ちました。

フェリー到着。
「忠海ー大久野ー盛」とあり、本土と大三島をつなぐ便です。

乗り込むと係りの人に

「一番前に停めてください」

と言われました。
なんと、大久野島で降りる車はわたしのだけだったのです。
(この後一台バイクがきた)

ダッシュボードに「大久野」という札を置くように言われ、
デッキに上がっていると、何と5分も経たないうちに到着のお知らせ。
船着場に着いた後も目にも留まらぬ早業でブリッジが架けられ、
気がついたら大久野島に到着しておりました。

フェリー発着場はすでにうさぎパラダイスとなっております。
ここに来る人たちの目的はうさぎなんだね。

っていうかこの島にはうさぎと毒ガス工場跡しかないわけだが。

うさぎは人を見ると寄っていく習性が・・・ある訳ないだろ。
つまりここのうさぎは人に餌をもらって生きているらしいことが早くも判明。

休暇村行きのバスに乗り込むと、バスの運転手さんの上着が・・。
兎人と書いて「うさんちゅ」と読む。

ホテルのロビーには「うさんちゅコーヒー」もあり〼。

カフェも食堂も充実していますが、それもそのはず、
この島には食べ物屋さんというのは休暇村の中にしかないのです。

ホテルに荷物を預けて散策に出ましたが、チェックインの時

「禁煙お二人ですね」

「いえ、一人ですが」

「(一瞬の沈黙)」

やっぱりこんなところに一人で泊まる人って珍しいんですかね。
「囲む会」には合流する予定のTOですが、今日はどうしても仕事で、
結局わたし一人で来ることになっちゃったんだよう。

この沈黙に何か言わなければいけない気がしてつい、

「事情がありまして」

「はあ・・・・そうだったんですか」

いや、あまり深く考えないでね?

さあ、それでは気を取り直してうさぎに囲まれにGO!

ホテルの前にはすでにうさぎがよりどりみどり状態。
知らなかったんですが、うさぎって窪みに寝るのが好きなんです。

島のあちこちにはこのような窪みがあるのですが、これは
うさぎどもが落ち着くために掘りまくった穴。
見ているとあっちこっちで新しい採掘作業をしていました。

わざわざキャベツ持参でやってくる人たちもあり。

大久野島が昔毒ガス製造工場だった頃の遺跡が残っています。
防空壕を埋めた跡なのかな?などと思ったのですが・・・。


フロントで聞くと1時間あれば島内歩いて一周できるとのこと。
早速一周してみることにしました。

うさぎきたー。

ちょっと歩くと、うさぎが足元に走り寄ってきます。
フェリーの切符を売っていたところで、専用のうさ餌を売っていて、
観光客がそれを与えるほか、ボランティアがしょっちゅう訪れては
世話をしていくので、皆野生の精神を忘れたうさぎに成り下がっているのです。

そこで、わたしは

「5袋買うと1袋おまけ」

というセールス文句にまんまと乗って買った6袋のうさ餌のうち、
最初の一袋を最初に近寄ってきたうさぎに与えることにしました。

休暇村の隣には毒ガス資料館があります。
かつては村上水軍の末裔が住んでいたと言われ、明治時代には
4軒の家があるだけで全人口26人だった島は、
その後逓信省の灯台島隣、さらに日露戦争に備えた芸予要塞となって
島の各地に砲台が作られました。

そして、昭和4年以降は、大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造される
「地図から消された島」となっていたのです。

この資料館には島内に残されていた資料や写真、遺物が展示されており、
入場料は100円です。
館内は一切撮影禁止。
この訳がよくわからないのですが・・・著作権とかの問題じゃないだろうし、
小冊子も売っているのになぜ写真を公開してはいけないんでしょう。

ここで製造されていたのは

血液剤催涙剤びらん剤嘔吐剤

の4種類の毒ガスでした。
また戦争末期には風船爆弾の製造も行われており、館内には

その素材も展示されていました。

「戦争の悲惨さを 平和の尊さを 生命の重さを」

訴える平和の島、というキャッチフレーズは、経年劣化により
ほとんど肉眼では読むことができなくなっています。

決して間違いではないけど、実のところこういう左翼的ウェットさが
わたしはあまり好きではありません。
ただ淡々と史実を隠さずに展示するだけで十分伝わると思うのですが。

問題提起をするなら、展示物も海外の博物館のように写真公開可にするべきです。

中に展示しきれなかった毒ガス製造用の陶磁器器具が外に置いてありました。

例えば左奥は塩酸や硫酸のタンク、右側の孔のたくさん空いた円盤は
イペリット(ルイサイト、マスタードガス、日本ではきい剤)を作る
素材を塩素化する釜の蓋です。

毒ガス製造にはこのように薬剤の影響を受けにくい陶磁器が多く使われました。

ちなみに「きい剤」というのは文字通り「黄」のことで、
陸軍では当時、一般向けに

ちや(茶) 血液剤 シアン化水素(青酸) 
みどり(緑) 催涙剤 クロロアセトフェノン 
きい(黄) びらん剤 マスタード(イペリット)
あか(赤) 嘔吐剤 ジフェニルシアノアルシン
あを(青) 窒息剤 ホスゲン
しろ(白) 発煙剤 トリクロロアルシン

などと色の名前で毒ガスを呼んでいました。
このうち青と白だけは大久野島では生産されていなかった薬剤です。

島内の毒ガス製造工場で働いていたのは最盛期で2000人、
延べ6000人弱と言われています。
工場の資材などをすべて植樹で覆い隠していたため、
米軍の偵察機もここに軍需工場があるとは最後まで気づかず
結果として一度も空襲を受けることはありませんでしたが、
島内には防空壕跡が残されています。

この比較的大きな防空壕は「幹部用」ということです。

現地派遣の陸軍将校や工場幹部だけが使用を許された防空壕。

中はコンクリートのかまぼこ型でそのトンネル状の壕には土が被せられています。
内部は高さ2m、幅2m、長さ約5mと結構な広さでした。

地下に掘られた防空壕の反対側出入り口。
左右どちらからでも逃げ込むことができました。

ちなみに従業員の待避壕は、奇遇というのかタチの悪い冗談とでもいうのか、
今ここで生息しているウサギが自分用の穴を掘るように、
地面に1mくらいの穴をいくつか掘っておいて、万が一の時には
逃げ込んでから上に草木を被せることになっていました。

通称「たこつぼ」というこの退避壕、実際に空爆されていたら
ほとんど防御の意味をなさなかったに違いありません。

その前に工場が破壊されて有毒ガスが流れ出す可能性もありました。
何れにしても攻撃されていたら島は壊滅していたのです。

つまり島内の斜面に見られるこれらの石垣は、防空壕の跡などではなく、
昭和30年代にここをリゾート地にする計画ができ、
休暇村が建設された頃に斜面の補強のために作られたもののようですね。

今現在、この海岸は海水浴場になっています。
うさぎの島となったのは2015年からのことで歴史は浅いですが、
現に観光客のほとんどがうさぎをモフるためにきているので、
島の方も思いっきりうさぎをフィーチャーしています。

 

しかし、戦後この近海では、投棄された毒ガスのボンベなどを拾った
周辺の漁師が被害に遭い死亡するなどという事件も起こっています。

戦後、毒ガス工場の痕跡を消す作業はまず旧日本軍が行いました。
敗戦後一週間にわたって、周辺海域にボンベや製造機械を何でもかんでも
投棄したそうですが、中止命令が出ました。

10月に改めて占領国となったアメリカ陸軍の化学処理部隊がやってきて
ガスの一部と発射筒を焼却、やはりほとんどを海中投棄しています。

イペリットやルイサイトも瀬戸内海のどこかに投棄しようとしたのですが、
機雷の掃海作業が始まっていたため、それは断念したそうです。

ついで処理にやってきたのは中国・四国地方を管轄していたイギリス連邦占領軍でした。

アメリカ陸軍の少佐が指揮をとったこの作業は、瀬戸内周辺の毒ガスを集めて
焼却、土佐沖での海中投棄の後、島全体に次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)
を撒くというものでした。

この時、帝国人絹(帝人)はこの島にあった

「海水から塩を作る機器」

を帝人工場に転用する契約を結んだため、処理に参入して最前線で作業を行なっています。

この時指揮を執ったアメリカ陸軍の「ケミカル・エキスパート」、
W・E・ウィリアムソン少佐(右)は作業をするうちルイサイトに被災し、
体調を崩していっとき戦線離脱しましたが、

「イペリット遺棄作業はイギリス連邦占領軍の敵兵器処理班の手に負えない」

という考えから(信用してなかったんですねわかります)
回復してから復帰して作業をやり遂げています。

さて、こんな感じで遺構を眺めながら、そして道中好みのうさぎがいたら
バッグに隠し持ったうさ餌をやろうと思い、一本道を歩いて行くことにしました。

すると見るからに美貌の(うさぎにも美醜あり)白うさぎが出てきたので、
餌をまいてやりました。

すると後ろから大人うさぎが突進してきました。
仲良ししているのではなく、大人が子供の餌を横取りしようとしているのです。

穴掘り作業中のうさぎ。
ところでうさぎの目ってこんな怖かったっけ?

船が通行する大三島との海峡を望む海岸には、
スコープを覗いて船の速度を調べる方法が書いてありました。
大三島の端から端まで通過する時間を計り、距離とされる
850mを秒で割って時速を出す。

よっぽど暇ならやってみてもいいけどなあ・・・。

この最後に書いてある1999年のギネス記録によると、
世界で最も速い船の速度は時速511kmってのがすごい。
新幹線の二倍って、これなんの船?

海岸の次にはキャンプ場がありました。
キャンプ場には柵があって中にうさぎが入れないようになっています。
テントの周りにうさぎがうろうろしていると可愛いですが、
やっぱり落とすものを落として行くのでね。
(ただし兎の糞は外気にある以上ほとんど無臭、踏んでも問題なし)

このうさちゃんはキャンプ場外のバーベキューテーブルの近くで寝そべっていました。

フェリー発着場まで来ると、高校生の集団とすれ違いました。
近隣の高校が校外学習とかに来ているんでしょうか。
その辺にたむろってうさぎを構い出します。

その中で女の子に「可愛い〜!」と言われまくっていた白うさぎ。
うさぎは白くて当たり前、なんですが、なぜかここでは希少種です。
確かにこの子は茶色や黒のアナウサギとは別の種類で、オーソドックスな
赤い目の「普通のうさぎ」でした。

アナウサギは実は侵略的外来種ワースト100の一つだったりします。

ところでてっきりわたしはここにうさぎがいる訳を、

「毒ガス工場で実験用に使われていたうさぎの生き残り」

だと思っていたのですが、実は実験用のうさぎは戦後、
おそらく毒ガス処理の際に殺処分されてしまい、生き残りも
当時の食糧難のあおりを受けて人々に食べられてしまいました(-人-)ナムー

現在ここにいるウサギは、1971年当時ここにあった小学校で
飼われていたうさぎ8羽の子孫だと言われています。

国民休暇村になった時、マスコット的な動物を入れることになり、
サルやシカなどが検討されたそうですが、結果この8羽を祖として、
現在では鼠算式に増えた結果、700羽になっています。

フェリー乗り場までやってきて自分の車の横を通り過ぎたら
下でうさぎが寝ているのに気がつきました。
明日車を動かす時に下にうさぎがいないか気をつけよう、
と考えながらわたしは島を海岸に沿って歩いて行きました。

 

続く。

 


「ふり向けばきみがいる」〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

2018-12-05 | 自衛隊

各章毎にお話ししてきた今年の自衛隊音楽まつりも、ついに
最終回を迎えました。

演技支援隊が隊長の号令により駆け足でステージを去った後、
アナウンスは、次の章の最初の曲が、今年行われた冬季オリンピックの
フィギュアスケートで金メダルを取った羽生結弦の曲、

SEIMEI

であることを告げ、全体指揮の空自中央音楽隊長、
松井徹生二等空佐が登場しました。

本日のテーマを羽生選手の終わりなき挑戦と結びつけています。

演技曲の通り、太鼓と横笛(鞨鼓と篳篥?)をイメージする雅楽風な出だしを
ピットに上がった中央音楽隊の奏者が演奏します。

「SEIMEI」は楽曲の名前ではなく、羽生選手のスケートプログラム名で、
陰陽師「安倍晴明」のことだそうです。

(なるほど、それで羽生選手はそういう衣装を着ていたのか)

音楽は夢枕獏原作の映画版「陰陽師」のサウンドトラックより、
楽曲を計7曲を繋ぎ合わせて、羽生選手が編曲を自分で行ない、
このタイトルも自らが名付けたということでした。

題名をローマ字にしたのは

「外国人にも親しみやすいように、また『せいめい』という
日本語の単語は複数あるため、それぞれの意味を込めたかった。」

・・・・「生命」「晴明」「姓名」「聖名」

こんなところでしょうか。

Yuzuru HANYU 羽生結弦 2015-2016 FS - SEIMEI

いやー、何度見てもすごい。羽生選手はまさに日本の誇りですわ。

「SEIMEI」のテーマに乗って行進してくるのは
陸上自衛隊第302保安警務中隊。

上下青と白を組み合わせた制服での登場です。
この楽曲の和風の(しかし今や世界的に認知されている)メロディと
保安警務中隊の姿のなんとしっくりと合うことよ。

儀仗隊が赤絨毯を挟んで向かい合うや、本日出演部隊の
国旗を掲げた四名、そしてそれを警衛する儀仗隊員が
奥のステージから登場し正面に向かって進んでいきます。

正面より向かって左側の位置に整列し、最終章の間
彼らはここで国旗を守って起立し続けます。

全出演部隊がステージに整列を行いました。
中央に二手に分かれた空自中央音楽隊、その両側に海自と陸自、
防衛相直轄の音楽隊が、そしてその外側には外国の軍楽隊が並びます。

陸海空自衛隊の専属歌手五名が一列に入場してきました。

陸自中央音楽隊が参加した軍楽吹奏楽の祭典、
ロイヤルエジンバラ・ミリタリータトゥで振袖を着て
「アニーローリー」を日本語で歌った松永美智子三等陸曹(左)
そして先般行われた陸自観閲式では君が代独唱を行い、
CDもリリースした鶫真衣三等陸曹

ところでこのエジンバラでのミリタリータトゥがすごく良かったので
youtubeを上げておきます。

陸上自衛隊中央音楽隊 エディンバラ・ミリタリー・タトゥー・2017

陸軍分列行進曲に続く「アシタカ攝記」、こういうのに弱いわたしは
冗談抜きで(´;ω;`)状態になってしまいました。

マーチのリズムで松永三曹が歌い上げる「アニーローリー」は圧巻。
転調してからのカンパニーフロントではまた涙が・・・。

一番最後の「アシタカ囁記」に戻るところで形作っているのは
侍の兜ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 五人のアカペラによる「ジュピター」が始まりました。

真ん中でリードしているのが空自中央音楽隊の森田早貴一等空士
森田一等空士が艶やかな振袖姿で「ふるさと」を歌っている、
ドイツでの国際軍楽祭の映像もどうぞ。

航空中央音楽隊 ドイツ国際軍楽祭

和太鼓演武で横笛を吹いているのは、冒頭のフルート奏者(多分)です。

「果てしない時を超えて 輝く星は〜」

森田一士のソロ。

各音楽隊が海外での軍楽音楽祭に出演する際、歌手が着物で
歌を歌うというこの流れに先鞭を付けたのも、東京音楽隊
三宅由佳莉三等海曹の功績と言えるのではないでしょうか。

というわけで、これも当然張っておかなくては。

【音楽】海上自衛隊 東京音楽隊 バーゼル・タトゥー2016 参加記録

最後にも三宅三曹は「アメイジング・グレイス」を歌っています。

2コーラス目からは全員が参加しての「ジュピター」。
海外のバンドの人たちは、どうしてホルストの「木星」に
日本語の歌詞が付いているのだろう、と思ったかもしれません。

今年は横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹(中央)が参加して
三宅三曹とのデュエットを聴かせてくれました。

 

そして「ジュピター」エンディングからカウントが入り、曲は

「みんながみんな英雄」

に。

メロディは何のことはない「藁の中の七面鳥」(Turkey In The Straw)です。
会場で最初からずっとこれが鳴っていたわけがわかりました。
(このBGM演奏、明らかに途中間違えていたけど何だったんだろう)

何と最近の日本のポップスシーンではホルストなどのクラシックのみならず
こんな曲までカバーしていたということを初めて知った次第です。
きっとアメリカ陸軍と海兵隊の人たちは「なんで?」と思ったと思う(笑)

 

だいたいわたしなど「ターキー」と聞くと、パブロフの犬的反射で
ミッドウェイ海戦という言葉が真っ先に浮かぶというくらいで、
こんな曲、高校の時のフォークダンス(なんてのがあったのよ)
以来、まともに初めて聞くような気がします。

フォークダンス・・・。

男女が◎状態で逆回転しつつ侵攻(パートナーチェンジ)していくので、
気になる異性と手と手が触れ合う瞬間をドキドキして待ったり、そうかと思えば
ギリギリで音楽終了してしまったり、悲喜こもごもだったもんですよ。
同級生が子供にしか見えなかった生意気高校生のわたしには無縁の話でしたが。

そんな太古の話はともかく、この曲、AIさんという歌手が歌ってます。
わたしはこの人のことも全く知らず、

「エーアイ」

と読んでいました。それは人工知能や。

手拍子を会場に促すカラーガード、ストレートラッパの女性演技隊。
バグパイプにボンバール(ブルターニュ・オーボエ)、太鼓という
特殊な響きを持つフランス軍楽隊所属ラン=ビウエのバガドウには
ソロでメロディーを取っていただきました。

しかしバガドウの「藁の中の七面鳥」、妙にしっくりくる(笑)

自衛太鼓の皆さんも、決められた振り付けを真面目に行なっております。

ラン=ビウエの人たち(フランス人)を見て思うのは、日本人や
アメリカ人ならおそらくそうするであろう、こういう時空気読んで
楽器をやっていなくとも楽しそうなふりをするという忖度はあまり
彼らの文化にはないのではということです。

総員が楽器をやっている間、実に手持ち無沙汰な顔をしていました。

陸自の旗振りお嬢さんのことを紹介する時に「カラーガード」と
書いてしまいましたが、実はこれは空海(特に空自)の名称で、陸自では
「フラッグ隊」と称するということを検索していて知りました。

謹んで訂正させていただきます。<(_ _)>

空自中央音楽隊カラーガード隊。

姫路白鷺太皷とアルプス太皷、支援隊の迷彩服も見えます。

ところで、彼女らが顔をあわせる時にはやはり同じ三曹でも
「先任」とかがあるわけで、ということは階級的に上下があって、
どちらが先に敬礼するとか決まってるんでしょうか。

彼女ら実は「軍人」なんですよね。
松永・鶫三曹は「サージャント」、
三宅・中川三曹は「ペティ・オフィサー・サードクラス」
そして森田一士は「エアメン・セカンドクラス」なのです。

「みんながみんな英雄」

うん、確かに皆すごくいい顔してる。

知りませんでしたが、これAUのCMに取り上げられてたんですね。

「みんながみんな英雄」 フルver AI【公式】

ところでなんでガラスの靴やねん。(つっこみ)

アメリカ陸軍軍楽隊、そして東北方面並びに西部方面音楽隊の皆さん。

彼女に密着したドキュメンタリーも制作されるほど、今や大人気の鶫三等陸曹。
中央音楽隊ではなく中部方面隊音楽隊の所属なので、観閲式で
君が代を独唱したのは「大金星」というものではなかったでしょうか。

歌手全員が専属の専門職となった今回、相対的なレベルが
いやが応にも上がったといっても過言ではないと思います。

技量もさることながら歌手としてのステージングもプロならでは。

ところでふと気になったのですが、彼女らは退官までずっと
現役歌手でいるという契約なのでしょうか。
確か音楽隊員は階級に関係なく60歳が定年だったはずですが。

 

シンガポール軍楽隊は演奏中。ラン=ビウエは待機中。
フランス海軍の水平の帽子に付いているボンボンが、

「狭い船内で頭をぶつけても怪我しないように」

であるというご報告は目から鱗の情報でしたが、それでは
手前の海自カラーガード隊の帽子のような「長い羽飾り」は
何か由来があるのでしょうか。

偉い人(天皇陛下などがこんなのを被っておられた記憶が)が
馬車に乗ったりするときに頭をぶつけないため・・・とか?

ここまで壮大に演奏されると「藁の中の七面鳥」って実はいい曲だったんだ、
と思わされてしまったこの日の最終章でした。

特に細かいところをいうと、

「走って転んで寝そべって」

という歌詞の部分、原曲はコード進行はトニックのまま動きませんが、
このアレンジではE♭メジャーで

Cm7-Gm7-A♭-Adim

と細かく分割してあるのがちょっとした「仕掛け」だと考えます。
AIさんの原曲がそうなっています。 

歌手は皆さんお綺麗ですが、いつ写真に撮っても
歌っている姿が絵になっている松永三曹。

この二人も笑顔が自然で素敵。
中川三曹は今回特別参加という形でしたが、音楽まつりのステージでも
その圧倒的な歌唱力を遺憾なく発揮しておられました。

いや、三宅三曹とともに、圧倒的ではないか我が軍は(笑)

というわけで、曲が終了しました。

国旗を先頭に全出演部隊の退場です。
この時の音楽は、

「栄冠は君に輝く」

古関裕而大先生が作曲されたところの高校野球のテーマであります。
昭和23年、戦後学制が改定されて、この年から

全国中等学校優勝野球大会」が「全国高等学校野球選手権大会」に

改正されることになったことをきっかけに生まれた曲だそうで、
もう70年間甲子園の象徴となっています。

皆が楽しげに手を振る退場において、第302保安警務中隊だけは
きりりと表情を引き締めたままいつも通りの端正さを崩さず。

右と左手に退場していく音楽隊、そして歌手の皆さん。

アメリカ海軍、陸自方面隊音楽隊。

海上自衛隊東京音楽隊。

防衛大学校儀仗隊メンバーは両手バイバイで退場。

ドラムラインにいた女子学生の姿も見えます。

これを最後に引退する4年生の皆さん、悔いのない武道館でしたか?

シンガポール軍楽隊のみなさん、紅蓮の炎、良かったよ!

さりげなくみんなと一緒に踊っていた演技支援隊。

オープニングと同じ形式で行うエピローグは再び消灯ラッパです。

最終章を指揮した空自中央音楽隊隊長の敬礼。
スポットライトが消えると、
本当の本当に音楽まつりは終了です。

会場外の地本コーナーには東京地本マスコットの
トウチくんが熱心にお仕事をしていました。
去年はこれに本部長が入っていたということで、
一部騒然となったものですが、今年はどうでしょうか。

先日ある会合で自衛官が、

「今は世の中が景気が良く(仕事があるので)自衛官の募集が厳しい」

と本気モードで嘆いておられました。
が、この音楽まつりはこれから世の中に出ていく青少年に
自衛隊に興味を持ってもらうための最大の広報イベントでもあります。

今年も、この期間に何人もの若い人たちが、自衛隊という世界に
「挑戦」する気になってくれたことを心から祈りつつ、
本年度の自衛隊音楽まつりの報告を終わります。

 

 

 


「君を乗せて」空自中央音楽隊〜平成30年 自衛隊音楽まつり

2018-12-03 | 自衛隊

前回、「出演太鼓チームの写真を全部上げる」としておきながら、
大変失礼なことに掲載漏れがありましたので追加しておきます。

 

この名前を付けた人はセンスがある、といつも思う、

松本アルプス太皷

長野県松本駐屯地は第13連隊が所属します。
この7月の人事で、同駐屯地からは12年ぶりとなる
普通科部隊の特技過程(前線を担うための武器使用訓練)に
女性自衛官二人が加わることになったという地元ニュースを目にしました。

市民タイムス記事

「迫撃砲を撃つしおりとさくら」って、もうこの字面だけで萌えそう(笑)

姫路城の別名「白鷺城」からその名をとった

姫路 白鷺太皷

名前といい、白に紫の襟をあしらった衣装もまた美しい。
この名前もよくお見かけするから常連チームかな?

彼らが所属する姫路駐屯地は、レンジャー部隊などが出動して

姫路城天守閣の清掃

を行ったとき、「まるでニンジャなんだけど」と
世界的な話題となったことがありました。

白鷺太鼓のメンバーにも、この時忍者呼ばわりされた
清掃作戦参加隊員がいるんじゃないでしょうか。

後掲載していないのは熊本西連太皷の写真なのですが、
前方からの写真に失敗してしまいました。

熊本西連太皷は西部方面特科連隊に所属するチームです。

 

ちなみに太鼓名を書いた幟を持つ隊員ですが、よく見ると
この長くて大きな幟をまっすぐ立ててそれを保ち続けるだけでなく、
この写真の全員による演舞の時には、幟の下方を持って
全員で、あるいはウェーブのように右から左に順番に
はためかせたりして、ものすごく仕事をしていました。

地味で当人は目立たないけど結構力がいる大変な任務だと見た。

 

さて、ここからが第4章、テーマは

「空の挑戦〜広がる、明日の空へ〜」

スクリーンにはF-35Aが映し出され

「我が国の防衛に多大なる貢献が期待されます」

というアナウンスが行われました。

自衛太皷の演奏が終わった後、中央に太鼓セットが残り、
空自音楽隊とのコラボ演奏が始まりました。


太鼓の総本山となる北海自衛太皷がその役を果たすのは当然ですが、
空自のステージということで、入間修武太鼓の奏者も加わっています。

太鼓は宮崎駿監督映画「もののけ姫」の戦闘シーンに使われた
久石譲作曲、

タタリ神

から始まりました。

久石譲のオリジナルスコアには和太鼓が指定されています。

『タタリ神』もののけ姫より

パリ公演でもちゃんと和太鼓が登場しています。
音楽まつりでの演奏はこのためにアレンジされたものですが。

自衛太皷を用いた導入は意外で、今年は趣旨替えをしたのかな?
と思ったら、その次からおなじみ白と青の衣装が登場。

同じ宮崎映画の「天空の城ラピュタ」のファンファーレ、

「ハトと少年」

に乗せて二人のカラーガードが白い旗を靡かせます。

どういう基準で選ぶのかはわかりませんが、カラーガードは
音楽まつりでの空自のシンボル的存在です。
毎年、北は北海道から南は宮古島まで、全国の航空自衛隊基地から
選ばれたたった20数名が、この音楽祭のステージを飾ります。

選考の方法はわかりませんでしたが、きっとオーディションとか
選考会とかを経て決まるんではないでしょうか。

左はソロでファンファーレを演奏するトランペット奏者。
トップを飾ったカラーガードのうち一人は、どうやら
体操部出身者ではないかと思われます。

左手に旗を持ったまま残りの片手をついて回転。
バク転ではありませんが横転でもありません。

やったことがないからわかりませんが、多分旗を持って
回転するのは持たないより難しいと思います。

主人公のパズーが城壁の上でトランペットを吹くシーンの音楽です。

メロディは原曲とは少し面持ちの違う行進曲風に代わり、
これも空自のシンボルであるストレートラッパ隊が登場。

ストレートラッパは装飾用のバトンのようなラッパのことで、
この女性演技隊をこのように呼んでいます。

ちなみに今回こんな入札情報を見つけました。4年前ですが。

航空自衛隊ストレートラッパ隊の衣装外

これも入札して外注しているんですね。
入札を執り行っているのは市ヶ谷なので、普段この衣装は市ヶ谷に
格納されているのかもしれません。

にしても衣装「外」ってどういう意味なの。

 

このマーチングの間、後ろのスクリーンにはずっと
ブルーインパルスの演技が映し出されています。

そうか、彼女らの衣装はブルーインパルスを表していたんですね。

「ゴンドアの思い出」で静かなメロディをリコーダー(多分)のソロが拭いた後、
曲は「ロボット兵」に代わり、ただならぬ騒然とした雰囲気に。

この時、後ろのスクリーンではスクランブル発進するF-15の様子が
緊迫感のある雰囲気に乗って映し出されていました。

全体の照明は赤、カラーガードが使用するフラッグも赤基調のもの。

白とブルーの爽やかなひらひらした雰囲気だけが空自ではない!
と言わんばかりの変化に満ちた構成です。

「天空の城ラピュタ」という題材そのものが空自にぴったりですし、
その中から短時間に次々と移り変わるアレンジにも感心しました。

ストレートラッパ隊の二人がその中を決然と歩んでくるこの部分のクライマックス。
この二人は戦闘機、そしてスクランブルで国籍不明機は撃退されたと(たぶん)

この後はバンドが作る円の中を白と青がひらひらと踊りまくります。

今年は下手なことをするのを一切やめ、プログラムオートにして
シャッター速度もISOもカメラさんにお任せしたのですが、
シャッター速度は1/30〜1/250の間で適度にブレてくれました。

わたしのようななんちゃって一眼持ちには実にありがたい賢さです。

これなどピントが甘すぎるとは思いますが、おかげで
ストレートラッパの回転軌跡が綺麗に出てくれました。

ヘリコプターの写真を撮る時、ローターの回転を撮るために
シャッタースピードをあえて落とすようなものですね。

この時の曲の名前がどうしても出てきません。
うちで引いている有線の「どんぐりの森のメロディ」(笑)というチャンネルを
ずっとつけていたらそのうちわかると思うのですが。

ピアノソロで「君をのせて」が始まりました。
「天空の城ラピュタ」の音楽について詳しくなくとも、
この曲を耳にしたことがないという人は少ないのではないかと思います。

バンドが風車の形を象り(難しそう)それが回転するステージを
黄緑色の旗を持った二人が縦横無尽に走り回ります。

ところで、この部分のピアノを弾いていたのは
空自の歌手森田早貴一等空士だったのに気づかれましたか?

彼女のプロフィールを改めて見ると、

「ヴォーカル&ピアノ担当」

ということで、どちらも専門として音楽隊に所属しているようです。

卒業大学は愛知県芸、つまり横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹と同じ、
(中川三曹は確か大学院も出ていたと思いますが)
専攻は声楽なのでピアノは副科ですが、お上手だったんでしょうね。

音楽大学というところは、たまに副科も本科並みに上手い人がいるものですが。

そういえば東京音楽隊の新しいキーボーディストも確か県芸だった記憶が。
県芸、何が起きているのだ・・・。

「君を乗せて」はセンチメンタルなマイナーのメロディで始まりますが、
「さあ、出かけよう」の転調の部分から雰囲気が明るく
前向きなものに変わります。

これは、やはり宮崎作品「母を訪ねて三千里」のテーマソング、
「さあ、出発だ 今 日が昇る」の部分と同じコンセプトです。

つくづく「さあ、」って転換に便利なフレーズね。

ここで一瞬ですがカンパニーフロントを持ってくるのが心憎いじゃないですか。

後はクライマックス一直線で、今年も空自らしいスマートな中に
結構硬派なマーチングで魅せるステージが終了しました。

おっと、まだ終わってなかった。

最後に飛行機の形を作って「空の精鋭」を後半だけさらっと演奏。

いつもの「全員の上をブルーインパルスが航過」という演出はなくなり、
その代わりこの「航空機」が滑走路を飛び立つ様子が投影されました。

あのフラッグが通り過ぎる「お約束」もいいものでしたが、
この演出もなかなかスマートな空自らしくて(・∀・)イイ!!と思いました。

空自中央音楽隊が捌けると今回会場に最初から鳴っていた
「藁の中の七面鳥」(なぜこの曲?と思ったけど最後で謎が解けた)
のメロディの中、陸自の支援隊が赤絨毯を敷く作業に入りました。

これも音楽まつりの恒例として、裏方である支援隊が紹介されるのです。

まるで演技のように全員の動きは美しく揃っています。

この絨毯敷き作業も、練習やリハーサルを行うのでしょうか。

「立場は違えどこの音楽まつりに挑戦する思いで
この音楽まつり進行を陰で支えてまいりました」

紹介のアナウンスにもさりげなく今年のキーワードをちりばめて。

東部方面隊から編成される演技支援隊、敬礼です。
音楽まつりというイベントが、そもそも陸自が毎年主導で行なわれているそうです。

演技支援隊を指揮するのは第32普通科連隊の二等陸曹。

彼らが聴衆に敬礼すれば、音楽まつりはいよいよ最終章を迎えます。

 

続く。

 

 


自衛太鼓・彼らは如何にしてここまで来たか〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

2018-12-02 | 自衛隊

第3章のタイトルは、

飛翔、昇りゆく挑戦。

です。
「君の名は。」方式というのか、最近タイトルに「。」を打つのが
ほんのりと流行っているようで、ここにもその傾向がありますが、
不思議なのは、序章の

「挑戦、始まる。」

と第3章以外は「海の挑戦〜繋がる、希望の海〜」とか
「終わらぬ挑戦」といった具合で統一されておらず規則性が全くないことです。

「。」も 何らかの意図があって用いているなら、
そのつもりで全部これを貫いて欲しい。と思いましたまる。

さて、重爆の隅をつつく(お約束)ような苦言は読み流していただくとして、
続いては自衛太皷です。

自衛隊音楽まつりでしか聴けない、大人数での太鼓の連打。
この地鳴りの中にあるような太鼓の響きに心を揺さぶられない人はいません。

今回、TOはわたしと同じ日に、地方防衛団体の会長でありながら
音楽まつり初体験という方とご一緒したそうですが、その人も
自衛太皷にいたく衝撃を受け、あれが一番感動した!と言っておられたそうです。

自衛太皷は北海道の幌別駐屯地を根拠に置く
「北海自衛太皷」が中心となって行われます。

この理由を、わたしは当日の朝、早くから開場を待つ列に並んでおられた
元自衛官という男性から初めて聴きました。

このかたは自衛官時代、自衛太皷で毎年音楽まつりに参加していたそうです。

そもそも太皷を自衛隊に導入したのは北海自衛太皷です。

もともと登別には、個人が祖となって起こした「北海太皷」という
太鼓の流派がありました。

昭和38年、北海道登別在住の大場一刀氏が「奥越太鼓」を基に編み出し、
太鼓チームを結成し、北海道の荒々しい風土と雄大さを表した郷土芸能が、
この「北海太皷」です。

北海流れ打ち

これが北海太鼓の代表的作品です。

程なく、大場氏の地元登別にある陸上自衛隊幌別駐屯地の自衛官有志が、
地元住民との交流のツールとして、そして隊員の士気高揚に役立てたい、
と、創始者である氏に直接手ほどきを受けて始めたのが

「北海自衛太鼓」

だったのです。

「北海太鼓」を演奏するため発足した北海自衛太鼓は、
その後太鼓が全国の基地駐屯地に波及し、その指導という役割を担うようになっても
自衛官としての任務とは別の、余暇活動という位置付けです。

楽器や衣装など、地元の寄付がある場合もあるのかもしれませんが、
基本自分たちで賄いながら活動しているのが現状だそうです。


北海自衛太皷が生まれたのは、創始者の大場氏が
北海太皷なる流派を編み出してからわずか2年後のことでした。

「北海太皷」と「北海自衛太皷」は共に歩んできた歴史があり、
両者はそれぞれのオリジナルを数多く世に出してきました。

2017年 りっくんランドオータムフェア  北海自衛太鼓 SL

例えば原野を走るSLを表した、こんな作品も。

その後自衛隊の和太鼓チームは全国の基地駐屯地に次々と誕生し、
今では200あまりもの太鼓クラブが存在しています。

如何に自衛太皷が一同に集まる音楽まつりといえども、
全チームを出場させるわけにいきません。

どうするかというと、毎年、出場を決める選考会があって、
それを突破した
チームだけが、日本武道館にくることが出来るのです。

うーん・・・これって何かに似ている。

そうだ、甲子園だ(笑)

今年はチームごとに演奏しているところを正面から撮ることができたので、
全チームを順番にご紹介していくことにしましょう。

八戸陣太鼓

海上自衛隊の八戸基地に行ったとき、飛行場を挟んで
向こう側に陸自の駐屯地があったものです。

ちなみに八戸陣太鼓のハッシュタグの中にこんなのがありました。

♯みんなでかます

元自衛太鼓の方によると、たくさんの中から選考をくぐり抜けてくるチームには、
甲子園の強豪校のように連続出場を可能とする「常連太鼓」があるそうです。
朝霞駐屯地の朝霞振武太鼓もその一つ。

朝霞振武太鼓は、もともと第31普通科連隊に所属していましたが、
平成14年から第1施設大隊に引き継がれました。

彼らを指導する「北海自衛太鼓」も実は幌別駐屯地の第13施設隊です。

これまでの音楽まつり(といってもわたしが参加するようになってからですが)
で初めて見る名前のような気がします。

名寄朔北太鼓

名寄。
確か札響の道内ツァーに付き合ったとき、
車で通り過ぎた覚えがあります。
(そんなことでもなければ一生行かないだろう稚内とか猿払なんてところにも)
近くの士別というところでご飯を食べていたら、お店の人に

「どこからきたの?札幌?やっぱり都会の人は違うねえ」

と好奇心満々で話しかけられたというくらい、とにかく人のいないところでした。

北海道中部で、名寄駐屯地の海外派遣以外の主要任務はバイアスロンではないか?
(しかも連戦連勝)というくらい雪深い地域です。

調べてみるとわたしの予想通り、朔北太鼓が音楽まつりに出場したのは
平成18年以来二回めでした。

善通寺十五連太鼓

香川県善通寺にある善通寺駐屯地。
戦前は陸軍の師団が置かれ、当時の煉瓦造りの歴史的建造物が残ります。

最近のツィッターによると、

「新しく入った人もいる中で、日本武道館に立つことが出来ました! 」

やっぱり武道館に来られるだけで嬉しいんですねえ。

はっぴの職人風、柔道着風と様々なユニフォームの中で、
紺色の袴着用なのは

小倉ひびき太鼓

北九州の小倉駐屯地に所属するチームです。

滝ヶ原雲海太鼓

静岡県御殿場にあって、自衛隊総火演ではおなじみの滝ヶ原駐屯地。
当チームが発足したのも平成14年のことです。
やはり立ち上げに際しては総本山の北海自衛太皷に指導を受けました。

信太菊水太皷

信太山駐屯地は、西南の役や日清日露戦争に名を馳せた
旧陸軍野砲兵第四聯隊が大阪から移駐して創設された
旧軍跡地にあり、ここは戦後アメリカ軍に接収され、
その期間は海兵隊の下士官養成学校に使われていたそうです。

旧将校集会場など旧軍時代の建物も多く残るとか。
うーん行ってみたい。

現在では第37普通科連隊とその支援隊が駐屯しています。
夏の広島豪雨災害では、呉市などに展開し、活動を行いました。

この体勢は腹筋のない人には無理(笑)

陸自駐屯地がほとんどの太鼓クラブですが、これも常連の
入間修武太鼓は、唯一の空自基地所属太鼓チームです。

ところで海自には自衛太皷のチームはありません。(たぶん)
どうしてかというと
海上自衛隊という「基礎が海の上」である業務の形態上、
太鼓を練習するという場所がなく、そもそも人が揃わないことが多い、
つまり練習ができないということではないかと思います。

さらに入間では空挺隊員を降下させるC-1の運用という点で
陸自とつながりがあることから発足したのではないかと想像されます。

チーム別の演奏のトリを飾るのはいつもの総本山、北海自衛太鼓。

音楽まつりの太鼓演技は当たり前ですが毎年内容を変えなくてはなりません。

演技を創作し構成するのが北海自衛太鼓の役目であり、それを全出演チームに
指導するのも、彼らのトップの責任なのだそうです。

元自衛太鼓の人とたまたま話をするきっかけがあったので、わたしは
此れ幸いと兼ねてから気になっていたことを聞いてみました。

「どうやってこの大人数であそこまでぴったり音が合わせられるんですか」

そのとき聞いた話をそのまま書いておきます。
今現在その通りかどうかは裏を取っておりませんので念のため。


まず、出演チームが決まるのは9月頭頃。

全国すべてのチームが応募してくるとは限りません。
人数不足で出演希望する段階に行かないチームもあるようです。

出場決定チームはオーディションのような形で決めるそうですが、
その際、万が一、隊員に誰か一人でも

不祥事を起こした人がいたら

出演は取り消されるのだそうです。

「うーん・・・やっぱり甲子園だ・・・・」

出演が決まったチームはいえええい!と快哉を叫び(たぶん)、
張り切って、代表者一人を登別の士幌駐屯地に送り込みます。

この代表者が北海道で演技内容を叩き込まれて帰って来るので、
チームのみんなは、それを元に練習をするわけです。

各チームは11月までに代表者が教わった通りの演舞を
体に叩き込んで覚えます。

「全員の音合わせは武道館が初めてなんですか」

「いやいや、そんなんじゃあれだけ合わせることはできませんよ」

そこで全員が集まることができるどこか(富士山の駐屯地だったかな)で
一週間の特訓を行い、朝から晩まで太鼓漬けになって演技に磨きをかけます。

「ちょっと待ってください。一週間ということはその間仕事は」

「しません」

「てことは公務扱いなんですね」

「公務です」

すげー!

自衛隊は、この太鼓演技を一般への広報活動と位置付け、
その完璧な仕上がりを任務達成目標としているってことなんですね。

でも、公務として太鼓合宿なんて、きっと皆楽しいだろうな。

・・・いやそんな甘くないか。バチを落としたり酷いミスをしたら、
腕立て伏せとかグラウンド3周とか、厳しい罰則がありそう。

陸自だし。

写真に撮って太鼓を打ち鳴らす各自の「面構え」といった面持ちをみていると、
ほとんど全員が額を汗でびっしょり濡らしているのに気づきます。

しなやかな腕の筋肉が躍動し、鍛えられた肢体は自在にその形を変え、
何と言ってもその眼差しは炯々と、獣のように鋭く一点を見つめています。

一年に一度のこの時期、武道館で彼らの太鼓が織りなす雷鳴のような響きに
身を委ねるたびに、同時にこの一人一人が、実は国を護る自衛官であることを思い、
なんと頼もしいことか、と、わたしは感動にうち顫える想いがするのです。

続く。


防衛大学儀仗隊 ファンシードリル〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

2018-12-01 | 自衛隊

平成30年度自衛隊音楽まつり、第3章のテーマは

飛翔、昇りゆく挑戦。

で、これから自衛隊指揮官という世界に挑戦すべく
飛翔せんとしている防衛大学校から、儀仗隊の登場です。

今年の音楽まつりに登場しているのは60期から63期まで。
防大儀仗隊のホームページはいつまでたっても鋭意工事中なので、
詳しいことは全くわかりませんでしたが(忙しいんだろうな)
出場しているのは全員ではなく、卒業生中心の選抜メンバーだと思われます。

63期は音楽まつりが終わったら引退して後進に道を譲ることになっています。

演技前、会場のアナウンスでは

「防衛大学校は国際士官候補生会議などを通じて国際的視野をも涵養しています」

と紹介されました。
国際士官候補生会議?
アナポリスやウェストポイントとも交流があるのか?
と興味を持ってHPを開いてみたら、それは防大内に設置された

International Cadets' Conference

通称ICCなる組織のことでした。

これは防大に諸外国の士官候補生を招へいして国際会議を実施し、
国際情勢及び安全保障に関する討議等を行い、各国と我が国の将来の
安全保障につながる相互理解と信頼関係の促進を目的とするものです。
(とHPに書いてありました)

この会議は

米、英、伊、印、インドネシア、豪、カナダ、韓国、シンガポール、

タイ、中国、チュニジア、独、仏、フィリピン、マレーシア

等の国の士官候補生を招へいし、8日間程度の日程で行われ、
その目的とは

1.学生に対する国際交流の機会の付与(国際感覚の醸成)

2.学生の国際的視野の拡大、

3、国際情勢認識

4、語学力の向上

4は特に日本の士官候補生には大事なことですよね。

さて、演技です。
始まるなりキビキビと隊形を卍に整え、しばしドリルを行ないます。
投げ上げた銃が完璧に地面と平行なのにご注目。

まず放射状となって回転するマーチング。

小さな十字はだんだん人を巻き込んで大きな十字となって回転します。

馬てい形のフォーメーション。

何年か前には近くに座ったおばちゃんたちの軍団が、彼らの一挙手一投足に
「かわいい」「かわいい」ときゃあきゃあしていたものですが、

こういう年頃の息子を持つ身になってみると、その気持ちがわからなくもありません。

年頃のお嬢さん方なら「かっこいい!」と目が❤️になるところ、
わたしどもはとにかく「かわいい!」となってしまうわけです。

高校野球の選手が「大人」から「お兄さん」になり、「同世代」、
「年下」となっていつの間にか息子の世代になるようなもんですね。

彼らが「孫」に見える日ももう目前です(しみじみ)

馬てい形となってからのドリルは、左から右、右から左と銃回しや銃投げ、
膝をついたりが目まぐるしく移り変わっていきます。
まあこれは文章など読んでいないで映像を見てこられるのが一番です。

最後に、一番端の隊員は一人で敬礼しつつ連続で銃を回し続けます。

これがまず会場を沸かせます。

この技のことを「夢幻」というそうですが、やはり

「延々と回し続ける」=「無限」

からきているのかな。
防大儀仗隊のドリルは彼らが主に米海兵隊のドリルを参考にして取り入れ、
名前をつけて代々受け継がれている技で構成されています。

前にも書いたことがありますが、防大に儀仗隊ができたのは開校して
3年後ということなので、初代儀仗隊だったOBはもう80代になっているのです。

無限を行う時、敬礼しながら会場をぐるりと見回すのもお約束。
この「美味しい役」はおそらくこれを最後に引退する
4年生に与えられるのでしょうね。

というか、演技をしているのは袖の桜を見ると4年生中心のようです。

第302保安警務中隊のと違いこちらは「ファンシー」なドリルなので、
動きが華やかで、銃を投げる動きは頻繁に行われます。
しかし、これも今までの
音楽まつりで銃を落としたのを見たことがありません。

取り回しがしやすく美しいため儀仗に使われているM1ガーランド銃は
4.3kgとそれなりに重く(というか普通にかなり重いよね)特に
白い手袋をしていると取落すなど精度も下がると思われるのですが。

会場の隅に立っている二人の隊員が(おそらくこちら側にも二人)
銃を持っているのは、演技者に何か起こった際渡すためでしょうか。
しかしこの銃が実際に機能したことなど、過去の防大儀仗隊の歴史には
一度もなかったのではないかと思われます。

右端の隊員にも「見せ場」があります。
最後に思いっきりジャンプしながら銃を投げ上げて・・・、

高々と宙を舞う銃をしれっとキャッチ。

「今年は女子が多いですね」

リズムを担当するドラムラインを見て連れが呟きました。
言われてみると確かに。
大太鼓が女性だとすればメンバーのうち
半数近くの四人が女子生徒です。

しかも皆さん楚々として可愛らしい方ばかり。
このお嬢さん方が自衛隊指揮官として将来護衛艦の艦長になったり、
これからは戦闘機パイロットとなる可能性だってあるわけか・・。

それどころか、この学年が将官を輩出する将来には、もしかしたら
すでに初の女性幕長だって生まれているかもしれません。


ところで余談ですが、うちのTOはよく最近の学生や若い社会人を評して

「みんなのび太君としずかちゃんみたい」

と言っております。

この意味は、なべて最近の青年はおっとりしすぎて覇気がなく、
出世したりのし上がってやるぞ!というギラギラした野心が見られない反面、
女子は皆きちんとやることをやり、優秀な人が多いという傾向だそうです。

一般的に優秀な女性が社会に出て頭角を現すため、こう見えるのは
最近に限ったことではありませんが、特に最近、

TOのいる業界でも男性の「総のび太君化」が著しいのだそうです。

一般論として自衛官になろうとする青少年に覇気がないわけがないので、
男性「のび太君化」は自衛隊には関係ない話だと信じたいですが、
一方これから自衛隊という職場に、しずかちゃん的女性が今まで以上に
増えてくることは間違いありません。

自衛隊が女性自衛官の登用を一層推し進めている理由の一つに
深刻な人手不足があるというのも厳然たる事実なので。

ということはどういうことかというと、これからは相対的に
真面目で優秀な女性自衛官が増え、そのいずれかは
自衛隊のトップにのし上がる可能性も無きにしも非ず、ということです。

おっと、話が逸れました。

儀仗隊演技の途中には、会場が真っ暗になった瞬間発砲する場面があります。
わたしは火花が出る瞬間を撮ろうと、待ち構えていて会場が暗くなった瞬間
シャッターを切ったのですが、タイミングが合いすぎて画面が真っ白になっていました。
ISO感度の下限を設定していたので露出オーバーになったんですね。

しかも次のチャンスに全く同じことをして、真っ白な写真をまた撮りました。
うーむ、全く学習しない奴。

ファンシードリル演技最後のクライマックスに行われる
「銃のトンネルくぐり」。
正式になんというのかは知りません。

HPのメンバー紹介によると儀仗隊への入隊動機のほとんどが、

「防大でないとできないことをやってみたかった」

そして

「かっこいいから」

この二つのどちらかです。

かっこいいといえば、ただ指揮刀を持ってまっすぐ歩くだけの
この時の指揮官ほどかっこいい存在はありますまい。

きっとこれがやりたくて儀仗隊を目指す子もいるよね。

隊長だけがつば飾りのついた佐官クラス風の帽子をかぶるのを許されますし、
何年か前の端正な容姿の儀仗隊長など、その年の音楽まつりの顔として
DVDの
パッケージに大アップを飾ったというくらい目立つ存在です。

とにかく彼らの親御さんは嬉しいだろうなあといつも思いながら見てます。

音楽まつりの最終日最終回、このトンネルをくぐりぬければ、
儀仗隊長の儀仗隊生活は終わりを告げます。

他の儀仗隊メンバーの4年生たちにとっても、彼らの4年間は
これで終えて悔いのないものであったことを願って止みません。

全員が「夢幻」をしながら敬礼、隊長は抜刀し敬礼。

全ての演技を完璧に終え、防大儀仗隊退場です。

指揮官は松高諒典学生。

ドラムメジャーはシンガポールからの留学生、
ジョエル・ン・ジア・ジュン学生でした。

儀仗隊に留学生が加わっていることはたまにあるようですが、
ドラムメジャーとして名前を呼ばれたのは、わたしの知る限り
彼が初めてです。

彼は今回招聘バンドだったシンガポール軍楽隊の人たちと交流できたでしょうか。

 

続く。