ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍軍楽隊かく戦へり

2011-06-01 | 海軍

画像は軍楽隊下士官の夏衣袴です。
ななめがけのショルダーバンドは右腰につけるバッグに繋がっています。
この下士官はどうやら喇叭手らしく、このバッグはビューグル喇叭を収納するケースです。
バッグのふたにはお洒落で素敵な桜に錨マークが入っておりまして、
靖國境内の骨董市なんぞでもし見つけたらふらふらと買ってしまいそうです。


この骨董市で、先日
「帝国海軍仕様、発光信号灯、携帯型、錨マーク付き」
を全く使用できないものであるにもかかわらず2万円で買うかどうか真剣に検討したエリス中尉でした。
(今では買わなくて良かったと心から思っています)

この骨董市はいろんな「旧軍もの」が売られているので有名ですが、
このほか、陸軍にいてなぜかその後海軍にもいたという飛行兵曹の写真、寄せ書きのある国旗、書類、戦歴、
(銃弾だらけの機に乗ってニッコリ笑っている写真も)があって、これもまた2万で売っていました。
こちらも、この方の人生をブログに挙げるだけのために買い取ろうかと真剣に考えたのですが、
わたしなんぞより、だれかノンフィクションライターや月刊誌○の編集部の方なんかが手に入れた方が、
ずっと有効に活用される気がして涙を飲みました。

この名も無い軍人さん、なんだかちょっとした戦記もの小説の主人公になりそうな、すごい経歴でした。
陸軍から海軍に「コンバート」できる、というのも驚きでしたが。
こういうものが一切合財売りに出されているというのは何なんでしょうね。
遺品整理でしょうか。

それにしても、ある戦士の生きた証、一切合財が2万円。
安いのか高いのか。


さて本日の話題。軍楽兵のお仕事は勿論のこと音楽です。

自分にできるのは音楽による御奉公しかない!と熱く志望した人ももちろんいましたし、
「軍楽隊なら銃も持たなくていいし、楽器吹いていればいいんだし」
という消極的な選択で少しばかり歌がうまいくらいの人が応募してくることもあったようです。
実際には練習と罰直で死ぬほどつらい目に合い、ある者は艦と運命を共にし、
ついには陸戦隊として楽器を捨て銃を持って戦い・・・・。

どんな人も海軍軍楽隊に楽な配置など無い、と、すぐに知ることになったでありましょうが。


今日は軍楽兵の本来の仕事「演奏」についてです。
銃を手に取って戦うのではありませんが、軍楽隊の音楽が軍の意気を鼓舞させるという意味においても、
軍楽隊は必要欠くべからざるものでした。

たとえば戦後、機雷の掃海作戦に従事し、海自の幕僚幹部も務めた兵学校67期卒の市来俊男氏は
1997年の軍艦行進曲の碑完成記念にこのような言葉をのこしています。


「(67期が)海軍兵学校に入校した直後の4月3日は、神武天皇祭の祭日で休日であった。
入校したばかりで外出のできない新入生のために、呉海軍音楽隊の演奏が行われた。
生徒館の中庭の満開の桜の木の下で演奏する隊員の肩に、軍楽の音に合わせ、
ひらひらと桜の花びらが降りかかっていた。

曲目も「青きドナウの流れ」「双頭の鷲の旗の下に」「敷島艦行進曲」と続き、
甘美な、あるいは勇壮な音楽に、若い生徒たちはこれから始まる海軍の生活に思いを馳せ
心を躍らせて和やかなひとときを楽しんだ。
最後は「軍艦マーチ」で、万雷の拍手のうちに演奏会は終わった」


想像するだけで美しく、何か胸にしんと響くような光景ではありませんか。
それにしても、「双頭の・・・」は紛れもなく当時の仮想敵国アメリカの行進曲。
しかしこの頃はまだ音楽に国境はまだ存在しなかったようです。


軍楽隊は海軍のイメージアップにも大きな寄与をしました。
5月27日は海軍記念日です。
この日には横須賀海兵団から派遣された海軍陸戦隊のパレードが銀座通りで行われました。

大編成の海軍軍楽隊はこのネイビーブルーの軍服に白の脚絆をきりりと巻いた陸戦隊の行進を吹奏楽でリードし、
そのマーチのはなやかな響きと陸戦隊のスマートさは皆の憧れを誘ったと云います。
戦前はこの「海軍銀座行進」は、これが来ると夏の衣替え、という時期のいわば
「季節の風物詩」のようになっていたそうです。

この銀座行進についてはまた書きますが、この海軍の「モテモテぶり」に、陸軍も負けじと
3月10日の陸軍記念日にパレードを始めたということです。

パレードをリードする演奏は、当然ですが楽器を持って歩きながら行います。
大太鼓やチューバなど、大きな楽器は当然重量だけで大変ですが、
楽器が小さいからと言って楽かといえばさにあらず、
この行進で主になる金管、木管など吹奏楽器は、演奏経験があれば御存知かもしれませんが、
演奏そのものにかなりのエネルギーを要するものです。

この銀座行進もずっと演奏し続けるのは実に大変なことです。
しかし、沿道の熱い視線や歓声を受けたりすると、
その晴れがましさで苦労を苦労とも思わなかったりするのでしょうね。


昭和12年、重巡「足柄」が英国国王ジョージ6世の戴冠式記念観艦式のため欧行しました。
帰りに盟邦ドイツを訪問し、このときも市民の大歓迎を受けて陸戦隊が(パレードは陸戦隊の専門だったようです)軍楽隊に率いられ、4キロの行進を行いました。

このとき指揮をしたのは軍楽隊で最高位だった内藤清吾少佐。曲は勿論「軍艦」です。
ベルリン市民は右手をあげてこの行進を歓迎しましたが、群衆が全く切れ目なく迎えてくれるので
生真面目な日本の軍楽隊は音楽をやめることができず、延々とエンドレスで1時間もの間軍艦は繰り返されました。

内藤隊長率いるこの軍楽隊「甲隊」は、当時の精鋭ばかりを選り抜いて作った45名の大編隊でした。
当時の内藤隊長の部下でこの行進に参加した人の話によると、
かれらは全員1時間20分くらいまでは連続演奏に耐えうるだけの技量を持っていたそうです。


軍楽隊の特訓の一環、富士山頂での演奏、という写真を見てのけぞったことがあります。
「山頂まで大きな楽器をどうやって運んでいったのか」
「空気の薄い山頂で金管楽器など吹けるのか」
などといった疑問が次々に湧きあがる光景でした。

今でもブラスバンドの世界は演奏がうまいチームのことを「強い」と称します。
その体育会的体質が昔から不思議でならなかったのですが、今は何のためらいもなく、
「それが軍楽隊の流れを引くものであるから」と言いきってしまいます。


このベルリン大行進のとき、内藤隊長選り抜きで信頼のさしもの精鋭たちも、行進が終わったときは
ほとんどの楽員が唇を腫れあがらせていたということです。


さて、行進は桜のひらひら散るような情緒のある季節にばかり行われるわけではありません。
海軍は毎年一月十五日を「海軍始め」と称していました。
この日に観兵式が行われるわけですが、御存じのとおりこのころの寒さは半端ではありません。
(当時は現在より確実に平均気温も低かったわけですからね)
こんなときにもわが海軍軍楽隊は1時間余にわたって軍艦行進曲をエンドレスで演奏し続けなくてはなりません。
これを戦いと言わずして何と言うのでしょうか。

銀座大行進のときのように憧れのまなざしで見つめてくれる女子学生もいませんし、
ベルリン行進のように熱狂的にハイルしてくれる同盟国国民もいやしません。


こんなものは、ちょっとでも早く終わっちまうにこしたことはありません・・・・よね?


ちなみに行進曲「軍艦」のテンポを御存じですか?
1分間に114、つまり百十四歩の行進です。
このテンポを軍楽隊はどう取っていたかというと、大太鼓奏者が所持するスイス製の懐中時計型メトロノームを
114に合わせ、テンポを大太鼓がリードしていたのです。
(指揮者はじゃ何をしていたんだ、って?まあまあ)

これはどういうことかというと、行進を早く終わるも遅く終わるも
大太鼓奏者の胸先三寸にあったと言うことでもあります。


さて、木枯らし吹きすさぶ寒い海軍始めの日、行進前に下士官が
「大太鼓いいか」
と声をかけます。
これは
「今日は寒いから早く終わらすようにテンポ上げろ」
という暗号です。
何しろ観兵式と一言で言っても一万名余の大行進、テンポを114から118に上げるだけで
かなりのスピードアップです。


ある年の海軍始め、行進が終わってから副官がやってきました。

「今日は少しテンポが速かったのではないか?」
「ぎくーーーっ」(下士官以下全員)

しかし、そこは歴戦の戦士大太鼓奏者、その頃にはメトロノームを114にきっちりと戻しており、
副官にみせつつ、しれっと

「いいえ、指定速度です」



その後彼は皆からその労を大いにねぎらわれたということです。