前回、1997年現在存在していた海軍関係の諸団体についてご紹介しました。
やっとのこと半分強紹介することができたわけですが、今日は後半と参ります。
前回、海軍予備学生の兵科の会が一期ごとにあり、その人数も多数に上るというところまで説明しました。
予備学生が「飛行、整備」という区分分けから、さらに
「兵科、飛行科、整備科、機関科」
という4区分に分けられたわけですが、
潮会(400名)
は、この飛行予備学生の1~16期、1~3期生徒の会です。
「生徒」と「学生」、これは全く別のものです。
海軍予備員たる海軍予備少尉(昭和18年以降は海軍予備員たる海軍少尉)を予備学生、
予備少尉となるための教育を一定期間受けるものを予備生徒、と称します。
過去何度かお話ししたことのある土方敏夫海軍大尉は、この予備学生13期の卒業です。
翼友会(140名)
海軍航空技術廠関係者の会。
のちに空技廠と呼ばれるこの機関は、日本海軍航空機に関する設計・実験、航空機及びその材料の研究・調査・審査を担当する機関でした。
軍直属の機関なので、当然研究と開発が主眼と思いきや、実際に飛行機の設計や生産もやってしまっていた、
というのが何か日本戦後の「技術屋魂」のスパークの導火線を感じさせるこの機関の実態ですが、
生産効率を度外視した「理想追求路線」に走るきらいが(彗星とか)あったようです。
しかし、当時の技術者達は陸海何れも俊英揃いで、後に公職追放等で国鉄また民間企業に散らばった後も
各方面で活躍して日本の産業界の復興、発展に尽力しました。
新幹線の開発、自動車産業の発展、電子産業の発展には彼等の功績が大です。
ちなみに先般「はやぶさ」が探査した小惑星「イトカワ」。
その星の名、糸川博士その人がかつて開発に携わったのがあの一式戦闘機「隼」でした。
これはご存知のように陸軍機ですが。
海交会全国連合会1万6千名
物凄い人数ですが、これは特務士官”等”の会です。
鎮守府関係ということなのですが、この”等”が何を含むのかまでは分かりませんでした。
海原会(8千名)
ご存知予科練全体の連合会です。
予科練というのは海軍飛行予科練習生の略。
まるで成績表のような分け方をしたため、非常に当事者たちの心証が悪く、
昇進の早さの違いから対立まで生んだというというこの甲乙丙ですが、
制服と言い、軍歌と言い、スマートなセンスと合理性の横溢する海軍で、
この辺りは確かにデリカシーがないとしか部外者にも言いようがありません。
実はABCにしようとしていたが、英語はさすがにいまどきまずかろうというので、急遽甲乙丙にしたのでは?
と勘ぐってみる。
この甲乙丙ですが、甲飛が一番古いのではありません。
新制度での練習生募集の際、何故か元からいた予科練習生を乙、新しい募集者の方を甲、と称したのです。
これがまず(甲飛以外から)評判が悪かった理由でしょう。
何しろ当初からいた乙飛は全国からの志望者5807名中のわずか79名の合格者たる超エリートだったのです。
さらに、最も古い操練は丙飛と改名されました。
甲飛ならそれでは問題はなかったのかというとそうでもなく、
この甲飛募集の際、海軍は飛行兵欲しさに、誰でも海兵並みの出世ができる、
と勘違いさせるような美辞麗句を連ねたため、入ってから彼らはかなり不満をもったようです。
なかでも、飛行兵として入った海軍でジョンベラの恰好をさせられるのには皆不満たらたら。
そう言えば丙飛卒の方に写真を見せていただいたことがありますが、セーラー服に飛行帽、というお姿でした。
七つボタンの凛々しい予科練専用の制服は、そんな彼らの不満を抑えるために制定され、
この制服に憧れて予科練志願者は増えたということです。
その丙飛は操縦練習生、偵察練習生にの制度に代わるものとして昭和一五年発足しました。
余談ですが、戦争末期、飛行機不足で訓練どころではなく、
ツルハシやモッコを担いでの基地や防空壕建設が主な仕事になり、
彼らは自らを「どかれん」と嘆いたそうです。
さて、この予科練関係者の団体は全部で五つ。
甲飛会全国連合会(1万2千名)
予科練雄飛会乙種出身者(7千名)
丙飛会(632名)
この丙飛も、名称ができたのは昭和15年ですが、遡ると大正9年にすでに
「操縦練習生」 「偵察練習生」 という名称で発足していたものが予科練に組み入れられ
名称変更したものです。
因みにこの丙飛会の説明は
「部内選抜パイロットの会」
となっており、会長は航空ファンにも有名な零戦パイロットである大原亮治氏です。
特飛会(2千名)
特乙飛、というのが一番最後に発足した制度です。
乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成をはかったもの。
飛行機が足りなくなって少数精鋭に移行せざるを得なくなったからでしょうか。
さて、後半はほとんど予科練の説明になってしまいましたが、この旧海軍関係の団体は勿論のこと
楽水会海軍軍楽隊関係者(500名)
もあります。出身者にシャープス・アンド・フラッツの原信夫氏がいます。
海軍特年会(4千名)
これは海軍特別年少兵の関係者。
「男たちの大和」の神尾君や西くんらジョンベラの軍団ですね。
「昭和の白虎隊」と呼ばれていたりします。
こういうふうに冠を被せることにお怒りの向きもあろうかと思いますが、
わずか14、15歳で戦いに身を投じていった少年兵はまさに白虎隊の紅顔の戦士たちに重なります。
財団法人海軍歴史保存会
財団法人水交会
いずれも海軍の歴史、そして海軍の伝統精神の継承を目的とする団体です。
海軍精神の守り手というところでしょうか。
そして最後に
海軍軍装会
これはですね。
海軍の軍装を着用、戦没者の慰霊、顕彰を行う会、
という説明なのですが、着用するのが戦争に行った当事者なのか、
それとも慰霊顕彰の際若い人たちが軍装で並んで敬礼してくれるのか、
その辺はこの一行からは全く分かりません。
8月15日の靖国神社に軍装をした一団(でも、決してウヨクっぽくない雰囲気の)がいましたが、
全員陸軍だったし。
この会がどういうことをしているのかぜひ知りたいのですが。
ところで、この団体名簿には協賛団体、つまりスポンサーの広告があるのですが、
横須賀の和風スナック(隊友会推薦のお店)などと並んで
小松
という宣伝が。
もしかして、これって・・・・・あの
パイン「小松」?
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予科練甲九期会 第1021海軍航空隊)予科練出身者で構成されています。是に賛同する海自現役の方やOBの方等で構成、年間七回の靖國参拝を
行っています。会員総数50名、財)水交顧問の方始め至って真面目に参拝をしております。
8.15の日だけを見るとただのパフォーマンスに見えてしまうのは仕方が無いと思いますが
会長以下粛々と参拝を続けている現実が軍装会の実態です。ま、とやかく書かれたり、誹謗中傷されたり多々ありますが私共の会運営は一貫して変わらず続けますし何と言われようが帝國海軍の御霊と陸軍、軍属の英霊に敬意を払い続けたいと思います。
私が靖国神社で見た陸軍の軍装の方々も、そのような趣旨の元に参拝されていたのかもしれませんね。
わたしがこの稿を書くときに参考にした資料は水交会の発行したもので、それ自体には説明が全くありませんでした。
(連絡先が書かれただけのページでしたので)
インターネットにも全く会についての情報がなかったので、ここで稿を結ぶしかなかったのですが、このように当事者の方からコメントを頂き、大変光栄に存じます。
8月15日、靖国で軍装をしている方々を「お調子者や右翼」と決めつける文章をわたしも読んだことがあります。
実際に観る方々の佇まいからは決してそのような浮わついたものは感じなかったので、これは明らかに偏見に基づくものだろうと思っていました。
慰霊の形も様々あるべきだと思いますが、その慰霊のあり方をむやみに非難したりする人々というのは、どんな立場に立ってものを言っているのか、と思います。
英霊は決して何かを語ることは無いのですから。
これからも、会の趣旨に沿った慰霊を恙無くお続けになることを心からお祈りしております。