震災が起こった直後、新国立劇場公演オペラ「マノン・レスコオ」は中止を余儀なくされました。
その後の公演はいずれも何人かの歌手がキャンセル、全て代役を立てて行われました。
わたしは通しセット券を持っていたのですが、特例で払い戻しをし、これらの公演には行っていません。
しかし、先日メトロポリタンオペラの歌手が「日本は安全だ」と宣言する為にキャンペーンを行い、
来日をキャンセルするアーティストたちに呼びかけたなどという動きを受けて、
この「コジ・ファン・トゥッテ」「蝶々夫人」は、キャンセル払い戻し不可になりました。
というわけで渡米寸前、この「コジ」を鑑賞してきましたので、ご報告。
え?挿絵がヘンだぞ、って?
ときどき、古典オペラの演出には現代的な服装をさせる演出が行われます。
ダニエル・クレイグの「007慰めの報酬」では、劇中劇「トスカ」が上演されますが、この演出も
「現代の服装で巨大な人の眼球を模したセットの前でピストルによる殺人が行われる」
というものでした。
トスカの場合、音楽的にも現代的な演出に違和感はあまりないのですが、
この公演のように音楽は古典、しかし、舞台は現代アメリカのキャンプ場、という
あまりに突飛な組み合わせだと、しばらくは違和感に苛まれっ放しで
慣れるまで時間がかかるのはいかんともし難く、当初落ち着かない気持ちで聴いておりました。
ところで夏場アメリカに行ったことのある方。
アメリカ女性ってほとんど真ん中の女性みたいな恰好をしていると思われませんか。
今現在アメリカにいる私ですが、一歩外に出れば若い女性はまさにこんな人ばかり。
ビーチサンダルを履けばさらに完璧。
そう、かなりふくよかな方でもタンクトップ、キャミソールにショートパンツかジーンズ、日本女性のように
「私二の腕が太くて恥ずかしいから袖のあるものを」などとは夢にも考えないお国柄。
左は小間使い役のデスピーナですが、この世界では
コーヒーショップ・アルフォンソのしがないウェイトレス。
しかしこの格好はどう見てもここだけ50年代ですね。
さて、このオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」ですが、いわゆる「取り違えもの」です。
この言葉はたった今私が作りました。
つまり、相手を別の誰かと勘違いして巻き起こる騒動を描いたものですが、
これには少し説明がいるでしょう。
昔、電気の無かった時代、夜、それも月の無い夜は我々の想像以上に世の中は暗く、そして
「暗くて相手が誰だかわからない」という今ではあまりないような間違い、あるいは
「夜陰に乗じて」というような色々なコトが得てして起きたのだと思われます。
同じモーツァルトの「フィガロの結婚」にも相手を勘違いして延々と口説くシーンがあるのですが、
「いや、いくら暗くても自分の連れ合いと口説く相手を間違えたりしないだろう」
とつい思ってしまいます。
で、このコジですが、題名の意味は
「女はみんなこうしたもの」
愛する婚約者とアツアツで幸せいっぱいの二人の士官に、哲学者がある日賭けを持ちかけます。
「彼女たちの貞操を試してみないか?」
恋人が眼の前からいなくなり、少し毛色の違う男に熱烈に口説かれれば、どんな女だって落ちるものさ、
という哲学者ドン・アルフォンソ(この演出ではキャンプ場のコーヒーハウスのオヤジ)の挑発に乗り、
自分たちの恋人を試すことにします。
原作では二人は戦争に行ってしまったと見せかけ、エキゾチックな異邦人に扮して二人の前に現れます。
さて、アメリカのキャンプ場、いかに夜は暗いといえどもこれをどうやって演出するか?
そう、真面目でダサい二人がカツラと皮ジャン、サングラスで「チョイ悪」風に。
二人は颯爽とバイクでキャンプ場に乗りつけ、相手を取り変えて猛烈アタック。
うーん、この「取り違え」の元々の設定に「それはない」とこれまで思ってきましたが、
これなら騙されるかも。
キャンプ場の夜、という設定も、そう考えるとなかなか説得力があるではないですか。
皆さんも覚えがありませんか?
キャンプファイヤーの炎に何故か気持ちを掻き立てられ危険な恋の予感に心ときめかせたあの日・・・。
ありませんかそうですか。
つまらない生活の退屈しのぎとばかり、このアルフォンソの企みに「いっちょかみ」し、
二人の姉妹に「気晴らしが必要だわ」とかなんとか、浮気をけしかけるデスピーナ。(冒頭画像)
古典のオペラではこの「小間使い」は、こういう悪だくみや悪戯を仕掛ける役回りです。
すっかりその気になって比較的あっさり黒髪のグリエルモに陥落するドラベッラ。
罪悪感にさいなまれながらもついにはフェルランドの軍門に下るフィオルデリージ。
何と、イケイケの男性陣の押しに負け、二人は何とキャンプ場での結婚式を承諾してしまいます。
そこに兵士たちの歌声が響き、婚約者たちが戻ってきたと知らされる姉妹。
狼狽する彼女らのもとに変装を解いたフェルランドとグリエルモが現れ、結婚証書を見つけて激怒し、
限りなく気まずい空気が流れるのですが、ここからが問題です。
原作ではこの後どうなるかというと
「姉妹は平謝りする。そこですべてが種明かしされ、一解して幕となる」
というほろ苦いがとりあえずハッピーエンドを迎えるのですが、この日は、何とこの後、
この恋人たちはお互いの不実に絶望し、コーラの缶を蹴ったりふてくされたりして、
どう見てもこの後仲直りなどしそうにもない不穏な空気のままエンディングを迎えてしまったのです。
現代に舞台を移したがゆえに、
「一度でも他の男(それも自分の親友)に心を許してしまった恋人とはもうやっていけない」
という方が現代の世相心情にぴったりするという考えあっての演出でしょうか。
何かとコミカルな演出が目立っただけに、この終わり方には
「いや、そこまで現実路線で行かなくても」
と何か後味の悪さのようなものを覚えました。
原作通りでよかったんじゃないでしょうか?
あえてこの重い結末を意識してのことでしょうか。
指揮はこの本来テンポの良いオペラを比較的じっくり振っていたように思います。
出演者は非常事態を反映して主役のうち一人を除いて全員が代役。
その一人であったドラベッラ役の歌手が、カーテンコールの時にマジ泣きしていたのが印象的でした。
その他大勢の合唱は当然のことながら他のキャンパーという設定。
全員カジュアルなショートパンツやらジャージやら(前半水着もあり)、
何やら折角お洒落して行っても舞台がこれではなあ、と少し「損した感じ」がないでもないというか。
この衣装が自前で、彼らが公演終了後そのままの格好で帰宅した、に100ユーロ。
あ、もしかしてオペラも省エネ化?