ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

林谷忠中尉の恋人

2011-06-25 | 海軍

林谷忠海軍大尉。海軍兵学校67期。
昭和17年8月8日 ツラギ在泊敵船団雷撃陸攻隊掩護中敵と交戦、戦死。


ラバウルの台南空の写真には、笹井中尉とともにこの林谷中尉が
大きな体をいつも右に傾けるようにして写っています。
昭和17年6月30日、台南空の分隊長になり、同じ日に分隊長になった笹井中尉に先駆けて
ガダルカナルで散華しました。


「大空のサムライ」には、抜擢されて分隊長になり、自信がないとうなだれる笹井中尉を
坂井三郎氏が手を取り励ました、というドラマティックなエピソードがあります。
桟橋で脚を夜光虫の光る海につけて語り合うシーンが実に感動的なのですが・・・・
最近、このエピソードの真偽も眉唾に思えてきました。

・・というのは、この林谷中尉も同日付で台南空の分隊長に昇進しているわけですね。
これは実際には、中島大佐や小園飛行長が機械的に
「上の者がいなくなったから67期分隊士が分隊長に昇進」
と割り振っただけ、という気配が濃厚。

昭和17年の初頭に、台南空は若尾晃大尉(1月)、浅井正雄大尉(2月)を相次いで失っています。

小園大佐が坂井さんに
「まだ役不足だが仕方ない。手を貸してやってくれ」
というのであれば、当然この林谷中尉のことも話に出ないと不自然だからです。
特に笹井坂井のコンビが仲良しだったので、
「貴様は特に仲がいいんだからひとつ頼むよ」
という話くらいはあったのかもしれませんが。


あくまでもドラマティックに仕立てられた話と知っていても、
本当であってほしいと願う気持ちが次々とこうやって打ち砕かれていくと、
知るということはある意味失望とセットになっていると思わざるを得ません。



さて、その坂井さんの存在故に何かと有名になってしまった笹井中尉の陰に隠れて、
ほとんど話題にならない台南空分隊長の林谷中尉。

写真を見ると学生時代は相撲では模範に抜擢されていたという大きな体で、
また剣道の達人でもあったという文武両道派ですが、
ひっそりと控えめで穏やかな空気を湛えています。

あだ名は「トンちゃん」。


このトンちゃんは、気は優しくて力持ちの典型のような海軍士官でした。


最初の艦隊乗組は「榛名」。
休養地に入ると、「どこかへまっしぐら」というようなクラスメートも多い中、
トンちゃんの上陸は皆と少し趣を異にしていました。
そのへんの子供たちを数人集めて遊んだり、艦に連れてきて中を案内してやったりするのです。
そして、次の泊地についてしばらくすると遊んでやった子供やその親などからお礼の手紙が来るのですが
「こんな可愛らしいことが書いてあると」
と、細い眼を余計に細めてニコニコしながら級友に読んで聞かせるのです。


そして、ただ優しいだけではないこんな一面もありました。
兄の武司さんと映画に行ったとき、やくざ風の水兵と武司さんがトラブルになりました。
林谷少尉は「ガンを付けてきた」水兵に対しその
「人一倍細い象のような目で」静かにしかしじっと見返しました。
その気迫に負けた水兵は棄て台詞を残してその場を去っていったのでした。

当時水兵より上官である少尉であった林谷中尉が一言、
背広こそ着ているが実は士官であることを言えばたちまち形勢は逆転したであろうに、
それをしなかったというのがその人格を物語っています。



トンちゃんには恋人がいました。

この時代の青年にとって、戦争に行くから結婚するのか、それともそれだから結婚しないのかは、
それぞれの人生観を問われる大問題だったと思われます。
戦地に赴くのにわざわざ婚約を破棄するものがいれば、
短い日々と知りつつも結婚生活を送るものもいました。

笹井中尉に婚約者がいたという話を聞いたことがあります。
その姉妹がともに海軍士官に嫁いでいる軍人の家の長男であれば、
家を継ぐために両親によって決められた婚談が早々にあったとしても全く不思議ではありません。
ほとんど顔も見ずに、親の決めた相手と結婚するのが普通であった時代です。

そして当然のことながらその「婚約」は果たされなかったわけですが、
笹井中尉がラバウル赴任前にそれは破棄されたのか、
それともその死で終わってしまったものかはわかりません。
しかし、一般的に家督の相続と軍人としての覚悟の板挟みになりつつも、
結局結婚しないことを選ぶ若者は多かったのでしょう。

林谷中尉もそうでした。

養父母から勧められた美しい令嬢との見合い話を
「俺は死亡率の高い空軍に奉職する身、長生きはできないし又考えたことも無い。
結婚して前途有望な娘さんを後家にはしたくない」
という理由で断っています。


林谷中尉は戦争に今から突入する前夜、兄武司さんにこう語りました。

「大和魂が日本にあるように、彼らには冒険精神に富んだヤンキー魂がある。
大変困難な戦争になるだろう」

さらに
「最初の最後の孝行として、老父母の将来のため生命保険の大きい奴を私から進んで契約した。
今まで頂いている俸給は全部使うことに決めているが、わがままを許して欲しい」


そのとき、武司さんは
「結婚が駄目なら恋愛だけはチャンスがあれば大いにやった方がいい」
と弟に力説しました。
その後兄の愛情あふれるアドバイスに従ったのであろう林谷中尉が
「恋人からの手紙を楽しむように出しては読みだしては眺めていた」
のを、同期の今泉三郎氏が記憶しています。


林谷中尉のおそらくこの世で最後の写真になったと思われるのが、
ラバウルで8月4日に撮られた台南空搭乗員の集合写真です。
林谷中尉は笹井中尉の左で相変わらず少し右に身体を傾けた姿勢で写真に収まっています。

この四日後の台南空の行動調書には、林谷中尉が
「列機の鈴木正之助二飛曹、荒井正美三飛曹と共同で水偵二機と交戦中行方不明になった」
と記されています。



呉にある林谷中尉の実家で葬儀が営まれてまもなく、一人の美しい女性が九州から弔問に訪れました。
「林谷様に生前懇意にしていただいた者ですが、せめて焼香をさせてください」
彼女はそういい、仏壇の遺影と対坐し、しみじみと静かに冥福を祈り、
名も告げず去っていったそうです。


林谷中尉が眺めていた写真の女性であったのでしょう。
九州から訪れたというのは、彼女が林谷中尉の大分の航空隊時代の知り合いだったからでしょうか。
もしかしたら結ばれないという悲しい覚悟の上でその最後の日々に恋に落ちた、
美しい芸妓だったのでしょうか。


ともあれ林谷中尉のその短い人生に、一輪の花が添えられていたことを、
遺族は今でも慰めにしているのだそうです。













最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。