ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

米国陸軍地形技術隊(開拓時代から南北戦争まで)〜ウェストポイント博物館

2020-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

少し前にアメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントを見学し、
学内見学ツァーについてここでお話ししたことがあります。

もう昔のことなので記憶にない方のためにもう一度、
ウェストポイントを外側から見た景色をご紹介しておきます。

歴史的なシャーマン戦車が飾ってあるこの門は、
いわば一般見学者が誰でも入っていけるようになっています。

本当の学内に入るには、許可を得たもの以外は、見学ツァーだけで、
彼らは必ず専用のバスで入場しなくてはなりません。

もちろん、当たり障りのないところを回るだけなので、
名前や所属などの申告を行う必要はありません。

見学ツァー申し込みは前もって行う必要はなく、現地に行けば、
ツァー受付のあるこの建物に入っていって、申し込むだけです。

この建物にフレデリック・マレクと名前がありますが、これは
かつてのウェストポイント卒業生です。

「frederic malek」の画像検索結果

マレク(1936−2019)は陸士卒業後ベトナムでは空挺団に勤務、
帰還後ハーバードビジネススクールで修士号を獲得し、
のちにマリオットホテルやノースウェスト航空の社長を務めるほか、
共和党所属の政治家として活躍しました。

彼の名前が付されているのは、彼がウェストポイントの
訪問者委員会の会長を務め、ビジターセンター設立のための
基金キャンペーンを行ったからですが、彼自身その年の卒業生の中で
特に優秀だったという理由もあります。

というわけで、わたしは全く知らなかったのですが、わたしが訪れた時
このビジターセンターは1年前に設立したばかりだったというわけです。

ビジターセンターには、かつての卒業生が寄付した博物館があり、
訪問者は見学前にその展示によってウェストポイントへの理解を
深めることができるという仕組みになっています。

学内ツァーが終わった後、わたしたちは学校内に併設されている
ウェストポイント博物館の見学をガイドに勧められました。

ここもビジターセンターの近くにあり、誰でも入館できます。

博物館の歴史は大変古く、最初にコレクションが公開されたのは
1854年だったそうです。
当時はそれこそ武器コレクションだったわけですが、時代を経るうちに
軍事史にまつわる遺物が集まって現在の形になったのです。

武器などのコレクションは学内の様々な場所を転々としていましたが、
現在の場所で公開されるようになったのは1988年以降です。

展示は大まかに分けて

「アメリカの戦争」

「米軍の歴史」

「戦争の歴史」

という流れになっています。

まず、独立戦争頃のアメリカ軍の制服からご覧ください。
モップみたいなのをもっていますが、これは砲に
弾薬をこめるための大事な兵器です。

右側上は、憲法制定について描いた絵で、真ん中に立っているのが
もちろんあのジョージ・ワシントンです。

アメリカ合衆国成立後、創設された軍隊についての展示です。
左は、1785年、最初のアメリカ軍の太鼓手です。

最初のアメリカ軍人の制服は、独立戦争のときに大量生産された
ストライプの布の余切れで作られたということですが、
言われてみれば、赤白のストライプが基調になっていますね。
ただし全員ではなく、この目立つ色は「軍楽隊」専用でした。

このころは、フランス革命に参加したベテランが帰国して、
独立戦争に
関わることになりました。

右側は合衆国で最初に成立した軍隊の歩兵(二等兵)です。

右側肖像画の軍人は、アーサー・セントクレアという当時の政治家です。
独立戦争では、タイコンデロガで戦った経歴がある軍人ですが、
この人が知事になってやったことの一つに、
インディアンとの戦争(というか土地を奪うための迫害)があります。

「懲罰的遠征」と称する侵攻部隊を編成しますが、
このときマイアミ族、ショーニー族との戦いに破れ、
「セントクレアの敗北」として歴史に残ることになりました。

この絵はどちらも、セントクレアの敗北でけちょんけちょんにやられているアメリカ軍。

顔に網をかぶっているようですが、顔中に刺青を入れ、
頭頂を残して髪を剃り上げ、残った髪に羽などの飾りを結び付けています。
このイロコイ族の戦士の姿は当時の絵画に残されていたもので、
写真が残っているわけではないようです。

十七世紀の「バフコート」と呼ばれる皮のコートで、
分厚い皮を使用することによって簡単な鎧の役割を果たしました。

刀はもちろん、矢もある程度は防ぐことができたようです。

1847年の米墨戦争で編成された第3ドラグーン連隊の二等兵。

中央メキシコへの遠征に割り当てられ、ベラクルスに上陸して戦いました。

何か海軍的なものがあったので、注目してみました。

「地形技師」(トポグラフィックエンジニア)のドレスコートだそうです。

1841年ごろ、アメリカ陸軍には、士官学校卒士官による

「米国陸軍地形技術隊」 US Army Corps of Topographical Engineers

というのが組織されており、国家的土木工事となる灯台や沿岸要塞、
航海路の制定を行うという任務にあたっていました。

南北戦争の前には工兵隊に統合されましたが、そのころには
五大湖の湖沼調査などの仕事なども行っています。

ウェストポイントで教育を受けた選り抜きの技術者だけで編成され、
大変社会的地位は高く、通常の兵科士官よりもランクは上とされました。

この「軍団」の軍事遠征は当時秘境であったアメリカの開拓を行う
「探検隊」のような任務を負っていたということもできます。
たとえば・・・・。

レッドリバー遠征!(1806)

ミシシッピ川の源流を探せ!(1806)

アーカンソーとレッド川の源流を探せ!(1807)

ミシシッピ川探検!(1817)

ラスボス!イエローストーン遠征(1819)

秘境!テキサス国境探検(1842)

カナダ国境、前人未到の秘境を訪ねて(1846)

大陸横断鉄道ルートを探せ!(1855)

ほか多数(川口浩探検隊風に)

上の測量機もおそらくこのために開発されたものでしょう。

「リングゴールド陸軍少佐の死」

と題されたドラマチックな版画です。
サミュエル・リングゴールドはウェストポイント卒の砲兵少佐で、
1846年に行われた米墨戦争で両足に銃撃を受けたにもかかわらず
持ち場を離れることを拒否し、三日後に死亡したという人物です。

アメリカはこの人物を英雄として称え、「リングゴールドの死」
という歌も作曲されたということですが、
我が日本でいうところの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎、広瀬中佐、そして
陸軍の肉弾三勇士的位置にあったというわけですね。

ここからは南北戦争関係の展示です。

以前、ジャズのスタンダードナンバーで、
「オールド・ピープル(昔の人)」という、南北戦争を経験した
当時の老人たちを歌ったナンバーがあることをご紹介しましたが、
その歌詞に、

「ブルーのために戦ったのか、それとも灰色か」

という一節がありまして。

南北戦争、英語でいうところのシヴィル・ウォーは、ご存知のように
アメリカ国民が南北に分かれて戦ったわけですが、
そのため、南北戦争そのものが「ブルー&グレー」とも呼ばれています。

つまりここにあるブルーの制服は北軍のものですね。

上の絵画は、南北戦争の兵士を描いたもので

「カードに興じる少年」

当時は戦争に年齢制限はなかったので、この絵のような
子供もまた、戦争に参加していたということのようです。

南北戦争といえばご存知ゲディスバーグの戦いですね!

なぜ有名かというと、この戦いが南北戦争の決戦となったからです。
両軍の総力を結集したこの戦闘によって、アメリカ合衆国軍の優勢が決まり、
アメリカ国軍の敗北、そして消滅につながりました。

ちなみに、アメリカ国軍を「南軍」合衆国軍を「北軍」というのは
日本だけで、南北戦争というのも日本独自の呼び方なんですよ。

ご参考までに。

南北戦争の起こった1861年当時、医学は戦争という
過酷な現場で役に立つほど進歩していたわけではありませんでした。

この戦争によって、まず野戦病院のテントが開発され、戦場近くの
ホテル、学校、倉庫、工場、住居が病院として供出されました。

この戦争における全戦死者に対する病気での死者は数%で、
最も多い死因は下痢と赤痢によるものだったと言います。
戦場における非衛生的な滞在が原因です。

そして当時の外科医は、彼らのカウンターパート同様、
無害な生物と病気の原因となるものを区別することもできませんでした。

そして、どちらの軍においても、外科医は
「Sawbones」と兵士から呼ばれていました。

「骨を見る人たち」、つまり、医師の治療とは怪我をした部分を
ただ切除するしかなかったことからきています。
当時の医療ではそうするしか方法がなかったということですが、
問題は切断したからと言って死なずに済むとは限らなかったということです。

麻酔とクロロフォルムはどちらも頻繁に利用されましたが、
それによって死ぬ人も多く、麻酔は痛みを和らげるよりも
安楽死に多く必要とされることになりました。

しかし、戦争も後期になってきた頃には治療もオーガナイズされ、
救急車(写真一番上)などが投入されるようになって、連合軍は
まだましな医療を受けられるようになったといいます。

 

いずれにせよ、どちらの軍隊にとっても、本当の英雄とは、
死んだ人ではなく、
病人や長引く負傷の苦痛に耐え抜いた人だった、
と当時有名な軍医も言っています。

 

上の写真の人がいるテントは「野戦病院」で、一番下は
テントを並べた野戦病院での治療の様子です。

南北戦争で戦場において使用された医療箱です。
当たり前ですが、全ての入れ物は瓶です。

右側、当時の手術道具、左はそれを運ぶ鞄。
手術道具と言いつつ、ノミとトンカチがあるのが怖い。
(まあ今もそうですけど)

当時の医学的資料で、負傷した骨の見本。
右は多分大腿骨かどこかだと思いますが、すっぱりと下で切られています。
左はこれどう見ても銃弾を受けた頭蓋骨ですよね?

これらは全て死んだ兵士の死体から研究のために切り取られたものだそうです。
((((;゚Д゚)))))))

黒人ばかりで組織された部隊「バッファロー・ソルジャー」は、
アメリカ史上初、正規のアメリカ陸軍の平時の黒人だけの連隊として、
議会によって創設され南北戦争にも参加しました。

バッファロー大隊については、当ブログで取り上げていますので、
詳しいことはそちらでどうぞ。

バッファロー大隊

当ブログ的にはものすごく見覚えがあるこのシェイプ、
南北戦争で使われた浮遊機雷じゃなかったですか。

「インファーナル・マシン」(地獄のマシン)

という厨二的な名前がついていたという記憶もあります。

わざわざ金色のプレートに

「南軍の魚雷」

と書いてあります。
石炭魚雷という名前のこの魚雷は、中に爆発物で満たされた
中空の鉄の鋳物が入っており、南軍のシークレットサービスが 
北軍の蒸気機関車による輸送に害を及ぼすことを目的に作られました。

石炭の間の火室にシャベルを入れると爆発を生じるもので、
機関車のボイラーに損傷を与え、エンジンを動作不能にします。

最悪の場合、壊滅的ボイラー爆発によって火災を起こし、
さらには船を沈めることもできました。

魚雷とありますが、必ずしも海でなく、陸で使われるもの、
地雷と現在定義されるものも全て当時は「トルピード」と呼んでいました。

ただいま治療中。

米西戦争の後、陸軍が占拠駐在していたキューバで黄熱病の流行がありました。

黄熱が蚊によって媒介されるという仮説を立てたのはキューバの医師でしたが、
陸軍軍医のウォルター・リード少佐はこのことを実験と観察によって確認、
研究を残し、その功績を称えられました。

死後、メダルが贈られ、1938年には「イエロージャック」という映画にもなっています。
発見したのは実はキューバの医師ファンレイだったのに、とは言わない約束です。

続いて、ウェストポイント博物館展示をご紹介していきます。

 

 

続く。

 


最新の画像もっと見る

2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
骨を見る人たち (ウェップス)
2020-04-14 20:27:19
(゚Д゚;) ああいやだ…それでも当時の医学では死ぬよりマシというところだったのでしょう。映画「マスターアンドコマンダー」にも見てるだけで痛いシーンがあります。
 足を失った水兵は艦のコックになることが多いと(他にできる仕事がない)、ものの本に書いてありました。
返信する
トランシット (Unknown)
2020-04-14 20:44:23
>何か海軍的なものがあったので、注目してみました。

トランシット(セオドライト。測量用具)です。街で、三脚の上に黄色い望遠鏡を付けた器具で、ちょっと離れたところの棒を測っているのを見ますよね。あれです。
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。