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護衛艦の測距号令

2013-06-21 | 自衛隊

以前、この日本海海戦における戦艦「三笠」の図から、
測距儀や望遠鏡などの「光学機器」についてお話ししました。

その後、今現在の護衛艦における測距儀についてのいろいろを、
現役自衛官の方からレクチャーしていただく機会がありましたので、
それを中心にお送りします。


現在護衛艦等に搭載している測距儀は

「六六測距儀(ろくろくそっきょぎ)」

と呼ばれています。
左右のレンズ間隔が66cmであることから、そう呼ぶのだそうです。

ちなみに六六測距儀が比較的正確に測距可能な範囲約100m〜1000m
それ以遠、それ 以内の距離は不正確、測距不能距離となります。


ところで精度の良いレーダーがある今の時代、明治時代から使っていたのと
同じ仕組みである測距儀がなぜ必要なのだろうと思ったことのある方はいませんか?
わたしもその一人ですが、測距儀の方が、というより測距儀でないとダメ、という場面が
現在もあるということなんですね。

たとえば、

入港で岸 壁に横付けする

●洋上で艦を近距離で平行して走らせながら給油する

●ハイラインと呼ぶロープを艦の間に渡して人や物を授受する

●基準となる艦に、相方の艦が近接する

このような場合です。

最近ではレーザー測距儀というレーザー光を使った測距儀が導入されつつあります。

この光学式測距儀の計測可能距離は測距儀や反射プリズムの性能に左右されるのですが、
大略 1 - 2 キロメートルが限界なので、まさに「近いところだけ用」ということですね。
なかには 5 - 6 キロメートル計測可能な測距儀も存在することはするそうなので、
もしかしたら近い将来に六六測距儀は姿を消すのかもしれないということです。


私事ですが、エリス中尉、新車で購入して5年目にもかかわらず、
走行距離がすでに8万キロを超してしまって、水回り関係がおそらくこの夏の暑さで持つまい、
とアブラゼミレベルの余命宣告されてしまった愛車を買い替えることになってしまいました。

先日、担当セールスが自宅に「おすすめ」を乗り付けてきたので試乗し、
その際いろいろ搭載されているモニター設備の説明を受けたのですが、
いやー、すごいね。この5年間の光学機器の進歩。

バーズアイ、つまり真上から車を見ている画像がモニターに映るのですが、
それは実際はドアミラーの下にあるカメラ映像を合成しているもの。
また、オプションではありますが、

「この車が駐車可能かどうか空いているスペースを測定し、スイッチを入れると
あとはアクセルを踏むだけで勝手に縦列駐車してくれる」

という、とんでもない装置も搭載することができるんですよ。
自家用車でこうですから、軍仕様の機器はもっとすごいことになっているのだろうなと。




さて。

測距儀は三角測量の原理で距離を測っていますので、
より遠方の距離を測る測距儀は、左右の対物レンズ間の幅、
すなわち三角形の一辺の長さをより長く(逆の場合は短く)する必要があります。

戦艦大和の第一艦橋の上に、巨大な測距儀があるのは、長距離の射撃に備えたものです。

ところで、この説明をしてくださった自衛官によると、
この絵で長谷川少尉候補生が(覚えてしまった///)一生懸命測距儀を覗き込んでいるのですが、
このあたりに若干の疑問が生じるのだそうです。


日本海海戦で、東郷司令長官が大回頭を命じた距離が約8000。
5000から10000という

長距離をあの小さな測距儀で正確に測るのは無理

ではないか、というのがその方の「素朴な疑問」であるというのです。

ええっ!それは(笑)


「三笠の艦橋やマストに、大和のように巨大な測距儀があったような記憶はない」

とその方はおっしゃるのですが、記憶も何も、長谷川候補生がこうやって測って、
全てをその情報から把握していたと我々は信じて疑っていませんからね。

フネに関してはプロ中のプロである現役自衛官にこのようなことを言いだされると、
さらに、

「当時、どうやって距離を測ったのか、ご存じでしょうか? 
これまで考えても みなかったことです」

などと言われると、思わず動揺してしまいます。
本当に・・・・どうやって測っていたんでしょうね。
今の測距儀より当時の方が正確だった、という事実でもない限り、
ありえないことですからね。
まさか「5000以上は大体のカンで」とかだったら・・・・・・。

うーん。「ニコン」の方、なにかご存知ないかしら。


日清日露戦争を専門に研究し博士号を取得した同僚に聞いてみます、
ともおっしゃっていましたが、もし真相が判明していましたら、
ぜひ教えていただきたく存じます。



さて、次に、「現役自衛官のレクチャーによる測距号令」をご紹介しましょう。


護衛艦では測距が必要な場合には、
副直士官が測距員(海曹または海士)に次のように 命じます。

副直士官

「測距よーい、右(左)」
「測距目標、○○」

測距員

「目標よし、測距用意よし」

副直士官

「測距始め」

測距員

「ふたてんまるまるー」(200m)

「ひとてんきゅうごー」(195m)

もし、もっと頻繁に測距させたいときは

「測距間隔詰め」

その逆の場合は

「測距間隔開け」

測距する目標を変更する場合は

「測距目標変え、新たな目標△△」

測距をやめさせる時は

「測距やめぇ」

測距員

「測距やめよし、最後の測距ひとてんまるまるぅ」

というような具合です。

この絵では士官が測距儀を操作していますが、昔は士官の役割で、
そこでは、同じではないにしても、似たような号令が行き交っていたかもしれない、
とはその方のお話ですが、この時は

「天気晴朗なれど浪高し」

であったわけで、肉声はほとんど聞こえない状態であったこともあり得ます。
長谷川候補生も右手に通信機器(簡易無線のようなもの)
を握りしめ、距離を全て無線で艦橋に送り、そこから文字板と伝令の兵によって
全艦通達をしていたくらいですから、ここでも何か言うたびに周りが何度となく
それを繰り返し、司令部に伝える必要があったのではないでしょうか。




このお話を伺った方によると、戦艦をテーマにした映画などで違和感を感じるところは、
操舵号令を発する基本中の基本である「面舵」「取舵」の抑揚を
正しく再現しているものがあまりない、だそうです。

「面舵」は
「おもーかーじ(“も”にアクセントがあり、 音程も一番高い)」、



「楽譜にしたいところですが」
ということでございますので、ご要望にお応えして(?)
作成してみました。

こんな感じでよろしいでしょうか?


「取舵」は「とーりかぁじ(“と”にアクセントがあり、やはり音程も一番高い)」


これも、こんな感じでしょうか。



これらの号令のかけ方は乗艦実習でしつけられるイロハのイ、ということです。

「これが間違っている映画などを見せられるのが、一番気持ち悪く、
また残念なところでもあります」

ということですが最近の映画では、あの荒唐無稽潜水艦過去SF映画
(好きですけど)の「ローレライ」で柳葉敏郎演じる「木崎大尉」が、
この発音でやっていたという記憶があります。

「聯合艦隊」はたしか間違っていたような。
敬礼の仕方なんかは役者相手なら一言いえばわかるんだから、
「軍事指導」の方、まずこういうところをちゃんとしていただきたいですね。






拝啓 安倍総理大臣殿~97歳の証言者

2013-06-21 | 日本のこと

朝鮮の地方行政の担当者だった97歳男性から安倍総理への手紙です。
紹介しているのは、朝日新聞とニューヨーク・タイムスの「伝言ゲーム」を解明した
木走まさみず氏のブログです。
以下、引用です。ただし、読みやすく改行しています。


なお、内容の真贋を検証できていませんことを前提としてお読みください。


拝啓 安倍内閣総理大臣殿

和歌山県田辺市 西川 清 (97歳)

日夜国事に精励されている総理大臣に対し、
名もなき一介の老耄がお手紙を差上げるご無礼をお許し下さい。

私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。

結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、
日本の軍や官が強制連行など関係したことは絶対ありません

かく私が断言することができるのは、
私が朝鮮・江原道の寧越群及び原州群の内務課長を歴任した経験があるからです。
以下、当時の状況等について申し述べます。


私は昭和8年に朝鮮に渡り、江原道庁に奉職致し、
敗戦により引き揚げてくるまで勤め、その間一年間臨時召集により入隊しました。

朝鮮の行政は、総督府から道庁に伝わり、道庁から出先機関の群庁に伝わり、
群庁より府・邑・面(日本の市町村)を通じて施行されました。
(当時、江原道内には府はなく、邑と面のみ)。

群長は群守といって、殆どが朝鮮人で、その下に内務課、勧業課があり、
内務課長は殆ど日本人で、経験豊かな四十歳を越す属官で、
人事その他一般事務を司り、群庁の実権を握っていました。

内務課長の所管事務のなかに、邑、面の指導監督や兵事等もありましたが、
朝鮮人にチョウ兵(注・兵役?)の義務がありませんので、
兵事は主に在郷軍人に関するものぐらいでした。

朝鮮人男子青年にはチョウ用があり、総督府より道に対し人数の割り当てがあり、
道はこれを群庁に、群庁はこれを邑、面に対して割り当てをして、
集めた青年を釜山に連れて行き、総督府の係官に引き渡しました。


女子に対してはこのようなことは一切なく、軍が慰安婦を集めんとすれば、
朝鮮軍司令部が総督府に依頼して、前述の系統をたどり集めるしかありませんが
このようなことは一切ありませんでした。

売春婦が強制連行されたの拉致されたというのは、女衒かその類の者の仕業であって、
軍や官は一切あずかり知らぬことであります。
日本婦人でも売春婦として軍の居る所に多くいましたが、
一人として従軍慰安婦などという者が居たでしょうか。

日本人と違って、恥を恥とも思わず、金さえ儲かれば良いと思う輩が、
敗戦により日本人が委縮しているのにつけこんで、
あらぬ嘘を申し立ててくるなんて腹立たしい限りです。


今はもう、総督府の事務官はじめ、道や群の行政府にも軍にも
当時の実情を知る者は殆ど亡くなられたものと思われます。

然るに、今を生きる日本人のなかにも、自虐性に富む輩のうちに、
従軍慰安婦なるものに軍や官が関与したなどと申す者がありますが、
朝鮮売春婦の故郷とも申すべきスルチビ(居酒屋)、カルボチビ(娼家)
の戦前戦中の実態も知らぬくせに、
いいかげんに机上の空論をもてあそぶのは誠に概嘆に耐えません。


国威を失墜し児孫に負の遺産となる河野談話の見直しは、

安倍総理を除いては望むべくもありません。
ぜひぜひ誇りある日本の為に、この際断固たる訂正を心からお願いし奉る次第であります。

最後になりましたが、邦家の為にも総理のご健康をお祈り致します。

敬具

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西川 清氏の略歴
大正4年:和歌山県田辺市生まれ。
昭和8年:和歌山県立熊野林業学校卒業と同時に朝鮮江原道内部産業課勤務。
昭和12年:朝鮮総督府地方官吏養成所第1回卒業。朝鮮総督府江原道属に任官。
昭和13年:臨時召集により歩兵第76連隊入隊。
昭和14年:招集解除。
昭和18年:寧越郡内務課長。
昭和19年:原州郡内務課長。
昭和20年:道庁鉱工部鉱工課勤務(主任属)。引揚。
昭和21年:厚生省属 下関引揚援護局仙崎出張所勤務。
和歌山県へ出向。農地課主任、総務課長、税務課長・次長などを歴任。
昭和42年:依願免職