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「火垂るの墓」における「海軍」

2010-11-24 | 海軍



 大江賢治大佐。海軍兵学校四十七期、巡洋艦「摩耶」艦長。
昭和十九年十月二十三日、パラワン水道にて戦死。


などと、いつものような書き出しで始めてしまいましたが、実はこの画像、
アニメ「火垂るの墓」からのスケッチです。

「火垂るの墓」
英国の映画雑誌エンパイア誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインしています。
戦争の生んだ悲劇をこれでもかと描き、「これを観て泣かない人はいない」とまでいわれた
高畑勲監督の名作です。


十四歳の少年清太が戦火で母と家を失い、四歳の妹節子と一緒に身を寄せていた遠い親戚の家から
追い出されるように二人で「横穴」に住みつき、ほたるを集めて蚊帳の中で放す。

その光に誘われるように清太の記憶によみがえってきた観艦式の光景。


清太の父は巡洋艦摩耶の艦長で、登舷礼をしています。
「お父ちゃん、巡洋艦摩耶に乗ってな。
連合艦隊勢ぞろいや」



昔初めてこの映画を見たときから、この映画における「海軍部分」
が強く心に残っています。

西宮の親戚の未亡人が言う
 「海軍さんはええねえ・・・」
「軍人さんばっかり贅沢しはって」


顔見知りの農家の人のいう
 「しっかりしいや。あんたも海軍さんの息子やろ」


この場合の「世間の人」の口にする
「海軍さん」
という言葉には、選ばれた一握りの、特別な人種、という響きがあります。

海軍に今ほどの興味のなかった当時ではイメージとして見逃していたのですが、今、
あらためてこの映画を見ると、いろいろと興味深いことがありましたので、
今日はそれに付いて書きたいと思います。


まず、この家庭の父親は海軍大佐。
冒頭で実在の人物を特定してしまいましたが、少年の言う巡洋艦摩耶は
レイテ沖海戦で10月23日、捷一号作戦に従事。
この日の早朝、米ガトー級潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の攻撃を受け魚雷4発が命中、
船体が切断しおよそ8分で沈没しました。
そのときの艦長がこの大江賢治大佐なのです。

このとき大江艦長以下336名は戦死、769名が駆逐艦「秋霜」に救助されます。
夕方に救助された乗員は「武蔵」に移乗したのですが、翌日の対空戦闘で更に
およそ120名の戦死、行方不明者を出しています。

五五〇名余の戦死者を出した摩耶の慰霊碑は神戸の忉利天上寺(とうりてんじょうじ)にあるそうです。

舞台は神戸。
私事ですがエリス中尉の実家はまさにここでして、幼いころはまだ残っていた景色が時々現れます。

少年の家は御影町にあったということになっていますが、この辺りは今も御影山手と並ぶ高級住宅街。
父が海軍大佐であった少年の家は、堅実だが豊かな暮らしをしていたという設定でしょう。

大江賢治大佐は、海兵四七期。
海軍兵学校四七期は大佐で開戦を迎えており、大戦中は艦長や司令として活躍、
やはり多くが空母や巡洋艦艦長として戦死をしています。
大江大佐は一八九七年生まれ、戦死時は四七歳。

節子の父としては少し歳をとっている気がしますが、清太が生まれたのは1931年(昭和6年)、
海軍少佐昇進時とすれば、結婚は大尉の頃の31、2歳。
これなら年齢は一致します。
なにより、家族で撮る記念写真のシーンにおいても、父親は謹厳でいかめしく、
いかにも海軍軍人らしい威厳を持ち、この頃四十五歳という設定でもおかしくありません。
清太の母とは歳が十歳くらい離れた結婚だったのではないでしょうか。
清太の母というひとはおっとりした令嬢タイプで、心臓が弱かったようです。
晩婚で娶った若い妻は病弱だった、というと、井上大将を思い出します。

今回、あるきっかけからあらためてこの映画を観なおして、昔何を言っているのか気も留めなかった部分に
注意が向くようにもなりました。

西宮の叔母に
「お父さんには手紙書いてくれたんやろな」と言われ
「出しました 呉鎮守府気付で」
という部分。

大江大佐は実際は横須賀鎮守府所属、摩耶も横鎮所轄であったようです。
さすがにそこまで検証はされなかったようです。

しかし、海軍のことを全く知らない人がこの部分を聴くと、昔のエリス中尉と同じく、
何を言っているのか気にとめないか、聞き流してしまうのではではないでしょうか。


なお、清太少年は神戸一中(現在の神戸高校)で父の後を継いで海軍に進むべく
海軍兵学校を目指していた秀才という設定だそうです。


二人が横穴生活を始めた頃、夜空を見上げると、一機だけで飛んでいく飛行機。

清太「あれ、特攻やで」
節子「ふーん、ほたるみたいやね」
「そうやなあ・・・そや、ほたる捕まえよか」


こうやって二人はほたるを集めるのですが、この出撃は昭和二十年六月から八月一五日までのもの。
であるとすれば、百里原から出た彗星の特攻か、あるいは陸軍の神鷲隊のものなのかもしれませんが、
たった一機で夜間飛んでいくという状況と、目撃した場所(西宮市)から、特定はできません。

直掩機無しで夜間たった一機飛んでいく特攻機。
「ほたるみたい」という節子の台詞に胸を突かれます。

この映画は高畑勲監督の徹底したリアリズム志向が随所に見られます。
たとえば西宮の浜のシーンで左手に見える山の形、
観艦式のときに摩耶山脈にライトアップされる神戸市の市章(”かうべ”の”か”をデザインしたもの)
トンネルに入っていくような三宮駅の作り、阪急電車のアズキ色・・・。
ここに育った人間なら小さい時から目にしてきたものがほぼ忠実に再現されています。

巡洋艦摩耶の作画も、当初は舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描かれていたそうです。
もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰されてしまっていたとか。


さて、主人公の家庭が戦時下の海軍軍人の家、というだけでも「海軍」という視点から見ると
いろんな設定が想像されるこの映画ですが、今回エリス中尉がこの映画でもっとも
「海軍的に」注目したのは、じつは音楽なのです。


この映画の音楽は、実に控えめながら寄り添うように主人公の物語をあるときは一緒に慟哭するように、あるときは甘い追憶に身を委ねるように流れ、その秀逸さに昔から感嘆する思いでした。

そのエンドタイトルに間宮芳生(まみやみちお)という、音楽大学出身者ならばだれでも知っている
純音楽の大家の名前を見たとき、当時もやはりさすがという思いを持ったものでした。



しかし、月日は流れ、海軍というものに傾倒するようになったある日(先日ですが)
海軍兵学校在籍者の名簿を見て、卒業しなかった最後の兵学校生徒、七八期生の中に
「間宮芳生」の名を見つけたとき、驚きのあまり思わず声が出ました。

昭和二〇年四月三日入学、わずか四カ月の「海軍人生」を送った元海軍軍人はこの
「海軍」という言葉が大きな意味を持つ映画をどうとらえていたのか。
それを知りたくて、今回あらためてこれを観なおしてみたのです。

ちなみに作曲家間宮氏のプロフィールには兵学校(針生分校)にいたことは全く書かれていません。



参考:江田島 日本海軍の軌跡 日本の戦史 毎日新聞社
   海軍兵学校出身者の戦歴 後藤新八郎 原書房
   ウィキペディア フリー辞書
   防衛庁防衛研修所戦史室
   『戦史叢書 第56巻 海軍捷号作戦2-フィリピン沖海戦-』朝雲新聞社