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偵察の神様~千早猛彦大佐

2010-11-26 | 海軍人物伝

千早猛彦海軍大佐。
海兵62期、空母赤城分隊長を経て一二空飛行隊長。
「偵察の神様」とまで言われた士官偵察員です。



偵察、という分野は戦闘機より一見地味な分野です。
志望の段階でも第一希望にあがることはあまりなく、
軽視されていた傾向にあったそうです。

海兵六十七期の「海軍史」に寄せられた手記によると
天山乗りの肥田大尉には学生時代にこんなことがあったとか。

大村航空隊での延長教育中のこと。
洋上航法訓練をしていて二、三時間たつとどちらを向いても海ばかり。
後席の偵察係に「もう帰ろうや」と言うと、「肥田、ここはどこだ」

「馬鹿!貴様が偵察員ではないか」

帰隊は大幅に遅れ、二人はこってり油をしぼられたそうです。
後ろ席のK少尉、少なくとも偵察志望ではなかったのでしょう。



ところで淵田美津夫中佐が偵察出身だということをご存知ですか?
真珠湾の立役者となった淵田中佐ですが、実は中尉時代、航法を間違え、
危く海の藻屑になりかねないチョンボをしています。

海中に転落し行方不明の潜水艦艦長を捜索するために空母「加賀」から飛び立った六機。
その小隊長機が進路を間違え、あさっての方向へ飛んで行くのです。
偵察員は飛行学生を卒業したて、若葉マークの淵田中尉。
二番機のベテラン兵曹、さすがにすぐさま間違いに気付き手旗でそれを報せますが、
淵田中尉、手旗が分からないのか自信があるのか、知らん顔。
当然隊長も気付かずまっすぐ間違った方向へ行ってしまいました。

二番機は辛うじて加賀に帰艦することができましたが、
淵田偵察員の乗った隊長機は燃料が切れ、海の上に不時着。

しかしその後、運よく中国のジャンク船に救助されたそうです。


このように判断一つで海軍葬になりかねない機上の航法。
事実方位を失って殉職する搭乗員は少なくなかったといいますから、
責任は重大で、パイロット以上に沈着冷静で緻密な判断が求められるのが、
偵察という任務。

しかし、飛行機を目指す血気盛んな青年が最初から偵察を志望する例はあまりなかったようで、
この千早猛彦大佐も霞空卒業時思いがけず偵察に回されてしまいます。
 ショックを受ける千早少尉ですが教官の
「操縦員は車曳き、偵察は一軍の将」
という言葉に納得し、以後その道に邁進します。

教官の目に狂いはなく、のちには
「偵察の神様」と言われ、
死しては「軍神」と呼ばれるほどの偵察将校に成長することになるのですが、
それでは偵察の任務とは何か?

ここで少し説明しておきたいと思います。


通信、爆撃、射撃、偵察、写真。

乗り機によって任務の種類はもちろん分担されることもありますが、
偵察員にはこれだけの仕事が課せられていました。
しかし、もっとも重要なのが

航法と見張り

でしょう。


海軍機は洋上を飛ぶことが多く、現在地を地形に頼ることができません。
たとえ地上を飛ぶのであっても、
天候によっては全くそれは頼りにならなくなるわけで、
特に母艦を離発着する機の場合、
帰投する艦そのものは一つのところにじっとしていません。
風向、風力も時々刻々変化していくのです。
飛行機はほとんど風によって流されますから、
その度合いに応じて針路を修正していかなくてはなりません。

偵察員は、風向、風速を偏流測定器と計算盤を使用して算出するそうです。


豊田穣氏は艦爆機に同乗していたベテランの偵察員 から

「士官の偵察員の人たちはどうして、ああ若いうちから
航法でぴたりと空母の位置まで戻れるのでしょうかね」

と聞かれたことがあるそうです。


兵学校の座学ではもちろん航法はかなり厳しく叩きこまれるそうですが、
もともと理数系の学校である上、
偵察に行く者は座学の段階で自分が向いているかどうかを見極めているため、
実戦でも優秀な偵察員が多かったのかもしれません。

そして、なまじ志望の少ない地味な専攻だったゆえ、
千早大佐のように素質のありそうな学生を教官が客観的に見極めて
選抜する事が多かったためではなかったでしょうか。


さて、中国戦線で大陸の戦場に出た千早猛彦大佐は、いかにして「神様」になったか。

敵の戦闘機が味方の陸攻隊を認め飛び上がる所を、千早機は詳しく無線で報告します。
陸攻隊はその報告を受けてしばらく避退し姿を隠しています。
燃料の無くなった敵飛行機が基地に帰ってきて着陸するのを見届けた千早隊が
それを陸攻隊に報告。

「敵機着陸終了」

それを受けて陸攻隊は敵基地に殺到、地上の飛行機に爆撃を浴びせるという方法です。
この方法で何度も戦果を上げ、「爆偵の千早」の名をあげたのでした。


零戦が初戦果をあげたのは初陣から数えて四回目の出撃になる昭和一五年九月一三日の重慶攻撃です。
試作品のまま大陸に送られ現地で調整されたという零戦は、
最新鋭の戦闘機とはいえ単座なので、
航法、無線に不備が多く、したがって陸偵が先頭に立ち誘導することが必要でした。
このとき進藤三郎大尉率いる零戦13機による攻撃は歴史的な大戦果をあげます。
続いて十月四日には横山保大尉率いる零戦8機を成都爆撃に誘導。
この戦果も千早機の誘導なしには得られないものでした。

このときのことを横山大尉は

「千早君は大言壮語することなく、いつも黙々と研究し、
往復とも冷静に誘導してくれた」

と述解しています。


千早少佐はテニアン基地からマリアナ沖海戦にに参加、メジュロ偵察を三度にわたり強行しますが、
愛機彩雲に乗った少佐はそのまま行方不明となります。
連合艦隊司令部の作戦の誤りから、二回にわたる千早機の偵察結果は、
作戦に生かされないまま海軍は大敗します。

開戦以来、海軍がこのときほど的確に、
敵艦隊の動静を捉えていたことは無かったというのにもかかわらず・・・・・・。


幼いころから内向的で沈思黙考型、学者が向いていたのではないかと言われた千早少佐。
穏やかで子煩悩の愛妻家、部下思いの優しい性格であったと伝えられます。


昭和19年6月11日マリアナ沖で戦死、享年三十歳。
二階級特進し、海軍で最も若い大佐になりました。




参考:人物抄伝・太平洋の群像76・上原光晴
   学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
   新・蒼空の器 豊田穣著 光人社
   帝国海軍士官入門 雨倉孝之著 光人社
   海軍六十七期史