ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

沈みゆく戦時徴用船

2010-11-14 | 海軍

月明かりの下、砲撃を受けて今にも沈みゆく艦船の舳先に立ち、最後の万歳をする男性。
逆巻く波はマストをへし折り、後数秒でこの男性は波に飲み込まれこの船と運命を共にするでしょう。
ここに表せなかったのは、全てを飲みこもうとしている怒涛の波と死にゆく船が上げる
雄たけびのような轟音だけに違いありません。


この画像の元になったのは大久保一郎画伯が描いた幻の戦争画
「本船と運命を共にした『ぶら志る丸』の大野船長」です。

この船はまさに敵の砲撃に撃沈されたのですが、万歳をし運命を船に殉じようとする男性は
軍人ではありません。

この船は戦時徴用船なのです。



戦時画と慰霊碑の写真を集めた画像集「海行かば」は、一人では持てないくらいの重量のものでした。
この絵は、それに掲載されていたものを「模写」したものです。
現物との細かいニュアンスの違いについては、それを到底描き切れなかったであろうことを
予め御了解ください。


我が国は太平洋戦争開戦時において世界第三位の海運国でした。


戦争の勃発により全ての船腹と船員は陸海軍および船舶運営会に徴用され、戦時徴傭船として
主に南方からの物質の輸送に従事することになります。

戦争が重大な局面を迎える頃、「国家総動員法」が制定されます。
戦争目的遂行のために多くの人的、物的資源を動員、統制することが定められたのに基づき
次は「船員徴用令」が公布、施行されました。
商船、輸送船が戦争突入の大きな原因となった南方物資と兵員兵器の輸送に携わることになったのです。

当然のことながら、敵からの攻撃対象になることを意味する使命です。
しかし、実際は船舶の護衛などには全くといいほど目が向けられないまま開戦を迎えるに至り、
そこに徴用船の悲劇の歴史が刻まれることになりました。

戦地のみならず日本近海においても多くの徴用船が撃沈されて多くの武器、船員が海底に沈みました。
しかしこのことは当初全く公表されていませんでした。
たとえされても問題にされないくらい国民は緒戦の勝利に酔っていたのです。


徴用船は大船団を組んで往路は軍事輸送、復路は重要物資の輸送に携わりました。

昭和19年には首脳部はようやく海上護衛の重要性に気付き、戦時徴用船護衛艇として
海防艦の大増強を図る航空母艦をはじめ、航空機による船団護衛の部隊を編成し、
輸送の安全確保を図るのですが、遅きに失しました。


敵軍は護衛艦をまず撃沈した後、ゆうゆうと船団を攻撃。
爆撃機、陸攻機は海上の船員、女性に対しても容赦なく銃撃を浴びせたそうです。
20年終戦の時には日本海運はすでに壊滅状態でした。

2400隻、800万総噸を超える船腹と6万余名のの人員が船と運命を共にしました。
因みにアメリカは喪失船腹98隻51万トンにすぎません。



次々と日本の船舶が海に消えていくある日。
大阪商船の社長岡田栄太郎氏が自社船最後の姿を大久保一郎画伯に描かせました。
大阪商船三井船舶(株)の社屋の一室で、大久保画伯は家族にも仕事内容を打ち明けず極秘裏に、
三十数枚の悲劇の徴用船の慟哭が聞こえてくるがごとき絵画の制作を続けます。

当時、戦争画を描く従軍画家には軍から製作にかかる高価な絵の具やキャンバスなどの費用が出されました。
しかし、この「敗戦的な」一連の絵画は、岡田氏の一念で内密に製作を進められ、
戦後もしばらくの間、社屋の倉庫の隅で埃を被っていたそうです。


最後に私が最も胸を突かれた絵の模写を掲載させていただきます。

「沈没寸前に日の丸を揚げる『瑞穂丸』」。

掲揚マストにはもうすでに船員の姿はなく、国旗を挙げきる前にその手を離した男をさらった
逆巻く波は傾いた甲板を洗っています。
途中まで下ろされた救命ボートには、当初誰かが乗っていたのでしょうか。
艦橋にはまだ灯りがともり、暗い部分には人影が見えます。
ぶら志る丸の大野船長のように、従容と死に就こうとする海の男たちの最後の姿なのでしょうか。