ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

嗚呼陸軍潜水艦~戦艦大和の登舷礼

2012-03-25 | 海軍


喩えは悪いですが、まるゆ、陸軍輸送潜水艦は、まるで女性(陸軍)が男性(海軍)に
内緒で産んでしまった私生児のようなものでした。

「海軍に言うと反対されるから、海軍には極秘で作れ」
「海軍の助けは借りずに、陸軍だけで作れ」(BY東条陸将)

これをこのような場合の女性のセリフに当てはめると

「言うとやめろと言われるから、黙って産んだの」
「あなたの助けは借りない。一人で立派に育てていくわ」

ね?

ある日男は、見たことのない、何だか妙な女の子が近所をうろうろしているのに気付きます。
「なんじゃあれは」
女の子は、似ていると言えば自分に似ているのですが、全てが変わっています。
女性が自分に内緒で産んだ子供だと知りましたが、男の娘たちは、まさかこの
「醜いあひるの子」が、自分の妹だとは思わず、
「みっともないコねえ」「ちょっとあんた、このへんうろうろしないでよ」
と喧嘩を吹っ掛けることもありました。

・・・・・なーんちゃって。

極秘で計画され、あっという間に製造された輸送潜水艦が、
その秘匿性ゆえに
「海軍家の庭」で馬鹿にされたり攻撃されたり、
大変な辛酸を嘗めたことはお話しました。


そこまで行かずとも、一般の漁船にとっても

「いきなり出没した見たことない奇妙な潜水艦」

です。


「現在地点がわからなくなったのでついていけば戻れるだろうと漁船を追いかけたら、

漁船の方は気持ち悪がって全速力で逃げてしまった」

という漫画のネタみたいな話は枚挙にいとまがありません。


そもそも外敵を相手に戦争しているのに、内輪でいがみ合って、
それゆえまるゆのような
歪な私生児が生まれてしまったとも言えます。
効率的な方法を全軍で模索できず、確保できたはずの物的資源や貴重な人命が
このような
無駄な作戦により潰えてしまったのは、第二次大戦における
「反省点」の最たるものではないかと
思うわけですが、
今度同じようなことがあったら、過ちは繰り返しませぬから



ともかくここで同情すべきは、この私生児的断末魔的な乗り物に
ひとつしかない命をかけなければいけなかった、陸軍まるゆ部隊の将兵の皆さんです。
「潜水輸送教育隊」という名称の部隊に赴任してきたその数、約3千名。

まるゆ部隊の基幹将校に抜擢され、船舶司令部への転属を命じられたある陸軍中佐は、

「貴官は潜るんだぞ」

といわれ、ははあ、軍服を脱いで地下に潜る、つまり特務機関のスパイだな
と思っていたそうです。

よもや陸軍士官の自分が文字通り海に潜ることになるとは夢にも思わなかったのでしょう。

彼らの過酷な訓練についてはまた別の日に語ります。

全て不慣れな海の生活、海軍艦や漁船との「軋轢」、
急造されたがゆえに不具合だらけで、
故障や水漏れ、安定しないまるゆを、
ろくに航法も知らないまま操舵する苦労・・。


潮気も何も、海の上にいるとお尻がスースーして落ち着かない、
といったレベルの「陸の人」です。


しかしながら、そんな彼らが、海で戦う者としての誇りに身を震わせた瞬間がありました。


東京芸術大学
を経て陸軍予備士官学校を卒業、

「極秘部隊で潜水艦に乗るらしい」


と聞き「もう命はねえな」と覚悟を決めた、岡田守巨(もりお)陸軍少尉の回想―。


岡田少尉が訓練艇で教育終了後、三島基地に帰投する途中のことです。

この訓練中、岡田少尉の艇はグラマンの機銃掃射を受け、
「やったことのない急速潜航命令を初めて発し」ています。
潜航の勢いが強すぎて惰性で海底に衝突、「全員が覚悟を決め」たものの、
ともかくも艦体に異常はなく、
辛くも助かったという冷や汗体験でした。

衝撃で全員が茫然自失であったに違いないその帰途、
彼らの「まるゆ」は来島海峡にさしかかりました。

そのとき前方から「山のような」ものがやってくるのにまさに仰天します。

戦艦「大和」でした。

陸軍軍人であってもこの巨大艦のことは聞き知っていたため、
岡田少尉は総員に
「登舷礼用意」の号令をかけました。

「海の男同志の美しい儀式」である登舷礼に、
言わば末席にあたる「まるゆ」乗員といえども、その一員として憧れないはずがありません。
一度はやってみたかった登舷礼、その記念すべき最初の相手は他ならぬ戦艦大和です。
これが昂揚せずにいられるでしょうか。

甲板整列し、公排水量6万9千100トンの大和に、総排水量430トンの陸軍潜水艦乗員は
一世一代の礼を送りました。
と、そのとき。

「あっ」

岡田少尉は心の中で叫びました。

黒々とした、まるで山のような大和。

その甲板に、すでに真っ白な千人単位の乗員整列ができているではありませんか。
さすが海軍、豆粒のようなこの陸軍潜水艦を認めるや、
間髪いれず相手に向かって登舷礼を送ってきたのです。


「軍艦が相遇う時、将旗あるいは代将旗を掲げた軍艦または短艇に遇う時」(wiki)


とされる喇叭演奏も、風に乗って聞こえてきました。


大和がどのような使命を担い、この航行の果てにどのような運命が待っていたか
彼らには勿論知るべくもありません。


岡田少尉は、後からそれが戦艦大和の見せた最後の勇姿であることを知ります。



おそらく、これが大和が陸軍に送った最初で最後の登舷礼であったことでしょう。
その陸軍代表は、まるでおもちゃのような練習潜水艦でありましたが、それでも大和は

「礼を尽くして、去って行った」(岡田少尉回想)

のでした。


「そのときほど潜水艦って良いものだな、と誇らしい気持ちになったことはない」


この岡田少尉ですが、大和との遭遇以降、すっかり「海軍びいき」になってしまいました。

本日画像に描いたのは「陸軍式敬礼」ですが、岡田少尉は敬礼も海軍式を真似して、
それを後日陸軍の高官の前でやったからさあ大変、

「その敬礼のざまは何だ、貴官、それでも帝国陸軍将校か」


と散々罵倒叱責され、左遷の憂き目にあったということですが、これはまた別の話。



大和の乗組員は、前方にちょこんと浮かんだ小さな小さな潜水艦に礼を送りながら、
どのような感慨を持ったのでしょうか。

他の艦船が不審がったり、馬鹿にしたり、攻撃さえ加えた無名の陸軍艇をも、
即座に認識するほど、大和には情報に精通した見張員がいたということなのでしょう。

しかしたとえどんな相手であっても、同じ日本を守ろうとする海の防人同志、

「後を頼む」

という決意をを伝えたいというのは、大和乗組員の総意であったでしょう。


そして、自分たちがが往くその姿をしっかり見届けてほしいという、最後の願い。


最後まで仲の悪かった陸軍と海軍の摩擦から生まれた潜水艦まるゆの隊員は、

このときの戦艦大和の姿を、戦後もずっと心に留め続けました。
戦後画家になった岡田氏はそのときの感動をこう語っています。

「あまりの感動に思わず目頭が熱くなってきましてねえ・・・・・・」

直後、大和の航跡が起こす大波で、感激に涙ぐむ彼等はずぶ濡れになってしまったそうですが。







参考:決戦兵器まるゆ陸軍潜水艦 土井全二郎 光人社
    陸軍潜水艦隊 中島篤巳 新人物往来社
    潜水艦隊 井浦祥二郎 朝日ソノラマ
    ウィキペディア フリー辞書


「桜花」と新幹線

2012-03-19 | 海軍



東京―大阪間の所要時間を短縮し、国民の脚となって20年。
のぞみ300系が引退するというニュースが先日報道されました。
開業以来大事故ゼロ、日本の技術力の誇りの象徴ともなった新幹線ですが、
この技術には海軍の航空技術が大きくかかわって生まれたということをご存知でしょうか。

第一次世界大戦以降、旧海軍は航空技術を発展させるべく航空技術廠に優秀な技術者を集め、
さらにその向上を図って世界中からトップクラスの学者や技術者を招聘して教えを受けました。
航空試験用の大風洞の建設に携わったドイツのウィーゼルベルガー博士、そして
飛行艇の開発用の試験水槽を作るために呼ばれたやはりドイツのケンプ博士などです。
航空機の速度が向上するに従い、超音速現象に対処する研究が求められるようになると、
フランスからマルグリス博士を招聘してその指導を受けています。
マルグリス博士は、その他にも大砲の弾道研究で有名になった学者でした。

このように海軍が航空技術開発のために多大の努力を払った結果が、名機と言われた多くの
航空機の誕生につながるわけですが、それも教えを乞う側の水準の高さあってのことでした。
しかし、海軍という組織だけでは到底航空機の研究を全て把握しきれるものではありません。
山本元帥が海軍次官時代に、航空機の各部門にわたって深く基礎研究をするための機関、
中央航空研究所が、山本次官の尽力もあって誕生しました。

しかし、中航研が建設と技術者の教育を経て研究に入り、
その緒につき始めたところで終戦となります。
日本の技術力を恐れるGHQが、当然のようにここにも圧迫を加えてきたうえ、
終戦後の政治的混乱のために研究所はあらゆる困難に遭遇することになるのですが、
初代所長、花島孝一の決死的な努力が政府を動かし、
運輸省の技術研究所として残ることが決まり、空技廠の技術者たちは、
陸軍航空研究所の技術者とともに、新たに設立された鉄道技術研究所に迎え入れられます。

当時の鉄技研の所長の
「優秀な技術者は10年、20年たたないと育たない。
軍の無くなった今、この人たちを散逸させてはならない」
という卓見も、これらを後押ししました。

GHQの命により、中央研の技術者にも航空に関する研究は禁止されました。
研究員はもっぱら運輸技術の向上のために黙々と地味な研究を続けざるを得なかったのです。

米軍から当初戦闘機と誤認され「Francis」という男性名のコードネームを付けられて
その後、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」になった、
長距離爆撃機「銀河」の設計に携わった三木忠直という海軍技術少佐がいます。

銀河設計を終えた後、ロケット機、ジェット機の研究に進んだところで終戦を迎えました。
海技廠にいた三木も鉄技研に迎えられ、そこで電車の研究に方向を転換します。
飛行機設計技術者として、ここでまず何をなすべきか?

三木はまず車両の軽量化に取り組みました。
その頃、日本の鉄道網は荒廃し、それを復興することで精いっぱいといった状況でしたが、
昭和25年ごろ、復興も進み、そういったことにも目が向くようになってくると、
飛行機の設計、研究、試験の手法を用いた具体的な研究がより後押しされました。
三木は、昭和30年に、世界でも最も軽い部類に入る軽量客車を完成させます。

飛行機に使われていた応力外皮張殻構造の様式を導入した、その丈夫な構造は、
一般電車にも広く用いられるようになり、私鉄電車、国鉄(当時)の特急「こだま」、そして、
この後開発の始まる新幹線は全てこの構造様式が採用されることになりました。

飛行機屋の三木が、軽量化に並行して探求したのが鉄道車両の速度の限界でした。
この頃には日本も独立を認められ、経済力も回復に向かい始めていました。

当時、国鉄の特急「つばめ」は東京―大阪間を8時間、最高速度95キロでした。
欧米の輸送交通体系は飛行機、そして車となり、日本もこのあたりから鉄道斜陽論、
そして開発に対する消極論が国鉄内部からさえ出てきます。

現在アメリカが長距離移動を飛行機に依存しているように、このとき三木がいなければ、
新幹線は生まれず、日本も国内の移動は全て飛行機、という国になっていた可能性もあります。

昭和28年9月。
三木は、狭軌でも車両を軽量化し、重心を重くした流線型にすれば、
東京―大阪間を4時間半で走ることは十分可能であるという研究結果を発表しました。
空港を使わねばならない飛行機に、都心から都心まで直結すれば十分に時間でも対抗できる、
ということであり、これは国鉄の朗報として大きく報道されます。
一方この発表はある意味当時の常識を破るものでもあることから、種々の非難も出ました。

鉄道ファンである作家の阿川弘之は、
「こんな時期に超特急など、第二の戦艦大和となって世界の物笑いの種になる」
とまで言ってしまい、後に自分の不明を悔やむ発言をしています。

しかし、この発表は運輸省から研究課題として採択され、補助金が出ることになります。
そして上記の記事に注目した人物がいました。
実業家の五島慶太です。
さっそく、小田急電鉄のロマンスカーの設計を三木に依頼し、その試運転では、
狭軌としては世界新記録となる最高時速145キロメートルを記録しました。

この実験は、小田急という私鉄の電車車両を国鉄の線路上で走らせるという
前代未聞の、今なら到底実現不可能と思われる計画でした。
しかし、国鉄の首脳部、特に当時の十川国鉄総裁は、
鉄道技術の発展のためという大局的観点から、これを快諾したと言われています。
この実験の成功は、一気に長距離特急列車の実現性に推進を与えることになりました。

昭和32年、、三木は
「超特急東京―大阪間三時間の可能性」
という演題で鉄研の他の3人の技術者と共に講演を行いました。
これこそが「夢の超特急新幹線」の真の基(もとい)をなすものでした。

当時の国鉄技術首脳部には消極論や反対論すらありましたが、国鉄の、つまり日本の
近代化技術革新に非常な熱意を持つ十川総裁の鶴の一声により、計画は進められます。

昭和32年、8月。
運輸省に日本国有鉄道幹線調査会設置。
昭和33年7月、東海道新幹線を五カ年計画で建設し、その車両性能は
「東京―大阪間三時間」を目標とすることも正式に決定しました。

ところで、終戦直後の日本のGDPをご存知でしょうか。
アメリカのわずか数パーセント、戦前の技術国も尾羽うち枯らせて今や発展途上国並みです。
この状態の日本が新幹線を造るためには、他のインフラ整備に充てる資金と同じく、
世界銀行からその費用が融資されねばなりませんでした。

余談ですが、日本がこの低金利とはいえ巨額の借金を返し終わり、
名実ともに被援助国から卒業したのはなんと1990年。
世間がバブル経済に突入する頃、ようやく日本は「途上国」ではなくなったと言うことです。
「優等生で誠実な」日本が、世銀に着実に返済を続けたにもかかわらず、
これほどの時間がかかったのは、戦後日本が負った負債の大きさを物語っています。


三木は、終戦直前に実戦投入されたロケットエンジン機「桜花」の開発者でもありました。
自分の開発した特攻兵器で多くの若者たちが戦場に散って行ったことに対し、
悔悟の念を持っていた三木は、戦後すぐ洗礼を受け、クリスチャンになっています。

ウィキペディアには、「プロジェクトX」で語った、

「とにかく戦争はもう、こりごりだった。だけど自動車関係に行けば戦車になる。

船舶関係に行けば軍艦になる。
それで色々考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」

という言葉が挙げられ、戦後の鉄道界への転身を「軍事嫌い」ゆえと判じています。

勿論その真意を否定するものではありませんが、水交会に寄せられた三木自身の随筆に
「翼をもがれた私は」
という文言が見えることや、海技廠の面々が、悉く航空機研究を禁じられた実情から鑑みて、
三木忠直が飛行機に決別をしたのは、己の意志によるものだけではなく、眼に見えない流れが、
彼をして、新幹線を造らせるために、そこに連れていったようにも思えるのです。

科学者たちが真理を探求する情熱は、その成果が軍事利用され得ることが少なくありません。
オッペンハイマー博士の例をひも解くまでもなく、それが、
国や勝利のためというより、「純粋に科学を極めたい」という本能から研究に打ち込む彼らを、
結果として道義上の葛藤に陥れることが歴史上繰り返されてきました。

三木忠直もその一人であったわけですが、不可能だとさえ言われた夢の超特急を
戦後わずか19年後、日本の国土に走らせることに成功し、
それから半世紀、日本の技術力の誇りとまで称された新幹線の生みの親として、
三木は十分に償いをしたものと、わたしは考えます。

そして、新幹線の造設にあたり、中技研、陸技研、海技廠のもと技術官を積極的に集めたことで、
国鉄は旧軍の技術力を究極の平和利用に昇華させる一助を果たしたとは言えないでしょうか。

日本の存続とその発展をせめて願いつつ往った幾多の英霊たちも、
自分たちの乗った飛行機の技術が、戦後平和な時代にこのように形を変えて発展したこと、
そしてその運用技術が「安全神話」とまで言われるほど、恒常的に維持し続けられていることを、
冥界でおそらく眼を細めて見ているのではないかと信じます。







三木は昭和39年の手記で
「(新幹線の速度は)記録としては300キロも超せようが、
実用的には250キロが現在の形態の鉄道としては
おそらく限度であろう」
と述べています。

新幹線、のみならず世界中の高速列車の生みの父とも言える三木忠直は、
2005年、九十六歳の長寿を得て亡くなりました。
新幹線が開業して半世紀。
N700系の導入で300キロまでの最高時速が可能になり、
さらにリニアモーターカーが、2003年には世界最高時速を記録しました。
その実験速度、時速581キロメートル。
東京―大阪間を一時間台で走る速さです。

その「夢のような」スピードは、晩年の三木の目にどのように映っていたのでしょうか。




「秋水」と美人すぎる科学者

2012-03-13 | 海軍

           


一度「美人すぎる仲人」という題で、美人すぎると困る職業についてお話したことがあります。
先日、某慶応病院で定期チェックをしたときに、余診を取った医学生のおぜうさんが、
あまりにもかわいくてアイドルのようなのに軽く感動しました。
その項で「最近の女医はレベルが高い」と書いたように、昨今は医者だろうが弁護士だろうが、
高学歴=不美人
などという価値観は過去のものになっているのに気付きます。
女子の絶対数が増えているだけに、普通の割合で美人も出現してきているということでしょう。

本日画像は、北海道の帝国大学に入学した女子学生第一号、
日本初の理化学研究所主任研究員、そして日本で三番目の理化学博士となった、
加藤セチ。(1893~1989)

北大の佐藤昌介総長が女子学生の入学を認める発表をし、
東京女子師範を抜群の成績で卒業したセチがそれに応募してきたとき、
彼女の入校は教授会によって審査され、その際、

「美人過ぎるので科学者としてきっと大成しないだろう」

という反対意見もあったそうです。

これは当時の世間とほとんどの男性の、
容姿に問題があって、恋愛沙汰に縁のない女性にしか学問はできない
という、よく考えればとんでもない偏見で、今なら立派なセクハラ発言です。

しかしながら、彼女は「女子師範の名誉にかけて」勉学に邁進し、3年間で帝大を卒業、
理化学研究所の在任中に結婚し、さらには子供を二人もうけて、さらには研究テーマであった
吸収スペクトラムで分析した「アセチレンの重合」という論文で、京都帝大から学位を得るなど、
学者として大成しつつも家庭との両立を可能とし、日本の女子科学界の先鞭となりました。

今日は、この美人すぎる科学者と、日本初のロケット戦闘機、秋水の関係についてです。


先日、同盟国ドイツから技術供与されたメッサ―シュミットMe163コメートの資料を元に
ロケット推進型戦闘機「秋水」が日本で開発された、というお話をしました。

その際、三菱の航空資料室に展示されているのが「秋水」のではなく、
コメートの設計図であることが、リュウTさんのコメントによって判明(わたし的に)しました。
その時、その設計図が「供与されたにしては簡単すぎないか」という感想を持ったわけですが、
これはわたし個人だけの感想に非ず。

実際には受け取った日本側も
「こんな簡単なもので何をどないせいっちゅうねん」
と、頭を抱えたらしいのです。

実は撃沈されてしまった伊29潜には、設計図どころかMe163Bの機体が積まれていた
と言われています。
極秘に行われたことゆえ証拠は残っていないのですが、当時空技廠では
「(伊29が)帰ってこないから困った」と皆が言っていた、という証言があるのだそうで、
このあたりの話は、また日をあらためて書きたいと思います。

とにかく、機体の設計図のみならず、搭載する肝心のエンジンの資料も実に簡単なもので、
仕方なく日本は、その資料をヒントに自主開発するしかなかったそうです。
(BGM:やっぱり地上の星


というわけで、秋水に搭載するエンジンは日本開発の「特呂二号」、燃料は勿論、
そのエンジンに合わせて燃料概念図を参考にしたオリジナルとなりました。



資料室で右の写真を観ていた人が「どうして燃料をこんな甕に・・・・」とつぶやいていました。
これには訳があります。
メッサ―シュミット・Me163が戦闘においてほとんど役に立たなかった理由の一つに、
その燃料の特異性があります。

推進材として使用された高濃度の過酸化水素とヒドラジンは、爆発性と腐食性が極めて高く、
特別の保管設備を要したため、この設備を備えた飛行場でしか運用できず、
最初の頃こそ驚いた連合軍も
「コメートのある飛行場にさえ近づかなきゃいい」ということに気づいてしまいました。
しかも、この材料は人体に非常に危険な腐食性をもっていたのです。

ドイツの燃料貯蔵のシステムはどんなものだか分かりませんでしたが、
日本では、腐食のおそれのある金属ではなく、このような信楽焼の甕に貯蔵していたわけです。

陶器が影響をうけないということはよくわかるのですが、それにしても、
こんな酒甕のような牧歌的な貯蔵甕に溜めたりして、われたらどうするとか、どうやって運ぶとか、
こちらにも問題は山積、という気がするのはわたしだけではないと思います。

しかしまあせめてこのタイプなら・・・・・・。

さて、このあたりで、われらがセチ博士の研究について少し説明しておきます。

太陽の光をスリットのようなものに通し、さらにその先にプリズムを置くと、
プリズムを通った光は虹のように、帯状の光の像ができます。
これが、ニュートンが発見した連続スペクトルです。

これに対し、光を放射しない気体、流体、個体に連続スペクトルの光を透過させると、
その透過させた物質に固有の(波長の光が吸収された形の)像が投影されます。

どのような像が投影されているかを分析することで、その物質の正体を知ることができます。
このように光のスペクトルで物質の正体を調べる分野を分光学と言います。

セチ博士が学位を取った論文のテーマは、この分光学を応用してアセチレンを解析したもので、
吸収スペクトルによってアセチレンにベンゼンが含まれるということを実証したものです。

この研究はセチ博士の初期のものですが、昭和17年、これらの研究実績を評価され、
彼女は内閣戦時研究員に任命され、航空燃料の研究を行うことになりました。
簡単な設計図からでもすぐさま機体とエンジンを作ってしまった秋水チームですが、
燃料に関しては難儀をしており、そのため飛べないという状態であったのです。

燃料をも独自開発せねばならなかった当時の研究チームの悩みは、
燃料の燃焼熱のため、炉が溶融してしまうことでした。
その問題に対し、セチ博士はすぐさま
「ヒドラジンの20パーセントを水と交換すること」を提案します。

翌朝、100人近くの署員が見守る中でエンジンテストが行われ、実験は成功しました。
濃度80パーセントの水素を酸化剤に、メタノール57%、水化ヒドラジン37%、水13%、
というこの最終的な割合は、セチ博士の提案によって確定されたということになります。

簡単に説明すると、この燃料の仕組みは、前者(甲液)の供給する酸素で、後者(乙液)
を燃焼させる、というものです。
いずれにしても人体に危険であることに変わりなく、貯蔵は陶器の甕、そして、
扱いは必ず長そで長ズボンで手袋をして行いました。

実験成功に際し、加藤セチ博士は
「(部隊長は)理研の実績は大きいとほめてくださいました」
と、これはいかにも女性らしい言葉を残しています。


美人すぎて大成が危ぶまれた科学者が、戦闘機燃料の開発を成功させる・・・・。
今ならちょっとした話題になってマスコミが押しかけるのでしょうが、
当時は戦闘機の開発に女性を加えるということ自体、公にはしにくかったかもしれません。


しかし、加藤セチ博士の提案した燃料で秋水が日本の空を駆けたのは、ただ一度でした。
テストパイロットであった犬塚豊彦海軍大尉とともに、つかの間の希望を乗せたまま、
終戦直前の夏の空に消えてしまったのです。

そしてこの機体に関わった全ての人々の、情熱と夢も、終戦とともに潰えて無くなりました。



(実験機と同じオレンジの秋水)


加藤セチ博士は男女一児ずつの母親でしたが、研究に没頭し、娘でさえ
「家に帰ってくるよそのおばさん」
のように思っていた、というくらい家庭のことは何一つしなかったそうです。
しかし、彼女はやはり母親でした。

彼女が政府から任命されて航空燃料の研究を始めた昭和17年。
息子の仁一は、徴兵により硫黄島に出征し、それっきり帰ってきませんでした。
そして終戦。
彼女は戦後、何度も知り合いに、硫黄島に行きたい、と言っていたそうです。


「だって、仁がまだ生きてるかも知れないから・・・・」









キスカ撤退作戦 アメリカ軍が戦った敵

2012-03-11 | 海軍





キスカ撤退作戦、三日目です。

日本軍が犬二匹を残してキスカ島から完全撤退をしたのは7月29日のことです。
艦隊の間で衝突が起こり、また島を敵艦と誤認して攻撃してしまうような
濃霧であったこの日、
不思議なことに艦隊がキスカ湾に到着したとたん、霧が晴れました。
強い風が一時的に霧を吹き飛ばしたのです。
これが神風と言うべき恵みの風だったのですが、恵まれたのはこれだけではありません。
何しろ徹頭徹尾この作戦には出来すぎるくらいの幸運に恵まれました。

今日はこの作戦にまつわる「不思議な現象」を中心にお話しします。


日本側が辛抱強く待つ間も、アメリカは着々とキスカ上陸の準備を進めていました。
Xデーは8月15日。
アメリカ軍はさらなるキスカ島砲撃に加え、海上閉鎖を実行しつつありました。

7月22日。
アメリカ軍の飛行艇がアッツ島南西200海里地点で七隻の艦をレーダー捕捉します。
それは第一次と第二次の撤収作戦の合間で、
そこに日本軍は影も形も存在していなかったにもかかわらず。

7月26日。
「ミシシッピー」始め各艦隊が一斉にレーダーにエコーを捕捉します。
ただちに米軍はレーダー射撃を行い、戦闘開始から40分後に反応は消えました。
しかしこれも日本軍ではありませんでした。

日本の水上部隊はそのころまだ幌延を出発して一日目です。
濃霧のため艦同志で玉突き衝突を起こし、「若葉」が帰投していた頃。
アメリカはこの幻の敵に対し戦闘を行い、盛大に無駄弾を浪費することになりました。

こんにち、これをアメリカ艦隊が一斉にレーダー誤認したということになっていますが、なぜか、
「サンフランシスコ」のレーダーにだけは、一切反応がなかったということです。

映画では、この砲撃音をキスカ島の日本軍も聞き、
「助けに来た艦隊が敵に捕捉されて戦闘になっているに違いない」
と絶望するシーンとなっていました。

これも映画で描かれていましたが、その後のレーダー解析で、日本側は、
平文でやり取りされた米軍の緊急時通信を、全てを傍受していました。
そして、「米軍はどうやら同志討ちをやっているらしい」と思っていたそうです。

しかし、米軍は同志討ちをしていたのではありませんでした。
レーダーにだけ捕捉された幻の艦隊と戦っていたのです。

そして、反応が消えたのを、日本の艦隊を全て海に沈めたためと思いこんだアメリカ軍は、
ここでとんでもない油断をします。
つまり、一日二日艦隊が留守でも大丈夫だろうと、このときバラまいた弾薬を再び補給するため、
7月28日艦隊を―哨戒用の駆逐艦も含め全て後方に送ってしまったのです。

7月28日
この日をよもやお忘れではありますまい。
濃霧をついて日本の水上部隊がキスカに突入した、まさにその日です。

7月30日。
アメリカ軍は全ての艦船の補給を終え、元通りに配置します。
しかしご存じのように、もうこの頃、キスカには、
日本軍と名のつく生き物は犬を除いて全くいなくなっていました。

撤収作戦完了後、大急ぎでキスカを離脱した艦隊は、実は一隻の米潜水艦と遭遇しています。
しかし、濃霧のせいで米艦船と間違えられたらしく、何事もなくすれ違ったのでした。

この不思議な符合を歴史はただ「誤認であった」「偶然があった」と書き残すことしかしません。
いや、できないでしょう。
しかし。
あまりにもこの話は出来過ぎを通りこして、気味が悪くありませんか?

幻の艦隊がまず「アッツ島」の近辺から現れる。
警戒している米軍は、レーダーに捕捉された艦隊を本物だと思いこむ。
そしてその幽霊艦隊相手に砲弾を浪費する。
砲弾の補給のために米艦隊がそろいもそろって前線からわずか2日消える。
そのうち一日が撤収作戦当日であった。


わたしたちが一様にここから想起することを、キスカの生存者はより強く感じていました。
つまり、米艦隊がレーダーに捕捉したのは、アッツ島で玉砕した日本軍の英霊だったのだと

そう、人によっては「あほらしい」と一蹴するオカルティックな想像です。
しかし、この作戦がもし冥界の日本軍によって実行されたものなら、
作戦立案者はまさに名参謀と称揚されるにふさわしいのではないでしょうか。



そしてその後、よもやまさか犬を残して日本兵が一人残らずいなくなっているとは思わず、
米軍は8月に入っても雨あられのようにキスカに砲撃を降らせ続けました。

航空部隊もそんな事態を全く想像していないので、キツネが移動しているのを
「小兵力の移動を認む」
空爆のため煙幕が起きたのを
「対空砲火認む」
そして何を見間違えたのか
「通信所が移転した様子を認む」
と、次々に誤った報告をあげたので、2週間の間、無人であることは全く悟られませんでした。
(この誤報告も何か不思議なんですが・・。通信所の移転?キツネってなぜわかったの?)

そしてXデー8月15日。
艦艇100隻余、兵力3万4千名の兵力をもってアメリカはキスカに上陸します。
もはやもぬけのからであることを知る由もない彼等は、極限の緊張下で味方を日本軍と誤認し、
あちらこちらで同志討ちになってしまいます。

このときの死者数100余名、負傷者54名。

ここでまた、不思議というしかないのですが、いくらなんでもこの死者数は多すぎないでしょうか。
海上と同じく、アメリカ軍は、この島でも、何を見て、誰と戦っていたのでしょうか。


アメリカ軍人にとって、きっと「キスカ」は汚点とでもいうべき名であろうと同情するのですが、
案の定戦史家には
「史上最大のもっとも実戦的な上陸演習であった」(サミュエル・E・モリソン)
なんて言われてしまっています。

そこで冒頭マンガですが、映画では残念ながら軍医長がとてもそんなことをしそうにない、
清廉潔白そうなキャラクターの平田昭彦だったせいか、このエピソードはでてきません。
しかし、ほぼ実話です。
英語ではペストはplagueと言います。

軍医が悪戯で「ペスト患者収容所」と書いた看板を兵舎前に立てておいたのでした。
おそらく歴史DNA的に、ペストを異様に怖れるアメリカ人はパニックに陥りました。
本土に大慌てでペスト用のワクチンを注文したそうですが、
・・・・・これがジョークだとわかったとき、みんなどんな顔をしたのでしょうか。



「ちょっとずつ食べるんだぞ」(いや、もう早速食べちゃってるし)
「弾が落ちてきたら逃げるんだぞ」(つないであったら逃げられないし)と、

ついつい突っ込んでしまうセリフを、撤退前の兵隊が犬にかけるシーン。
映画では「太郎」「花子」という二匹の犬になっています。
実際の犬の内訳は海軍所属が「勝号」「白号」陸軍の「正勇号」

日本軍がキスカに上陸したとき、10名ほどの米軍気象観測班と子犬がいて、
その犬の名前が「エクスプロージョン」(爆発)であったこともわかっています。
撤収後のキスカでアメリカ軍が見つけたのが数匹の犬、という記述があるのですが、
これが爆発くんをいれた四匹だったといわれています。

キスカ守備隊は何回にもわたって撤収のために浜辺に集合したのですが、
実はその何回かにわたって、犬たちはなんと繋がれていた縄を食いちぎり、
必死で皆の後を追いすがってきたのだそうです。
浜辺の集合が繰り返されるたびに犬たちが追いかけてくるので、縄はだんだん太くせざるをえませんでした。

白号は繋がれていなかったらしく、最後の大発に乗りこんで浜辺を見たら、そこには白い点が
行ったり来たりしているのが見えた、という生存者の証言があります。(キスカ戦記)

犬たちは15日間の砲撃にも怪我ひとつせず、そして餌をちゃんと節約しながら食べたらしく、
米軍が島に乗りこんできたときにはちゃんと元気でした。

米軍に捕獲された犬たちはその後アメリカ大陸に渡ったということです。



ところで、原点に立ち返るようですが、なぜ日本軍がアリューシャンの孤島を占領する必要があったのか。
それは簡単に言うと、陽動作戦でした。
海軍がミッドウェイを敵機動部隊撃滅の決戦の場と定めており、
そのためにミッドウェイ方面ではなくこの地域に目をそらせることが目的だったのです。

アメリカ側も、軍事的に意味のないこの地域を警戒することがなかったので、
日本軍が駐留しているのに気がついたのは6月10日頃のこと。
キスカ湾に着水しようとした水上飛行艇が日本軍を見て慌てて逃げるということがあったそうです。
目そらしのおとりが目的ですから、連合艦隊司令部は駐留を9月までと定めていたようです。

これもそのうち駐留部隊に越冬させ哨戒地方を北方に移動する、などと言いだす一派が出るわ、
さらに陸軍や軍令部も口を出してくるわで、帝国陸海軍お約束の
「内部で意見がまとまらず右往左往状態」に陥っていたようですが、
米軍が駐留に気付き、徹底的にここを叩きだしたことで、
話は白紙にせざるを得なくなったということになります。



しかしなんというか、こんなことで命を粗末にされる将兵にしたら、たまったものではありません。
結果良ければ、で、このときの作戦は皆に称揚され、痛快な脱出劇として映画にもなりました。
映画では「我々に手を差し伸べてくれた日本と軍に感謝しようではないか」などと言っていますが、
よく考えたら、いやよく考えずとも、撤収作戦は軍がするのが当然の義務よね。




キスカ撤退作戦 軍人精神と認知バイアス

2012-03-09 | 海軍

前半に続き、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」から、実際の作戦経緯について今日はお話しします。

・・・・と言いながら、この画像は何だ?

と思われた方。
もうそろそろブログ主の偏向した嗜好とブログならではの狼藉に慣れていただかないと困ります。
前回も、脇を固めているにすぎない軍医長役の平田昭彦をわざわざアップにして画像を描き、
さらにこの工藤軍医長中心に無理やり話を進めるという暴挙に及んだわけですが、
さすがに今日は、作戦そのものを語るので軍医長はお呼びではありません。

ですから、せめて冒頭だけでも平田画像を挙げさせていただく。
「それはいいけど、この映画には女性が出ていなかったんじゃなかったっけ」と思われた方、
その通り。
「キスカ」とは全く無関係のこの画像をアップする機会がないので無理やり掲載しました。

この画像は、平田様が長髪の海軍航空士官野口中尉をそれはかっこよく演じた、
「さらばラバウル」(1954年)の一シーン。
白いマフラーと搭乗員服の平田昭彦の最もスマートな姿が拝めるお宝映画です。
この画像の平田昭彦も素敵ですね。
でもはっきり言ってカナカ族の娘、っていうのが邪魔だわ。脚太いし。

ところで、この「さらばラバウル」の当時のポスターに書かれている文句って

「南十字星燦めくラバウルの大空に燃える 清純の恋と灼熱の恋!」

なんですが・・・どう思います?
ポスターはに池部良+岡田茉莉子、そしてこの二人の恋人たちが描かれているんですが、
「清純の恋」が池部チームで、この平田昭彦チームは「灼熱の恋」の方。
これって、こういう煽りだったのか・・・。

それにしても、海軍の、しかも航空士官が、現地の飲み屋の、しかも原住民の娘と恋に落ちる。
・・・・・お話としても、かなーり無茶ではないかとも思うがどうか。
百歩譲って飲み屋の娘というだけなら、命削るような戦場では可能性もないわけではないけど、
カナカ族は・・・ないんじゃないかな。

さて、キスカです。
前回、作戦が動き出したところまでお話ししました。

キスカの前に玉砕したアッツ島を大本営は決して見殺しにしたかったわけではなく、
当初は救出作戦も計画されていました。
しかし地理的にも時期的にも陸海軍の調整がつかず、結局
「アッツはあきらめてキスカに全力を注ぐ」という形での作戦にせざるを得なかったのです。

前項最後で、工藤軍医長が
「ケ号作戦という名をガダルカナルの撤退で聞いた気がする」と言うシーンを紹介しましたが、
日本軍は撤退作戦にはこの「乾坤一擲」から取った「ケ号」を付けることになっていました。

そこで、なぜこの大作戦に、ハンモックナンバードンケツ、アウトオブ出世コースな木村少将が
(映画では大村ですが感じが出ないので以降本名で行きます)抜擢されたかです。
映画の中で、兵学校同期の、こちらは勿論、出世コース順風満帆そうな川島中将が、
この抜擢を不満に思う佐官連中にこのように言います。

「今度の作戦は敵を攻めるのではない。戦果ゼロの決死作戦だ。
なまじ手柄を立てたがる奴には務まらんのだ。
あいつは腰は重いが、ここぞというときには必ずやる男だ」


重い腰を上げた木村少将が立案した作戦成功の要は、
視界の全く利かないほどの濃霧が発生していること。
この気象情報を司令に伝えるのが、おそらく短現将校ではないかと思われる
福本少尉(児玉清)
天候のデータを作戦遂行のために毎日取る係です。



映画では詳細は省かれていますが、本作戦前に木村少将は二次にわたり、
潜水艦隊15隻による救出作戦を行っています。
そして、キスカへの糧食の搬送と数百人の病人の後送には成功しています。

しかし、この作戦はレーダーによる米軍の哨戒網を突破できず、
結果三隻の潜水艦と人員を失うことになりました。
損害の割に成果が少ない作戦と言うことで、これは中止になり、
以降、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられます。



昭和18年6月29日。作戦発動。
軽巡「阿武隈」を旗艦とする第一水雷戦隊を中心に、計15隻からなる高速水上戦隊です。
この作戦に当たり、木村少将はいくつかの準備をしました。

天候を入念に調べること。
これは視界ゼロの濃霧の中でしか成功の見込みがないと思われたからです。

万が一米軍に発見されても良いように、
米軍艦を思わせるような艦の偽装をすること。


一足先に第一次作戦に参加した潜水艦を先行させ、
気象状況を通報させること。

電探を搭載した艦を配備すること。

木村少将は連合艦隊に当時の最新鋭駆逐艦、就役したばかりの「島風」を配置させました。
「島風」は最新の電探逆探を搭載していました。

日本軍の強みは、先日「藤田怡与蔵の戦い~日航パイロット編」でもお話ししたように、
その優れた見張能力にありました。
しかし、さしもの優れた肉眼を持つ日本軍といえども、
向こうにも見つからないような濃霧の中では、こちらからもその能力を発揮することはできません。
つまりこの作戦には「島風」の電探設備が必須であったのです。

これらの入念な準備の末、キスカに向かった艦隊ですが、何たることか。
キスカに向かう途中で霧が晴れてきてしまいます。

 

そこで発せられた木村少将の驚くべき言葉。

「引き返す」


皆さん。
あなたがこの場にいたら、この決断ができますか?
霧が晴れれば作戦成功は難しくなる。それは明白です。
しかし、キスカは目の前。将校たちは皆一様に「ええええ~?」(右画像)

さらに後ろにくっついてきている艦までがやいのやいのと「意見具申」してくるんですよ。
「突っ込みましょう、ここまでせっかく来たんですから」

おまけにキスカでは一時間以内に乗船をスムースに済ませるため、5千余の兵が、
文字通り首を長くして浜に集結していて

こんなことになってしまっているのです。

こういう状況で自分以外は皆自分の意見に反対。
しかし自分さえGOサインを出せば、全ては動きだし、皆が取りあえず納得する。
言えますか?「引き返す」。

先日何回かに分けて話をした真珠湾攻撃の酒巻少尉のことを覚えておられるでしょうか。
潜航艇のジャイロが壊れ、これでは、「目隠しをした車が幹線道路をぶっ飛ばすようなもの」
であると熟知していながら、出撃をやめませんでした。
いや、やめられませんでした。
本人も言っています。
「わたし一人の考えで今さらやめるなどとても言えなかった」
おそらくこの故障では、作戦の成功は覚束ないと熟知しながらです。

自分以外のすべての人間に期待され、それをするのが当然の状況に置かれたとき、
酒巻少尉は先を見通して冷静に状況を判断して身を引く勇気を持ちませんでした。
こんなときに「やめる」と言うのはとてつもない勇気を要するのです。

しかし、酒巻少尉の弱さを責めることは誰にもできません。
むしろ、こちらが普通の人間というものであろうと思われるからです。



気象を報告する役目の福本少尉には、兵科士官が詰め寄ります。
「貴様、臆病者の大村少将がとっとと決断できるように、霧は5日持つと言え」
学者である福本少尉には嘘は言えません。
霧は三日と持たない、というのが観測の結果でした。
このときこの士官のうち一人がこう言います。
「五分通り霧が晴れてしまっても、五分は軍人精神で補えるのだ」

これですよ。
陸軍よりは科学的と言われた海軍でも、
冷徹な科学の結果など軍人精神でどうにかして覆してみせる、などという、
根拠のない精神論を振りかざす人間がここでもほとんどだったということでしょう。

そして、酒巻少尉が「故障さえも軍人精神で何とかして見せる」と無謀な出撃を決めたように、
途中で霧が晴れても、たとえ敵に発見されても、さらに攻撃される可能性があっても、
今後の危機も「軍人精神」で何とかなるだろうと考えてしまうのが、普通の人間だということです。

皆さんは「正常性バイアス」という言葉を聞いたことがありますか。
正常性バイアスは、どんな人間にも起こり得るもので、
災害や事故、テロなど、明らかに被害が予想される状況が現実に目の前に起こったとき、
なぜか、自分にとって都合の悪い(危険な)情報を無視したり、
「自分だけは大丈夫」「今回だけは大丈夫」と思いこんでしまうことを言います。
(先の災害ではずいぶんこの心理が被害を大きくしたということです)

「安全であろうと人間が信じたい心理」、心理学的に言うところの認知バイアスの一種、
これを「正常性バイアス」と言います。 
つまり、この作戦における木村少将以外全ての軍人、「ここまできたんだから行っちまえ派」は、
おしなべてこの軍人精神の形をした認知バイアスがかかってしまっていたということでしょう。
心理的にむしろ普通のことである中で、木村少将の判断はむしろ「特殊」であったとも言えます。

木村少将はただのドンケツ軍人ではなかったのです。
「帰ればまた来ることができる」
この一言で、15隻の艦隊を引き変えさせ、さらに数度にわたる再出撃の際も、ことごとく、
霧が晴れるたびに根拠地に帰還することを選びました。
叩きあげの木村少将は、掩護なしの攻撃を受けたときに艦隊がどうなるかを熟知しており、
それがこの慎重な撤退決断につながったと言われています。

しかし、当然のごとく少将は各方面から凄まじい批判にさらされます。
直属の上官である第5艦隊はもちろん、連合艦隊司令部、果ては大本営に至るまで。
これだけの組織が、木村少将一人の決断を口をきわめて非難してきました。

「普通の人」、酒巻少尉もそうでしたでしょうが、普通の軍人が怖れるのがこれでしょう。
「怖気づいて手ぶらで帰ってきた卑怯者」と日本中から罵られるくらいなら、失敗だろうが、
霧の中敵に見つかって戦死してしまった方がましだという実に軍人的な心理です。

さらに、罵る側も「やらずにおめおめと生きるなら失敗して死ね」というメンタリティですから、
いかに木村少将が強靭な精神力とよほどの覚悟を持っていたかが分かります。

木村少将はこのバッシングに耐え、ただひたすら濃霧を待ちました。

そして7月28日、ついにチャンスが訪れます。
その霧の濃さは、艦隊同志が全くお互いを確認することができず、
国防艦「国後」旗艦「阿武隈」が、接触事故を起こし、さらにその混乱で
「初霜」「若葉」「長波」が玉突きのように衝突するというものでした。
傷ついた「若葉」は戦線離脱を余儀なくされます。



キスカに到着した艦隊は、米軍と遭遇する可能性のある正面からの侵入を避け、
島の西側を島陰に添って静かに進みます。




必死の目視で座礁しないように航路をチェックする乗員。
危険を冒してもこのルートを選んだことがこの作戦の成功の要因の一つでもありました。

 

一方、キスカの将兵は、いつ来るかわからない艦隊を待って、
毎日浜に集結し、来ないと分かると元の配置に戻る、という過酷な毎日を送っていました。
繰り返される期待と絶望の日々。

この島には陸軍もいたのですが、ある陸軍部隊の配置は山を越えたところにあり、
浜辺に集結する為に山中を総員でランニングして来なくてはなりません。
「海軍はうそつきだ」「我々陸軍を弱らせるためにわざとやっているのか」
こんなことを言う者さえおり、ここでも陸海軍の仲は険悪でした。
誰もがぎりぎりの精神状態であったのです。



しかし、ついに艦隊はやってきました。
お迎えするのは彼らの飼い犬。というか、軍用犬ですね。
そして、キスカに突入した瞬間だけ霧が晴れるという奇跡のような天祐があったそうです。

 

喜び、各艦に乗りこむ将兵たち。
投錨からわずか55分後、五千二百名全員がたった一人の損失もなく撤退に成功。
ここに、世界の戦史史上でも類を見ない「完璧な撤収作戦」が完了したのです。




二回に分けて書くつもりが、長くなりました。
最も書きたかった「ちょっといい話」や「不思議な話」を次に譲りたいと思います。

「関係ない平田昭彦のことを冒頭ででれでれ書いてるからだ」って?
いや、それは分かっていたんですよ。でもね。

こういうのを認知バイアスで言うと、あと知恵バイアスと言いまして(以下略)


 

 


太平洋奇跡の作戦 キスカ

2012-03-07 | 海軍


「太平洋奇跡の作戦 キスカ」(東宝1965年作品)を観ました。

はて、あの映画は確か主人公が三船敏郎であったはず、と思った方、その通り。
豪華男優陣の中で、三船でも藤田進でも、山村聡でもなく、
なぜ平田昭彦の画像を描いたか、というと、単に個人的に贔屓にしているから。
このあたりが、わがままの許されるブログのいいところですね。

陸軍士官学校(60期)卒、戦後東大法学部に学んだという経歴もお気に入りの理由。
世が世なら陸軍士官としてカーキ色の制服を着ていたであろう平田様は(つい様付け)、
戦争映画に出演の際には、圧倒的に海軍軍人(必ず士官)を演じてきたわけですが、
これも当然。
エリス中尉独断にて言わせていただければ、平田昭彦は

海軍軍医役の日本一似合う俳優

であるからです。

この映画での平田の役どころは太平洋の島、キスカ島に防衛隊として駐留する海軍軍医長。
孤島で孤立無援。
玉砕の色濃くなったある日、自分が手術した兵が絶望のあまり自決します。
工藤軍医は病棟を回って全員から手榴弾を取り上げます。
「もし敵が来たら、そのときは軍医長が殺して下さい」と頼む兵に

「わかった。しかし、最後の瞬間まで生きることをあきらめるな」

 

ああ、このセリフ、聞いたことがあるような。
「潜水艦イ-57降伏せず」で平田昭彦演じる中沢軍医中尉が、
あまりの辛さに「死にたい」と弱音を吐く我がまま娘イレーヌにこんなことを言ってましたね。
こういう説教臭いセリフも、この人が言うと
「ああその通りだ。この軍医のいうことなら信じてみよう。ついでにもっと叱って下さい」
って気になりませんか?
それはわたしだけですか?

ところで、こういう硬派な映画、女性の一切出ない、男だけの戦争映画を観ると思うのですよ。
たとえお金がなくて、東京オリンピックの次の年だというのにまだフィルムが白黒で、
潜水艦沈没シーンがその「潜水艦イ‐57降伏せず」の使いまわしで、
なぜか米軍の配置であったこの地域で英軍機スピットファイアが飛んでいる、
という不思議なことになってしまっていても。(説明っぽいな)

この映画のころが、日本でまともな戦争映画が作れた唯一の時代だったのではないかと。


芸者との絡みや幼馴染の涙なんて、戦争映画にはいらん!
兵が「おかあさーん」と叫びながらみんなでおいおい泣く恥ずかしい戦争映画なんぞいらん!

この映画を観て、全ての出演男優が一人残らず、司令官から下士官のおっちゃんに至るまで、
そのあまりのかっこよさに光り輝いているように思ったのはわたしだけではないでしょう。
特に、三船敏郎の木村少将と、クラスメートだという山村聡演じる川島中将の、
互いを「貴様!」と呼びあうツーショットの渋さ。
この二人が一種軍装で並んでいる画面の美しさには、背中がゾクゾクするほどしびれます。

 ね?

さて、このブログに来られる方ならもしかしたらご存じかも知れませんが、この映画のテーマ、
第二次大戦末期にあった、キスカ島からの撤退作戦について説明しておきましょう。

キスカは、今は北方領土と言われている北海道の先の先にあり、
アラスカは眼と鼻の先、という位置に存在する島。
ミッドウェー作戦の支作戦としてアッツ島とともに防衛のため陸海軍が駐留していました。

アメリカにすれば本土の近くに日本軍基地があることそのものが脅威であったため、
日本軍がさして戦略上重視していなかったこの地点を徹底的に叩きだしました。
そして昭和18年5月、アッツ陸軍守備隊はバンザイ突撃打電を遺して玉砕します。

制空制海権を全て米軍に掌握され、まさに孤島に取り残された形のキスカ島の将兵。
アッツ島と同様の運命はもう迫っているかに思えました。
彼らが覚悟を決めつつあった昭和18年6月、大本営はキスカの撤退作戦を計画します。

作戦立案者、川島中将。
実際の第5艦隊司令長官は河瀬四郎中将と言います。



こういう人もいたようです。
なぜかしつこく?作戦を反対する軍令部の赤石参謀。(西村晃)



軍令部に米内光政発見!この俳優さん、誰かは全く分かりませんでしたが、似てません?



取り残された島、キスカに駐留する5千余名の将兵の司令官、秋谷少将(藤田進)
うーむ。何たる存在感。何たる渋さ。
海軍将官を演じさせてこの人の右に出るものなし。
どう解釈してもうまいというわけではないこの人の演技が、むしろ軍人らしい!とこれも独断。
この人の演技は、これでいいんです。(断言)



救出作戦のトップに抜擢されたのは、兵学校をドンケツ(118人中107番)で出た大村少将
実際は木村昌福少将と言いますが、なぜか仮名扱い。
全く史実通りの映画ではないための配慮でしょうか。
(NHKにも、少しこのあたりの配慮が欲しいところですね。とイヤミを言ってみるテスト)
これが、あんまり成績ドンケツに見えない三船敏郎
おそらくハンモックナンバー上位のクラスメート、山村聡の川島中将と、
すでに昇進に差がついています。



しかし、川島中将は大村少将の実力を見込んでこの大役に大村少将を抜擢。
「救出作戦にはフネを最低でも5ハイ出してくれ」と頼み、川島中将がはったり効かせ
交渉に成功するのですが、全くそれが当然のことのようにしているので、
艦隊参謀の国友大佐(後右側)は「川島中将に失礼じゃないですか!」と怒ります。

 

国友大佐を演じるのが中丸忠雄
最近亡くなった俳優さんですが、この映画の頃はニューフェース。イケメンです。
ある意味一番活躍する中心的キャラクター。
艦隊参謀国友大佐は、キスカに艦隊が救出に向かうことを知らせる重大な任を帯び、
ひそかに潜水艦に乗り込みます。
無電では敵に作戦が傍受されてしまうからです。

国友参謀のキスカ潜入の成功合図は連送「サクラ」。
応答はやはり連送で「サイタ」。

 

「我々の命に掛けても参謀をキスカに送り届けます」
ときっぱりと言うイ号潜水艦長天野少佐(佐藤充)
「この辺の海は水温が低く、15分も浸かっていたら凍死します」と言われ、
一人船室で不安におののく国友大佐。



この潜水艦は、キスカ到着後浮上したところを敵航空機に攻撃され、艦長天野少佐は戦死。
残った乗員は文字通り自分たちの命と引き換えに発射管から大佐だけを外に逃がします。
国友大佐を脱出させた後、ハッチを閉める間もなく、垂直になった艦は乗員と共に沈んでいきます。

 

沈む潜水艦。それをただ敬礼で見送る国友大佐。
大げさな演出も、もってまわった余計な感情表現も何もなく、
キスカの将兵を救うために、ただ任務を完遂するために、莞爾として死んでいく潜水艦の乗員。
涙の「さようなら」も遺言も無しです。

素晴らしい。

でも、この潜水艦の存在そのものが映画上の創作でした~。(ちゃんちゃん♪)
と、ここでこの映画はこの映画なりに「盛って」いるということに気づくんですが、
でも、これくらい許してあげようよ。
NHKと違って仮名を使ってちゃんと創作だとことわっているし。(とさりげなくイヤミを略)


ところで、この頃キスカではどうなっていたのでしょうか。

 

脚を切断されたあと、自分をかばってくれた上官が戦死するのを目の当たりにし、
手榴弾で自決する兵。
このころのアメリカ軍の攻撃は非常に苛烈で、応戦する方にも被害は日に日に増えました。
ただ、キスカ特有の濃い霧が立ち込めたとき、攻撃がないのでそれは彼等にとって
「良い天気」だと言われていました。

そしてキスカの撤退作戦も、この霧を利用して行われました。
攻撃の来ない間に霧に隠れてキスカ湾に突入、1時間以内に全員が撤退するという作戦です。
そして、平文で、キスカの将兵に向けて玉砕を勧告するような電文を打ちます。
つまり、アメリカ軍が盗聴していることを逆手にとって、
日本軍はすでにキスカを見捨てたのだと油断させるための作戦でした。



しかし、なまじ希望を持たさぬよう、本当の作戦の経緯を聞かされない兵たちは、
自分たちは日本から見捨てられたのだという絶望的な思いを強くします。

「お盆の日には、キスカ島守備隊は全員幽霊となり、
幌莚の五艦隊に殴りこみをかけるから覚悟しろと返事を打とうじゃないか」


という笑えない冗談でむりやり笑う兵たち。
このキスカで生還し生存していた中に、このときの主計士官がいて、
このDVDの特典で生存者証言をしている近藤敏直大尉と共に、
戦後「キスカ会」を立ちあげました。

 

左は第二種軍服の近藤大尉。
実にスマートな感じのする海軍士官ですね。
右画像、右が映画撮影時にアドバイザーとして参加した近藤氏。
真ん中はどうやら中丸忠雄氏のようです。
左人物は皮手袋をしていますから、阿武隈の艦橋にいた誰か、おそらく、
近藤大尉を演じた俳優、土屋嘉男ではないかと思われます。

近藤氏は砧の撮影所で俳優のオーディションに立ちあい、出演俳優を選ぶ手伝いもしたそうです。
監督は、自身の俳優を観る目より、近藤氏の元海軍軍人の眼を信頼していたようで、ここにも
今とはかなり違う、戦争を扱うことに対する当時の映画界の姿勢が覗えるような気がします。

近藤氏がキスカの生存者に新聞で呼びかけ、それに呼応したのがその主計長。
さらに呼びかけに応じてきたのが小林新一郎元軍医長で「今キスカの本を書いている」
その本の製作に二人は手を貸し、出来上がった本「霧の弧島」は靖国神社に奉納されました。

ある日その本はあるきっかけで映画関係者の目にとまり、それがきっかけで、
「キスカ」は世界でも稀有な奇跡の成功撤退作戦として映画化されることになったのです。

映画化を打診されたとき、近藤氏には一つの希望がありました。
「映画会社の力で各地にいる生存者がもっと名乗り出てくれたら、
皆で慰霊祭をやりたい」

というものでした。


さて、映画に戻りましょう。
絶望に陥ったキスカの彼らに、救出作戦が動き出したことを伝えるべきか。

 

この作戦は「乾坤一擲」のけを取って、「ケ号作戦」と称します。

「今回傍受した五艦隊から連合艦隊の無線にケ号という作戦名がありました。
私の記憶の間違いでなければ、ガダルカナルの撤退作戦でこの名が使われています。
艦隊は我々を迎えに来てくれるのではないでしょうか」

と工藤軍医長。

「彼らに希望を与えたいので直ぐにみんなに知らせてください」

と訴えますが、
「五艦隊だけでこの作戦が成功する望みは薄いのだ。
あてのない希望を与えて何になる」
「軍医長、いいか。
このことは君の胸にだけしまっておいてくれ」

とそれを口止めする秋谷司令官。

うつむいて唇をかみしめる軍医長・・・・。

平田昭彦の画像ばっかりだしていますが、実は出演個所はそう多くありません。
この項だけ見たら、まるで主人公みたいですが(笑)


この項は二部に分け、キスカ撤退作戦の実際については、後半に譲ります。 




伊号33潜を引き上げた人々

2012-03-03 | 海軍

二回にわたって、昭和19年6月、伊予灘に事故のため沈没し、
9年たった終戦後の昭和28年、
引き揚げられた帝国海軍の
伊号33潜水艦について書きました。


今年も3月3日がやってきましたので、伊33潜について書くことにします。


行方不明の急報を受けて、呉工廠から事故後5日たってから救援隊が派遣されました。
捜索方法は網を張って底引きのようにくまなく海底を探り、
伊予灘由利島南方3500メートル地点、
鎮座している伊33が発見されました。

沈んだ艦の外からハンマーで叩いて生存者を確認するも、中からは応答がなく、

そのときには艦内の全員が死亡していると判断されました。
その時点で艦内の空気は残っているようでしたが、
全員死亡と判断された時点で救出作業は行われないことになりました。


潜水艦は非常に事故の起こりやすいもので、第二次大戦中戦没した潜水艦のおよそ半分は、
敵の攻撃ではなく事故によって沈没したのではないかと言われています。

しかし機密性の高い潜水艦は、たとえ事故で海底に沈んでも、
伊号、呂号レベルであれば50時間くらいまでは救出が可能です。
たとえば呂64潜が大竹沖で事故を起こしたときは40時間、
呉港外で特殊潜航艇「蛟竜」が沈んだときには24時間目に艦が引き上げられ、
いずれも全員が生還しています。

しかし、今と違ってそのほとんどを潜水士に頼らざるを得ない当時の引き上げ作業は、
それ自体が困難なものでした。
例えば伊33潜は海深60メートルの海底に沈んでいたわけですが、そのくらいの深度だと
海底での作業は潜水士でもわずか5分から7分に限られます。
さらに、潜水病を避けるために、浮上するのに1時間半をかけておこないます。

ある減圧事故の例ですが、その潜水士は、30メートルの海底に潜ってから
道具を忘れたのに気が付き、急激に浮上しました。
忘れ物を携えて再び潜るときには一見何ともないように見えましたが、
二度目に浮き上がってきたとき、死亡しました。
血管中に窒素が残った状態のまま浮かび上がることによって急死に至ったのです。

その頃の潜水士は呉式という階段式の浮上方法を守っていました。
例えば60メートル潜ると、浮上するときにはまず30メートル上がって水中で30分休む。
この方法が普及してからは死亡事故もかなり減ったのですが、
何度も深海に潜っているベテランの潜水士でも、海深60メートル以上深い海には
「地獄が真っ暗い口を開けて待っている」と怖れたものだそうです。

この伊33潜引き揚げは、戦後の記録で世界一の深さからのサルベージ作戦となりました。
引き揚げを請け負ったのは北星船舶工業という会社。
この会社は、ある豊後水道での引き揚げ作業のときに酸素ボンベが爆発し、
たくさんの作業員が無くなる事故があったのですが、その生き残りの人々が、
力を合わせて作り上げた会社でした。

当初9年前に伊潜が沈没した地点はすでに分からなくなっていて、
当時の事故を知る漁師に案内を頼み、彼が示す位置付近の海上を、
三本の糸におもりをつけたものをたらしたまま往復して捜索しました。
三回目に、錘が艦体にあたった「コツン」という音がし、艦の位置が確認できたのです。

引き揚げ作業は「ちょうちん釣り」という方法で行われました。
棒で沈んでいる艦の底の砂に穴をあけ、そこにワイヤーを通し、
それに100トンの大きさのタンクを沈めて縛り付け、
20個ほどのそのタンクの浮力で艦を浮かせていくという方法
です。

世界のサルベージ作業の歴史を見ても二番目の深度でのもので、
先ほども書きましたが、この深さゆえ潜水士の作業時間はわずか5分。
材料不足などもありましたが、指揮官先頭を体現する北星工業の又場社長が、
みずからワイヤーを握って陣頭指揮を行い、心身ともに過酷な状況の潜水士をまるで
慈父のように労わるなど、社員が一丸となって作業にあたった結果、
四次に分けた作業は天候の不順な日を除き、順調に進みました。

この作業の第三段階で、艦首が一部分だけ海面に出ていました。
このため、このころから艦の前部に多量の空気の入った(つまり浸水していない)部屋が
あるのではないか、と見られていました。
それが報道されるや「もしかしたらミイラ化した死体が出てくるかもしれない」という予想に、
マスコミや世間は異常な関心を寄せ出したのです。

作業の第四次段階には報道陣がつめかけはじめました。
彼らの目の前で作業員が指を切断するという事故も起こり、危険な作業であることを
目の当たりにしているはずなのに、そこは今も昔もマスコミです。
魚雷に入っている特用空気はカメラのフラッシュにも引火しかねず、それだけでなく
他にも危険はいくらでも転がっている現場で、彼らは平気で煙草を吸い、寝ころび、
艦体を叩いたりして、作業員のひんしゅくを買ったそうです。

「今考えたらぞっとして冷や汗が出る。知らぬが仏とはあのことだぜ」

艦が浮上し、遂にハッチが開けられました。
問題の前部発射管室の扉が開けられる時が来たのです。
そのとたん、白いモヤの充満した艦内から「ぐっと来る悪臭」が作業員の鼻をつきました。
懐中電灯を照らしてみると、その光の中に完全なままの釣り床のマットが見えます。
しかし、ガスをある程度換気するまで、危険なので誰も立ち入ることができませんでした。

この悪ガスの正体は、希硫酸と鉛、非鉄金属などが海水に作用して化学反応を起こし、
有毒に変わり、それに死体の匂いが加わったものです。

そのうち全ての空気が入れ替わるのを待たず、一人の記者が艦内に飛び込み、
中の様子をまず目撃しました。
9年前死んだのと同じ姿で床に臥せ、あるいは首を吊っている死体、その数13。

作業終了直前にようやく区画内の写真を撮ることができましたが、
それが前回お話しした「三葉の写真」です。
日頃大抵のものには驚かないカメラマンが、このときは額からアブラ汗をタラタラ流し、
ほとんど失神寸前であったそうです。
艦内の異様な空気の汚れに身の危険を感じたせいもあるでしょう。

しかし、写真を撮ったら後も見ずに飛び出してくればいい報道記者の体験など、
実際に死体をハッチから引き上げるために、死体をむしろで包み、
あるいは抱きかかえるように担いで降ろした潜水士の凄まじい作業に比べれば、
何もしていないに等しい、というものではなかったでしょうか。

ある遺体はまだ少年のようなあどけない顔に苦しさをにじませたままでした。
どの遺体も、面影は変わらず、ただ眼球が少し陥没しているだけだったそうです。
まだ死体は硬直していなかったため、手足を動かすとパクリと口を開けました。

こんな遺体を収容するたびにデッキに上がっては、彼ら作業員は酒を飲んだそうです。
これは彼らを労わる又場社長の計らいだったのでしょうか。
普通の作業であれば仕事中に酒などありえないことでしょうが、
あえてそれをしたところに、この作業がいかに異常なもので、
作業員の精神が過酷な状態にあったかが覗えます。

かれら潜水員のほとんどは、

戦艦陸奥、日向、伊勢、榛名、巡洋艦青葉、利根、空母天城、
阿蘇

の引き揚げ作業に関わっています。
陸奥のときは沈没直後で、まだ艦内に遺体が残っているころでした。
(海軍はこのとき陸奥を引き揚げて再利用しようとしたが、
再生は不可能と分かり重油の回収だけでこのときは終わった)

破孔(破れ目)から一歩艦内に入ると、天井にピッタリと人体がくっついています。
潜水員が部屋に入り、海水が動くと、まるで後を追うようにそれらがついてくるのです。

しかし、彼らは登山家がさらに高い山を目指すように、
前人未到の沈艦をみずからの手で引き揚げることにかける情熱を、
当時(昭和28年)このように語っています。

「沖縄の戦艦大和を引き揚げたい。
もっとも水深200メートルだから、深海潜水作業機でもなくちゃ。
フィリピンの武蔵に、熊野灘の空母信濃もだめだ。
まあ我々ダイバーは一生の三分の二を海底につかって、
そんな果てしない夢を追うのさね、ハハハ・・・。」






三菱航空資料室~いろいろ

2012-03-02 | 海軍

        

昨日の記事に、コメント入りました~!
そのリュウTさんのコメントから読んでいただくと話が早いのですが、何とわたしは
メッサ―シュミットはメッサ―シュミットでも、メッサ―シュミット違いで、違う機種、
Me262の資料から秋水ができたと勘違いしてたってことですね。
ドイツはMe262とMe163の資料を、どちらがメインかは知りませんが、同時に送ってくれたと、
こういう理解でよろしいでしょうか。

秋水のモデル、Me163コメート
写真、見ました。
・・・・・・・そっくりです。

よく設計図なしでこれだけそっくりにできたなあ。
・・・と、またもや脳内に地上の星が鳴りだしたところでふと気付くと
リュウTさんのコメントの中のこの一文、
「先端にプロペラが付いてかわいさ倍増」
・・・・・って・・・・ってことは・・・。

これ、(上↑)コメートの設計図ではないですか。

ちゃんとプロペラついてるし。
「伊潜と一緒に沈んだ」と言うから、てっきり残った資料をもとにしたら、あんなおもろい形に
なってしまったんだと勝手に思っていたんですが・・・。
こちらの設計図はご無事でしたか。
でも、何だか設計図にしてはおおざっぱすぎる気がするのはわたしだけでしょうか。

そこでナチスドイツのコメートの画像を調べたのですが、
もう・・・・かわいすぎて生きるのが辛い・・・。

とまでは言いませんが、発電用と知らなければ、飾りとしか思えないかわいいプロペラ。
「着地が下手でよくころんだ」とか、「自力では移動できないので対地攻撃の的になった」とか、
おまけにボディに描かれた「怒!」みたいな井桁マークがさらに一層愛おしさをそそります。

そう言えば、説明係の方が
(コメートは)「燃料が切れてグライダー滑空している間は、ダイブのときと違って遅いので、
この間にやられちゃったんですよ」とおっしゃってたなあ。
しかもウィキペディアによると、スピードが違いすぎていざ接敵となっても弾が当たらないとか。

しかし、不思議じゃありませんか?

そんな不安定で事故の多い、欠陥品とも言えるコメートを、
なぜドイツは日本に技術供与したのか。

日本なら・・・それでも日本なら何とかしてくれると・・・
・・・・思ったわけでもないだろうになあ。

そしてMe262=橘花ですね。
ジェット&ロケット推進は花の名前、ということで「橘花」そして「櫻花」とつけられたんでしたっけ。

ちなみに「秋水」は「秋水(利剣)三尺露を払う」という短歌から取られました。



さて、そのような具合に、ここで見学した零戦と秋水についてお話してきたわけですが。
ここに展示されている実機は全部で三機。
零戦、秋水、そして、三菱製の自家用ジェット機です。
外観を写真に撮るのを忘れた・・・・・orz

 

中に入って、操縦席に座り、操縦棹も動かし放題。
いわゆるジェットセッターのための豪華仕様ですから、居住性はまずまずです。
いすに腰掛ければ、決して圧迫感も感じません。
ただ、いすにはリクライニング機能など付いていませんので、寝るのはかなり辛そうです。



旅客機が全面禁煙になったのも2001年のことで、それ以前は航空機内での喫煙は、
普通に可でしたから、パイロット席の肘かけにも灰皿があります。
空気供給だけでなく、換気もここで行われたそうです。

機体の後部にはトランクなどを収納する棚、ドアを閉めると引き出せるミニキッチン、そして
トイレがあります。
手が押さえているところに取っ手があり、ここを持って引き出しのように出して使用。
聴きそびれましたが、まさか射出式ってことはないと思います。



翼が窓より上につけられているため、窓から下の景色が遮られない、というのがウリ。



ジェット機の窓から零戦を臨む。
時空的に決してありえないセッションが、今ここに。



この機体をお買い上げになったお客様のひとり。指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン
なんだかまわりを三菱の偉い人がびっしりと取り囲んでますね。
プロレベルのスキー技術を持っていたと言われるように、運動神経抜群であったカラヤンは、
勿論のこと操縦免許も持っており、自家用機を自ら操縦して演奏旅行に行ったそうですが、
その自家用機が三菱製だったとは知りませんでした。




右、CCV研究機。左は・・・・ヘリコプター。・・・・見たら分かるって。



次期支援戦闘機FX-S




三菱マークの入った時計、そしてクローゼット。
なんだって重工業会社がこんなものを作っていたのか?

昭和6年ごろ、三菱が不況時に製作し、社員に販売した木製品です。
重工業とはいえ、もとはと言えば飛行機は木製。
木の加工はお手の物で、テニスラケット、ピアノ台などもあったそうです。
飛行機の翼や胴体を作る技術で作られたクローゼットは堅牢で、70年間使ってもこの通り。
これ、中がハンガー式なのだったら、昭和6年にしては超モダンデザインですね。



鍋釜、秤の類の製品も作っていました。
これは終戦時の製品とのことです。

ところで「重工業」という言葉は、三菱創業者4代目の岩崎小弥太が、
Heavy Industriesの訳にあてた、いわば造語だということをご存知でしたか?



海軍大臣嶋田繁太郎の名前で、九六式陸攻の製作に対し出された賞状。



航空本部長だったころの山本五十六が来て、記念写真。
一番後列で立っている、眼鏡の人物を見ていただきたいのですが・・・。
これ、もしかしたら堀越二郎技師ではないですか?



朝日新聞社は1937年、ロンドンで行われるジョージ六世の戴冠式の奉祝の名のもとに、
亜欧連絡飛行を計画しました。
当時、日本とヨーロッパの間を結ぶ定期航空路はなく、逆風である東京、欧州間の飛行は、
非常に困難とされていたのです。
この連絡飛行の機体に採用されたのが「神風号」という名前。
一般公募によるものだったそうですが、いやまったく、今現在築地にある、あのアサヒ新聞と
同じ新聞社のことであるとは、信じられませんね。
この麗々しい記事は、勿論のこと朝日新聞に載せられたものです。

神風号は1937年4月6日日本を出発。
離陸後94時間17分56秒で、ロンドンに到着しました。
イギリスの新聞は朝刊のトップに神風号の接近を報じ、ロンドンの空港や前経由地の
パリの空港は人が詰め掛け、神風号の二人の乗員はフランス政府から
レジオンドヌール勲章を受勲しました。

この歴史的な快挙を成し遂げたその飛行機が、ここで作られていたのです。


十式艦上戦闘機の元図。
繊維の入った丈夫な紙でできており、ゆえに今日まで完ぺきな図面が残存しています。

ここは、時間さえ許せば案内が終わった後何時間でも滞在することができますし、
ガラスケースの中のものも、係の方にお願いすれば出して手に取ることができます。
図面や、資料なども、ページを繰って見ることができる、貴重な史料室なのです。



この写真でもお分かりのように、に零戦のコクピットに(ちゃんと左から乗れるように)
階段がつけられていますし、いつもではないとは思いますが、操縦席に座ることもできます。
復元されたものだからこそこのようなことができるとは言え、零戦の試乗体験ができるのは、
もしかしたらここだけ?


写真を撮り忘れましたが、格納庫の外にも三機、自衛隊で使われていた初期の戦闘機が
展示してあって、先のとんがったところを(はめてあるスポンジを外して)触ることもできます。

航空、零戦ファン、歴史好きの方々にも機会があればぜひ立ち寄ってほしいところです。
あ、それから、結構たくさんいるに違いない秋水とコメートのファンには、特に。



資料室には売店もあり、Tシャツを購入。
これは背中のデザイン。

 

実演を見てその可愛さに、つい買ってしまったねじまきおもちゃ。
ころんとしたボディと色も秋水のようで、つい。
ネジを巻くと、このようにくるくると宙返りします。



ときどき失敗して、この姿勢で停止します。





 

 


三菱航空資料館~秋水

2012-03-01 | 海軍



この資料館に足を踏み入れて真っ先に目につくのが零式艦上戦闘機五二型。
その横に、鮮やかなグリーンがある意味零戦より目立っている、この「秋水」があります。

秋水と言えば、幸徳?それとも梨の種類?
この程度の知識で、(つまり全く存在を知らぬまま)初めて実物にお目にかかったわけですが、
これが・・・これが・・・

かわいすぎる。

なんすかこれー。
ころんとしてるというか、まるっとしてるというか。
ぽてっとした愛嬌のあるボディ、安定のあるようなないような、なんといっても、
シャープな零戦の横にあると何かのおまけ?とでも言いたくなります。

これは、ひとえに空気抵抗を極限まで抑えた、当時の近未来型フェイス(というかボディ)
だったんですねー。
この翼、なんと木製だそうです。


昭和19年6月、「空の要塞」と言われるB29が、初めて本土空襲を行いました。
このB29にあっては、零戦も隼も、「過去の飛行機」にすぎず、全く歯が立たない状態。
日本の新鋭機、飛燕、紫電なども健闘しましたが、迎撃に上がるのに時間がかかりすぎ、
さらに高高度でもレシプロエンジンの従来機では、排気タービン(現在のターボと同じ原理)
のB29に速さで勝てません。

いよいよ本土に襲来するB29を迎え撃つために、高空性能と、上昇力の優れた、
ロケットエンジン搭載の局地戦闘機の開発が計画されました。

目標は「一万メートルの高度まで3分で上昇できること」。
ちなみに、そのころの新鋭機でも、一万メートル上がるのに数十分かかりました。
三分で到達し、敵機を一撃だけして、あとは滑空して帰ってくる、というのですが・・・。




考えても見てください。
秋水は一人乗り、全長6メートル。
かたやB29は11人乗りの全長30メートルの超巨体。
鷲にスズメが挑むようなものです。

こんな、もしかしたら「焼け石に水」かもしれない武器の開発に、
切羽詰まった日本軍は期待をせざるをえないような状態であったともいえます。



同盟国ドイツとの技術交換協定により(といっても日本から供与した技術はなく、ドイツからの
一方通行でしたが)、メッサ―シュミットMe262の資料が伊潜によって運ばれ・・・・

・・・・る予定だったのですが、その伊潜が資料の一部を積んだまま撃沈されてしまい、
別便で行ったため何とか運よく難を逃れた残りの資料をもとに、
海軍、陸軍、そして三菱重工業の民間による、三者協力体制での開発が始まります。




メッサ―シュミット。
名前はやたらかっこいいですね。
秋水ほどころんとしていず、この日本の作成した秋水の設計図を見ても、
全く似ていません。
どちらかというと、車の方のメッサ―シュミットが、秋水にそっくり。

さて、せっかくの資料も伊潜とともに海に沈められたため、
不完全な資料と、たった一枚の写真をもとに、日本は設計を開始しました。

BGM:地上の星)

そして、二カ月後。
わずかの間にチームは設計を終了してしまいます。
早っ。

ペリーの黒船来航のわずか二カ月後、中を詳しく見聞した情報だけで図面を造り、
一年後に独自に日本製「黒船」を作ってしまった、日本の技術魂は、ここにも。

しかし、その日本の技術も、今回という今回は拙速に過ぎると言わざるを得ない
手痛い敗北を喫する結果となってしまったのです。

資料を手に入れてから一年後の昭和20年7月7日、横須賀海軍飛行隊追浜飛行場で
試験飛行が行われました。



試験パイロットは犬塚豊彦海軍大尉。
しかし、高度350メートルでエンジンの停止により、滑空状態から鉄塔に接触した秋水は、
不時着大破。犬塚大尉は頭蓋底骨折のため、翌日殉職します。

犬塚豊彦大尉。

離陸から不時着までの時間はおよそ2~3分であったとされます。



秋水のために考案された戦法は、一瞬で一万メートルの高高度まで上がり、
B29の唯一の弱点に思われた、直上方500メートルから背面ダイブで一撃を加え、
燃料があっという間になくなってからは、グライダー滑走で護衛のアメリカ機からひたすら逃げる、
というものでした。

このテスト飛行の失敗後、その問題点を克服すべく、エンジンの改良に取り組んでいるうちに
終戦になってしまい、ついに秋水は実戦投入されることはなかったのですが、
現実に運用されていたら、どんなことになっていたでしょうか。

よほどの腕のパイロットでも、たった一度のチャンスであのバカでかいB29に致命傷を与え、
なおかつ反撃の手も持たないままグラマンから逃れて生還することなど、
まず不可能だったのではないかと、素人でも思うのですが・・・。

日本軍は秋水の新技術にに多大な期待を寄せたらしく、恐るべきことに、
「まず155機、1945年9月に1300機、1946年には3600機」
という生産計画を立てていたと言われています。

無茶です。というか、無理です。

秋水をこれだけ作れる余力が仮に日本に残っているようなら、
本土にまで敵戦闘機が押し寄せてくる前に、なんとかなっていたのではないのでしょうか。
秋水の機体は全部で5機ほど作られましたが、そのうちの一機はアメリカに、もう一機が、
ここ三菱工場の資料室に展示されています。

もしこのとき研究が間にあって、実戦に秋水が投入されていたとしましょう。

計画はおそらく、B29の高高度から背面ダイブして、そのまま体当たりする、
「秋水特攻」になったはず、とわたしはこの資料室で話を聞いた瞬間思ったのですが、
その後調べると案の定、海軍は800名の隊員を秋水の特攻部隊として錬成していたようです。


犬塚大尉は無念の死を遂げましたが、もしこの実験が成功していたら、或いは、
終戦までの一カ月の間に、特攻としてさらに失われていた命もあったかもしれないということです。



また日を改めて、秋水についてはお話したいと思います。

     





三菱航空資料館~零戦の増槽と牛車

2012-02-29 | 海軍



前回この資料館見学について書いた際、二〇ミリ弾の弾着痕について少し書いたのですが、
その後チェックのために映画「零戦燃ゆ」を見ていたら、加山雄三の下川大尉が
「二〇ミリ機銃は炸裂弾だから、一発当たれば敵機は木っ端みじんに吹っ飛んでしまう」
とおっしゃっていました。
(加山雄三が偉そうなのでつい敬語)
あのような小さい弾痕としては残らないということみたいですね。

ぞうそう、と言う言葉を日常で口にしたことがありますか。
わたしが初めて増槽という単語を目にしたのは、海軍飛行機についてものの本を読んだときで、
「ぞうそう」と口の端に乗せたのは、考えてみたら今回が初めてだった気がします。

その「今回」とは。
ここ、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所の一隅、
かつては格納庫であった建物を航空資料室として一般に開放している、その展示室の、
零戦の「増槽」について説明していただき、それについて質問をした時のこと。

増槽とは、零戦開発者の堀越二郎技師が設計主務者として開発した
九六式艦上戦闘機三菱A5Mから採用された、言わば「スペアタンク」のことです。
この九六式は、堀越技師が自ら「零戦よりこちらが会心の作だった」と言い切る、
日本海軍最初の全金属単葉戦闘機。

広い中国大陸における中国戦線に投入する為に開発された、この九六式戦闘機でしたが、
バランスが良く、運動性能に優れていたこの機の欠点とも言えるのが航続距離の短さでした。
増槽タンクはそれを補うために初めて採用され、前期の切り離せないタイプから、
後期は着脱可能なものに進化しました。



映画「大空のサムライ」の、模型の飛行機が戦闘の際、一斉に増槽を落とすシーンについて
書いたことがあります。
模型の増槽はマグネットで取り付けられており、スイッチを地上で押すとマグネットが切られて
落下する、という仕組みだったそうですが、このシーンの採用は、この映画の主人公であった坂井三郎氏のこだわりでもあったという話です。

落とされた増槽がくるくると縦に回転しながら落下していった、という証言に忠実にしようと
スタッフが苦心をした様子などは、DVDの特典映像で見ることができます。

燃料のあるなしにかかわらず戦闘開始時には増槽を落とすのは、その重さが運動性能を
妨げることと、敵の攻撃による弾着で引火爆発することを防ぐ意味があります。
勿論このタンクの中にガソリンが大量に残っている状態で捨てるのは、大戦末期の
「ガソリンの一滴は血の一滴」と言われたころでなくても勿体ないので、
普通は翼(機内)のタンクを温存し、増槽のガソリンから先に使用したそうです。



増槽をつける整備兵。映画「零戦燃ゆ」より。

ところで、このドロップ式タンク、地面に落ちた後のことを誰も考えなかったわけではありません。
南洋の海上がよく戦場となった、特に二一型の零戦では、増槽を回収することなど、
全く考えられてはいなかったと思いますが、欧州戦線では、しばしばそれは回収され、
タンクに使用されていたアルミニウムの合金がリサイクルされました。

ドイツ軍などは
「落下したタンクの発見者には礼金をだす」
というおふれまで出したそうですが、切迫したドイツのお財布事情を覗わせます。
そんな敵に対してリサイクル資源を与えないように、なんとアメリカ軍は紙で作ったタンクを
使用している部隊もあったということです。



ここに展示されているものではありませんが、メイドイン・ジャパンの「木製増槽」。
なんと、大戦末期、日本は木や竹で増槽を作っていました。
ベニヤを曲げて加工してあります。
どういう状態で撮影された増槽タンクかはわかりませんが、大きく破損していません。
意外と丈夫だったのでしょうか。
防水処理もされていたようですが、これを見ると継ぎ目に油染みのあとがあります。
おそらく「何時間か持てば十分」という程度の規格であったようですね。



この増槽を作っていたのは動員された女子学生でした。
網目が浮き出している増槽が、御覧のように飛燕用のものです。
表面に貼られているのは紙だそうです。
日本が金属製でなくこのようなものを作っていたのは、勿論相手にリサイクルされないため、
ではなく、ひとえに・・・金属不足。


ところで、この三菱の工場見学にTOが最初に来たとき、参加者の戦中派おじさんが、
戦時中の想い出を熱く語り出してしまい、時間が押してここの見学ができなかった、
と言う話を最初にしました。

そのおじさんの話、というのが、なんと
「動員で、ここで製作された零戦の機体を、牛車に乗せて運んだ経験」
だったというのです。



この資料館にあった資料をご覧ください。
まさにその光景が絵に描かれています。
ここ小牧に飛行機工場があったのはアメリカも勿論周知の上ですから、
こういう輸送隊はグラマンのターゲットとなりました。
その方はこの図のように牛車での零戦の機体を運搬している最中、グラマンに襲われ、
牛と零戦を放置して逃げるしかなかった、という話をなさっていたそうです。

牛・・・・・(/_;)

ところで、つい最近、インターネットを見ていた息子がこんなクイズをしてきました。
「自転車を最初に発明した国って、どこだか知ってる?」

なんと、答えは日本、とそのサイトには書いているそうです。
「えー、だって、日本で自転車なんてどこにもなかったじゃない」
「それはね、自転車を走らせる平らな道がなかったから、アイデアだけで終わったらしい」

この資料室で「何故牛車でないといけなかったのですか?」と案内の方に聞くとその答えは
道が舗装されておらず
牛車のゆっくりとしたスピードで機体を運ばないと、破損する恐れがあったから」

ああ、この理由も「でこぼこ道」でしたか・・・・。

先ほどの「零戦燃ゆ」では、四隅にコロをつけた台車に翼を乗せ、数人で運んでいましたが、
これは工場内のことなので、道は舗装。、当時はどうだったのか知りませんが。
因みに、劇中、三菱の技術者に

「試作機を牛車に乗せて各務原(かがみがはら)の飛行場まで運んで行きましてね。
私達も自転車でくっついて行くんですが・・・ありゃ疲れましたね」
「夜通しだからね・・。それに牛のお伴じゃあ」

と語らせています。
各務原は岐阜にあり、ちなみにグーグルマップで徒歩所用時間をはかったところ、
約二〇キロ、軽く四時間(多分牛はもう少し遅いかと)とのことです。



これを見ても、日本という国は、当時先端の技術を技術として持ちながら、
それを滞りなく運用するための経済的基盤、周りを取り巻く環境のお粗末さは、
インフラ整備などという言葉以前の段階だったということでしょう。

一部の科学技術が突出していたものの、全体で見ると実は
日本は、竹槍をもって銃と戦っていたとしか言えない状態であった・・・。

竹の増槽、そして牛車による運搬。
いずれも、国力の違う相手に戦いを挑んだ日本の、悲しき現実だったのです。















三菱航空博物館~零戦

2012-02-27 | 海軍

明治村における野望達成の話の前に、三菱の航空博物館に行った話をします。
画像は、零式艦上戦闘機のコクピットに座った位置からの眺め。
靖国神社の遊就館にも零戦はありますが、ここは階段でこの高さに上がって、
座席に座ることもできるのです。

零戦の操縦席に座ってみたい!という方。ここおすすめです。
ここは正式には三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所といいます。
この工場では戦闘機、ヘリ、民間輸送機、そして宇宙機器などを製作しているのです。

去年の末のこと、TOは所属しているクラブで催されたここの見学ツアーに参加しました。
ところが、最初の工場見学の段階で
「オレの、オレの、オレの話をきけー!」な参加者のおじさんが、
「五分だけでもいい」どころか案内の人を食う勢いで自分の戦時中の体験談を始めてしまい、
(それはそれで興味深い話ではあったようですが)
ツアーの行程を全部消化しないうちに、帰る時間が来てしまったというのです。
それで、その結果省略されたのが

「航空資料博物館」

そう、ここです。
この零戦始め、三菱が戦時中から戦後に手掛けた航空関係の資料のある、
このツアーの目玉とも言える資料室、御一行様はを観ることができなくなってしまったと。
・・・というわけで、TOにとってはリベンジ再訪。
わたしにとってはもちろん初めての見学となったわけです。

見学には前もって予約が必要です。
常駐の解説員が説明をしてくれるからです。
この日、説明してくれたのは、元自衛隊のパイロットであったという方。
この方が現役だったときには、もう大戦経験者の旧陸海軍出身パイロットは、引退していた、
とのことです。



冒頭写真の零戦がここにあります。この資料館の目玉の一つ。(目玉は三つあります)
復元された零式艦上戦闘機、五二型。


戦後何十年もヤップ島で野ざらしになっていた零戦。
しかし、野ざらしは野ざらしなりに、現地の人が保存していたようです。
勿論、これを復元すると言っても、使える部品はごくごく一部。



成形した後、使わなかった部分や内部の部品はこうやってまとめて展示されています。
座席は(何十年とはいえ)雨ざらしになったくらいで、このようにペラペラになってしまうくらい
「薄かった」ということですね。
せめて後頭部の後ろまで高さがあれば助かった命も多かったのかもしれないと考えると、
この座席に穴まで開けられた「軽量化」が、人命軽視の象徴にすら思えないでもありません。

しかし、安全への配慮よりなにより、機能性と機動性をまず優先したこの戦闘機が、
まるで全ての俗を超越した剣豪の持つ銘刀のように思えるという一面もあります。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
この言葉に通じる、日本的な、あまりに日本的な滅びの美学。



不思議なくらいピカピカのプロペラ。展示にあたって汚れを落としたのでしょうが、
それにしても綺麗ですね。
ヤップ島の写真では、カウリングごと下に落っこちてしまっていたようです。
銃弾を(プロペラだけで)三発受けています。



右の方の小さい銃痕はともかく、この二つの銃弾は20ミリクラスの相当大きなものに見えます。
コルセアなども二〇ミリを搭載していましたが、係の方によると
「(破痕が)大きいからと言って20ミリとは限らない」ということです。


左は「三式十三耗機銃弾薬包」右は「二式十三耗気銃弾薬包」



左半分が海軍使用、緑のシールの説明が陸軍の銃弾。



二十ミリ銃弾にも99式があるとは知りませんでした。
「これは零戦の20ミリですか?」
案内の方に聞くと、なぜかもう一人のさらに年配の係の方が登場。
「99式、つまり昭和14年の制式ということは、零戦の発表前に作られたものですね」
自分で自分に確かめるように呟いたら

えらくびっくりされました。

こういうところですから、おそらく戦闘機、零戦のトリビア博士級のオタクが訪れ、
解説の方は「オレの、オレの、オレの」知識を熱く披露されることもしょっちゅうでしょう。
ですから、決してこれしきの知識にびっくりされたわけではないと思います。

さらに、出てきたもう一人の方が
「はっきりとはわかりませんが(ここにある零戦の搭載ではなく)21型のものでしょうね」
とおっしゃるので
「ああ、飴色の・・」と、ふとつぶやいたら、

さらにびっくりされました。

まあ、親子三人連れの、しかも唯一の女性である母親が他の二人を差し置いて熱心、
というのもあまりないパターンで、かれらには意外だったかもしれません。

それはともかくこの20ミリ弾は零戦に搭載するために零戦制式の一年先がけて作られた
「第一号」であった、という理解でいいですか?

ここに訪れる大きな収穫として、零戦の操縦席を間近に見ることができ、さらに運が良ければ
座ることもできる、と言うことがあります。


復元されたとはいえ、そこに座ると「この風防からどのような空が見えたのか、と
想いをはせずにはいられない操縦席。
ヤップ島にこの機が墜落した時、搭乗員がどうなったかまではわかっていないようです。

 

写真を撮っていたら「次のツアーが来るので早くしてください」と、せかされました。
どうもこの方はカメラマンのようでした。
どうして広い館内のこの写真を、しかもわざわざ人が見ているときに割り込んで撮るのか、と
少しむっとしたのですが、笑顔で交代しました。

この後、彼らは他のところの写真も時間をかけて撮りまくっていました。
次のツアーが来るのにも相当時間があり、なぜ彼らがたまたまそこを見学していたわたしを
どけてまで、このときここの写真を撮りたかったのか、全く謎でした。



零戦の試作第一号を組み立てている歴史的な写真。
なぜ画面の右上に時計があるかと言うと、これは館内に置いてあったデジタルフォトフレーム
(時計付き)で再生されていた画像だからですw





当然ですが、逐一人の手で行っています。
今、垂直尾翼をつけよう、と言うところのようですが、組み立ての工員は一人でやっていますね。
ちなみに、先ほどのジュラルミンのプロペラは、手で持つことができます。
いかに軽いか、と言うことを実感することもできるのですが、なんといっても、
「本当に戦闘に参加して銃痕のあるプロペラを触ることができる」というのは凄いですよね。
ちなみにわたしは横着して片手で持ちあげようとして
「片手じゃ無理です」と笑われました。





上の写真を正面から見たところ。
翼の下にいる背広の人が、もしかしたら堀越さんではないか?などと想像してみる。

係の方たちとは、零戦の「省エネ力」ならびに航続性について熱く語ったのですが、
やはりいかに省エネタイプの性能を備えていても、誰が操縦してもそうであるわけではなく、
やはり名人のような操縦の達人の手によって初めてキャパシティが極限まで引き出されるらしい、
そういう意味ではやはり名刀は人を選ぶと言うものだったそうです。
名器ストラディバリウスが弾き手を徹底的に選ぶのと、全く同じですね。


先日語った日航パイロット藤田怡与蔵氏が、真珠湾攻撃から帰ってきて母艦に着艦したとたん、
計器が燃料ゼロを指して止まった、と言う話をどこかで読んだ気がします。
(確認していません。違ったらすみません)
「こんな話を覚えているのですが」
と係の方にその話をすると、
「ああ、坂井三郎さんも同じようなことを書いていましたよ」
とのことです。

色々質問をさせていただきましたが、飛行機の話から話が弾んで、国防や国家意識、
果ては話題は息子の教育方針に及び、
「いや、自信を持って息子さんを立派に育ててくださいよ」
と背中をたたかれました。 (ノД`)・゜・。


ここについてはまだまだお話したいことがあります。また後日。








 


オタクは検閲を超える

2012-02-22 | 海軍

         

「不思議な検閲写真」という項で、戦時中の出版物に対する軍検閲の概要について
実例を挙げつつお話しました。

例えば、海軍軍艦の公表写真などでは、山を消したり、時には描き加えたりして
背景の景色が修正し、地形が全く分からないように工作してありました。
戦時中の国民はこのような写真ばかり見せられていたわけですが、それでも人間のすること、
たまに「不思議な」検閲写真が人前にさらされたりすることもあった、という内容です。

不思議な検閲写真には、検閲官の知識の無さからだけではなく、
検閲すべき写真があまりに多すぎて、仕事が雑になったという作品?
もかなり多かったようです。

隼などの戦闘機の写真などは、カウリングの上にある機関銃口を、
最初は綺麗に修正して、何もないようにして発表していたのですが、
だんだん写真が多くなってくると、
ただ銃口を真っ黒に墨で消しただけという写真が出回っていたそうで、
つまり「ここに銃口があります」とかえって強調する結果になってしまっていたということです。

機械的に消すことだけして、それが何のためなのか考えることもしない、
「マニュアル人間」は往時にも健在であったと言うべきでしょうか。
しない方がましな検閲の例と言えましょう。

そこで冒頭写真ですが、これは、ある方の個人的な所蔵写真。
写ってはいけない部分が写っているのにもかかわらず、戦時検閲を逃れた貴重なもの。

しかし残念ながら、軍検閲の無い、平和な世になっても、
今度は倫理道徳的諸事情により世間に公表できません。
然し航空機マニアが見れば垂涎の「お宝写真」(らしい)です。

肝心のところを消してしまったので、何が何だかさっぱり分からなくなってしまいましたね。
あー残念だ―(棒)。

先日「軍艦の甲板上で乗員が行進をしている写真の甲板部分がぼかされていた」
という話を「始業始め」という項でお話したのを覚えておられますか?
この写真が撮られた艦には写真現像室があったそうで、
基本的には従軍カメラマンしか使用できないことになっていたようですが、
当時カメラを趣味にする士官は多かったので、中にはカメラマンと仲良くして現像してもらったり、
現像室を使わせてもらった人もいたそうです。

その後知ったところによると、お上のみならず、軍関係者が艦や飛行機を撮った場合、
当然のこととしてアンテナなど機密にかかわる部分は「自主規制」したようです。
しかし、自主規制してもしなくても、例えば軍艦勤務の士官の持ちこんだカメラが、
艦の沈没によって海の底に潰えてしまい、それらの写真も陽の目を見ずに終わった、
というようなことは、それこそ星の数ほどあったのでしょう。

ところで、ある艦隊勤務の士官は、離艦直後に自分のフネが被弾したのを見て、
まず思ったのが

「しまった!部屋にカメラ忘れてきた!」

だったそうです。
この非常時に、実に不思議なことを人間は考えるものです。
しかしこれもまた戦争の真実かもしれません。
カメラが時として「家一軒買える」ような貴重品であったことも大きな理由かもしれませんが、
戦っていたのもまた「一人の人間」であると妙に納得してしまう逸話です。

話がそれました。

「オタク」という人種がいます。マニアと言う人もいます。
かの士官が「カメラオタク」というレベルだったのかどうかは聞き洩らしましたが、
「てっちゃん」「飛行機オタク」「カー××」(←検閲対象?)・・・。
乗り物に萌える層は昔も今も一定数変わらずいるものです。

カメラがまだ庶民にとって高根の花であった戦時中、
「てっちゃん」、しかも中学生、となると、写真を撮る代わりに何をするかというと、
なんと「サイズを測ったりする」のです。
巻き尺を持って、こっそり機関庫に忍び込んだりするそうです。
何のために?
それを疑問に思うようではあなたはオタク道失格です。
オタクとはそういうものなのです。
そして憲兵に逮捕される可能性があってもやってしまう、それがオタクの気概というものです。

そういやつい先日列車を止めてニュースになってたオタクがいましたっけ。
これは今調べて知ったのですが、鉄男ではなく、駅の写真を撮っていた

75歳の

男性だったそうです。
カメラマニアだったわけですね。
これだけの騒ぎを起こせば彼も我が道を逝く行くマニアとしてもって瞑すべし、
と言いたいところですが・・・・。
この男性、書類送検されたそうです。合掌。


この例に見られるように?マニアの熱意は時として則(のり)をも超えるもの。
当時の飛行機好きにとっては、軍の厳しい検閲があっても、いやあったればこそ、
その秘密のヴェールの下を垣間知りたいという情熱はますます燃えるばかりでした。

基地の近く住んでいると、実際軍用機を目にするわけですが、
オタクはそのようなものも、ただ漫然と見るのではなく、

「浜名湖上空で引き込み脚の九三双軽の試作機が脚の出し入れのテストをしている」

などと観察し、その後

「双発引き込み脚の重爆が飛んでいる」
などという情報を交わし、その後新聞で
九七重が発表になれば、

「二年前の開発段階から、俺ら実は知ってたもんね!」

とワクワクして、誰にともなく得意になってみたりするもの(らしい)です。

よく零戦のことを「ゼロセン」と呼ぶ一般人はいなかったという説を目にするのですが、
実際はそうではなかったようです。
ミッドウェーの敗戦も、全く報じられないのに田舎の中学生が知っていた、と言う話を
渡部昇一氏がしていたことがありますが、いかに秘匿しても、
「人の口に戸は立てられない」(これも渡部氏談)のです。
ゼロセン、という呼称は、人づてに伝わって、その名を耳にした「オタク」は数多くいました。

漫画家の岡部冬彦氏もその一人で、氏は

「中島製の重爆『深山』の性能が軍の要求を満たせないので試作だけに終わったようだ」
などという話を始め、
「水兵さんから聞いたのだが」
という、当時のオタク・ネットワークにより、ゼロセンという呼称をすでに聞き知っていたようです。

そして、「ゼロセンと言うからには、昭和15年に制式になった戦闘機だろう」
ということまで予想していたそうです。

ご存じかとは思いますが今一度解説しておくと、昭和になってから制式になった兵器は
皇紀何年の下ひとけたか二けたをとって名付けられています。つまり

「皇紀年号下2桁」+式+機種名 例 九一式魚雷 九六式陸上攻撃機

この名称は皇紀2589年の89式(1925年)に始まり、2602年の二式(1942年)
まで採用されました。
このセオリーを知っているので、昭和15年、つまり皇紀2600年の制式であることも、
オタクとして当然予測されることだったわけですね。

この制式の名称についてはまた日を改めますが、
とにかくこのように機密事項もなんのその、創造力と漏れ聴く情報をつなぎ合わせ、
その推測も、結構正しかったりするから、オタクは侮れません。

零戦については、横須賀在住の者などが

「最近見る単発低翼引込脚のスマートな戦闘機がどうやらそのゼロセンらしい」

という具合に得た情報を、はがきで全国にバラまいたりしていたようです。
まだこの頃ははがきの検閲などもあまり厳しくなかったようですね。
つまり、いくら秘匿してもオタクの情報収集力の前には軍の機密も堅牢たりえなかった、
ということでしょうか。

さて、戦前の軍艦オタクは、18インチ砲九門6万トン、世界一の戦艦「大和」「武蔵」
の噂を、当然ながらアツーくその口の端に乗せておりました。

今でもそうですが、まるでまだ見ぬ恋人を語るように、それがどんなものか思いめぐらせ・・。
今のオタクと違ったのは、彼らが、それらの戦艦がいつ発表になるのだろうと
ドキドキワクワク、心待ちにしていたことでしょう。

しかし、眼を凝らせば飛行機は空を飛んでいるし、いくら検閲しても修正できないニュース写真の、
一瞬画面に映る機体を目の底に焼き付けて、あーだこーだと分析するオタクたちを以てしても、
この「海軍関係者にすら秘匿された」戦艦については、さすがに情報は噂の域を出ず。


とうとう、その姿を見ぬうちに戦争は終わってしまいました。
そして、彼らは、終戦後になって「大和」「武蔵」の存在と、その戦いと、そしてその最後を、
同時に知ることになってしまったのです。

「あの噂はやっぱり本当だったのだ・・・・」

戦前からの「大和」「武蔵」オタクたちは、逢えぬまま往ってしまった恋人の、その実像を
少しでも知るために、戦後、あらゆる資料から彼女らの在りし日の姿を追い求め、
本で、絵画で、映画で、それを何とか再現せんと情熱を傾けます。

今現在、この日本にいる熱烈な大和武蔵ファンの源流がここにあると言えましょう。

ところで・・・冒頭の写真ですが、よもやまさか、この翼の断片と引き込み脚の形状から、
この機体がなんであるかわかっちゃう、なんて人・・・・


・・・・いませんよね?(ドキドキ)










副官の花道

2012-02-21 | 海軍

「あなたも副官」シリーズ、その2です。
つまりはおやじ、本部長のカバン持ちと雑用が任務であり、
車の手配やら宿の女中への心付けから、機密費の管理、宴会の仕切り、お茶くみ、
そんなことを慣習の違う陸軍と一緒になってやらねばならず、
どんなに一生懸命やっても、例えば井上大将のような厳しい上官からは
「フッカンノバカ」と言われてしまう・・・
(未確認情報)

「人格が認められない職業ナンバーワン」
と人の言う、この貧乏くじかはたまた罰ゲームのような配置に、
あなたはもうすっかり嫌気がさされたでしょうか。
しかし、どんな辛い道にも一条の光が差す瞬間というものはあるものです。

さてあらためて確認ですが、あなたの上官は航空本部長。軍事参議官です。
これはときとして海軍大臣代理として公式の場に出席することもあります。
その一例が「報国号」の献呈式。

「報国号」とは。
一般市民や非軍需企業などからの献金により調達され、
軍に納入された航空機につけられた愛称です。
陸軍でも同様の機体があり、こちらは「愛国号」と呼ばれました。

機体の納入は、一般的に、地域住民や企業・団体の構成員が資金を出し合って
メーカーから機体を購入、これを軍に寄付するという形でされることになっていました。
中には、資産を持つ篤志家が個人で機体の購入資金を寄付するケースもあったそうです。
そして、今日あなたが航空本部長のお供で出席するのは・・・・・・

まあどうしましょう。

全国芸妓組合の報国号、その名も「全日本芸妓組合号」献呈式@銀座歌舞伎座

ちなみに、この飛行機は偵察機彩雲です。

先日長い歴史に幕を下ろした歌舞伎座ですが、この正面玄関に到着すると、なんと。
赤いじゅうたんの敷かれた入口階段の両脇には、
白紋付裾模様で盛装した日本髪の綺麗どころがズラリと勢ぞろい。

ああ、あなた、大丈夫ですか。
本部長ですら照れくさそうにしておられます。
ましてや若い(あなたは大尉です)あなたは舞い上がっちゃって
右手右足同時に出して歩いてしまいそうですね。

案内されたところは花道の幕の内側。
幕がさっと上がり、あなたは何百ものお姐さんから熱いまなざしで一挙一動を見つめられながら
―もちろん本部長の後にくっついて――壇に立ちます。
だだっ広い舞台の上には、あなた、本部長、そして報道部長の三人のみ。
司会進行役の報道部長や、大臣代理の本部長は何かしらすることがありますが、あなたはただ、
脂粉の香の中に立ちつくし、粋なお姐さん達の品定めを受けるのみ。

「あら、あれチョット好い男ぢゃない、花駒姐さん」
「そうねえ、やっぱり海軍さんはいいわねえ。でもなんだか気が弱そうだわね」
「インチになりたいってほどぢゃないわね」

なんて、ひそひそされているかもしれません。
さて、式は滞りなく進み、献納者代表の立派なお姐さんが、前列中央から進み出て、
鍛え抜かれたよく通る声で
「わたくしどもはこのたび全国の組合員に呼びかけ海軍機を献納いたします」
と献納書を差出します。受ける方は

「皆さん方の海軍にお寄せくださるお志をありがたく頂きます。
この航空機を大日本芸妓組合号と命名し、現下の熾烈な航空決戦に
貴重なる新戦力の一翼を担って活躍してもらうことにいたします。
皆さんの燃ゆるがごとき報国の志を大一線将兵に伝えるとともに、
全海軍を代表して心よりお礼を申し述べます。
ありがとうございます」

という大臣代理の答辞が行われ、万雷の拍手とともに
「大日本帝国海軍万歳」の声が歌舞伎座を揺るがします。

内藤清吾軍楽少佐の式による海行かば(栄誉礼)の軍楽吹奏の裡に、お姐さん達の
「海軍さん、しっかりやってください」
の声が聞こえます。

一生のうち、歌舞伎座の舞台に立ち、このように熱い声援を受けることなど、
歌舞伎役者でもないあなたにとっては、
おそらく二度とない鮮烈な思い出となるに違いありません。


実はこの副官という仕事、棄てたものでもないのです。
損な役回りのようで、このような役得もあり、
さらに海軍省中枢の仕事に携わるわけですから、
あなたがそのうちお役御免になり、実地部隊に戻ったとき、
それが生きてくるということもあるのですよ。

そう、何かと中央に「顔が利く」ようになってくるのですね。

航空隊の幹部と言うのは、大抵赤煉瓦の生活を経験したことがありません。
ですから、とかく中央との折衝を敬遠し、物資の調達などでもやればなんとかなるのに
何とかしようともしないであきらめてしまいがちなのです。

しかし、赤煉瓦務めの霊験あらたかなあなたは、例えば、
部品が軍需部工廠から調達されないまま部隊に放置されているトラックや乗用車を
手をこまねいて見ているのではなく、航空本部に電話一本。
かつての知り合いを辿って、交渉はあっという間です。
たちまち部品がごっそりと届き、隊の車両は稼働率100パーセント。

「今度の隊長は大したものだ」
あなたの株は大いに上がるでしょう。

副官というものはなっても決して嬉しくなく、やっていても楽しい仕事ではありませんが、
今与えられている任務を誠意をもって取り組むことは、後々の財産と成り得るわけです。
そう、その配置を離れたときに、自分が何をなしてきたか、
その御利益によって初めて成果を知る、というわけ。

説教臭いことを言いますが、これはどんな仕事にも通じることかもしれませんね。

・・・・ということですので、今日もまた、お茶くみから頑張ってみましょう。
貴官の健闘を祈る!






一日副官

2012-02-19 | 海軍

副官という職は、読んで字のごとく官に副えると言うくらいで、羨望の職とは言い難く、
むしろ人格を認められているとは言えない配置、と言われていました。

ただ、恰好だけは、飾緒(斜めにかけているモール)が銀色で、
これは陸海軍の皇族就き武官と同じ色だったので、
陸軍省や宮中では副官も間違えられて相当な敬意を表されました。
ちなみに陸軍の副官は黄色いタスキだったので、すぐに副官だと分かってしまい、
それなりの待遇を受けました。

今日はこの「人格を認められているとは言えない職業ナンバーワン」、
一日副官になってみましょう!


あなたは、恰好だけは立派な副官となって赤煉瓦の海軍省に出仕します。
まずは着任のあいさつから参りましょう。
直属上官の総務部一課長T大佐です。

「副官の仕事は大変でご苦労だ。本部長は気短かだが、竹を割ったような性格だ。
左手が不自由だからよろしく頼むよ」

いきなり不安にかられるあなた。やっぱり副官は大変な仕事?

続いて総務部長、航空本部長などのオエラ方に恐る恐る伺候。
左手が不自由、というのは、どうやらシナ事変の爆撃隊参加の際やられて、
義手になっておられることのようです。
名誉の負傷により栄誉の閑職、といった方でしょうか。
「おお君が新しい副官か。しっかりやれ」
続いて、部内を挨拶して回ります。

「エス(芸者)のお披露目でもあるまいに・・・

あなたはいささかうんざり。
仕方ありません。エスも副官も、第一印象は大切。
これも仕事のうちだから我慢せい、とO大尉に慰められながらお座敷を、
いや各部署を引きまわされます。

各部署に雁首を並べている佐官の皆さんが、申し合わせたようにこう聞くので、
あなたはきっと驚くでしょう。

「君も体を壊したかね」

ちょちょ、ちょっと待って下さい。
ここは身体を壊して一線で働けない人たちの吹き溜まりなんですか。
もしかして窓際ですか。
「どこも悪くないのに気の毒に」
そんなこと初日に言われたら、どん引きするんですが。


さて、副官の仕事とは何か。それは
差使随従」さしずいじゅう。

そう、四文字でいえばいかにも偉そうに見えますが、なんのことはない
「カバン持ち」またの名を「腰ぎんちゃく」

「副官、今日はついて来んでええよ」
と言われぬ限り、何処へでも一緒に行くのがあなたのお仕事。
そして、責任のある仕事も任されます。
それは機密費の管理!
凄いですね。副官保管の金庫のカギを任されたあなたは、めったにお目にかからない百円札で、
自分のお金ではない巨額の機密費の管理を任されるのです。
これを男子の本壊と言わずして何と言うのでしょうか。

ちょっとまて、こういう仕事のために主計科短現士官というものがいたのではないか?
と思われたあなた、あなたは正しい。
しかし、当初はこのように兵科将校がやらされていたのです。
あなたはまだ大戦初期の頃の副官ですからね。

このように副官の仕事は「副官ハンドブック」に書かれており、それと首っ引きで、
航空本部長の出張の時には車の手配から、女中さんへの心付けまで、
実に細やかな気配りを要求されることになります。

「おい副官」と呼ばれれば答えられるところに影のように立っている仕事ですから、
当然のように宴会でも大活躍。
宴会で縁の下の幹事を務めるのが副官です。
この宴会も海軍内ではたいして問題はありませんが、陸軍との合同宴会、これが大変。


一言で副官と言っても、陸軍の副官と海軍の副官は、その待遇においてずいぶん違いました。
例えば東条大将の副官で当時飛ぶ鳥落とすと言われたほどの陰の実力者某大佐ですら、
宴会には別室を用意し、親玉の宴会終了までひたすら待っていなくてはいけませんでした。

当然というか勿論というか、海軍のように副官も同じお座敷で、
ヘタするとおやじを差し置いてSにMM(モテモテ)、

「おーい副官、こっちにも回さんか」


などと言われて頭をかきつつも和気あいあい、などという無礼講は
陸軍ではまず考えられないことなのです。

したがって、陸軍主催の宴会には
「副官用の末席を用意してください」とあなたはわざわざ頼まなくてはいけません。
きっと、陸軍の副官は驚いてこう言うと思います。

「あんたがた、それでよく酒や食い物が喉を通りますな。私だったら味も分からんと思う」

車に乗るとき、陸軍の副官はここでもきちんと、助手席に座ります。
同席などとんでもない、のです。
しかし、海軍のあなたはおやじの隣りが指定席です。
ヘンに上官に気に入られてしまうと、何かと問題な配置ではあります。

さて、仕事にも慣れてきたあなたは、こんな場面にも立ち会います。
大本営陸海軍部作戦会議にあなたのボスが出席。
このような重大な局面であなたはまず何をすべきか。

そう。お茶汲みです。

あたしたちお茶汲みするために副官になったんじゃないんです!

なんて、甘っちょろいことは言わんでいただきたい。
何しろ、ここは作戦室。
エラい人も男のいれたお茶など飲みたくもないでしょうが、余人は何人たりとも立ち入り禁止。
あなたと、陸軍の副官、二人で協力し合ってお茶くみをせねばなりません。
そして心をこめて入れたお茶を運んで「おう、海軍の副官、貴官のいれた茶はうまいぞ」
なんて陸軍のお偉方に言われるようになったら、
あなたも海軍副官として仕事冥利に尽きるというものです。

たぶん。

しかし、いくら顔なじみになってお茶を褒められても、海軍式に東条大将をつかまえて
「いやあ、ありがとうございます総長!」
なんて言ってしまってはいけません。
ほら、皆ものすごーく不機嫌になってしまったでしょう?
はて、オレなんかまずいこと言ったけ、と首をひねっているあなたに、
陸軍の副官が陰でこういうではありませんか。

「あまり僕らをひやひやさせんでくれ給え。
君が東条閣下を総長と呼び捨てするたびに、

そのはねかえりがいつ我々の方に来るかと冷や汗ものだよ」

そう、陸軍では少将以上には○○少将閣下、と閣下を必つけなくてはいけないし、
大佐以下には××大佐殿、と言わなければならないのです。
海軍士官のあなたは「少将、大佐」が敬称であると教育されているのですが、
陸軍にはそれがとてつもなく失礼に聞こえるのです。

めんどーくせー組織だな陸軍てのは、などとたとえ陰でも言ってはいけませんよ。
あなたや他の海軍軍人がそういう態度だから、陸軍は「海軍は礼儀知らず」なんて言うのです。

さて、せっかくここまで来たので、もう一日、副官をやってみてくださいね。
次号にむりやり続きます。


おっと、本日挿絵は一体何だ、って?


阿川弘之氏の名著「井上成美」で、「コーキ」という井上大将のオウムが
「フッカンノバカ」
としゃべっていた、という記述があったのを読んだ方は覚えておられますか?

あれ、阿川氏は書いていませんでしたが、
いったい誰がオウムにそれを教えたんだと思います?




笹井中尉の三段跳び撃墜

2012-02-13 | 海軍

     

笹井中尉生誕94周年記念スペシャルです。

撃墜された敵機の前で撮られた笹井中尉の写真から、
ボケた画像をもとに、不鮮明な部分は想像力で補い、肖像をねつ造しました。
パソコンに落として拡大しても元の画像が粗いとアップが鮮明に描けません。
去年亡くなったときに描いたジョブズの画像などは元写真が恐ろしく鮮明なので、
それだけリアルに描きやすかったわけですが。

さて、今日タイトル、笹井中尉の「三段跳び撃墜」について。
坂井三郎著「大空のサムライ」でも有名になった、
笹井中尉が師匠の坂井氏が見守る中、一航過において三機を撃墜した
という胸のすくような撃墜話です。

初版の「坂井三郎撃墜記録」によると、陸攻隊の攻撃を容易ならしめるために、
偵察を兼ねて敵兵力を少しでも削ぐ、という意味で毎日のように行われていた
「モレスビー詣で」の何処か一日に、それは行われたということになっています。

初版の「坂井三郎空戦記録」には、実はこの三段跳びが図解で示されています。
4コマに分けてみました。
ちなみに列機の皆さんは上空で少し後ろを飛んでいます。

機速を伸ばして最後尾の敵の後上方、絶好の位置に辿りついた笹井機
左に大きくひねり込んで襲いかかる
一撃で三番機を仕留めた笹井機、直後に急上昇


急上昇したところはちょうど二番機の500メートルの位置
同じ攻撃法でひねり込みながら50~60メートルまで近づき二番機を撃墜
操縦員がやられたらしく機はきりもみ状態で落ちて行った


 

後ろで何が起きたか隊長機は気付き、機首を上げ宙返りの態勢に入ろうとする



宙返りのため笹井機と直角に背中をさらした一番機、至近50メートルから敵機要部を撃ち抜く
機はGがかかった状態だったので片翼が飛び、回りながら落ちて行った


この後坂井氏は両手を操縦桿から放して手を叩き、その成長ぶりを喜んだと書かれています。
笹井醇一中尉の戦歴については、戦後「大空のサムライ」に語られたからだけでもなく、
大戦中から海軍関係者の間ではすでに華々しく喧伝されていたようです。

例えば全く事情を知らないでラバウルに赴任してきた従軍画家の林唯一氏なども、
新聞記者から「坂井などと並ぶ、海軍航空隊の至宝と言われている」と噂を聞いて、
それを戦中の著書に書いていますし、
あるいは海軍兵学校の同級生などもその活躍を喜んでいた、という文章が
少し探せばあちこちから見つかります。

「チョットどもるような早口を、眼をしばたたかせながら語る笹井の風貌から、
日本一の零戦乗りの強靭さを察することは難しいが、
飛行機乗りにならねばと頑張りとおした根性こそ、
彼をして撃墜王たらしめた原動力であったろうか」
兵67期 吉村五郎氏

「気性の強い点では、我々同期の飛行学生仲間では随一であったと思う。
戦闘機に進んだのも、撃墜王の勇名をとどろかせたのももっともなことである」
兵67期 肥田真幸氏

「その後私は12連空、11連空の教官配置を廻りながら
次々報道せられて来る華々しき活躍振りを羨ましく思いつつ
武運長久を祈っていたものであったが」
兵67期 入谷清宏氏


その、戦中から世間につたわるところの評判と、「サムライ」における笹井中尉の「天才ぶり」、
図解したような「絵にかいたような胸のすく撃墜」。
どれも、ヒーロー笹井中尉を称賛するものばかりです。

しかし、と言っていいのかどうかは分かりませんが、
ここで虚心坦懐に「台南空行動調書」を読んでいきましょう。
ここでは「エリート戦闘機隊」として名を馳せた台南航空隊といえど、
絵にかいたような圧倒的な勝利は、なかなか読み取ることはできないのです。

例えば、朝5時45分1直の発進から、午後3時の帰投である7直まで、
およそ丸一日上空哨戒を続けても、「敵ヲ見ズ」が数日続いたり、
「撃墜」とあっても大抵誰のものによるか分からず、共同撃墜となっていたり、
あるいは不確実であったり。
アメリカ側の認識でも「このころのラバウルでは圧倒的に日本が強かった」
ということになっているのに、です。

そして、本日タイトルである「笹井中尉の三段跳び撃墜」ですが、
このように図解までされて生き生きと描写されている撃墜劇について、
記録されているはずの戦果を求めて、台南空の行動調書を一枚一枚丹念に見ていっても
「笹井中尉が単独で3機撃墜したという記録はどこにもない」のです。

このような状況で、しかも撃墜したのが士官であり、
列機が何機もそれを眺めていたわけですから、まさか未確認不確実になるわけもないでしょう。
もちろん不確実扱いで3機撃墜したとされる日すらありません。


これは・・・・・。


巷間伝わる笹井中尉の活躍を、あらためて創作により色付けして、
エンターテイメント小説として分かりやすく、ヒロイックに描写した結果が
「三段跳び撃墜」だったのでしょうか。
笹井中尉のみならず、台南空の搭乗員たちを生き生きと活写するついでに
読み物として読者サービスを「盛った」エピソードがほとんどなのでしょうか。

しかし考えるまでもなく、彼らは「映画の登場人物」ではないのです。
その命をかけて戦争をしていたのです。
実際の戦いはもっと地味で、悲壮な毎日の連続で・・・・
もしかしたら「大空のサムライ」や「零戦ブーム」が一部の元軍人たちに受け入れられなかった
という理由も、このあたりにあるのかもしれません。

実際に元軍人の口から
「本に書かれたことは、大概綺麗ごとで実相とは程遠い。
しょせん歴史は声の大きなものが作って行くんだなあ」
と嘆く声を聞いた人もいます。


もし笹井中尉が戦死することなく、戦後坂井氏と一緒に「笹井・坂井株式会社」を経営していたり、
肥田氏が予想するように、航空自衛隊に入ってパイロットを続けていたら、
このエピソードが坂井氏の口から語られることはなかったのかもしれない、などと考えてみます。

しかし、そうではないかもしれないと薄々知りながらも、この物語の登場人物を愛するがゆえに、
そうあってほしいと何より願っているのは、戦争を知らない我々であることも確かです。
さればこそ、敵上空宙返りの逸話や、容易に行動調書から真偽を確かめることのできるこの話を
誰もはっきりと検証せずにいるのかもしれません。