ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

無資格手術と「ネプチューンの法廷」〜潜水艦シルバーサイズ

2022-09-03 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「ガトー」級潜水艦、
「シルバーサイズ」の哨戒を順に語ってきました。

進水以来日本近海と太平洋で日本と戦ってきた「シルバーサイズ」。
最初の哨戒での銃撃戦で戦死者を出し、
哨戒途中に盲腸患者の緊急手術を行ったかと思うと、
敵に見つかり極限の深度まで沈んで敵をやり過ごして
助かったと思ったら今度は魚雷が管に詰まってさあ大変。

これでもかというほどの危機を乗り越えて4回の哨戒を終えました。

ところで、4回目の哨戒で行われた盲腸の手術ですが、
別の記述が見つかりましたので写真と共に挙げます。


■第4回パトロール:無許可の手術

哨戒に出て四日目、クリスマスの二日前のことです。
我々の消防士の一人、ジョージ・プラッターが腹痛を訴え始めました。

「ドク」トーマス・ムーアは、彼が虫垂炎であることに気づき、
すぐさま手術室の設備のある大型艦に彼を移すか、あるいは
どこかに上陸して陸上で手当を受けさせるべきだと考えました。

問題は行くにしても戻るにしても、その100マイルの航路上、
周りに敵しかいないということでした。

ムーアは戦前に受けた医療訓練の過程で手術を何十回も見ていましたが、
もちろん自分ではやったことは一度もなく、というか
医師ではない彼には手術をする資格はありません。

しかし、プラッターは虫垂切除しないと死んでしまいますので、
艦長と本人の同意を得た上で手術を決行することにしたのです。

そこで我々は「シルバーサイズ」を潜航させ、
海中に止まることで動揺しない手術室を彼らに提供しました。

虫垂を切除する手術のために士官用ワードルームが用意され、
テーブルが手術台になりました。

ムーアは手術に必要な器具を全て持っていなかったので、
リトラクター(開創器)の代理としてスプーンを二つ曲げて代用しました。

海軍は、こういうことが起こることを全く想定していなかったのです。



我らが副長、ロイ・ダベンポートがプラッターを眠らせるため
エーテルを管理し始めた時から、オペレーションの写真を撮りました。

このことは、軍法会議が行われていたら関係者に不利をもたらしたでしょう。
(ばっちり証拠写真となるからですねわかります)

幸運なことに手術はうまくいき、プラッターは無事に回復し、
6日後には任務に復帰することができました。

わたしたちが持っている写真はこの時のものだけですが、後から聞いたところ、
「違法手術」は、この後2回、潜水艦内で行われたのだそうです。

*「ドク」ムーアはファーマシスト・メイトでした。

一般的に潜水艦任務は医師や看護師など、高度な技術を持つ人を配置するには
危険すぎるとされ、
(それだけ生還の可能性を低く見られていたということ)
衛生兵と同様の訓練を受けたファーマシスト・メイトが乗務しました。

彼らの仕事は、医療援助ができるようになるまで、
とにかく乗員を生かしておくこととされました。

手術以外にプラッターを生かしておく方法が何かあれば、
ムーアはそれを選択したでしょうが、虫垂炎の場合は、それは
手術という方法しかなかったということです。

もちろん無資格なので建前上彼は手術をするべきではありませんでしたが、
結果が良かったのと、場合が場合なのとを考慮され、
ムーアはお咎めなしだっただけでなく、ファーマシストメイトの
チーフに昇進したということです。

「ドク」というあだ名は、最初からついていたのではなく、
プラッターの手術後、乗員がそう呼び出したのに違いありません。



おそらくダベンポート副長が撮影したに違いない、
このときの「手術クルー」(患者含む)の記念写真が残されています。
説明がありませんが、「ドク」ムーアは帽子に手をやっている人でしょう。

手術で命を助けられたプラッターは左から2番目。
彼が抱えているのは、ホームメイドの彼専用おまるなんだとか。

おそらく手術後の安静時に彼のために仲間が制作してやったのでしょう。

( ;∀;) イイハナシダナー

■5回目の哨戒




4回目の哨戒は虚実ないまぜに(笑)戦果も盛りだくさんだったのですが、
5回目の哨戒では旭日ペイントは一つだけです。


「シルバーサイズ」第5次哨戒は5月17日から開始され、
哨戒範囲はソロモン諸島地域、第一の任務は機雷敷設であり、
敷設場所はニューアイルランド島沖となっていました。

6月4日夜、予定通りニューハノーバーとニューアイルランド間にある
ステフェン海峡北口付近で機雷敷設を実施。

その後、「シルバーサイズ」が撃沈したと認識することになる
輸送船を発見することになります。

●輸送船 10,000トン

🇯🇵
6月10日
スコールの中で3隻からなる輸送船団、第2082船団を発見し、1日かけて追跡

6月11日
日付が変わった直後、北緯02度42分 東経152度00分、
トラックの南200海里の地点で浮上攻撃により魚雷を4本発射

特設運送船「日出丸」(栃木商事、5,256トン)
そのうち3本が命中したものと判断される

駆逐艦「朝凪」が発砲してきたので、
艦尾発射管から魚雷を1本発射して戦闘海域を離脱

この間に「日出丸」は沈没した


🇺🇸
6月10日から11日の夜、5,256トンの貨物船「日出丸」を沈めたが、
そのために激しい深度充電に耐えることを余儀なくされた。

栃木商事の特別運送船「日出丸」がトラックで雷撃により戦没したのは
記録にも残されており、撃沈の認識は正確だったことになります。

ただし、実際のトン数が5,256に対し1万トンとほぼ倍盛っていますが。


■ 世にも珍しい事件?(言うほどではない)

5月28日、哨戒中の「シルバーサイズ」で珍しい出来事が発生しました。
第5回戦争哨戒報告書には次のように記されています。

指定された位置に向かって海面を進んでいた28日、
敵のフリゲートバード(艦載機)が我々に高高度爆撃を行ったが、
それはOOD(Officer Of the Deck、甲板士官)であるビエニア中尉の

裸の頭(bare head)とひげに直撃(direct hit)

と記録された。

攻撃はレーダーによる表示はされなかった。


まず、この件で死者はもちろん怪我人も出なかったことから、
「直撃」というのは、髭と「裸の頭」をかすめたことを指すのでしょう。
髭はともかく裸の頭を直撃したらもうあかんのでは?と思いますが。


7月1日、シルバーサイズは44日間の行動を終えてブリスベンに帰投し、
7月16日からブリスベンで改装を行いました。


■ イニシエーション「ネプチューン王の法廷」

さて、この第五次哨戒は、初代艦長、バーリンゲーム少佐にとって
最後の勤務となり、この後、艦長は
ジョン・S ”ジャック”・コイに交代しますが、
バーリンゲーム艦長時代の「シルバーサイズ」のこんな逸話が
博物館の「シルバーサイズ」の写真に添えられているので最後に挙げます。

「水上艦であるティン・カン(駆逐艦)では、
新入りの水兵(polliwogs・オタマジャクシ)に
『ネプチューン王の法廷』なるイニシエーションが行われますが」

特にアメリカでは駆逐艦のことを「ティン・カン」(ブリキ缶)と呼びます。
新入り水兵のことをオタマジャクシと呼ぶのは初めて知りましたが、
これはそのうちカエルになると言うことで説明は要りませんね。

イニシエーションとは「通過儀礼」のことです。
しかし、

「我々の『シルバーサイズ』には
それをする場所がありません」

さて、それではこの「ネプチューン王の法廷」ってなんですか、
ってことなんですが、とりあえずこれを見てください。

King Neptune's court in session during Shellback Initiation ceremony aboard USS I...HD Stock Footage

こんな感じのイベント、どこかで見たことあるぞ、と思いませんか?
そう、帝国海軍でも行われていた「赤道祭り」です。

英語ではこの儀式を「ラインクロッシング」と呼びます。

一般に、海軍の伝統やそこで使われている言葉には、
受け継がれてきた神話が元になっているものがたくさんあります。

例えばオデッセイの「セイレーン」や海の怪物、
「ボースンズ・コール」と言う言葉もそうです。
海軍の伝統は何百年、何千年も前にその源流があるのです。

「ネプチューンの秩序」とも言われるライン・クロッシング・セレモニー。
いつ、どのようにして生まれたかは、よくわかっていません。

しかし、少なくとも400年以上前の西洋の航海術にさかのぼります。

わたしも、これまでは「赤道祭り」は赤道を越えた記念の儀式、
と言う認識しかなかったのですが、本来は、
「まだ赤道を越えたことがない」船乗りのオタマジャクシから、
ネプチューンの息子または娘とも呼ばれる信頼すべきシェルバック
(Shellback、ベテランの船乗り、赤道ごえを経験した水兵、
  シードッグ”Seadog”とかバーナクル”Barnacle”ともいう)
への変身を見守るという意味合いを持つ儀式なのです。

そしてこのイニシエーションは、船乗りが航海に耐えられるかどうか、
を試すために慣例的に行われるようになったのです。

上のビデオを見ていただくと、登場人物はネプチューン王、
そして、なにやら手を二人一組で繋がれた水兵さんがいて、
ネプチューンは艦長らしき人に法廷が開かれることを宣言しています。

一般的に、船が赤道を越えると、ネプチューン王が乗り込んできて、
おたまじゃくし、ポリーウォッグが船乗りを装っているだけで、
海の神にきちんと敬意を表していないという罪を裁く、
というのがこの儀式のあらすじとなります。

船の中でも地位の高い者や「シェルバック」歴の長い者は、
凝った衣装を身にまとい、それぞれがネプチューン王の宮廷人を演じます。

軍艦ではあまり見たことはありませんが、民間船では
船長がネプチューン王を演じることもあるのだとか。

目的は、お祭りを通じて、乗組員同士の親睦と団結を深めることです。


帽子の形から、1900年〜1920年頃でしょうか。
ネプチューンとその付き人を演じる3人の階級が知りたい(笑)

おそらく右で腰に手を当てている人が艦長でしょう。



文字通りの「ティン・カン・セイラー」駆逐艦乗りのポリウォークが
赤道を越えた時の「法廷」の様子です。

駆逐艦なのであまり凝った衣装が用意できなかったのか、
とりあえずな感じが否めませんが。

この写真のDD401 USS「モーリー」は、写真が撮られた42年5月は、
珊瑚海海戦にて「ヨークタウン」と「レキシントン」を支援した後、
その後ミッドウェー海戦に参加しています。


■ライン・クロッシングの儀式を行う方法

船ごとに伝統やニュアンスは異なるかもしれないが、
基本的な構成は次のようなものとなります。

赤道通過の前夜、ネプチューン王と王妃、デイヴィ・ジョーンズ、
王室の赤ん坊、その他の高官たちが船に到着します。


ネプチューン王(左)とその王妃(右)

ここからが問題です。

ポリーウォッグはタレントショーで王室をもてなさなくてはなりません。
ダンス、歌、寸劇、詩など、盛りだくさんの内容ですが、
自分たちへの裁きを甘くしてもらおうという懐柔策です。


ショーが終わると、おたまじゃくしたちは、デイビー・ジョーンズから
法廷への召喚状を受け取るのです。


思い出してください。これは「法廷」の前夜祭ですよ。

召喚場を受け取ったおたまじゃくしたちは、翌日法廷に立ち、
シェルバック(ベテラン)の告発に答えなければなりません。

そして当日の朝、なぜか彼らは食べられないくらい辛い朝食をとり、
ネプチューン王の前に出て、裁きを受けることになります。

これに対してポリウォグたちはこれも伝統のパフォーマンス、
服を裏返しに着たり、甲板を這ったり、
食べられない朝食を取り除くなど、色々とやって見せなくてはいけません。

これは一説によると、祭りの1ヶ月前からポリウォーグは
シェルバックから散々馬鹿にされ続けるので、
頭に来て反乱を起こすということの表現なのだそうです。

次に、ポリウォグたちは王の前にひざまずき、
油で覆われた王室の赤ん坊のお腹(意味不明)にキスをします。


そして最後に海水を張ったプールで入浴し、そこで初めて
シェルバックになったことを宣言され、その証書を受け取るのです。


大海原ではこの時のネプチューン王の権威は絶大で、艦長はもちろん、
たとえ大国の指導者であっても例外は認められません。

1936年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領もまた、
海神の前に出頭し、敬意を表するよう召喚されています。

その時の罪状は以下の通り。

海の伝統を無視したこと。
ネプトゥヌス・レックス陛下の魚類を勝手にに扱ったこと。

ネプトゥヌス=ネプチューンになったのがレックスという人だったのかな。
それにしても一体何をやったルーズベルト。



現代の「ネプチューンの法廷」
おそらくロイヤルネイビーのみなさん


■「シルバーサイズ」の”ネプチューンの法廷”

さて、潜水艦「シルバーサイズ」ではこの儀式をする場所がない、
と言うところまでお話ししました。

「しかし、バーリンゲーム艦長が、わたしたちを楽しませることを
決して止めるはずがありませんでした

お、・・・おお?

「艦長はポリウォグたちに、1日中食べ物を手で食べるように命じ、
その上で夕食にはチャプスイを作らせました」

チャプスイと言うのは、アメリカ人の考えるところのチャイニーズ料理で、
広東料理、炒雜碎(チャーウチャプスイ)が語源です。

モツまたは豚肉や鶏肉、野菜を炒めてスープを加え煮た後、
水溶き片栗粉でとろみをつけ、主菜としてそのまま、
あるいは白飯や中華麺に掛けて食すものですが、
流石にこれを手で食べるのは、手掴み上等のインド人でも辛かろう。

しかしこれ、「ネプチューンの法廷」となんか関連あるか?

「何人かのポリウォグたちは頑張ってこれに耐えました。

そして新入のトム・キーガン中尉は、

24時間どこにいても命令をされました。

コニングタワーにいる艦長とダベンポート副長に
『コーヒーと砂糖』を持ってこい!と命令されましたが、
キーガン中尉はバーリンゲーム艦長には砂糖の代わりに塩が渡され、
ダベンポート副長はかろうじて『コーヒーと砂糖』を手に入れました。

ただし、
『コーヒーの粉と砂糖』のみ、お湯無しです。

キーガン中尉は、ダベンポート副長に、

『水を持ってくるようにという命令は受けていません』

と答えました」


水兵だけでなく、潜水艦勤務が初めてなら士官も
ポリウォグ扱いされたってことがわかりました。

しかし、重ね重ねこれって「ネプチューン」と無関係よね?
単なる「パワハラvsとんち」合戦になってないか?


続く。


「マーフィーを招待したのは誰?」〜潜水艦「シルバーサイズ」第4回目の哨戒

2022-08-30 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」シリーズ、
第二次世界大戦中の「ガトー」旧潜水艦「シルバーサイズ」の
第3回目の哨戒戦果なし、という結果になったところまでお話ししました。

少なくともこれまで艦内とセイルに誇らしくペイントされた、
彼らの思っていたところの「やっつけた敵艦」の数と現実は
戦後の双方の照合から実際とは大きく違っていたことがわかったのですが、
まあ、その齟齬そのものは「シルバーサイズ」に限ったことではなく、
全世界的な傾向にあるということも理解して、
この際暖かい目で見てあげることにした当ブログです。

しかし、

彼らの主張と現実の戦果を検証するという作業を
止めるわけには行かないのだった。

というわけで、今日は4回目の哨戒からです。

■ 第4回目の哨戒



第4回哨戒は、この地図でいうブルーの矢印で、
前回の第3回哨戒の終了したブリスベーンから真珠湾までの航路です。

そして、よくよく見ると、ブリスベーンからニューギニアまでの間に、
赤い赤十字マークが付けられていて、説明にも

+ Appendectomy(盲腸)

とあるではないですか。

【盲腸と手術と駆逐艦と敵機】


「シルバーサイズ」の勤務日誌が見つかりました。
これによると、

12月22日 

午前中、消防士のジョージ・プラッターが痛みで倒れ、
虫垂炎の疑いがあることが報告されました。

彼は午後3時に急性発作を起こしたので、
2100、緊急手術が行われることになります。

2152、「より安定したプラットフォームを得るために」
潜水艦は潜水を行い、当潜水艦の医療係(軍医は潜水艦に乗っていない)
一等薬剤師であるトーマス・ムーアは手術を開始。

麻酔の代わりにエーテルを使い、ほとんど台所用品を使って
盲腸の切除手術を行いました。


医師ではないムーアにとって、この手術は大変な大手術となりました。
結局5時間後に終了していますが、さぞ冷や汗をかいたことでしょう。

手術が終わったので「シルバーサイズ」は午前4時に浮上しましたが、
すぐに日本の駆逐艦に発見され、再び急いで潜水。

駆逐艦からは爆雷を雨霰のように落とされ、それに耐えることになります。

盲腸の患者の発生、手術が終わったばかりでこの展開。

潜水艦映画でもこんなスリリングなストーリーはそうないだろう、
ともしかしたら乗員は思ったかもしれません。

爆雷に耐えることしばし、静かになったので
もう大丈夫だと思って浮上したら、

駆逐艦はまだそこにいました。

しかも、航空機の救援まで駆けつけて、爆雷を落としてくるではないですか。

落とされた3発の爆弾のうち1発は艦首部分を大きく損傷しましたが、
「シルバーサイズ」は限界までの深度ギリギリまで深く沈んでそこで耐え、
最終的に敵が現場を去ることで危機を脱することができました。

そこで彼女はバッテリーの充電と緊急修理のために浮上したのでした。


【マーフィーを招待したのは誰?】

さて、盲腸の手術に敵駆逐艦の攻撃と、盛りだくさんなイベント。

潜水艦「シルバーサイズ」博物館には、
上記のような嘆きがタイトルになった日記風の文章があります。
この時のことが書かれています。

何もかもが一度に降りかかってくるという言葉が当てはまるとしたら、
それはまさに第4回目の哨戒のことでした。

まず『シルバーサイズ』は盲腸の手術のため
ほとんどのバッテリーを使い果たしてしまっていました。

手術を終えたジョージ・プラッターを回復のためベッドに押し込むや否や、
「シルバーサイズ」は充電のために航走しなければなりませんでした。

そのため浮上すると、敵の駆逐艦が突然霧の中から突進してきて、
わたしたちの艦尾に爆雷を浴びせてきました。

色々あって()やっと静かになったと思ったら、
飛行機が上空を旋回して爆雷を落としてくるではありませんか。

この日は何もかもが悲惨なことばかりで、
修理が必要な損傷がいくつもできてしまいました。

プラッターはといえば、手術が終わったばかりなのに

この騒ぎで寝かされていたバンクから投げ出されて気の毒でした。

ちなみに「シルバーサイズ」はこの時駆逐艦に対し反撃を試みたようで、
南緯06度30分 東経154度00分の地点で魚雷を2本発射した後、
数度にわたる爆雷攻撃が終わるのを待った、と日誌には書かれています。

ガスケットが緩んだり、第二潜望鏡のプリズムにクラックが生じたものの、
奇跡的に「シルバーサイズ」は任務を続けることができました。




4回目の哨戒で「シルバーサイズ」が沈めた・撃破したとする
5隻の艦船も、戸棚に描かれているものと日本、アメリカの記述を
比較していきます。

● 伊号1潜水艦 損傷

🇯🇵北緯07度06分 東経151度17分のトラック南西海域で
伊一型潜水艦型と思しき大型潜水艦を発見し、
魚雷を3本発射して1本を命中させて損傷をさせたと評価される

日本側の記述は、基本「シルバーサイズ」の日誌をもとにしています。

●GEWYD MARU 10,000 トン

🇺🇸 1943年1月18日
トラック沖で「シルバーサイズ」はこの
哨戒で最大の目標である
10,022トンの石油タンカー「東栄丸」を魚雷で沈めた

🇯🇵1月18日未明
北緯06度21分 東経150度23分の地点で
護衛艦1隻を従えた特設運送船(給油)東榮丸(日東汽船10,023トン)
を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射して3本命中させて撃沈した

「シルバーサイズ」には、「東榮丸」の名前は不明だったらしく、
哨戒中ということで全く違う(しかも日本語でもない)
船名としてペイントされていますが、後の情報は正確です。

【特設給油船東榮丸】

特設給油船とはタンカーのことです。
現場は普通にタンカーと呼んでいたと思うのですが、英語なので
公式にはこのような名称が使われたのではないかと思われます。

海軍所有の給油艦では手が足りなくなったため、
戦争が始まると徴用されて民間タンカーが原油輸送や
燃料・物資輸送、泊地内での燃料備蓄や輸送、洋上補給を行いました。

当時(今でもそうですが)石油の供給を輸入に頼るしかない日本にとっては
「石油一滴は血の一滴」

そもそも日本が戦争に踏み切ったのも、石油の禁輸が堪えたからです。

それだけに特設給油船の働きは日本にとっての命運を握っていましたが、
それは同時に敵からの攻撃目標になるということでもあります。

タンカーを撃沈することは、連合軍の戦艦にとって「大金星」。
そのためタンカーの受ける攻撃は熾烈を極めました。

おそらく、当時、特設給油船として徴用された民間船の乗員は、
戦地に赴く際には任務で命を落とす覚悟だったと思われます。


そして、事実、大東亜戦争ではほとんど全ての特設給油船が失われました。

「東榮丸」は1933〜43年の間に川崎造船所、および川崎重工業で建造された
タンカーで、「川崎型油槽船」と呼ばれることもあります。

海軍艦艇建造で実績があった川崎が海軍からの要求を盛り込み、
有事の際の弾火薬庫を想定したスペースなどが設けられ建造された
      1万トン級タンカー13隻は、  戦争突入前に整備され、
戦争が始まると軍に徴傭されてすべてが失われました。

「東榮丸」は昭和13年4月に川崎造船所で起工され、
昭和14年2月に竣工し日東鉱業汽船に引き渡されます。
 
竣工翌年には帝国海軍に徴傭され、特設運送船(給油船)に編入されました。
11月26日に単冠湾より出撃、真珠湾攻撃をこれから行わんとする
帝国海軍南雲機動部隊への補給を行いました。

つまり「東榮丸」は真珠湾攻撃に参加しているのです。



その後はトラック島を根拠とする作戦、
第一次印度洋作戦の機動部隊に随伴、
ミッドウェー海戦においては、主力部隊に随伴しました。

「シルバーサイズ」に発見されたとき、「東榮丸」は、
 シンガポールからトラック島へ重油等を輸送する任務遂行中で、
トラック島の南西100浬を航行していました。

「シルバーサイズ」の魚雷は「東榮丸」機関室に2発命中、
彼女は乗組員36名と共に沈没しました。


■はねかえされて帰ってきた魚雷のかけら

この「快挙」のことを、「シルバーサイズ」の英語版ウィキには
「哨戒の最大の目標」と記していますが、
日記風の回想録にはこんな記述もあります。

「タンカーを沈めて何日か経ったとき、
潜航中やたら爆雷が投下される現象が続きました。
不思議に思っていたのですが、ようやく謎が解けました。

あのタンカーの護衛艦が我々を攻撃した時、
燃料タンクを破損させて小さな漏れを起こさせ、
それが海面に明らかな油膜(潜水艦の痕跡)を残していたのです。

その後、発電機の一つが発火してしまいます。

数時間後、海面に浮上し、エンジンのために

エアバルブを開きましたが、それだけなのに
肝心のエンジンはプスンと言ったきり死んでしまいました。

それからはまるでカモにしてくださいと言わん状態のまま
(We were sitting duck.=座っているアヒルになって)
動かないエンジンの原因を必死で探し、そして見つけました。

「クリーム・オブ・ウィート」(朝食用のインスタント粥)の箱が、
落ちてパイプを詰まらせていたのです。

ようやく出発できるという時に、ダベンポート副長が点検していると
甲板で金属片が光っているのが発見されました。

そこでローランド・フルニエに拾いに行かせたところ、
なんとその正体は
我々が撃った魚雷の破片でした。

我々が発射し、タンカーに当たった魚雷の破片が跳ね返され、
4分の3マイルの距離を飛んで戻ってきたものだったのです。




つまらなさそうな顔で、戻ってきた機雷の破片
(想像していたのより大きかった)を持つ乗員、ローランドさん。

写真には、

魚雷の破片は「アメリカ産隕石」と名付けられました

とキャプションがあります。

もしかしたら、この博物館のどこかには、
「東榮丸」で炸裂してから奇跡的に「シルバーサイズ」まで跳ね返されて
甲板に落ちた魚雷の破片が展示してあるかもしれません。


【ビューティフル・コンボイ(見事な船団)】

「その後、私たちはきれいに並んで攻撃もよりどりみどりな、
見事な船団を発見しました」

こんな文章で始まるこの日の船団攻撃。
相変わらず当時の「シルバーサイズ」には船名まで確認できなかったらしく
実際のものとは全く違っていますが、逆に珍しく、
自分自身が評価した攻撃の効果より、実際のダメージは甚大でした。

まず、艦内のペイントによると、戦後まで乗員たちは、
この時攻撃した船団の貨物船は撃破だったと信じていたようです。

● セイワマル 7,300トン 撃破

●パラオマル 5,270トン 撃破

●ベルギーマル 5,822トン 撃破


しかし、実際は3隻のうち2隻が撃沈されていました。

🇺🇸 日中、輸送船団に並走した後、日没とともに先回りして
待機(エンド・アラウンド・ポジション)した
目標が射程内に入ると、「シルバーサイズ」は重なった目標に魚雷を発射し、
貨物船「スラバヤ丸」「染殿丸」「メイオウ丸」の3隻を沈めた


アメリカの戦後の記録だと、これが3隻全部撃沈となりますが、
日本の記録だとこうなります。

🇯🇵 1月20日午後
北緯03度24分 東経154度13分のモートロック諸島近海で、
第六師団(神田正種中将)の将兵を乗せて
ブーゲンビル島に向かっていた六号輸送C船団[60]を発見

C船団に沿うように追跡し、日没近くにC船団の前部に出て待機した。

17時57分、「シルバーサイズ」は魚雷を6本発射し、
2隻の
陸軍輸送船、「すらばや丸」(大阪商船、4,391トン)
「明宇丸」(明治海運、8,230トン)に命中

「すらばや丸」は船首部に魚雷が命中して左舷に傾斜後間もなく沈没し、
同船への魚雷命中と相前後して船倉に魚雷が命中した「明宇丸」も、
左舷側に長く傾斜した後沈没していった


【詰まった魚雷の処理方法】

この時の「ビューティフルな攻撃」についてですが、
こんなことにもなっていたようです。

私たちは彼女らに忍び寄り、狙いを定め、
6本の魚雷を発射して5回の爆発音を聴きました。

もちろん護衛艦からの「お仕置き」が待っていましたが、
それも我々のやったことを考えれば、当然予想されることでした。

ただ、6番目の魚雷が飛んで行かなかった件は想定外でした。

装填した6番目の魚雷は発射管の途中で止まって動かなくなり、
護衛艦の爆雷を受けている間もずっとそこにあったのです。

我々がこの状態で生き残ったのは神のご加護としか言いようがありません。



さあ、魚雷チューブに詰まった魚雷をどうやって処理するか。
あなたならどうしますか?

「シルバーサイズ」は、次の朝、志願した6名の乗員を
問題の発射管のある全部魚雷室に閉じ込め、じゃなくて隔離しました。


魚雷を解除することは不可能であったため、
艦長の下した決断は、魚雷を再点火して発射することでした。

これは大変危険な行為でしたが、魚雷が詰まったまま
爆雷を受けでもしたら、それこそ全員がおしまいですし、
艦長は一か八かで逆進しながら魚雷を発射することにしたのです。

さらに、発射管から出た途端爆発する可能性もあったので、
6人だけを前部発射管に隔離して、被害を最小に止めようとしたのでした。

残りのメンバーは潜水艦を全速力で後進させ、
十分速度が出たところで魚雷が発射されました。

幸運なことに魚雷は無事発射され、水平線に向かいながら消えていきました。


「ありがたいことに、その夜私たちは新しいオイル漏れを発見しました」

これはもちろん皮肉というか自嘲というやつです。

「シルバーサイズ」の艦体からは深刻な油漏れと空気漏れがあったため、
予定より二日早く哨戒区域を離れて真珠湾に帰港しました。

最後の最後まで色々あった第4回目の哨戒。
「マーフィー」というのはもちろん、あの法則のマーフィーです。
文章化するとこんなところでしょうか。

「哨戒中、最悪これだけは起こって欲しくないアクシデントは必ず起こる」


続く。


 

「撃沈撃破、ゼロ」〜潜水艦「シルバーサイズ」第2回、3回哨戒

2022-08-26 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されているUSS「シルバーサイズ」。
第二次世界大戦中に日本と死闘を繰り広げた「ガトー」級潜水艦の一つです。

前回、「シルバーサイズ」の初代艦長、バーリンゲーム大尉が指揮をした
就役後1年2ヶ月間の5回の哨戒から主に最初の哨戒を取り上げたのですが、
今日はその続きで、2回目からを取り上げます。

■ 第2回目の哨戒


「シルバーサイズ」オフィサーズ・ワードルームの開戸に、
撃沈・撃破した日本艦船を軍艦も民間も一緒くたに旭日旗で表した
ペイントとその下に書かれていた船名をご覧ください。

この船名は、乗員たちが当時撃沈あるいは撃破したと信じていたところの
日本艦船の名前となりますが、実際のところどの程度正しかったでしょうか。

当ブログでは、これを照らし合わせるために、色分けし、

●青字は扉にペイントされた船名あるいは種類
🇯🇵緑色は日本側の記録
🇺🇸茶色はアメリカ側の記録

として書き出してみました。



7月15日、「シルバーサイズ」は2回目の哨戒で日本近海に向かいます。

●トロール船(漁船)500トン 撃沈

🇯🇵7月24日には北緯32度35分 東経158度54分の地点で
500トン級トロール船を砲撃で撃沈。

これはおそらく正確な情報だと思われます。
問題は、次です。

● テンヨウ-マル 10,105トン 撃破

🇯🇵7月28日、北緯33度21分 東経139度24分の八丈島の沖合いで
「大型貨客船」に魚雷を3本発射し、3本とも命中させたと判断された。

🇺🇸4,000トン級の輸送船を沈めた

三者の情報が全くバラバラです。
きっとどれも正しくないのだろうと思います(笑)

ちなみに「天洋丸」という特設敷設艦は実在しましたが、
1942年3月10日にラエの空襲で戦没していたことがわかりました。


【外交官交換船『龍田丸』との遭遇】

🇯🇵8月1日、北緯33度05分 東経135度21分の地点で
日英交換船「龍田丸」(日本郵船、16,975トン)を確認。

「龍田丸」は、戦争が始まってから日英の外交官交換船となっており、
「シルバーサイズ」が確認した2日前の7月30日に、
454名の船客を乗せて横浜を出港したばかりでした。


これは、米潜水艦「キングフィッシュ」の潜望鏡ごしに撮られた
外交官交換船仕様の「龍田丸」の航海中の写真です。

「龍田丸」は横須賀出港後、途中寄港の上海で324名、
サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、
計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地、
ロレンソ・マルケスに8月27日到着しました。

ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ、
9月2日出港。
途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名が下船します。

その後、外務省関係者6名を乗せて9月27日、横浜に帰着しました。


「シルバーサイズ」が「龍田丸」を確認したのはその出港直後でしたが、
「キングフィッシュ」がこの写真を撮ったのは、帰着後の10月14日です。

つまりこの頃には「龍田丸」は外交官輸送の任務を終わっており、
10日後には民間に戻る予定になっていました。

「シルバーサイズ」が遭遇した時には、「龍田丸」の安導権が生きていて、
攻撃は国際法違反でしたから、彼女はそれをきちんと遵守して
攻撃を行うことはありませんでしたが、
「キングフィッシュ」が写真を撮ったとき、
書類上「龍田丸」はもうその特権の下にありませんでした。

しかし、塗装がそのままで、安導権を意味する十字の印が残っていたので、
攻撃を免れることができたと言うことです。



●ライオンズ(Lyons)マル 1万トン撃沈

🇺🇸7月28日 4,000トン級の輸送船を撃沈

🇯🇵 「りおん丸」2,225トン、
1943年ラバウルにてTBFの空襲で撃破

これも三者共に全く情報が違っています。
日本の資料がおそらく正確なものだと思われます。

「シルバーサイズ」が沈めたと思ったのは全く別の船だったようです。


●セイコーマル 5,400トン 撃沈

🇺🇸 8月8日 客船・貨物船 日慶丸を沈めた

🇯🇵 8月8日、北緯33度33分 東経135度23分の市江崎沖で
輸送船日慶丸(日産汽船、5,811トン)を発見し、
魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈する。


夜になって浮上すると、2隻の哨戒艇や3隻の駆逐艦が見えたので、
「シルバーサイズ」は21ノットの速力でこの海域から去る。

珍しく、日米の記録が合致しました!

「シルバーサイズ」の記録はその場で本を見て確認した程度なので、
どれもいい加減で、史実とは全く違っているのが基本です。

これはどうしても当時の潜水艦という艦種にはあるあるの誤認でしょう。


「シルバーサイズ」が撃沈した「日慶丸」と同型船です。
沈没地点は和歌山県市江崎南方 でした。


🇯🇵8月14日、北緯33度25分 東経135度31分で
輸送船「成田丸」(内外汽船、1,915トン)に魚雷2本発射、命中せず

🇯🇵8月17日、北緯33度17分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「室戸丸」(関西汽船、1,257トン)に魚雷3本発射、命中せず
2本は陸岸に当たって爆発した

🇯🇵8月21日、北緯33度12分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「浦戸丸」(関西汽船、1,326トン)に魚雷を2本発射、命中せず

「シルバーサイズ」、この頃は絶不調です。
おそらく、乗員一同(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)としていたに違いありません。

ちなみにこのとき「シルバーサイズ」の攻撃を免れた「浦戸丸」
1943年に松山沖で衝突事故のため沈没しました。

「室戸丸」も終戦直後の1945年10月、西宮沖で触雷して沈没しています。

戦後触雷で沈没して多数の死者を出したことで有名な「女王丸」も、
この姉妹船と同じ関西汽船所有の船でした。


●トロール漁船 250トン 撃沈

●トロール漁船 350トン 撃破

🇺🇸 8月31日 敵トロール船2隻を撃沈した

🇯🇵8月31日、北緯33度51分 東経149度39分の地点で
漁船「美洋丸」と交戦。
「美洋丸」救援のために駆けつけた
特設監視艇「第三萬亀丸」
北緯34度07分 東経150度08分の地点で交戦する。

「美洋丸」は大破したものの沈没を逃れ、曳航されて日本に向かった。

「シルバーサイズ」は「美洋丸」撃沈、第三萬亀丸撃破と判断していた。


というわけで、「シルバーサイズ」第2回哨戒における
正確な戦果の発表です!

【撃沈】

7月24日 500トン級漁船

8月8日 輸送船「日慶丸」

【撃破】

8月31日 漁船「美洋丸」

念の為、「シルバーサイズ」はこれを、
撃沈4隻、撃破2隻だと申告していました。


9月8日、「シルバーサイズ」は56日間の行動を終え、
母港である真珠湾に帰投しました。




■ 第3回目の哨戒
 

1回目、2回目ともに日本近海まで哨戒に出ていましたが、
3回目からあとは真珠湾から南洋をパトロールしています。

航路は、ニューギニア経由でブリスベーンまで。
機関は1942年の10月2日から11月25日まででした。

「シルバーサイズ」は、カロリン諸島方面に向かいました。



🇯🇵10月18日、北緯07度17分 東経151度20分の地点で
ジグザグ航行をする
「衣笠」型重巡洋艦と思しき

大型艦を発見するが、攻撃の機会をつかめなかった。


●マニラ-マル 11,200トン

🇺🇸 大型貨物船に大きな損傷を与えた

🇯🇵10月20日、北緯06度45分 東経151度30分の地点で
大型輸送船に魚雷を3本発射し、2本の命中を報じた。



「シルバーサイズ」では、この時の船を「まにら丸」としていますが、
「まにら丸」の登録総トン数は6,500であり、さらには
その時期は病院船として就役していたので、この情報も間違いです。

「まにら丸」は昭和19年の11月にその名と同じ、
マニラ付近で被雷沈没しています。

●日本帝国海軍の雷装艦か駆逐艦 1300トン

🇺🇸 日本の駆逐艦や軽雷装船に魚雷が命中したが沈没はなかった

🇯🇵11月9日、南緯02度26分 東経149度36分の地点で
駆逐艦あるいは白鷹型敷設艦と推定される艦艇に対して
艦尾発射管から3本、艦首発射管から2本の計5本の魚雷を発射し、
2本から3本の魚雷を命中させたとする。

「シルバーサイズ」は2隻10,800トンの戦果を挙げたと報告したが、
実際の戦果は無かった。


戸棚の扉を埋めるべき戦果が全くなかったこの哨戒で、
空いたところには大きなブーメランが描かれています。

今なら何か「おまゆう」的ミームかと勘繰られそうですが、
この頃なので決してそんな意味はなく、単に「シルバーサイズ」が
11月25日、54日間の行動を終えてブリスベンに帰投したことを意味します。

この頃はブーメランと言っても今のようにスポーツだったわけでなく、
アボリジニ(オーストラリアの原住民)の武器としてしか
認識されていなかったということなんですね。

というわけで、「シルバーサイズ」第3回哨戒の公式戦果の発表です!

撃沈・撃破、ゼロ

でした!

こうして見ると、特に潜水艦の場合、実際の戦果と相手の損失は
全くと言っていいほど一致しておらず、
そのカウントは常に自分側の数字をマシマシにする傾向があった、
ということがよくわかる結果となっています。

まあ、なんだ。 ドンマイ。
次切りかえていこう。




続く。

ラッキー・ブッダに勝利祈願〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-08-22 | 軍艦

前回に引き続き、ミシガン州マスケゴンに展示してある
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」、
その哨戒活動について引き続きお話ししたいと思います。

前回は、民間漁船(実は徴用偵察船)に手痛い反撃を受けて、
若い砲手を失うという、ある意味「シルバーサイズ」にとって
最も修羅場となったその最初の哨戒での出来事からお話ししました。



パネルには「シルバーサイズ」の乗員の写真もあります。


名前も説明もありませんが、それぞれがどんな人物か
なんとなくわかるような気がします。

双眼鏡の人は、6名の士官のうちの一人ではないでしょうか。
貫禄があるので副長かもしれませんね。

「ガトー級」潜水艦の乗員は60名で、士官以外の54名が下士官兵です。


6人の士官の食事を準備したりするスペースの戸棚を利用して、
「シルバーサイズ」は各戸棚に各哨戒の成果を表示しています。


そしてこれが第一の哨戒なのですが、見たところこれは
戦後展示艦となってから書かれたものではなく、
「シルバーサイズ」が現役時、その都度書き足していったものと思われます。

そう判じた理由は、マイク・ハービンが戦死した最初の戦闘で
「シルバーサイズ」が撃沈した民間徴用船については、
「第五恵比寿丸」という名前(戦後明らかになったはず)ではなく、

TRAWLER 350 tons
(トロール漁船350トン)


としか書かれていないからです。

このトロールとの戦闘で乗員を失っているのですから、
もし名前がわかっていれば他のと同じく明記したはず。



ところで、前回お話ししたマイク・ハービンの話にはまだ続きがあります。
シルバーサイズ博物館遺品の展示を見て、
わたしはこのブログの「引き寄せの法則」(または偶然ともいう)
にまたしても驚かされることになりました。

【ラッキー・ブッダの縁担ぎ】

ここでちょっと画像を見ていただきましょう。
つい先日ここでご紹介した潜水艦映画、「潜航決死隊」の1シーンです。



魚雷係をさせられている?チーフが、二つの魚雷チューブの間に
なぜかホテイさんの像を置いています。



そして、魚雷発射の時にお腹を撫でていましたよね?
まあ、ほとんどの人は映画を見ていないと思いますが、そうなんです。



あのー、ここにある、これは一体なんですか?
ほぼ同じ布袋さんの金色の像なんですよこれが!

説明を読んで、わたしはさらに驚愕しました。

この真鍮製のブッダは、
おそらくマイク・ハービンが所有していたものです。

ハービンは縁担ぎのため、これを魚雷発射管の間に置いていました。

魚雷発射管の間に置いていました。
(大事なことなので繰り返しました)

最初の哨戒でハービンが亡くなった後、魚雷室のメンバーは
同じ真鍮の仏像をさらにもう2つ製作して、二つは
前後の魚雷室に、同じように魚雷発射管の間に取り付けました。

そして、
魚雷発射の際は必ずブッダのお腹をさすっていました。
「シルバーサイズ」乗組員のほとんどが、この迷信?を信じ、
潜水艦が災害に遭わないと信じて、この儀式を行なっていました。

オリジナルのブッダには、こう刻印されて艦長に贈られました。

「USS『シルバーサイズ』司令官
C.C.バーリンゲーム艦長へ
魚雷発射隊より 1942年」

クリード・C・バーリンゲーム艦長は、
ブッダを「シルバーサイズ」の司令塔内に配置して、
敵の攻撃から潜水艦が守られるように、
そして爆雷に当たらないためのお守りにしていました。」



この映画をブログに取り上げたのもまさしくつい最近だったので、
この「魚雷発射管のブッダのお腹をこする」というシーンが
実際の「シルバーサイズ」の逸話から来ていたという、
この恐るべき偶然に、わたしがいかに驚かされたことか。


このことはすごい偶然のようですが、もしかしたら
特にアメリカの潜水艦業界では、マイク・ハービンの話は有名で、
彼についていろんな媒体で取り上げられたため、
当時のアメリカ人なら誰でも知っているレベルだった可能性もあります。

「シルバーサイズ」のマイク・ハービンの戦死が1942年。

タイロン・パワーの潜水艦映画「潜航決死隊」がリリースされたのが
1943年ですから、映画企画段階で、マイク・ハービンの遺品である
魚雷発射室の「ラッキーブッダ」の話は、時期的にホットだったのでしょう。

特に戦争映画はそこそこ実際にあったことをモチーフに取り入れますから、
この布袋さんのお腹さすりも、ニュースなどで報じられた話題を
わかりやすく映画に登場させたのだと思われます。



■ 最初の哨戒

「シルバーサイズ」の棚にペイントされた旭日旗のマーク。

実際の記録と照合できるかと思ったのですが、これが全くできませんでした。
例えば、第一次哨戒の最初の撃沈として

●SUBMARINE 1400tons


とありますが、これが日本側の記録だとこうなります。

🇯🇵5月13日、シルバーサイズは北緯33度52分 東経137度09分の地点で
潜水艦を発見して魚雷を1本だけ発射したが、命中音は聞こえなかった。

沈没を確認できなくても沈没したことにしちゃうのか・・・。
さらに、戸棚の船名を書き出してみますが、

●TASAN MARU 5,400 tons

●ASOSAN  MARU 8,800 tons

●KOSHIN  MARU 9,600 tons

●TATEKAWA  MARU 10,000 tons

とにかく、戸棚に書かれている船名については、
どの艦も調べても調べても資料一つ引っかかりません。

まず、「阿蘇山丸」以外の戦没漁船並びに戦没商船は、
それに相当するものが戦没徴用船(戦没)名簿にはありませんでした。

三井物産の貨物船「阿蘇山丸」は、実在しました。
そして確かに戦没していますが、戦没地はパラオ付近であり、
しかも撃沈したのは潜水艦「ブルーギル」であることがはっきりしています。

というわけで、この「シルバーサイズがやっつけた日本の船」のペイントは、
哨戒中の乗員の闘志と団結を高める戦意高揚の役目としてはともかく、
全く歴史的資料にはなり得ないことが判明しました。


ところで、第一の哨戒での戦闘歴の一部は次のように記載されています。


■ 日本国旗を掲揚しながら攻撃を行った米潜水艦

5月17日

「シルバーサイズ」は敵の漁船団を発見して接近した。
その際、
潜望鏡に、竹ざおに立てられた日の丸の魚網が絡まりついた。

「シルバーサイズ」は潜望鏡に魚網を絡ませたまま接近を続け、
最初の船である4,000トンの貨物船に3本の魚雷を発射した。
魚雷は2発命中し、貨物船の船尾を切り裂いた。

「シルバーサイズ」は続けて2隻目の貨物船にも魚雷を命中させるが、
貨物船の命運は尽きず、沈没には至らなかった。

その時哨戒艇が接近してきたため、「シルバーサイズ」は付近を離脱する。

何気なく読んでしまいますが、はて、「日の丸の漁網」って何かしら。

このとき、「シルバーサイズ」の潜望鏡には日本国旗が絡みつき、
まるでマストに掲揚しているような状態になっていたというのですが。


なるほど、思い出したぞ。これか。
この状態に「シルバーサイズ」乗員(とアメリカ人)は大いにウケたのね。



このとき絡みついた旗は、相手が漁船であったことから、
海軍旗や国旗ではなく大漁旗だったと想像されるのですが、
まあ現物を見ても、アメリカ人には見分けることはできないかな。

この模型でも、国旗、海軍旗、信号旗と手当たり次第に掲げているけど、
いずれも大漁旗とは全く違うものです。

ともあれこの哨戒から、「シルバーサイズ」には一つのタイトルが増えました。

『日本の国旗を掲揚しながら攻撃を行った唯一のアメリカ潜水艦』

です。
しかしこれも日本側からの記述を見ると、ずいぶん意味が違ってくるのです。

5月17日午後、北緯33度28分 東経135度33分の潮岬沖で
中型輸送船と大型輸送船各1隻を発見する。


この時、「シルバーサイズ」は潜望鏡に竹竿をくくりつけ、

これに日の丸を翻させた上、網で漁船に成りすまして
漁船群ごしに船団を攻撃した。

あー、よくアメリカ映画で見る、卑怯な日本軍がやるような手ですね。
(嫌味)

英語だと偶然国旗が絡まったことになっているんですが、
それはいくらなんでもあまりに不自然で、何か隠してるんじゃないか?
と疑ったわたしのカンは当たっていました。

やっぱり艤装のつもりだったんじゃないか。

映画ではこういうことは日本軍の専売特許ですが、なんのことはない、
「シルバーサイズ」、結構なりふり構わずやっちゃってますよ。

まあ、戦争だからどんな手を使ってもいいですが、だったら、
ちゃんと自国民に向けて、潜水艦博物館でもそのことを明記すべきだな。


先ほども書いたように、「シルバーサイズ」はこの時、
魚雷を4,000トン級の貨物船に2本命中させてこれを撃沈したとしました。

そして戦後の調査でも、「ていむす丸」(川崎汽船、5,871トン)
「鳥取丸」(日本郵船、5,973トン)2隻の陸軍輸送船を撃破した、
と主張したのですが、これも案の定、日本側の記録では、
「ていむす丸」と「シンリュウ丸」が雷撃を受けたとあるものの、
被害の有無ははっきりせず、沈没の記録もありません。

日本側の記録です。

5月21日、
中型輸送船に対して魚雷を2本発射するも命中せず。

5月22日15時
特設運送船「朝日山丸」(三井船舶、4,550トン)に魚雷1本を命中
大破座礁させる。


ちなみに「朝日山丸」の記録によると、

 17.05.14:門司~
~05.22 1140 (N33.30-E135.27)紀伊水道で
米潜水艦Silversides(SS-236)の雷撃により
     船橋前部に2本被雷、前部切断

     
~05.22 1420 日置海岸に擱坐~
     

~05.22 1445 特設掃海艇「第十二良友丸」来着~
     

~05.24 ---- 沖合に引出し、機帆船4隻を傭入し荷揚開始
     

~05.27 1620 曳航され神戸着十七番浮標繋留
 

17.06.01:神戸~06.02玉野

つまり玉野で修理を受けて復活しております。
つまり撃沈ではなく撃破となります。


5月26日
潮岬沖で小型輸送船に対して魚雷を発射、命中せず

6月3日
北緯33度26分 東経135度33分の地点で
海軍徴傭船第二日新丸(大洋捕鯨、17,579トン)と
輸送船宮崎丸(日本製鐵、3,948トン)に魚雷を2本発射
実際には宮崎丸の船底を通過しただけ

6月21日
「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えて真珠湾に帰投


まとめてみると、第一回目の哨戒で、はっきりと
「シルバーサイズ」が沈没させたと明らかになっているのは、
なんと「第五恵比寿丸」だけだったということになります。

つまり当事者の主張、撃沈6隻に対し、実際は1隻です。


■ バーリンゲーム艦長による5回の哨戒



アメリカ海軍の人員配置もやはりそう長いものではなく、
一つの艦に勤務している時間はせいぜい1年半といったところのようです。

「火垂るの墓」の清太のお父さんのように、
清太が物心ついてから沈没するまでずっと「摩耶」艦長だった、
というようなことは、もちろん日本でもあり得ません。(説明っぽいな)


こちらも(そして現在も)艦の配置はそんなものだろうという気がします。

「シルバーサイズ」の初代艦長だったバーリンゲーム(最終少将)は、
その任期の1年と2ヶ月で、5回の哨戒を指揮しました。

この地図によると真珠湾を中心として、
第1回、第2回の哨戒は本土付近(九州近辺となっているが不正確)
第3回目は真珠湾からニューギニア経由でオーストラリアまで。
4回目はそのオーストラリアからニューギニア経由で真珠湾に帰還。
5回目は再びニューギニア経由でオーストラリアとなっています。

真珠湾攻撃の直後に辞令を受けたバーリンゲームは
1941年12月15日にカリフォルニア州メア・アイランドで
USS「シルバーサイズ」に転属し、指揮をとることになりました。

これは彼にとって6隻目の潜水艦であり、3番目の指揮艦となりました。

バーリンゲーム艦長は、メアアイランドで就役した「シルバーサイズ」で
カリフォルニア沿岸における短いシェイクダウンを行い、
「シルバーサイズ」を定係港となるハワイに向けて出港させ、
4月30日に真珠湾から最初の戦闘パトロールに出発を行いました。

バーリンゲームの指揮した合計5回の哨戒で「シルバーサイズ」は
最終的に8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈したとされ、この戦功に対して
バーリンゲームは2つの銀星と3つの海軍十字勲章を獲得しました。

また、この間、艦と乗組員は大統領表彰を受けています。

のちにバーリンゲームは太平洋の第182潜水艦師団の司令官となり、
レジオン・オブ・メリットを授与されています。



冒頭の写真は現地にあった比較写真。
こちらが海軍公式のバリっとしたバーリンゲーム艦長で、



こちらが現実のバーリンゲーム艦長。

哨戒終わり頃になると、潜水艦では、

 男世帯は気ままなものさ
髭も生〜え〜ま〜す〜
髭も生〜え〜ま〜す 無精〜ひげ〜♩」

なのは日本もアメリカも同じでございます。



続く。


潜水艦「シルバーサイズ」〜第五恵比寿丸との死闘、ハービン3等水兵の死

2022-08-18 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留されてその姿を残す
第二次世界大戦中の最初の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」。

前回は、その進水式についてお話しました。
その後彼女は第一の哨戒に乗り出しますが、そこで
「シルバーサイズ」の歴史上、最も悲惨な事件が起こるのです。




■ 第一の哨戒  1942年4月〜6月

メア・アイランド海軍造船所で完成し、就役した「シルバーサイズ」は
カリフォルニア沖でのシェイクダウン(慣熟航行)の後、
ハワイに向かい、1942年4月4日にパールハーバーに到着しました。

4月30日、真珠湾を出発した「シルバーサイズ」は、
最初の哨戒のために日本近海へ向かいました。

【特設監視艇 第五恵比寿丸との遭遇】

最初の哨区の紀伊水道に向かう途中の5月10日6時ごろ、
日本本土からおよそ600海里、南鳥島の北に位置する海上でのことです。


北緯33度00分 東経152度00分付近

「シルバーサイズ」は1隻の漁船を発見しました。
しかしこれは、ただの漁船ではなく、戦時徴用船でした。

徴用船は、戦時において軍部から徴用された民間の漁船などで、
海軍の徴用船は特設監視艇として、
北東太平洋に展開している米軍を監視する役目を担っていました。

「シルバーサイズ」が発見したのは、日本の東方洋上を哨戒していた
第二監視艇隊所属の特設監視艇第五恵比寿丸(昭和漁業、131トン)で、
哨戒線の最南端付近を西に向かって微速航行していました。

ほぼ同時に「第五恵比寿丸」も南西約2,000メートルの位置に
「シルバーサイズ」を発見し、6時5分、

「敵潜水艦ラシキモノ見ユ 一隻」

と打電していました。

ちなみに、海軍は徴用船に海域の監視を行わせ、
アメリカ軍艦を発見した場合は無線で連絡させていましたが、
その無線内容はほとんど米軍に解読されていたため、
日本軍および徴用船の被害は拡大する結果になったと言われています。




【第五恵比寿丸との戦闘】

6時20分、「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」との距離が
右舷側後方約700メートルまでのところに接近すると、
3インチ砲と機銃で攻撃を仕掛けました。

この「3インチ砲」と言うのは、

3-inch/50-caliber gun

のことで、この「Mk.21」が1935年〜1942年にかけて進水した
「ポーポイズ」級、「ガトー」級の標準甲板砲として指定されていました。

「シルバーサイズ」の甲板砲は、コニングタワー後方に搭載されています。

「ガトー級」潜水艦の甲板砲は当初これが標準だったのですが、
(してその心は潜水の際の抵抗を減らすため)第二次大戦が始まると、
指揮官の選択により、前方に移動させることもありました。



しかし、現在「シルバーサイズ」に残されているこの艦砲は、

4-inch/50-caliber gun

戦争に突入すると、戦闘により大型の砲を必要になったため、
1942年後半から搭載された4インチ/50口径砲です。

「シルバーサイズ」はこの戦闘の時にはまだ3インチ砲を積んでおり、
「第五恵比寿丸」と戦ったのも3インチ砲だったのですが、
その後、搭載場所は後方のまま、4インチに換装されたものと思われます。



そもそもこの甲板砲もレストアされたものであり、
どこまで史実に正確かは議論の分かれるところかもしれません。



一応レストアした会社が責任を持って名前を名乗っています。


そしてこれが機銃となります。
ボフォース40mmで、見たところこれも載っているデッキは
つい最近改装されたようにピカピカの状態です。
ちなみにここには見学者の立ち入りは禁じられていました。


【マイク・ハービン水兵の死】

さて、「シルバーサイズ」と「第五恵比寿丸」の戦闘に戻りましょう。

「シルバーサイズ」はただの漁船と思ったかもしれませんが、
戦時徴用船で偵察の役割を担っていた「第五恵比寿丸」は武装しており、
搭載の7.7ミリ機銃と三八式歩兵銃で応戦してきたのです。

最新式の潜水艦であった「シルバーサイズ」は優速であることを生かし、
転舵して「第五恵比寿丸」の射撃圏外に逃れてから、
6時27分、3インチ砲弾で相手の無線機を破壊しました。

「第五恵比寿丸」の通信は最初に敵発見の報告をしてから
この破壊によって通信はそれきり途絶えてしまっています。

その3分後には艦橋に弾が命中し、「第五恵比寿丸」幹部は戦死。

その後「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の左舷約300mに接近し
機銃掃射による攻撃を加え始めましたが、その時、
「第五恵比寿丸」は反撃を試み、3インチ砲砲座周辺が掃射され、
砲の装填を担当していた水兵マイク・ハービンが被弾しました。

ハービンはほぼ即死だったようです。


3等水兵 マイク・ハービン(Mike Harbin)


そして、これがマイク・ハービンが撮られた最後の写真となります。

マイクはちょうどデッキガンの後方から弾を押し込んでいる人物で、
説明によると「この直後死亡」ということなので、この写真は
まさに「第五恵比寿丸」との戦闘中、戦闘に参加していない乗員が
記録のために撮っていたものの可能性があります。

それではここで、「シルバーサイズ」乗員が語ったふうに綴られた
パネルの「第1哨戒」についての記述をどうぞ。

「最初のパトロールが始まって10日たったとき、
バーリンゲーム大尉(艦長)が最初の標的を発見しました。

小さなセイルスクーナーは魚雷を撃ち込むほどの価値はないとして、
艦長は乗員の銃手を集合させ、まず船首を横切るように
警告のショットを撃ち、相手に停止を求めるようにさせました。

ところがこの船は撃ちかえしてきたのです!

「シルバーサイズ」にとってこれが最初の哨戒でしたし、
全員が戦時下での任務は初めてのことだったので、
漁船がまさか反撃してくるとは夢にも思っておらず、
このことは乗員にかなりの衝撃を与えたと思われます。

この記述では「第五恵比寿丸」のことをスクーナーと呼んでいますが、
スクーナーの定義はマスト2本以上の「帆船」です。

「途端に銃担当の乗員たちは前後に走り、
弾丸を大きなデッキガンに大急ぎで押し込みました」


先ほどの写真はこの瞬間を捉えたものだったのでしょう。

「スクーナーの乗員は機関銃でわたしたちを攻撃してきました。
突然、オクラホマ出身の少年、マイク・ハービンが
甲板にどうと倒れ、そのまま動かなくなりました。

わたしたちは彼の身体が弾丸を受けないように庇いながら
彼に向かって起き上がるようにと叫びましたが、反応はありませんでした。

そして見張に向かって軍医に見せるようにと叫びましたが、
すでにそれは手遅れでした。
彼の受けた銃弾は、甲板に倒れる前にその命を奪っていたのです。」

不運なことに、マイク・ハービンへの一発は致命傷で、彼は即死でした。
おそらく自分が撃たれたことも気付かず死んだに違いありません。


【戦時徴用船 第五恵比寿丸】

「シルバーサイズ」の攻撃で「第五恵比寿丸」も操舵不能に陥りました。

戦死者、負傷者が続出していましたが、射撃を止めず、
7時20分には体当たりを企図して「シルバーサイズ」に突進してきました。

以前も当ブログで戦時徴用船の話を扱ったことがありますが、
彼らは、特に漁船の場合、最後の瞬間、必ずといっていいほど
相手を道連れにするために体当たりを試みています。

民間の漁師でありながら、軍に徴用された責任感が
彼らをしてそのような行動を当たり前のように取らせるのでしょう。

ちなみに「第五恵比寿丸」は焼津漁港所属の漁船でした。
焼津の漁業組合では、「宣戦の大詔に応え奉る」という言葉のもと、
自ら協力の願書を陸軍大臣 東条英機 宛に出された願書には

  「大東亜共栄圏建設の先駆たらん熱意を抱き、練成待機すること」

などとして徴用に積極的な姿勢で臨みました。

そしてその結果、焼津の大手船元、昭和漁業株式会社などは、
徴用船貸出し会社と化し、操業がままならない状況に陥りました。

漁港の80%の船が徴用されて帰らない状態だったのです。


「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の体当たりを避けるため、
速力を上げて、7時55分頃に南西方向に向けて戦場を離脱しました。

この戦いで「シルバーサイズ」は3インチ砲弾約50発、
機銃弾を約4,000発消費し、うち砲弾13発、機銃弾多数を命中させ、
これによって「第五恵比寿丸」を大破させたものの、
「シルバーサイズ」自身も艦橋構造物に多数被弾しました。

「第五恵比寿丸」については焼津漁港の記録によると次の通り。

徴用年月 1941年8月
トン数 131トン
所管 海軍
艦隊等 第五艦隊
部等 監視艇隊
確認年月 43/4
消息 沈没
戦況・消失場所など 戦闘
戦死者数 31名

31名は、焼津漁港から徴用された戦時徴用船の中でも
最も多い戦死者数となりました。



【薄暮の海への水葬】

マイク・ハービンは、第二次世界大戦でのアメリカ潜水艦隊最初の、
銃火を交えた行為における戦死者となりました。

「シルバーサイズ」はその日の夜、ハービンを水葬で弔って送りました。

「私たちは、燃えるスクーナーの船体から離脱した後、
その日の日没の海に彼を完全な名誉を持って水葬しました。

このことはわれわれにとって手痛い出だしとなりましたが、
しかし、何人かの男たちは、

『マイクはこれからも、俺たちのことを
無事に帰還できるように見守ってくれるに違いない』

と言い合いました。」



「1942年4月30日に真珠湾を出港した『シルバーサイズ』は
その後いくつもの彼女の成功した哨戒の最初の任務として、
紀伊水道海域にある日本の本土に向かいました。

5月10日、現地時間の0800すぎ、潜水艦は3インチ砲を用いて
日本の砲艦に大きな損害を与えました。

TM3マイク・ハービンは、第二次世界大戦中に
潜水艦の最上部デッキで死亡した唯一の兵士になりました。

ハービン水兵はその夜海に水葬されました。」

砲艦ではなく漁船なんですが、殉職・戦死した者にとっては
武装漁船よりこのように表現した方が良かれと思ってのことでしょう。



「ハービンの家族はマイクの制服と共にこの花瓶と大皿を
五大湖海軍記念館と、マイクを偲ぶよすがをもつ博物館に贈りました」

マイク・ハービンの写真の横にあるこの花瓶には、
当時の「シルバーサイズ」乗員の名前がサインされています。

錨のマークの上にある「クリード・C・バーリンゲーム」は
艦長の名前となります。



「マイク・ハービンの思い出に 1942年8月10日」

と記された大皿にも、乗員全員のサインがされています。
当時は陶器の上に描くような塗料はなかったので、
おそらくサインしたものに釉薬をかけて焼いたのだと思われます。



現在4インチ砲がある当時の3インチ砲の左後ろ部分、
この写真でマイク・ハービン水兵が立っているところには、
このようなプレートがあります。


 DEDICATES TO THE MEMORY OF

MIKE HARBIN  

TM3 USN

KILLED ON THIS SPOT MAY 10 1942

BY ENEMY MACHINE GUN FIRE

アメリカ海軍三等砲手 マイク・ハービンの思い出に捧ぐ

1942年5月10日 敵の機銃砲火によってこの場で死亡



結局、「シルバーサイズ」は第二次世界大戦を生きぬきましたから、
その全艦歴を通じ、彼は戦死したたった一人の乗員となったのです。



続く。



潜水艦「シルバーサイズ」進水!〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-16 | 軍艦

さて、真珠湾攻撃についていつまでも扱うのもどうかと思うので、
そろそろ潜水艦「シルバーサイズ」の話題に入ろうと思います。



シルバーサイズ潜水艦博物館の建物部分を見学していると、
二階のデッキからこんなふうに「シルバーサイズ」が見られます。

この角度は、以前もご紹介したライブカメラとほぼ同じ角度なので、
このデッキのどこかにカメラがあるのだと思われます。

この写真を撮った後、デッキに出るドアがロックされて
締め出されたのに気がつき、慌てていたら、
(後でドアを見たらオートロックなので気をつけるように書いてあった)
この写真に写っている「シルバーサイズ」の上にいる人が気が付いて、
2階まで駆け上がって、中から鍵を開けてくれました。

いやはや、お仕事中だったのに大変申し訳ない。
っていうか、これよっぽどしょっちゅうあることなんだろうな。



「シルバーサイズ」の見学は、艦尾にかけられたラッタルから行います。
入場料を払ってリストバンドをしていれば、自由に出入りできますが、
誰もリストバンドのチェックはしていませんでした。


2階デッキから目についたのが、この艦隊のペイント。



まず、これがおそらく乗員の誰かがデザインしたところの、
「シルバーサイズ」のマークであるわけですが、

艦名になった「ワカサギ」(天ぷらにすると美味しいんだ)は
これを見てもお分かりのとおり、「Silverside」であり、
複数形の「S」がなぜ艦名についているのかは謎です。

とにかく、このマークは潜水艦風味のワカサギくんが、
ヒレに魚雷を抱え、チロリアンハットに煙を吐いているところです。
フィンに立てられた旗に「??????」とありますがこれも謎。



そして艦体に誇らしげに描かれた日本艦艇撃沈撃破のマーク。
これによると、「シルバーサイズ」の対日本戦績は、

撃沈 海軍艦5隻 民間船25隻

撃破 海軍艦4隻 民間船10隻


ということになります。

当ブログでは後にこのこれを検証しつつ取り上げていきたいと思います。



それはそうと、その下のこれは、おそらく16基の機雷をなんかして、
落下傘を2回なんかしたというマークであろうと思われますが、
その「何か」が何かわからないので、これも話を後回しにします。


「シルバーサイズ」潜水艦博物館というだけあって、
館内の壁には大きな「シルバーサイズ」の絵が描かれていたり(冒頭)
このように模型が飾ってあったりします。


そんな模型の一つを見て、わたしは、はて?と思いました。
この「シルバーサイズ」のマストに張られたラインをよくご覧下さい。



なぜ・・・日本国旗と海軍旗が・・・?

おそらくこれは「シルバーサイズ」の艦歴を知れば
わかってくることなのに違いありません。

さて、というわけで、今日は「シルバーサイズ」が進水した日のことを
当時の写真と資料をもとにお話ししたいと思います。


■ Launch!(進水!)

「シルバーサイズ」は道を切り開きます。
潜水艦の艦首が水に入ると、ナパ川の汽水が漣を立て始めます。

進水台の左下隅にあるプラカードには、

「U.S.S. SILVERSIDES. A MARE ISLAND PRODUCT」

と書かれていました。




1941年8月26日;

「シルバーサイズ」は当時アメリカで最新型のボートであり、
西海岸で進水した最初の「ガトー」級潜水艦です。

のちに浸水する同型の姉妹艦であるUSS「トリガー」は、彼女の隣にいて、
熱心に彼女らを見守る造船所の労働者と招待された幸運な人々が
デッキに詰めかけて2隻の周りをぎっしりと取り囲んでいました。


この日、「シルバーサイズ」のスポンサーとなったE.H.ホーガン夫人は
銀のケースで覆われ、金色と青のリボンで飾られた
洗礼用のシャンパンボトルを携えていました。


" I CHRISTEN THEE SILVERSIDES!!"
(我、汝『シルバーサイズ』に洗礼を授ける!!)


スポンサーのホーガン夫人が手を離し、伝統的な儀式として、
シャンパンボトルが潜水艦の艦首に激突すると、
その瞬間、「シルバーサイズ」は誕生の洗礼を受けます。

ちなみにこのシャンパンは、メアアイランドからナパ川を遡ったところにある
ナパのクリスチャン・ブラザーズ・ワイナリーから寄贈されたものでした。



彼女はとても華奢に見えたので、ボトルをちゃんと割ることができず、
「シルバーサイズ」の進水を不吉なものにするのではないかと
実は何人かの人々は心配していたかも知れません。

映画「K-19」で、原子力潜水艦K-19の進水式でボトルが割れず、
それを見て乗員らが皆で不吉だと顔を曇らせるシーンがありました。

当時は特に世界に戦雲が迫る不穏な空気が覆っていたので、
特に潜水艦のような職種にとっては、ボトルがちゃんと割れ、
めでたく進水に成功するかどうかということは、
側が思う以上に気になることだったに違いありません。

K-19も、この時の不吉な進水式のせいで、のちの原子力事故が起こった、
あるいはこれがのちの事故を予言するものだった、と言われたそうです。


ホーガン、ボトル叩きつけの瞬間(飛沫が見える)

しかし、ホーガン夫人は小さなその見かけにもかかわらず、
最初の一撃で見事にボトルを粉砕し、その場にいた少将含む全員に
シャンパンの飛沫を浴びせることに成功しました。

同時にチョック(the chocks、進水の際船体を止めている楔)は外れ、
「シルバーサイズ」はそのまま川に艦尾から滑り込んで、
まるでクリームのようになめらかに水に浮かびました。

もちろんこの時彼女はまだ未完成であり、そのまま
別のドックに曳航されて建造を完了させることになっています。

新しく潜水艦を建造するには建設バースが必要です。

その頃まだ我々は戦争に突入していませんでしたが、
そのころの世界は全てがそこに向かっているように見え、
我々もまた最悪の事態に備えることを余儀なくされていました。

ここからは、「シルバーサイズ」の写真と、それに付けられた
このようなキャプションを紹介しながら進めていきます。

これらの文字は、いかにも手書きのような字体で、
大変親しみやすく、まるで誰かの日記を読んでいるような文体です。

この文章の「我々」は、「シルバーサイズ」の乗員であり、
語っているのはその一人という設定です。



「シルバーサイズ」の進水式当日の準備風景です。

手前に立っている二人の警衛の水兵は、進水式に出席する
著名なゲストのチケットを受け取るために配置されています。

造船所の労働者が、「その瞬間(ビッグ・モーメント)」のために
発射台の周りにある木製のクリブを取り外す作業をしているので、
おそらく後にお見せするプログラムでいうところの、
3から7の工程にかかっているということでしょう。

時刻で言うと13時40分から1時間以内に撮られていることになります。


写真では「シルバーサイズ」は進水路いっぱいに場所を占めており、
右側の隣には姉妹艦の「トリガー」SS-237が見えます。

なお、「トリガー」の反対側にはUSS「ワフー」SS-238がおり、
これらの3隻の姉妹艦「シルバーサイズ」「トリガー」「ワフー」
同じ姉妹艦の中で最高の戦績を挙げた「優秀姉妹」となる運命でした。

しかし、「トリガー」は最終的に、1945年3月28日ごろ、
日本の最南端である九州の東方面で行方不明になったと推定されており、
「ワフー」もまた、1943年10月11日、北海道のすぐ北で
爆雷を浴びて沈没したことがわかっています。

こんにち、「トリガー」は、その戦績において
成功したボートの第11位を占め、また「ワフー」は
7回のパトロールで8位という成績を残しています。



進水式の時のプログラムのコピーもありました。
せっかくなので、プログラムの内容もちゃんと翻訳しておきます。

0700ー ケーソンの洪水弁を開く
水が上昇するにつれて、カバーボード、

ウェイの水没部分を取り外します

0800ーホルストカラーと船のフルドレス(飾り付け?)

0900ーケーソン取り外し


0948ースラックの水位を下げます


1、 1200ー進水クルー報告

ダイバーがケーソン、シート、グラウンド、
通路の下端の間の障害物の有無を調査

指示に従ってトリガーをテスト

2、1305ー発進とドッグショア・ジャッキのテスト、
結果を進水士官に報告

3、1320ーディスタンス・ピースを取り外します
船と本部に人員を配置

4、1340ーファーストラリー、赤いくさび−4取り除きます

5、1400ーセカンドラリー、白いくさびー4取り除きます

6、1420ー3回目ラリー、全てのくさびー指示によって

7、1440ー「親指クリート」「汚れストリップ」

「衝角レール」を取り除きます

全ての岸壁をクリア

赤いブロックを取り除きます

必要に応じて、全てのバルブ、船体の開口部、マンホールの蓋、
およびドアとハッチが閉じられ、安全であることを、
船から本部と進水担当官に報告します

全てのメインバラストタンクの空気圧が5ポンドであること

8、1510ーNo.1とNo.2のクリブ(ベビーベッドの意)を撤去
全てのクライブはクレーンでユニットとして撤去するために、
ドッグする(←?)必要があります


白いブロックを取り除きます

9、1525ークリブを撤去
ショップ72は終点から50ヤード離れたところで
5分間間隔で流動インジケーターを開始

タグボート主任のオフィスからチェッカーフラッグが振られ、
水路が空いている場合、進水が決行されます

最終検査と報告

ダピット中尉の指示に従って左舷通路を撤去

10、1558ーサイレンが3回鳴ると全員が建物の袖から離れます
トリガーを取り外します

スポンサーがプラットフォームでセレモニーを開始します
(牧師による祈祷ならびに国歌斉唱)

セレモニーが完了するとスポンサーのプラットフォームで
ブザー信号が一度鳴ります

11、1600ートリップドッグショア
トリガーロックピンが取り外されます

10秒待機 信号は2回目のブザー

12、1602ートリガーが外れ、ブザーが1回鳴ります

注記:各操作の開始は、時計の信号によって行われ、
それ以外の開始の信号は鳴ることはありません

進水式の装置についての専門用語はちゃんとした日本語もあるのですが、
ここでは大体のところがわかればいいと思い、そのまま書きました。
(はっきり言って手抜きですすみません)

進水に詳しい人ならなんのことか大体わかるというレベルです。

ただ、進水式が朝7時に準備が始まって、
実際の進水は午後4時になるということだけはわかりました。

そして、準備をしている間、おそらく賓客の紳士淑女は
海軍が設えた特別会場で豪華な正餐に舌鼓を打っていたことでしょう。

さて、この「シルバーサイズ」ですが、最初にもあった通り、
その進水が行われたのは、メア・アイランド海軍造船所です。



■メア・アイランド海軍造船所

メアアイランド海軍造船所は、カリフォルニア州ソラノ郡にあり、
1854年9月16日に開設されました。

この造船所は、第二次世界大戦中、西海岸における海軍の生産地で、
ガトー級潜水艦を建造する4つの工廠の一つでした。

(その他三つは
●ウィスコンシン州マニトウォック造船所、
●メイン州ポーツマス海軍工廠、
●コネチカット州グロトンのエレクトリックボート)

建造された77隻のガトー級潜水艦のうち
7隻がメア・アイランドで建造されています。
(SS-236~339、SS-281~284)。

造船所は戦争遂行のための重要な部分と考えられていたため、
そこで従事するものは徴兵されませんでした。

最終的にもメアアイランド海軍造船所は、
戦争遂行に不可欠であることが証明されました。

米海軍の潜水艦の撃沈した船舶は、海軍が沈めた敵船舶全体の
55%を占め、合計1,314隻、530万トンに達しました。

1993年、メアアイランド海軍造船所は、
「議会の基地再編と閉鎖プロセスの犠牲」になりました。

造船所は142年間の使用を経て1996年4月1日に正式に閉鎖されました。




ちなみにこの日「シルバーサイド」の進水を行ったゲストの皆様。
前列左がメアアイランドのあるバレーホ市の市長さんです。
3人の海軍軍人は海軍工廠の司令官や提督たちであろうかと思われます。

そして真ん中の帽子の婦人がこの日のスポンサー、
エリザベス・ハリントン・ホーガン夫人その人です。




スポンサーとなったホーガン夫人には、
メアアイランド海軍造船所から、銀でできたトレイが
記念品としてプレゼントされました。

トレイの真ん中には「シルバーサイズ」の艦影と文字が刻まれています。


続く。



沿岸警備隊「マクレーン」が撃沈した呂32〜USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館

2022-07-31 | 軍艦

ざっと駆け足で五大湖沿いの海軍施設巡りについて概要をお話ししました。
新しい住処での生活も落ち着いたので、さっそく詳しい解説に入ります。

事情があって、2番目に訪れたミシガン州マスキーゴンの
潜水艦「シルバーサイズ」に併設されていた博物館の展示から始めます。

■ 「シルバーサイズ」潜水艦博物館



USS「 シルバーサイズ」 サブマリンニュージアムは、
ミシガン州のマスキーゴンにあります。



マスキーゴンは赤い印の部分で、ミシガン湖の東岸となります。

博物館は2階建てのミュージアムビルと常設展示室、
そして岸壁にはガトー級潜水艦USS「シルバーサイズ」
その隣に禁酒法時代の沿岸警備隊のカッター、USCGC「マクレーン」
大きくこれらのの3つの施設から構成されています。



USS「シルバーサイズ」Silversides(SS-236)
は、第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦です。

「シルバーサイズ」はアメリカの当時の潜水艦の命名機基準に倣った魚名で、
別名「スメルト」(smelt)、「ホワイトベイト」(whitebait)ともいい、
これは日本語だと「ワカサギ」となります。

等級の名前になっている「ガトー」gatoはトラザメの意味です。
トラザメ基準だとワカサギは体が小さすぎることから、
潜水艦の等級は魚の大きさ別というわけではないことがわかりました。

潜水艦「シルバーサイズ」は4回の哨戒活動で12の戦功を挙げ、
大統領単位勲章を授与されています。

その戦歴において23隻、90,080トンを沈めたとされ、これは、
現存するアメリカの潜水艦の中で最も多い記録とされています。

USS「シルバーサイズ」は内部と外部を全て公開されており、
砲から食堂に至るまで、見学箇所は「慎重に復元した」とのことです。

また、団体で予約すれば、キャンプで一泊することも可能です。
艦長や士官の個室はもちろん、魚雷横のバンクで寝る体験ができるわけです。
(ということはトイレやシャワーも使えるようになってるんだろうか)

ちなみにHPでは(一体どういう効果を狙っているのかわかりませんが)
ライブカメラで四六時中潜水艦の映像が流れています。

「シルバーサイズ」ライブカメラ

5分ほど流しっぱなしにしていると自動的にストップします。

このページの下の方を見ていただくと、通過する船の現在状況がわかる
「チャンネル・シッピング・マップ」も見られます。



わたしがこれを見て初めて気がついたのは、マスキーゴンというところが、
「ミシガン湖沿岸の(さらに)内陸のマスキーゴン湖」沿いにあり、



この博物館はその二つを繋ぐ運河沿いにあったということでした。

うーん、アメリカってやっぱり広い。

■潜水艦「ドラム」艦橋


それでは博物館の前庭部分の展示から順にご紹介していきましょう。
USS「ドラム」の艦橋部分だけが展示されています。

USSドラムDrum (SS-228) 

はアメリカ海軍のガトー級12番艦ですが、最初に完成し、
第二次世界大戦で最初に戦闘に参加したため、
「ガトー級の実質1番艦」であり、現存する同級の中では最も古い艦です。

ただ、ちょっと不思議なことに、「ドラム」の本体は
1969年から戦艦アラバマ記念公園に展示されているはずなのです。

現地は2005年のハリケーン・カトリーナで被害を受けたものの、
その後ベテランのコミュニティなどの寄附によって修復されたとか。

その艦橋だけここにある理由がなんなのか、それは分かりませんでした。



沿岸警備隊カッター、USCGC「マクレーン」



冒頭写真は、沿岸警備隊のカッター「マクレーン」です。

実はこの内部も公開されていたのですが、我々は
潜水艦と博物館を隈なく見た後、気力が尽きてしまっていて、
「マクレーン」に乗艦することなく次の場所に移動してしまいました。



現地にある説明を後から読んで、わたしは、しまった、見ておけばよかった、
と後悔したのですが、もちろんそれは先に立たず。

残念ですがこれはもう仕方がありません。

それではその現地の看板の説明です。

US Coast Guard Cutter
McLane W-146

アメリカ合衆国沿岸警備隊のカッター、「マクレーン」へようこそ!

この船は1927年4月8日ニュージャージー州カムデンで就役しました。
「マクレーン」は当初、禁酒令を施行するために建造されましたが、
第二次世界大戦が始まると、アラスカ沖チャタム海峡の警備に就きました。

現役当時の「マクレーン」

1942年7月9日、海軍の哨戒艇を伴って航行しているとき、
「マクレーンは」日本海軍の潜水艦呂32を撃沈しています。

ここを読んで、わたしは乗船をパスしたのを後悔したわけですが、
調べてみると、現地の看板に書いてある情報は、正確ではなさそうです。

この撃沈時の状況が、別のサイトで詳しく述べられています。



1942年6月7日、アラスカとブリティッシュ・コロンビア間で哨戒中、
日本海軍の潜水艦が目撃されたとの報告を受けた「マクレーン」は、
その海域での継続的な捜索を開始しました。

1ヶ月後の7月8日、「マクレーン」はカナダ空軍の哨戒機が、
潜水艦を爆撃し損傷させたという報告を受けます。

そこで、海軍哨戒艦USS YP-251、カナダ海軍掃海艦HMCS「Quatsino」
とともに本格的な潜水艦の探索を開始しました。
「マクレーン」の報告が詳しく残されているので箇条書きにしていきます。

0800 潜水艦の音信を得たが、その後失う

水深91mにセットした深度爆薬は不発

「潜水艦がジグザグに走り、回避しようとした」

1540 音信を探知

1553 46mと76mにセットした2つの深爆を投下

1556 61mと91mにセットした2つの深爆を追加

「泡が表面に上がってきた」と報告

1735 潜水艦が発射したらしい魚雷が「マクレーン」の前方を通過

YP-251、潜望鏡を視認 その地点に深爆を投下

「マクレーン」続けて2つの深爆を投下

両艦は油膜が浮上したことを確認

1935 YP-251は潜望鏡を視認、深爆を投下

「マクレーン」は2つの爆雷を投下

油と泡とロックウール(潜水艦の消音に使用)らしきものが浮上したと報告

7月10日早朝まで早朝まで潜水艦の痕跡がないか捜索を続けたが、
何も発見できなかった

潜水艦を撃沈したという確たる証拠は得られなかったと、
こういうわけですね。

にも関わらず「マクレーン」、YP-251、哨戒機の指揮官たちは
潜水艦を撃沈した功績でレジオン・オブ・メリットを受賞し、
陸海軍合同評価委員会は、潜水艦を日本の潜水艦呂32と特定したのでした。

ところが、です。

日本側の記録によると、呂号32はその時期そこにはいませんでした。

♩そこに〜わたしは〜いません〜沈んでなんか〜いません〜〜♪

いられるわけがありません。
なぜなら呂32は1942年の4月1日付で(この日付がいかにも日本ですね)
退役しているのです。

彼らが呂号潜水艦らしき敵と格闘したのは、
本物の呂32が退役してから3ヶ月も後のことになります。

まあ、敵の軍艦について何も分からないのは戦時中のあるあるですが、
1967年になって、戦闘記録と呂号の情報「を照合したアメリカ海軍は、
「マクレーン」が撃沈したのは、呂32ではなかったことを知りました。


というわけで、1942年7月9日に沈没したとされる潜水艦の身元は
いまだに未確定のままになっています。

これって、日本の潜水艦だったかどうかもわかっていないってことですね。
まさかとは思うけど実は敵ではなかったとか・・いや何でもない。



現地の解説の続きです。

さらに、「マクレーン」は、1943年、アラスカへの航行中に、
墜落したロッキードエレクトラ10B航空機の乗員二人を救助しました。



「マクレーン」は1960年代にはカリフォルニア州アラメダ、
そしてテキサス州ブラウンズビルでも勤務を行なっています。

1970年代にはシカゴ地域に移動して、沿岸警備隊カデット隊の
若い隊員のトレーニングプログラムに使用されていましたが、
それを最後に、1993年、シルバーサイズ潜水艦博物館に買収されました。



というわけで、これが現地にあった看板の説明となりますが、
「マクレーン」が撃沈したのが呂32でないことが明らかになって、
もう半世紀は有に経過しているのだから、
いくら何でもこの情報は書き換えておくべきだと思うんだな。

というか、「マクレーン」が撃沈したと思ったのが呂32でなかったどころか、
実は逃げられていたっていう可能性はないですか?

油膜だって防音材だって、映画でよくあるあの話みたいに、
「潜水艦死んだフリ作戦」で放出してたかもしれないじゃないの。

それに、潜水艦が沈没した痕跡は結局何も見つからなかったんでしょう?


なんて疑うのは、ここアメリカではベテラン様に対して失礼!
ってことになってしまうのでタブーなんでしょうか。



■ 触雷沈没した潜水艦「フライアー」


さて、その次は本当に沈んだ潜水艦についてです。

博物館に入館すると窓口がこの展示の右側にあり、
入館料は大人は17ドル50、支払うと手首にバンドを巻いてくれます。
ここでも売り場の人に、「あなたはミリタリー関係者か」と聞かれました。

現役の軍人なら入場料が無料になるからですが、
どこにも「アメリカ軍」という規定が書かれていないので、
もし自衛官だったら、タダで見学できるのだろうと思います。

自衛官の方、こんな機会があればぜひお試しください。
おそらくベテランでも何らかの割引があると思います。



入り口にあったこの稲妻と潜水艦の艦首の描かれたバナー。
大変ドラマチックですが、何が書かれているかというと。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。

ここで終わりです。
「フライアー」がこの後どうなったのか、
輸送船団を沈めることができたのかについては書かれていません。

これだけ見た人にはこの後の「フライアー」の運命はわかりませんが、
実は「フライアー」は、2回目の哨戒でバラバク海峡を浮上して航行中、
つまりこの後、

日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しているのです。


在りし日の「フライアー」

艦橋で見張りを行っていたジョン・クローリー艦長を含む数名は、
触雷の衝撃で艦体から海中に放り出されました。
また、別の資料によるとこのように書かれています。

「艦長はブリッジの後部に投げ出されたが、しばらくして正気を取り戻した。
油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。

燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。」


USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名
後列真ん中がおそらくクローリー艦長

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。


「この間、ケイシー中尉は油で目が見えなくなり、目が見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼のもとを去らざるを得なくなった。
クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」


その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。

「フライアー」が触雷したのは、日本の伊123
1941年12月7日、つまり開戦の日に敷設したものでした。

その後、アメリカ海軍内で、これに触雷した責任問題をめぐって
諮問委員会で送り込まれた上層部の間に対立が引き起こされ、
ちょっとした内輪揉めの騒動になったという後日譚が残されています。
(でも割としょうもない話なので割愛します)


海底の「フライアー」

2009年2月1日、「フライアー」は北緯7度58分43.21秒、
東経117度15分23.79秒の地点に眠っていることが確認されました。

この調査はフライアーの生存者が残した情報に基づいて行われ、
Naval History and Heritage Command の調査の結果、
この潜水艦の身元が特定されるに至ったものです。

水中で撮影された映像によれば、艦体の位置は海深100m地点。
砲架とレーダーアンテナからガトー級であることが確認されました。



その隣にあるのが、USS「レッドフィン」の時鐘です。

潜水艦「レッドフィン」は第二次世界大戦中、第4回目の哨戒で、
特別任務として「フライアー」の生存者の収容を命じられました。

「レッドフィン」による生存者救出作戦は慎重に行われました。

敵の目に止まらないように、まず無線でクローリー少佐らと連絡を取り、
予定日に会合予定地点で浮上して、そこに停泊していた
200トン級海上トラックを砲撃で撃破してから人員収容を行っています。

その後「レッドフィン」は現地のフィリピン人ゲリラに対し、
「フライアー」生存者を保護してくれたお礼として、食物、潤滑油、
医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えたということです。

その後オーストラリアのダーウィンに到着して
「フライアー」乗員を上陸させたあと、本来の任務の哨戒を再開しました。



続く。





「ビッグE」 =空母「エンタープライズ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-09 | 軍艦

空母のハンガーデッキを再現したスミソニアン博物館の展示には、
空母の戦争の歴史、つまり第二次世界大戦の日米海戦史について
スミソニアンの視点で紹介したコーナーがあり、それを紹介してきたわけですが、
真珠湾攻撃に始まって日本艦隊が空母を失うことになったレイテ沖海戦まできました。

こうなると、あとは真珠湾の時とは逆転してしまった日米の戦力バランスの上に、
アメリカ軍がふんだんに空母を投入し日本に飛び石作戦で根拠地を近づけてくる番です。

その「日本への道」という展示の前に、こんなコーナーがありました。

■  空母「エンタープライズ」

「第二次世界大戦でもっとも殊勲賞を獲得した艦」

として、「エンタープライズ」が特にクローズアップされています。

エンタープライズは1934年7月16日ニューポート・ニューズ造船所で起工され、
1936年、海軍長官スワンソン夫人によって命名、進水、1938年就役しました。

起工にあたっては日本側に建造する旨通告が行われています。

 
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板。

■ 真珠湾攻撃

「第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の歴史において最も象徴的な艦といえる」

ジェームズ・V・フォレスタル海軍長官 1945年

フォレスタルというと、わたしはすぐにあの大火災を起こした空母を思い出しますが、
民主党の政治家であったフォレスタルが海軍出身であったことから、
1949年の神経衰弱による自殺後、その名前がUSS Forrestal, CVA-59につけられました。

まず説明を翻訳しておきます。

「エンタープライズ」に最初の戦闘命令が下されたのは、
1941年12月7日の真珠湾攻撃の10日前のことでした。

そしてその4年後となる1945年の10月27日の海軍記念日、
彼女はニューヨーク港で何百万人もの人々にカーテンコールをしました。

その12年間の艦暦において、「エンタープライズ」は太平洋における
たった一つを除く全ての「空母の戦争」を戦い、その結果
20にものぼるバトルスターを獲得し、彼女のパイロットたちは
12異なる敵空母部隊と戦闘を行い、そしてそのうち2隻を撃沈し、1隻を撃破しました。

そして彼女自身も敵の行動によって酷い被害を何度も受けましたが、
しかしそのたびにいつも次の戦いのために戻ってきました。

「エンタープライズ」の記録には、第二次世界大戦中の
他のいかなるアメリカ海軍の艦船にも匹敵するものではありません。

そして写真の横には歴代艦長の氏名と、航空部隊指揮官の名前が記されています。
その中には、ミッドウェイ海戦の時の指揮官

C.ウェイド・マクラスキー少佐

1943〜44年には

エドワード『ブッチ』オヘア少佐

の名前を認めることができます。

ここには「エンタープライズ」が真珠湾からの出航の際に受けた
バトル・オーダー・ナンバーワンの文書原本が展示されています。
ハルゼー中将の名前で発令されたこの命令は8項からなっており、

1、エンタープライズは現在戦争状態に入っている

2、昼夜問わず、いつでも即座に行動できるよう準備しておく必要あり

3、敵対的行動をする潜水艦に遭遇する可能性あり

4、哨戒している間、全ての士官と下士官兵は特別警戒すること
全ての配置によってその重要性は完全に認識されなければならない

5、だれか一人が割り当ての任務を迅速に遂行できなければ、
特にそれが見張り、あるいは動力を操作するものであったら、
それは人命を大量に失い、最悪の場合船を失うことにつながる

6、艦長は総員が非常時の発生の際同等の責任を負うことをを掌握する

7、我々海軍の伝統の一つは、試練の場に置かれた時、総員が冷静に戦うことである

8、安定した精神と強靭な心が今こそ必要である

とあります。
注意していただきたいのは、この発令がハルゼーからなされた日付が
1941年11月28日、真珠湾攻撃の10日前であったことです。 

真珠湾攻撃が全くの奇襲で、アメリカがこのことを夢にも知らなかった、なんてことは
やっぱり米側の事後プロパガンダに過ぎなかったんじゃないか、と思わされますね。

(今ふと、9/11の前日にコンドリーザ・ライスから
『明日の飛行機には乗るな』と忠告されて
出張の移動をとりやめた
サンフランシスコ市長の話を思い出してしまいましたが、
ただ思い出しただけですすみません)

 

さて、この只如ならぬ訓示を受けて「エンタープライズ」では即応体制が取られたのですが、
証言によると、さすがに乗組員の意識は平時とあまり変わらなかったということです。


12月2日に「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊の飛行隊を輸送し終わり、
12月6日夜に真珠湾に戻る予定でしたが、天候不良のため7日の昼に延び、
そのために真珠湾での攻撃を免れることになりました。

もし彼女の帰港がスケジュール通りであったとしたら、定係された埠頭は
攻撃されて損害を受けていたことでしょう。

「エンタープライズ」の定係埠頭には、なぜか標的艦「ユタ」が代わりにいて、
これを撃沈した日本軍は「エンタープライズ型航空母艦」だったと発表しました。

■ 航空部隊司令官マックス・レスリー

マックス・レスリーはミッドウェイ海戦のとき「ヨークタウン」の航空攻撃指揮官で、
「エンタープライズ」航空隊とともに日本の空母撃沈に功績のあった人です。

その後「エンタープライズ」航空隊の司令官に就任しました。

LCDR Max Leslie USN April 1942.jpgレスリー

この感状は、「エンタープライズ」の航空指揮官として、
ソロモン海戦、サンタクルーズ諸島沖海戦を戦ったことに対し
その功績を称えたものとなります。

■ エンタープライズに突入した特攻機

その艦暦において、「エンタープライズ」は何度も損傷を受けています。
もっとも劇的でかつ深刻だったのは沖縄における特攻機の突入でしょう。

 

「エンタープライズ」が特攻を受ける瞬間は映像にも残されています。

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945

5月14日、「エンタープライズ」に鹿屋基地から飛び立った零戦が特攻を行いました。
隠れていた雲から突撃してきた富安俊助中尉機は集中砲火を巧みに回避し、
背面飛行に転じた態勢から、前部エレベーターの後部に突入を成功させました。

これに対し「エンタープライズ」はダメコンを行いながらも対空戦闘を継続、
旗艦として任務部隊の配置を守り続けてその練度を称賛されました。

特攻機パイロットの富安中尉の遺体は損壊したエレベーターホールの下で発見されました。
遺体はアメリカ兵と同じように丁重に水葬され、「エンタープライズ」乗員が
取得していた遺品は、つい最近身元が判明して家族のもとに戻ったということです。

 

■ プラン・オブ・ザ・デイ 1942年8月24日

「プラン・オブ・ザ・デイ」Plan of the dayというのは、軍艦の日報のことで、
これは乗員にも情報として回されます。

ここにある「エンタープライズ」発行のPODが興味深いのは
1942年8月24日が東ソロモンでの戦いの日だったことです。

このとき、「エンタープライズ」は三発の直撃爆弾を受け乗員を79名失っています。

左側には時系列で起きた出来事が記してあり、その後に

「2発の爆弾がD-203-1LMとD-3031L、そしてもう1発D-303-Lに落ち、
およそ450のバンクとどこそことどこそこが破壊された」

などと書いてあります。
日報なので、「1600 ハッチ1の早い深夜食」「1615士官早い夕食」
などという事項も淡々と記してあるのがリアルです。

日報の日付が29日となっているのは、当日は記載どころではなく、
5日後に初めてこういった事務仕事に戻れたことを表しています。

ダメージ報告は以下の通り。

1942年8月24日、「エンタープライズ」と「サラトガ 」 が日本軍戦闘艦と接触。
アメリカの空母艦載機は、敵から攻撃を受けながら同時に攻撃を行い、

空母、駆逐艦、輸送船が沈没せしめ、90機の敵機が破壊す。
小型空母と軽巡洋艦が損傷し、日本軍は退却。

被害を受けた米軍艦船が「エンタープライズ」のみ。

8月24日午後5時12分頃「エンタープライズ」が30機の日本の急降下爆撃機から
5分間の激しい攻撃を受け、その間に3回の直接爆撃と4回のニアミスを受ける。

最初の爆弾は攻撃開始から約2分後に着弾、飛行甲板の3番エレベーターを貫通し、
2番目と3番目の甲板の間の42フィート下で爆発した。
30分後、2番目の爆弾が同じエレベーターの近くのフレーム179で飛行甲板に衝突し、
8フィート下で爆発。
その1分後、3番目の爆弾が2番エレベーター近くのフライトデッキで爆発した。

5時17分、艦体から約12フィート離れた水中で爆弾が爆発し、
艦体と飛行甲板を含むいくつかの甲板が恒久的に変形した。

興味深いのは、ここに記されているのは「艦体の被害状況」だけで、
人的被害は多数が死傷したにもかかわらずどこにも言及されていないことです。

コーナーの片隅には「エンタープライズ」の活動に関するフィルムや写真が
放映されているモニターがあります。

「ビッグE」のあまりに長きにわたる活躍は、そのまま第二次大戦の海軍の歴史であり、
海戦史であると言っても過言ではない、というようなことが書いてあります。

そして「エンタープライズ」の歴史を語るには欠かせない艦載機コーナー。
グラマン TBFー1Cアベンジャー雷撃機の模型とその編隊飛行写真です。

アベンジャーは1942年6月4日のミッドウェイ海戦で初めて戦闘に参加しました。
6機のアベンジャーのうち5機が、日本の艦隊に挑み破壊されました。
この残念なデビューにもかかわらず、アベンジャーは第二次世界大戦の残りの期間、
アメリカ海軍の標準的な雷撃機として活躍しました。

いくつかの特別の目的のためのバージョンが建造され、1954年まで
幅広い役割と任務で非常に有効に機能したと言ってもいいでしょう。

アベンジャーズはゼネラルモーターズ社の東部航空機部門によって
TBMと指定されて製造されました。
生産数は7500機を超え、後年その多くはイギリスの艦載機として使用されました。

この3人はアベンジャーのパイロット、ウィリアム・I・マーティン少佐
通信手のジェリー・ウィリアムズ(左)砲手のウェスリー・ハーグローブです。

マーティンは、第二次世界大戦中、USS「ホーネット」USS「エンタープライズ」
パイロットとしてから爆撃機と戦闘機の戦隊を指揮しました。

最終的には大西洋艦隊の最高司令官および大西洋司令部の参謀長となり
提督として引退後は、グラマン社のコンサルタントを務めています。

二人の若いアベンジャー乗員は、この写真を撮ってほどなく戦死しました。

 

 

続く。

 

 

 

 


We Stick Together ! 駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー・エリー郡海軍軍事公園

2021-01-10 | 軍艦

エリー湖の河畔にとつ現れたネイバルパーク、
バッファロー・エリー郡海軍軍事博物館。
そこには三隻の米海軍艦船が係留展示されています。

前回、そのうちの一隻、駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の紹介を始めたところ、
命名の理由となったサリバン5兄弟の戦死と、そのことから生まれた
「最後の生存者保護」の法律について説明していたら一項を費やしてしまいました。

というわけで、今日はこの駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」についての続きと参ります。

「ザ・サリヴァンズ」の煙突は二本、その前方には
艦のシンボルでもあるクローバーが描かれています。

Emblem of USS The Sullivans (DD-537).png

正式なエンブレムはクローバーの中に艦影が浮かんでいるというもの。
ボストンのバトルシップコーブに展示されているJFKの兄の名前を冠した駆逐艦、
「ジョセフ・P・ケネディJr.」にもクローバーが描かれており、
これは

「クローバーではなくシャムロックと呼ぶケネディ家の印」

とその見学報告の際にここで書いたことがあります。

そのとき、セントパトリックデーというアイルランド系移民の祭りが
緑色とシャムロックで埋め尽くされること、ケネディ家が
アイルランド移民の子孫であることからこのマークが選ばれた、
ということも書きましたが、当駆逐艦の命名元となった5人兄弟の
「サリヴァン」という家名は典型的なアイリッシュを表します。

サリヴァン家の本国でのもともとの名前は「オサリヴァン(O' Sullivan)」で、
彼らもまた他の一部の移民のようにアメリカに来てから名前を一部変更したのでしょう。

彼らがアイリッシュ系であることに敬意を払い、その名を冠した艦には
そのルーツを象徴するシャムロックがあしらわれたのだと思われます。

なお、エンブレムにある言葉、

We Stick Together!

は、「我々は堅く結ばれている」「俺たちの絆は強い」「ガッチリ行こうぜ」
「我々はいつも一緒」「俺たちズッ友だぜ」という感じでしょうか。
つまりサリヴァン兄弟の絆の強さを受け継ぎ、強いチームワークで戦うぞ、
という意味が込められたモットーなのです。

USS The Sullivans crest.png

ちなみに、このモットーは現在就役中であるミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」
DDG-68にもそっくりそのまま受け継がれています。

エンブレムは変更されていますが、中央にシャムロックがあしらわれているのに注意。

 

並んで係留されている「リトル・ロック」の構造物が映り込んでいるので、
「ザ・サリヴァンズ」の構造物は右端のレーダー塔となります。

艦橋の上部に備えられているのはボフォース40m単装機関砲と思われます。
現役時代には5基ありましたが、展示艦になってからは2基だけです。

舷側にはエリコンFF20ミリ機関砲が現役の姿のままに備えられています。

この2基は比較的近いところ、岸壁から見えるところにあります。
本来は7基装備されていたそうですが、展示艦にはこの2基だけで、
左舷側にあったものは取り外されているということです。

構造物の壁には歴史的ランドマークに指定されたことを表す
このようなプラーク(記念板)が設置されていました。

「ザ・サリヴァンズ」を歴史的遺跡に指定したのは、
「United States Department of the interior」
(インテリアデパートメントって何、と思ったら内務省だった)
の、国立公園管理局(NPC)であり、指定は1986年であると書かれています。

赤文字で「走るな」
これは博物艦では超当たり前ですが、もちろん現役時代にはなかった注意書きです。

そして、最近付け足された警告として、

「立ち入り禁止」船はビデオで監視されています

とあります。
博物館として公開されていた頃はラッタルが下されていたので、
深夜誰もいない時に忍び込もうと思えばできた、ということでもあります。

その上にある金属プレートにあるのは現役時代のものです。

REPLENISHMENT AT SEA GEAR

FITTING                    STATIC TEST LOAD

HIGHLINE PADEYE        50,000 LBS.

MESSENGER LINE PADEYE  15,000 LBS

TESTED  PHILA.NAV. SHIPYD

 DATE OF TEST  9 27 54

デッキに補給作業のために設置されたハイラインやメッセンジャーライン、
(鳥籠みたいなのに人を乗せて別の艦に送るあれ)などのギアを
追加するにあたって、54年9月27日にテストを行ったという
フィラデルフィア海軍工廠の「お墨付き札」のようです。

「ザ・サリヴァンズ」は前回も書いたようにパトナム(Putnam, DD-537)として
サンフランシスコのベスレヘム造船で建造されているのですが、
この時は大西洋に向かう前でニューポートを母港としていたため、
フィラデルフィアで装備を増設したということかもしれません。

防衛徽章については当方全くこれを解読することはできないのですが、
右下に見えている韓国の国旗のようなものは、
「ザ・サリヴァンズ」が朝鮮戦争に参加した印であるのがわかります。

白地の「E」は「バトルE」受賞の印で、斜め線が6本書き込まれているのは、
毎年のようにこれを獲得していたという証拠になります。

バトルEは武器、戦術、作戦遂行に対する最高評価賞です。
この駆逐艦の場合、その艦生命のほとんどを実戦に投じており、
全ての評価はその戦闘結果に対して与えられたということになります。

 

駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の名は、そもそも日本軍の攻撃によって亡くなった
サリヴァン家の5兄弟の記憶を後世に残すためにつけられたものなので、
その存在意義というか最大にして究極の目的が「彼らの復讐を果たす」ことにあるのは、
もう動かしようもない事実であるわけです。

その結果、ブリッジには大々的にこんなマークがあるわけだ。

 

アメリカは日本と戦争していたので、当然ながらその戦跡ではイヤでも
このようなものを目にせざるをえないわけで・・・もっとも、
最近は耐性がついてきましたが、昔は潜水艦の発射チューブに描かれた
日の丸を見ただけで心拍数が上がったものですよ。

そのころのわたし「ザ・サリヴァンズ」のこのずらずら並ぶ海軍旗を見たら、
胸がドキドキくらいですんだかどうか・・。

旭日旗には航空機と陸地攻撃をわけるためのイラストが添えられています。
それでは、「ザ・サリヴァンズ」の対日戦をこの戦績を踏まえてまとめておきましょう。

1944年

トラック島

シェイクダウンクルーズ(慣熟航行)ののち、「ザ・サリヴァンズ」は
他の駆逐艦とともに真珠湾に到着、そこからマーシャル諸島に向かいました。

クェゼリン環礁での攻撃に続き、第58機動部隊の一員として、
「エセックス」「イントレピッド」「キャボット」とともに
彼女はトラック島の日本軍基地に対する攻撃を行いました。
基地攻撃マーク2/1(全2機のうち1機め)

トラック島への攻撃は日本軍にとっての真珠湾であった、という人もいるように、
「ザ・サリヴァンズ」艦長はこのときの攻撃について、

「いかなる種類の敵の反撃にも遭遇しなかった。
最初の攻撃は彼らにとって完全な驚きであったことを示している」

と書き残しています。

ハワイでの艦隊修理後、再び彼女はトラック島空襲に参加しますが、
このとき低空飛行で接近してきた敵機に5インチ主砲と40mm連装機銃で迎撃し、
そのうち2機を対空砲火で撃墜、1機は炎上しながら海面に墜落しました。
航空機マーク3/8(全8機のうち3機)

 

4月下旬、トラックの日本軍基地での空爆の支援に参加。
このとき低空飛行による空爆を試みた日本機を、「ザ・サリヴァンズ」は
40mm連装中と全ての5インチ砲で迎撃し、その結果、3機を撃墜しました。
航空機マーク6/ 8

 
マリアナ諸島
 

1944年6月6日、サイパン、テニアン、グアム島攻撃の空母の護衛の際、
「ザ・サリヴァンズ」のレーダーが捉えた敵機を地上部隊が撃墜。

特筆しておきたいのは、このとき「ザ・サリヴァンズ」は
撃沈された日本の民間商船の乗組員の救助を行い、捕虜として彼らを
USS「インディアナポリス」(CA-35)に移送していることです。

このころ、対空戦闘によって「彗星」を撃墜しました。
航空機マーク7/8

フィリピン海戦、硫黄島、台湾

硫黄島では西岸目標を艦砲射撃、駐機していた一式陸攻などを破壊しました。
基地攻撃マーク2/2

このころ、「ザ・サリヴァンズ」は補給作業中に戦艦「マサチューセッツ」
(BB-59)=見学済み=と波に煽られて衝突事故を起こし、この修理中、
大嵐に見舞われまたしても流されて「ウールマン」DD-687と衝突。

修理後台湾と沖縄を空襲する空母の護衛任務で遭遇した航空戦で、
6時間、約50 – 60機の日本軍機の空襲に見舞われた「ザ・サリヴァンズ」は
日没後右舷から低空で接近してきた一式陸攻始め敵機5機の撃破に成功。

この空襲は夜間に及び、日本機はチャフを撒きながら照明弾を投下、
これに対し米艦隊が展開した煙幕の中、戦いは行われました。

この結果、重巡「キャンベラ」「ヒューストン」が雷撃で損傷しています。

損傷した両艦の護衛中、銀河1機を撃墜。
航空機マーク8/8

レイテ沖海戦

10月20日、日本側の空襲を受け、一式戦闘機1機撃墜
航空機マーク9/8??

11月25日、対空戦闘で1機撃墜。
航空機マーク10/8??

12月18日コブラ台風に襲われるも、煙突のシャムロックのおかげで被害なし。

1945年

硫黄島、沖縄、本土攻撃

東京、その他本土空襲の任務に参加。
硫黄島地上目標を攻撃。

海戦で損傷した「ハルゼー・パウエル」護衛中接近する銀河を撃墜。
航空機マーク11/8??

沖縄攻撃中同行の「バンカー・ヒル」に特攻機が突入し大炎上。
破壊の酷い区画から炎に追い立てられた166名の乗員を救出しました。

別の日、九州を空襲中、特攻機の攻撃を受け、1機を撃墜。
航空機マーク12/8??

これが第二次世界大戦最後の戦闘となったわけですが、
カウントしていくと、ここにある旭日旗の数を4機もオーバーしています。
旭日旗を12も描くのは大変だったので、省略したとか・・まさかね?

 

デッキを後方に歩いてくると、「リトル・ロック」と並んだ
「ザ・サリヴァンズ」の曲線を帯びたシェイプの艦尾を眺める位置にきます。

デッキは気候が良いとのんびり艦を愛でながら憩えることができ、
そんな観光客のために季節にはプランターに花が植えられます。

これは爆雷投下のためのラックです。
左側のカバーをかけてあるものはエリコン銃だと思うのですが・・。

後部甲板には5インチ単装砲が2基高低に配置されています。
現役時には5基装備していましたが、展示艦になってからは前後2基ずつ計4基です。

兵装はこの他ヘッジホッグ対戦迫撃砲があるはずですが、外からはわかりません。

朝鮮戦争の時「ザ・サリヴァンズ」は横須賀を根拠として
そこから海上封鎖や地上攻撃任務に出撃しています。
その戦闘中、彼女は雨霰と地上砲撃を受けましたが全く被害はありませんでした。

二つの戦争を通じて、味方艦との衝突はあっても、敵の攻撃を全く受けず、
生き残ったことを、乗員たちはマジで幸運のクローバーのおかげと思ったに違いありません。


最後に、命名のもとになったサリヴァン家関係の話をもう少ししておきます。

亡くなった5人兄弟のうち、五男のアルは20歳にもかかわらず結婚していて、
しかも息子がいました。

彼は長じて海軍に入隊し、祖母が進水を行ったUSS「ザ・サリヴァンズ」の乗員となっています。
そして二代目となる同名のミサイル駆逐艦の進水を執り行ったのは彼の娘、つまり
アルの孫にあたるケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。


また、なぜサリヴァン兄弟が全員海軍に入隊したのか、
その本当の理由が次のことからわかりました。

彼ら男兄弟には一人だけジェヌビエーブという姉妹がいたのですが、
彼女は長兄、次兄と同時期に海軍入隊してWAVEとして真珠湾基地に勤務しており、
職場恋愛で水兵ビル・ボールと付き合っていました。

そして真珠湾攻撃発生。
USS「アリゾナ」勤務であったビルは、このとき戦死します。

サリヴァン家の男たちが全員海軍に入隊したのは、愛する姉妹、
ジェヌビエーブと彼女の恋人の復讐のために日本と戦う決意をしたからでした。


彼らの名前をつけられた「ザ・サリヴァンズ」は兄弟の意思もまた受け継ぎ、
日本に対し十分と言えるほどの復讐を果たして、戦争を終えました。

そして、アメリカが新たな敵に立ち向かうことになったとき、
彼女が向かったのは、かつての敵国である日本だったのです。

彼女が横須賀を根拠地としていた時、基地にある国防省管轄の小学校には
サリヴァン兄弟に敬意を表してその名前が付けられることになりました。

「サリヴァンズ・エレメンタリー・スクール」
Sullivans elementary  school

は、今でも第七艦隊関係者の子弟が通う基地内の小学校として存在しています。

 

続く。


 


兄弟艦(きょうだいぶね)駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー&エリー郡海軍軍事博物館

2021-01-09 | 軍艦

エリー湖岸に偶然見つけた海軍&軍事公園の展示から、
今日は最後の係留展示となる駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」をご紹介します。

まず、「ザ・サリヴァンズ」の係留されている位置ですが、潜水艦「クローカー」の後方岸壁、
ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」の内側となります。

「リトル・ロック」の艦内見学のためには、「ザ・サリヴァンズ」から乗って
「クローカー」経由で降りてくるというコースとなっているようです。

「ザ・サリヴァンズ」、ただいま絶賛修復修理中。
中共ウィルスによる閉鎖の期間、多くの博物館や展示場は
再開に向けて内部を改装したり修復したりしているようです。

それではまず、当博物館の説明翻訳から参ります。

USS The Sullivans 

廃止されたU​​SS「ザ・サリヴァンズ」は、第二次世界大戦で使用された
米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスである「フレッチャー」級駆逐艦の好例です。

 

バッファロー海軍公園の「フレッチャー」級駆逐艦DD-537は、
第二次世界大戦で使用された米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスでした。

USS「サリヴァンズ」は、アイオワ州ウォータールーの5人の兄弟にちなんで名付けられました。
海軍で複数の人物にちなんで名付けられた唯一の軍艦です。

彼女は1943年に就役し、太平洋戦争で初戦デビューを行いました。
8機の日本軍の飛行機を撃墜し、硫黄島と沖縄を砲撃し、
アメリカのパイロットと乗組員を艦の燃焼や沈没から救いました。

彼女はまた、朝鮮戦争とキューバミサイル危機の間に行動をおこないました。

USS「サリバンズ」は1965年に廃止され、功績のあるパフォーマンスによって
合計11のバトルスターを獲得しました。

現在はバッファローウォーターフロントに係留されている歴史的建造物です。

艦内見学では、310人の乗員とともに彼女が

「ティンカン・セイラー」

としての役割を果たした様子がわかります。
彼女はまた、一緒に亡くなった5人のサリバンの息子たちへの追悼と記憶の場でもあります。

この記憶は、彼女のモットーである「We Stick Together!」に裏付けられました。

DD-537

長さ: 376.6フィート (114.76m)
ビーム: 39 .8フィート (12.09m)
ドラフト:  17.9フィート(5.41m)
排水量: 2,100ロングトン(2,080トン)

兵装: 5インチ/ 38口径砲 4門 3インチ/ 50口径砲1門 ツイン40mm機関砲2基
   ディプス・チャージ(爆雷)
人員: 310名

ところで、これを確認するためにウィキペディアを見たところ、
全長が153.9m、とあったので、どういうことだ!とびっくりして
最後まで読んだら、同名の軍艦でした。

ミサイル駆逐艦 USS「ザ・サリヴァンズ」DDG-68

 

 


● サリヴァン兄弟

軍艦二代にわたってその名前を残す「ザ・サリヴァンズ」とはどういう兄弟でしょうか。
なお、英語では家族、兄弟を表す時「ザ」をつけなくてはいけないので、
本艦を単に「サリヴァンズ」と称するのは間違いとなります。

ザ・サリヴァンズはアイオワのウォータールーに住む
アイルランド系の移民の夫婦に生まれた男ばかり5人の兄弟です。

左からジョージ、マット、アル、フランク、ジョー
 

なお、長男から順番に

長男 ジョージ・トーマス 27歳(1914年生)二等掌砲手

次男 フランシス・ヘンリー "フランク" 26歳(1916年生)操舵手

三男 ジョセフ・ユージーン "ジョー"  24歳(1918年生)二等水兵

四男 マディソン・アベル "マット" 23歳(1919年生)二等水兵

五男 アルバート・レオ "アル" 20歳(1922年生)二等水兵

この頃は多産の家は珍しいことではなかったのかもしれませんが、
7年間の間に子供を6人産み続けたカーチャンとか、そのうち5人が
男ばかりだったこととか、その5人が全員海軍に入ったこととか、
しかもその5人が5人とも同じフネに乗っていたために
そのフネがやられて全員戦死してしまったこととか、
 
・・・・・・・・とにかくどれ一つとっても実現の確率が低すぎて
突っ込みどころ満載という珍しいことばかりではあります。

 

 

● 「唯一の生存者政策」

だからこそ海軍も、彼らの死をレガシーとして扱い、
その名前が遺されることになったのでありましょう。
その死はその後のアメリカ海軍の運用にも影響を与えました。

たとえば戦争局は「ソール・サバイバー・ポリシー」(唯一の生存者政策)を定め、
このことは映画「プライベート・ライアン」の題材として取り上げられています。

この政策は、サリヴァン兄弟の死後、1948年に制定されましたが、それ以前にも
家族の唯一の生存者が現役から免除される例はあったそうです。

たとえば、1944年、立て続けに息子(双子含む)5人を戦死で失った
ボルグストローム兄弟の両親は、申し立てによって末の息子の徴兵を
正式に免除させることに成功したという事例です。

また、チャールズ、ジョセフ、ヘンリーの3人のビュートホーン兄弟の場合、
長兄のチャールズが1944年にフランスで戦死し、ジョセフが1945年に太平洋で戦死した後、
イタリアの陸軍空軍に勤務していたヘンリーは陸軍省から帰国を命じられています。

 

「プライベート・ライアン」の直接のモデルになったニーランド兄弟の場合は、
4人の兄弟のうち1人を除くすべてが戦死したとされていたところ、
米陸軍空軍の長兄であるエドワード・ニランド技術軍曹は、
後にビルマの捕虜収容所に収容されていたことが判明しています。

 

サリヴァン兄弟の件と同様、ボルグストロム兄弟、ビュートホーン兄弟の件は、
どちらも「唯一の生存者政策」の成立に直接寄与することになりました。

最近の例では、2004年、イラクで戦死したジャレッド・ハバードの兄弟である
ジェイソンとネイサンが陸軍に入隊後、ネイサンがヘリコプター事故で亡くなり、
これを受けて軍当局はジェイソンに帰還を命じたということがありました。

アフガニスタンでも、ワイズ兄弟のジェレミー、ベン、ボーのうち、
ネイビーシールズのジェレミーが自爆テロで死亡、つづいて
衛生兵だったベンが重傷を負い死亡したのち、ボーに帰国命令が出されました。

この法案の適用は、生き残った本人が要求し申請することができ、
その対象は下士官兵、士官のいずれを問いません。

ただし、本人が家族の死亡の通知を受けた後であっても自発的に
再入隊または自発的に現役を延長した場合はこの資格を放棄したとみなされます。

 

● サリヴァン兄弟の最後

さて、彼らの経歴を見てここからもわかるように、長男と次男は
兄弟に先駆けて海軍に入隊しており、三男から以降3人は
同時に(1942年1月3日)海軍入りして階級が同じです。

三男以降の3名が海軍に入った時期を考えるに、彼ら兄弟は
日本との開戦を知り、兄二人に続き国のために海軍で敵と戦うのだ、
と話し合ってそれを決めたのだと思われます。

そして、5名は全て同じ軍艦、

軽巡洋艦 USS 「ジュノー」

に乗り組むことを志望しました。

兄弟全員が一つの艦に乗ることの危険性を海軍はよくわかっていたはずですが、
サリヴァン兄弟の熱意に負けたのか、これも一つのアピールになると考えたのか、
最終的に海軍はこれを許し、5人のサリヴァンは「ジュノー」乗組となりました。

 

 

軽巡「ジュノー」は1942年8月からガダルカナルに展開していましたが、
1942年11月13日、伊号潜水艦26の魚雷攻撃による弾倉爆発が原因で沈没しました。

このとき、フランク(次男)ジョー(三男)マット(四男)の3名は爆発で即死しています。

ジョージとアルを含む「ジュノー」乗員のうち約100名は海に逃れていましたが、
軽巡洋艦USS 「ヘレナ」艦長と機動部隊指揮官は、生存者の望み薄い海域で
日本の潜水艦の攻撃にさらされることを躊躇い、捜索を行わなかったうえ、
沈没を知っていたB-17爆撃機の乗組員は、無線封止命令を受けていたため、
数時間後に着陸するまで、生存者確認の報告を提出できませんでした。

しかも!
この報告は他の保留中の事務処理と混じってしまい、数日間放置されていました。

数日後、本部はようやく生存者報告に気づき、捜索を命じましたが、
この間海上の「ジュノー」の生存者(多くが重傷を負っていた)は
空腹、喉の渇き、そして繰り返されるサメによる襲撃にさらされることになり、
沈没から8日後、カタリナ捜索機が救出できた生存者はわずか10名でした。

この生存者の報告によって、生き残っていたサリヴァン家の兄弟のうち、
海に逃れたアル(五男)は翌日溺死し、長男のジョージは4〜5日生きていた、
ということがわかっています。

彼らの語ったジョージの最後というのは、つぎのようなものでした。

「漂流中の高ナトリウム血症とおそらく兄弟を失った悲しみから
譫妄(せんもう)を起こし、『悲しみのあまり精神に異常をきたし』
自ら筏の柵を乗り越えていき、それっきり乗員は彼の姿を見ることはなかった」

戦争中なのでこれは仕方のないことだったかもしれませんが、
海軍は敵に情報を与えることになるため「ジュノー」の喪失を発表しませんでした。

しかし、息子たちから全く手紙が届かなくなったのを不審に思った両親が
人事局に何度も問い合わせをするようになります。

 

そしてある朝、五人の兄弟の父親であるトムが出勤準備をしていると、
軍服を着た3人の男性(副司令官、医師、および兵曹)が訪れ、
そのうち士官が父親にこう口を開きました。

「あなたの息子さんについてお知らせしなければならないことがあります」

「誰についてですか」(”Which who?")

士官はこう答えました。

「お気の毒ですが5名全員です」


長くなったので二日に分けます。

 


ガルベストン級ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」〜バッファロー&エリー郡海軍&軍事博物館

2021-01-07 | 軍艦

前回に引き続き、エリー湖のほとりにある海軍軍事博物館の
艦船展示を外からの写真で紹介していくことにします。

今日ご紹介するのは潜水艦「クローカー」の外側に係留展示されている
軽巡洋艦「リトル・ロック」です。

それではまず、バッファロー・エリー郡海軍&軍事公園のHPより、
「リトルロック」の紹介を書き出してみます。

USS「リトルロック」CL-92(CLG-4)は、第二次世界大戦時の
「クリーブランド」級軽巡洋艦から生き残った唯一のミサイル巡洋艦です。

CLG-4は、ここバッファロー海軍公園にある私たちの船の中で最大のものです。

1945年「クリーブランド」級巡洋艦として建造された彼女は、
第二次世界大戦中への投入には間に合いませんでした。

生後の冷戦期、「リトルロック」は第2艦隊と第6艦隊の旗艦を務めました。
その哨戒範囲は北極圏から南アメリカまでの大西洋、そして地中海に至ります。

彼女は激動の1960年代と1970年代の間に活躍しました。

「リトルロック」のハイライトの1つは、「アドミラルズクォーターズ」、
これは海軍大将がこの旗艦に座乗していたときの特別の構成でした。

そして海軍でも非常に珍しいブリッジを二つ備えた巡洋艦です!

彼女は現存する最後の「クリーブランド」級巡洋艦であり、また、
展示されている誘導ミサイル巡洋艦としては世界でただ一つの存在です。

そのため、他の「姉妹」艦(本当の姉妹艦でなくとも)勤務だったベテランたちが
かつての自分の乗っていた艦そっくりの彼女の艦上で、同期会や戦友会を行なったり、
記念碑などの建立行事などを行うという使われ方をしているのです。

CL-91、CLG-4、CG-4

長さ: 610フィート(188m)
ビーム: 66フィート(20m)
ドラフト: 25フィート(7.6m)

排気量: 10,670トン
兵装: MkIIタロスミサイルランチャー 2基
            6インチ砲; 3基
   5インチ/ 38口径砲 2基

乗員: 1,100名 士官150人 海兵隊員150人

真正面から見ると艦首部分にまるで「絆創膏」を貼っているような・・。

「リトル・ロック」第二次世界大戦が終わりかけの頃就役しました。
正確には、

1943年3月2日 起工 於ウィリアム・クランプ&サンズ造船会社(フィラデルフィア)

1944年8月27日 進水 サム・ワッセル夫人がシャンパンカット

1945年6月17日 就役 艦長 ウィリアムE.ミラー大尉


6月17日就役というのは、慣熟航行中に戦争が終わってしまって
結局実戦デビューはしないままになってしまった、というパターンです。

戦争継続中に投入するつもりで建造していたのが、結局間に合わなかった、
という軍艦は全部で27隻あったそうですが、彼女はその1隻でした。

しかし、聯合艦隊はその1年前にはほぼ壊滅状態だったことを思うと、
つくづく日本はとんでもない国を相手にしたものだと思いませんか><

 

そして戦後そのうち6隻がミサイル搭載艦に改造されるのですが、
「リトル・ロック」はそのうちの1隻となりました。

HP説明の「アドミラルズ・クォーター」(Admiral's Quater)というのは
たとえば士官寝室のことを”Officer's  Quater”ということを考えると、
提督の寝室があった、つまり「旗艦になった」と同義ではないかと思われます。

「リトル・ロック」が「提督の寝室」になったのは1950年代後半、改造されてからのことです。

誘導ミサイル巡洋艦に改造するためには、後部上部構造を再構築する必要がありました。
「クリーブランド」級のうち

「ガルベストン」「リトル・ロック」「オクラホマ・シティ」

の三姉妹が改造されて「ガルベストン」級ミサイル巡洋艦になったわけですが、
いずれも前方の武器を取り除いて、その結果上部構造物が大幅に拡大されたので、
提督の寝床を備える旗艦として機能するようになった、ということになります。

前方の武器が取り外されたということですが、艦橋前の主砲はもちろんあります。

Mk 12    5 "/ 38口径砲

は、デュアルつまり砲身二本の装備となっていて、これが艦には
6基装備されています。

遠くからで拡大してもよくわからないのですが、見学者のために
解説のための写真を貼っているのか、他のものが窓に映り込んでいるのか。
・・・・うーん。どちらだと思います?

その前方に配置されているのは、どうやらトリプル砲ですね。

Mk.16   6 "/ 47口径銃

は、「ブルックリン」級、「ファーゴ」級、そして「クリーブランド」級など、
第二次世界大戦中の軽巡洋艦に装備されていました。

ということは、改装された後も当時の武器がそのままであったということ?

前方の武器を取り去った、という記述はどういうことなんでしょうか。

現役時の「リトル・ロック」前甲板。

通信機器を写したこの写真ですが、これをみていただくと、

「海軍でも珍しいデュアルブリッジ」

がお分かりいただけると思います。
最近の軍艦だと、ロイヤルネイビーの空母「クィーン・エリザベス」が
操舵艦橋と航空管制艦橋を分けた結果艦橋を二つ持っていますが、
「クリーブランド」級の場合、ヒントは「ミサイル」にあると思われます

レーダーは、

前檣にあるのが対空捜索レーダー

中檣に三次元レーダー

後檣に高角測定レーダー

である、と書かれていますが、当方正直レーダーには全く無知なので、
もしかしたら三次元レーダーと高角測定レーダーは逆かもしれません。
わかる方がおられたらぜひご指導をお願いしたく存じます。

軍艦のブリッジにはその艦が就役中授与された勲章がペイントされますが、
「その年に与えられた賞」なので、有効期間は1年のみとなり、
翌年にステイタスが変われば描き変えられることになります。

ですから、引退し博物艦になっている軍艦のそれは、引退時のものか、
あるいは全盛期のものであることが予想されます。
(規定があるのかどうかは不明)

この「リトル・ロック」でいうと、まず真ん中の大きな白文字E
これは「バトルE」と称する軍艦にとっての最も大事な?賞で、

「武器・戦術・作戦遂行等最優秀賞」

の印となります。
さらに、緑文字のE、これは水上艦にとっての

です。
まあ、旗艦にもなったフネが賞なしってのは考えられませんが、
優秀だから旗艦になるのか、旗艦になったら賞をもらえるものなのか、
その辺は当事者でもないのでわかりません。

さらに赤文字のD/Eですが、これは

「ダメージコントロール優秀賞」

ということで、「リトル・ロック」、基本的に大事な点を押さえていた
なかなかの優秀艦だったということになります。

公開されていないのでこれ以上近づくことができないのですが、
岸壁を艦尾に向かって歩いてきました。

それにしても艦番号「4」(一桁)というのは何かとすごい数字だなと思ったり。

「二つ目の艦橋」がよくわかる角度です。

ここに、「ガルベストン」級ミサイル巡洋艦を特徴付けるところの

RIM-8 タロス( Talos) 長距離艦対空ミサイル

をばっちり見ることができます。
「タロス」というのはギリシア神話の「青銅の自動人形」という怪物の名前です。
米海軍は他にも「ターター」(タルタロス)「タイフォン」(テューポーン)
というギリシア神話系のなまえを長距離対空ミサイルにつけています。

クレータ島を毎日三回走り回って守り、島に近づく船に石を投げつけて破壊し、
近づく者があれば身体から高熱を発し、全身を赤く熱してから抱き付いて焼いたという。
胴体にある1本の血管に神の血(イーコール)が流れており、
それを止めている踵に刺さった釘ないし皮膚膜を外されると失血死してしまう(Wiki)

という有能な働き者(でも意志を持たない)で、ミサイルにはぴったりの名前かもしれません。
しかしこういうキャラよく探し出してくるよなあ。

「リトル・ロック」タロスミサイル発射中。
そこで皆さん、次の写真をご覧ください。

ミサイル発射中の写真を見ていただければ、これが発射方向に向きを変えているのが
よくおわかりいただけると思います。
発射管制システムのレーダー部分ではないかと思いますが、間違ってたらすみません。

横からの写真をアップにしてみました。
ミサイルに跨ったドワーフのマークが見えます。


しかし、全体写真を見ても、軽巡洋艦にこれだけ盛りだくさんに積んで
はたしてバランスは大丈夫だったのか、と心配になるくらいなのですが、
案の定「ガルベストン」級は改装後のトップヘビーの問題を抱えていたそうです。

というわけで「リトル・ロック」にはバランスを取るための固定バラストが
1200トン分搭載されたうえ、方位盤を撤去する他、各種減量策が行われました。

しかしそれでも「リトル・ロック」の「ホギング現象」は抑えられませんでした。
ホギングとは、

サギング・ホギング.PNG

浮力のアンバランスで中央部が上向きに曲がる状態です。
その逆がサギングとなります。

この問題を受けて姉妹艦の「ガルベストン」は早期に予備役に編入されましたが、
「リトル・ロック」は提督の寝床である旗艦設備が充実していたため、
「ガルベストン」よりやや長く現役にとどまって第6艦隊旗艦を務めていました。

艦尾のシェイプは今までに見たことがないタイプです。

言い忘れましたが、「リトル・ロック」はアーカンソーにある都市名です。
アーカンソーの「小岩」か・・・なんか違和感ない感じ(笑)

海面に降りるためのラッタル・・・もう使われていない(と信じたい)。

次回は、「リトル・ロック」と「クローカー」の向こうに見えている
駆逐艦をご紹介します。

続く。

 


ガトー級ハンターキラー潜水艦「クローカー」〜バッファロー&エリー郡海軍軍事博物館

2021-01-06 | 軍艦

ナイアガラの滝詣での帰りに偶然見つけた海軍軍事博物館である
ナーバルパークの展示艦をさっそく紹介していくことにします。


水深が浅いので、潜水艦の艦体ほとんどがこんな風に剥き出し?になっています。
いままで幾つかの軍事博物館で潜水艦を見てきましたが、正面から
こんな風に見ることができるのは初めての経験です。

USS「クローカー」Croaker  SS/SSK/AGSS/IXSS-246

はガトー級潜水艦で、第二次世界大戦中就役しました。
普通なら水の中に隠れてしまって見えない艦首の先端は何かにぶつけたのか
見事に凹みが目立ちます。


「ガトー」Gato級の潜水艦については当ブログでは

「グロウラー」(Take Her Down! で有名になったギルモア少佐の艦)

「ミンゴ」戦後海上自衛隊が供与され「くろしお」として就役

そして「ギターロ」なとを取り上げてきましたが、考えてみれば
実物を見るのはこれが初めてのような気がします。

「ガトー」(ゲイトーとも)というのはcatshark、虎ザメのことですが、
このノーズは虎ザメというよりやはりクジラっぽいシルエットです。

ちなみに「クローカー」はスズキ目ニベ科の魚の総称なんだそうですが、
こうしてノーズを見ると、いずれにしても潜水艦は「てつのくじら」という名称が
もっともふさわしい形をしているとあらためて思います。

● SSK=ハンターキラー型潜水艦

しかし、近づいていくと艦橋部分にものすごい違和感を感じました。

このバブルドーム、一体なんなんでしょうか?
まさか艦内の灯り取りとか、そんなわけないですよね?
さらに、どのガトー級(やその他潜水艦)にも、このような装備は見たことがありません。

そこで英語の資料でヒントになる言葉はないかと探したところ、

bow-mounted sonar sphere 

というのを見つけました。
これがそれだと仮定すれば、ソナーということになります。

ということは、「クローカー」は戦後改装を受けたと考えられます。
Wikipediaには、原子力時代になってから彼女は(潜水艦も”彼女”かしら)
1953年にハンターキラー型潜水艦に改造されたと書いてあります。

「クローカー」の分類記号がやたら多いのもこういう経過があったからで、
このとき彼女は「SS」から「SSK」という分類になりました。

サフィックス「K」はもちろん、ハンターキラーのKです。

「インザネイビー」という潜水艦映画では、原潜と勝負するディーゼル艦の
機関室の主のようなおっさんが、

「ディーゼルボート、フォーエバー!」

と叫ぶシーンがありましたが、このSSKはいわばそういう類の?潜水艦でした。

SSKについてもう少し説明しておくと、これは対潜水艦業務に特化した
ディーゼル電気潜水艦の米国海軍の船体分類記号ということになります。

もちろん現在のアメリカ海軍にはすでに存在していません。



第二次世界大戦の終わりは冷戦の始まりを意味していました。
西側諸国海軍は、大西洋におけるソビエト潜水艦の脅威に備えて、
これに対抗する潜水艦を建造または改造しました。

このとき大きく変更されたのは次の二点です。
一つは潜水艦のさらなる静謐、消音化。
そしてもう一つが改良された音響センサーの搭載です。

そしてこのタイプをアメリカ海軍ではSSKに分類しました。

しかし、この変更が最終的にすべての潜水艦に組み込まれるようになってから
SSKの分類は廃止されることになります。

最初からSSKとして建造されたのは「バラクーダ」級の、

USS「バラクーダ」(SSK-1)
USS「バス」(SSK-2)
USS「ボニータ」(SSK-3)

の三隻のみです。

そして「クローカー」ですが、システム合理化とセンサーのアップグレード化が施され、
SSK分類を与えられた7隻の「ガトー」級のうちの一隻でした。

ちなみにそのときのSSK改造組は次の通り。

USS「グルーパー」(SSK-214)
USS「アングラー」(SSK-240)
USS「バッショー」(SSK-241)
USS「ブルーギル」(SSK-242)
USS「ブリーム」(SSK-243)
USS「カヴァラ」(SSK-244)
USS「クローカー」(SSK-246)

我が国もそうですが、未だにディーゼル推進の潜水艦を採用している国の一つ、
カナダ海軍にはディーゼル式「ハンターキラー」潜水艦が存在します。
分類にもSSKがそのまま使われ、

HMCS 艦名(SSK 艦番号)

という形で分類されています。

 

潜望鏡のアニマル柄迷彩を見て、この同じような仕様を、
グロトンにある原子力潜水艦第一号、
「ノーチラス」の艦橋で見たことがあるのを思い出しました。

潜望鏡もシステム合理化の際に当時の最新式に変えられた結果でしょう。

もうひとつ別の角度から。
ところで、「ガトー級」のセイルというのは、

Gato-Class - Fleet Submarine - History of WW2 Submarines

本来こういうものであることを考えると、「クローカー」が
いかにドラスティックな改装を受けて生まれ変わったかがわかると思います。

第二次世界大戦中は艦橋にあった銃座もなくなっているわけですから。

どうもこの展示、艦体は何かの台に固定されているんじゃないかと思われます。
普通に浮かせていれば、おそらく艦体はもっと水中に隠れるような気がします。

錨がどのように設置されているかよくわかります。

艦体表面が経年劣化でボコボコになっているのは当然としても、
この外殻を上るための窪みがものすごく適当というか雑というか・・。

「クローカー」の外側には巡洋艦「リトルロック」、
その後ろ側には駆逐艦「サリバンズ」が係留展示されているという状況。

もちろん平時であれば全て艦内を見学することができます。

前甲板に歯ボフォース40ミリ機関砲があるということですが、
こちらも休館に合わせて整備中なのか、シートがかけてあります。

正面からはバブルのドームに見えた例の部分ですが、
ここまできて半円であることがわかりました。

その後ろ側をシートで覆っているのが気になりますね。
ここに何か、雪がかかるとよくないようなものがあるのかもしれません。

でたあ〜〜〜〜!
対日戦争における戦績が誇らしげにペイントされています。

「クローカー」は1943年4月1日、コネチカット州グロトンにあった
エレクトリックボートカンパニーで起工されました。
8ヶ月後の1943年12月19日に進水、それからわずか4ヶ月後の
1944年4月21日に就役するというスピードデビューで戦線に投入されました。

就役後ニューロンドンからパールハーバーに着任した「クローカー」は、
最初の哨戒で中国東部と黄海付近に出動して1ヶ月後、

軽巡洋艦「長良」

補助掃海艇「大東丸」

貨物船「第七太原丸」

貨物船「山照丸」

を撃沈しました。

「長良」はラバウルから「長波」を曳航して日本に帰国し、
その後呉、横須賀に入港したあと沖縄への呂号輸送作戦に従事し、
那覇から疎開者を鹿児島に輸送する任務を行ったのですが、
鹿児島を出港後、熊本県天草諸島西で「クローカー」の雷撃を受けました。

このとき「クローカー」から放たれた後部発射管からの4本のうち
1本の魚雷が「長良」の右舷後部に命中し、「長良」は沈没しました。

「クローカーは魚雷を4本発射したが、長良がジグザグ航行で転舵したため、
魚雷は逸れたと半ば諦めかけていた。
ところが、2分後に長良が元の進路に戻ってきたため、少なくとも1本は命中することとなった
12時22分に魚雷1本が長良の右舷後方に命中
長良は艦首を上にして間もなく沈没した」Wiki

「長良」の中原艦長以下348名が戦死し、237名が救助されています。

沈没する「長良」の様子は「クローカー」によりカラー映像として記録されました。

 

その後ミッドウェイ方面で哨戒を行なった「クローカー」は

貨物船「神喜丸」

貨物船「白蘭丸」

貨物船「御影丸」

を撃沈し、

貨物船「月山(がっさん)丸」

に損害を与えました。

マークされた戦果によると、

軍艦4 民間船6 沈没

民間船2 撃破 その他2隻

となりますが、おそらく未確認のものも含まれているので
数字が合わないのだと思われます。

「その他」は特設駆潜艇研海丸に護衛された2隻のシャトルボート、

第146号交通艇

第154号交通艇

となります。

こちらはいわゆるひとつの防衛徽章というやつだと思いますが、
戦後「クローカー」は先ほども書いたようにSSK-246再分類され、
その後は東海岸とカリブ海で活動を行いました。
1957年にはNATO軍の演習に参加してイギリス訪問を行っています。

その後SSK分類が廃止されたため、「クローカー」は1959年8月、
再び
SS-246に再分類されました。

その後ニューロンドンを母港としてそこから作戦を再開しました。

1960年には地中海、スエズ運河を航海し、パキスタンのカラチを訪問後
再びニューロンドンに帰港

1967年に補助潜水艦AGSS-246に再分類

1968年4月2日に最後に廃止

1971年12月20日に海軍艦艇登録簿から抹消

1971年12月にその他の未分類潜水艦IXSS-246再分類

1977年から1987年まで、グロトンでアトラクション展示

という経過を経て、1988年、エリー湖に運ばれ、
現在まで博物艦として展示されているというわけです。

後甲板には「リトルロック」に乗艦するためのラッタルがかかっています。
「リトルロック」見学を行う人は全て「クローカー」から乗り込みます。

 

「クローカー」と「リトルロック」の間に見えるのは発電設備でしょうか。

岸から「クローカー」に渡るための通路は跳ね上げて渡れないようになっています。

見学の際はここから階段を降りていくことになります。
当然ですが、この部分は現役の時にはなかった設備で、ハッチをあけ
垂直のラッタルを上り下りする仕組みになっていたはずです。

「インザネイビー」では、この「観光仕様」の潜水艦(パンパニートが使われた)
から乗員が行進しながら上陸するシーンがありましたが。

艦体の劣化は上部の方が進んでいるようです。

潜水艦の一番先っちょには氷が張り付いています。
ここは湖で真水なので、展示艦の保存にはいい条件かもしれません。

「クローカー」6度の哨戒を行い、そのうち、第1、第2、第5、第6の
4回の哨戒が成功を収めたとして記録され、この戦功により3個の従軍星章を受章しました。

撃沈した艦艇の総トン数は19,710トンに上ります。

 

 

続く。

 


「コールドウェル」に同時突入した4機の特攻機〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-21 | 軍艦

ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。

今日はこのなかから、一隻の駆逐艦を取り上げたいと思います。

ここには艦体を縦割りにした珍しい模型が展示されています。

USS「コールドウェル」Caldwell DD 605

USS Caldwell (DD-605) off San Francisco in June 1942

1700年後半、第一次バーバリー戦争に参加した海軍軍人、

ジェームズ・R・コールドウェル(1778〜1804)

の名前を命名された「ベンソン」級駆逐艦です。

この縦割り模型を製作したのは、フランク・メルビン・クラッツリー大尉
(Frank Melvin Cratsliey)という人で、階級から言って
艦長ではなかったかという気もするのですが、説明はありません。
第二次世界大戦が終結し、「コールドウェル」が予備役に入ってから作られたそうです。

これが、模型キットなどに一切頼らない手作り感あふれるものなんですね。
実際に操艦していた人ですから、艦内を知り尽くしています。

区画ごとにそこがなんだったかラベルをはってあるのですが、それも

C.P.O. Messroom A-202-L

Crew's Quarters A-203-L

というように、「艦内住所」を示す記号付き。
これは「中の人」ならではの仕事です。

これが中央部分。
ジェネレータや、ポンプの種類までラベルを貼って区別しています。

細部を見ると溶接が甘く歪みがあったり区画の区切りが倒れかかっていたりしますが、
それにしてもこれだけの力作を残した大尉の意欲はどこから来たのでしょうか。

前方に士官下士官の居住区があり、兵員のクォーターが
後ろのほうにあるという作りは、今年初めにご紹介したUSS「スレーター」と同じです。

ところで、「コールドウェル」の艦歴を見ると、彼女の一生には
就役直後から日本との戦いが大きく関わっていたことがわかります。

 

まず、当時サンフランシスコにもあったベスレヘムスチールで誕生後、
すぐにアリューシャン列島の奪回をねらうアメリカ軍のアッツ島支援を行いました。

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる
攻略部隊、第51任務部隊に含まれたのは、

戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」
護衛空母「ナッソー」
重巡洋艦「サンフランシスコ」「ルイビル」「ウィチタ」
軽巡洋艦3隻
駆逐艦19隻

この駆逐艦群に「コールドウェル」は加わっていたというわけです。

その後、タラワ島、ウェーク島での戦闘にも加わり、
マキン、クェゼリン、マジュロ、そしてパラオなど一連の攻撃、
トラック諸島、ウルシーでも船団護衛などを行いました。

これだけの出撃を頻繁に行っていれば、当然時期的に
日本軍の特別攻撃に遭遇することにもなるわけですが・・・・。

「コールドウェル」が特攻の洗礼を受けたのは1944年12月12日の0803でした。
場所はレイテとセブ島中間海域、そこで

「4機の日本機が同時に四方から襲いかかってきた」

のでした。

突入した機体の片翼が艦橋に激突し、残りの機体はフォクスルを破壊。
機体から外れたランディングギアはラジオルームに直接突き刺さり、
その時内部にいた全員が死亡するという惨事を引き起こしました。

それだけでなく2基の砲座、メインデッキの全てのコンパートメントは壊滅、
5基のMK15魚雷は誘発を回避するために即座に投棄されました。
他の部分は飛行機が激突した時に生じた火災でダメージを受けています。

このとき、特攻機が抱いていた爆弾2発もこの激突によって爆破し、
その結果、33名が死亡、40人が負傷すると言う大損害を受けました。

このとき亡くなった33名には、当時の艦長も含まれていたということです。

しかし、当博物館にある模型を作ったメルヴィン・クラッツリー大尉ら
乗員の必死の救助活動が功を奏して、「コールドウェル」は沈没を免れました。

そしてまずフィリピンのタクロバンに辿り着き、その後サンディエゴに回航され、
わずか60日の修理期間ののち行動に参加するまでになったのは驚くべきことでしょう。

「特攻機に破壊された」

という修理理由が、海軍の修復担当造船屋の負けじ魂に火をつけたのかもしれません。

上の写真の損害は、航空機の直接の激突によるものではなく、
搭載していた爆弾が誘発して引き起こしたものです。

このとき「コールドウェル」に激突した特攻機のうち、搭乗員の遺体が身に付けていた
94式拳銃(シリアルナンバー43465)は、今ここSSMMの展示室で見ることができます。

突入後の処理期間、この銃は艦長が戦死して代わりに指揮をとることになった
クラッツリー大尉が鹵獲して所持していました。

のちに、この銃は大尉のダメージコントロールの努力に対する「賞品」として
正式にクラッツリー大尉に授与されましたが、大尉は自作の模型とともに
このパイロットの遺品もどう博物館に寄贈したのです。

Type 94 Pistol.jpg

ところで、この九四式拳銃は、陸軍が開発採用した型式です。

当初、帝国陸軍の将校准士官が装備する護身用拳銃は、軍服や軍刀と同じく
自費調達の「軍装品」私物扱いだったため、各自が任意に調達していましたが、
色々不便が生じたため、南部式自動拳銃を開発した南部麒次郎が、
機構が簡単でメンテナンスしやすい同型拳銃を昭和9年、皇紀2594年、
12月12日に九四式拳銃として準制式採用したものです。

以降、九四式拳銃は将校准士官のみならず、機甲部隊の機甲兵、
そして航空部隊の空中勤務者、つまりパイロットの基本装備となりました。

 

ということからも、「コールドウェル」に特攻した航空機は
陸軍のものであることがはっきりしたわけです。

日本人のわたしとしては、このとき、一つの駆逐艦に対し
四方から同時に突入していったという特攻機について明らかにするべきだと思い、
「特別攻撃隊全史」付属の特攻隊名簿から、昭和19年12月12日に
フィリピン方面で出撃した特攻隊を検索してみました。

すると、まず、

八紘石腸隊の井樋太郎少尉
(佐賀、陸軍士官学校57期)

が、バイバイ沖で特攻戦死していることがわかりました。
石腸隊というのは千葉県にあった下志津陸軍飛行学校銚子分教場で訓練を受けた
18名からなる特別攻撃隊で、二人を除き全員が陸士卒です。

17名が日を前後して12月5日から1月8日の間に特攻散華しているのですが、
不思議なことに、この井樋少尉だけが、12月12日、単独で出撃しているのです。

あまり知られていないことですが、陸軍では特攻隊のことを

「と号部隊」

としていました。
「と」はもちろん特攻隊のとです。
「とごうぶたい」と言っても「は?特攻部隊?」と聞き返されそうですが。

そしてと号部隊結成時、第4航空軍司令官富永恭次中将
「八紘隊」をはじめとする特攻隊の命名を行いました。

富永は史学に造詣が深く、部隊名は歴史などの故事から引用、
たとえばこの「石腸隊」は「鉄心隊」とセットで、
中国北宋の政治家蘇軾のことば、

「鉄心石腸」(容易には動かせない堅固な意志を表す)

から命名されたものです。

部隊マークとして「日章」を尾翼に描いた飛行第44戦隊所属の九九式軍偵察機(キ51)

特攻機種略語は「九九襲」とあるので、

キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機

で特攻したことになります。

石腸隊が訓練を行ってた下志津陸軍飛行場で、
九九襲撃機と記念写真を撮る女子挺身隊。
整備かあるいは組み立て作業に動員されたのかもしれません。

井樋少尉の戦死場所となっているバイバイ沖、というのはアメリカ側の記録の

「レイテ島とセブ島の間」

という攻撃された場所とも一致しますので、4機のうちの一機が
井樋機であったことは間違いないかと思われます。

そして名簿をさらに繰っていくと、次に12月12日に特攻戦死したとあるのは

八紘隊、作道善三郎少尉
(特別操縦見習士官出身、富山出身)

であり、作道少尉もこの日単独で出撃しています。
作道少尉の八紘隊は一式戦闘機(隼)の部隊でした。

飛行第二五戦隊第二中隊のエース、大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II、1943年夏撮影)。 部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている

キ43 一式戦闘機「隼」

作道少尉の戦死場所も12日の「バイバイ沖」となっていることから、
井樋少尉、作道少尉が第一、第二の特攻を「コールドウェル」に加えた、
という可能性は大変高いと考えられます。

それから、

丹心隊の岡二男少尉(幹候9期、東京出身)

もまた、同日バイバイ沖で特攻戦死したと記録にあります。
これで三機が特定できたことになりますが、ここでもう一度
現地にある説明を読んでみると、「コールドウェル」に特攻してきたのは
4機であったとしながら、別の説明には

「トータルで5機に襲撃された」

とあります。

それを裏付けるような記録が見つかりました。
19年の12月12日に出撃した特攻機はあと2機あったのです。

戦死場所は「バイバイ沖」ではなく、いずれもレイテ島西北洋上とありますが、
西北洋上もセブとレイテの間であり、バイバイ沖であることにに違いはありません。
その二人の戦死者とは、

小泉隊 小泉康夫少尉(陸士57期、新潟出身)
    久住国男准尉(経歴なし、新潟出身)

小泉隊、と言うのはどういう経緯かわかりませんが、組織的に
特攻隊として編成されていなかった搭乗員が二人、
隊長の名前をとりあえず?つけて出撃した、というように解釈できます。

岡少尉、小泉隊の二人が乗っていたのも一式戦闘機でした。

さて、ここで「コールドウェル」に一気に襲いかかった陸軍の特攻機ですが、
調べたところ、驚くことに皆別々の基地から出撃しているのです。

石腸隊の井樋少尉が出撃したのはバコロド、
八紘隊の作道少尉はマニラ、
岡少尉はカロカン、
そして小泉隊の二人はクラーク基地。

彼らは全く別々の基地から飛び立ち、合同作戦を行ったということになりますが、
これは計画された作戦だったのでしょうか。
というか、果たしてそんな作戦が実際に可能なのでしょうか。

各基地から1機、2機ずつ出撃していることから、可能性としては
偵察機が駆逐艦を発見し、
急遽各基地から特攻機が飛び立った、
ということも考えられますが、この
ストーリーは成り立つのでしょうか。

当時の特攻出撃の事情に詳しい人ならこの可能性を論じることもできるかもしれませんが、
それにしてもたかが?駆逐艦1隻相手に各基地がこぞって特攻を出すでしょうか。


考えれば考えるほど、この「四方からの同時攻撃」は
その経緯と目的を含めて謎が多すぎるように思えるのですが、
もし、この5機(のうち4機)が上空で初めて遭遇し、
阿吽の呼吸で意気投合し、

「四方から4機が同時に突入する」

という、22〜3歳の血気盛んな青年から見ると
「痛快な」攻撃を行うことで四議一決したということなら・・?

というかわたしはその可能性が一番高いような気がしています。

サンディエゴで修復後、「コールドウェル」はボルネオ島タラカンへの侵攻支援と
護送船団の護衛をおこない、その後ブルネイ湾沖の掃海作戦で触雷をしています。

修理中に終戦になったため、沖縄上陸への輸送任務を支援した後、
ちょっとだけ東京湾に寄って(乗員に日本を見せるため?)
そのあと帰国し、予備役に入りました。

 

続く。

 


”世界最長の船”重巡洋艦「ピッツバーグ」〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-17 | 軍艦

しばらくエントリーをアップできなくて申し訳ありません。
この間、また家庭の事情によりピッツバーグに来ることになり、
飛行機で移動している間全くPCにさわることができませんでした。

着くなり今年最初の「スノウストーム」の中、現地の人ですら
事故を起こしまくりの大雪にもかかわらず、車を運転して食料品などを買い込んで、
帰ってきてから久しぶりの食事を作ってやっとお腹に入れたばかりです。

 

そしてここからこの博物館の情報を最初に発信するのも何かの縁に違いありません。

さて、そのピッツバーグ兵士と水兵のための記念博物館の展示は
いつの間にか第二次世界大戦関係のものに移りました。

開館当初からの装飾であるラーメン鉢の縁の中華模様、
あるいは少しだけギリシャ風の連続模様は、ところどころ改装のため
切れていますが、
1862年結成され南北戦争に参加した、

「第159ペンシルバニア志願大隊」「第14騎兵連隊」

の在籍者の名前を余すことなく記した銘板と、そして
ステンドグラスの周りを飾っている部分は今も健在です。

両隊は有名なところではバンカーヒルの戦いにも参加した部隊で、
任務中2人の将校と97人の下士官兵が戦死、また
296人の入隊した男性が病気で死亡し
合計395名が戦死となっています。

生存者がまだ生きていた頃は銘板の前に展示を置くことなど
しなかったのだと思われるのですが、今ではこの通り。

ジープは1953年製4分の1トン(こんな表示をするんですね)

ウィリーズM38A1海兵隊モデル四駆多目的トラック

で、朝鮮戦争の間朝鮮半島の地形を考慮した足廻りを備えていました。
この車そのものは、一旦民間人の所有になっていたのが寄贈されたものです。

アメリカだとこんなのが走っていても全く違和感なさそうですが。

雰囲気を出すために、Canteen、食堂の方向の下に、

マニラ、東京、沖縄、チュニジア、サンフランシスコ、
ノルマンディ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、
そしてローマの方向と距離が書き込まれた道標があります。

朝鮮戦争時代という設定なのになぜ半島の地名が一つもないのか。
それは誰もかの地の都市名を知らなかったせいではないでしょうか(棒)

ステンドグラスの意匠は教会のものとはずいぶん趣が違います。
しかもこれステンドグラスじゃなくてシール貼ってないか?

続いてのブースを見てわたしはちょっと胸がときめきました。
南北戦争から始まって陸軍関係の展示ばかりが続いたところに、
初めて船の模型とセーラー服が登場したのです。

これはアメリカ沿岸警備隊の初期の制服です。

沿岸警備隊のルーツは、170年前の合衆国税関監視局にまで遡ります。
1812年の米英戦争から今日の重要な国土安全保障の最前線まで、
アメリカの紛争において切れ目ない多様な任務を遂行してきました。

ラテン語の
「Semper Paratis」=「Always Ready」(常に備えあり)
モットーとして常に任務にあたってきた沿岸警備隊は、
21世紀においてもその任務を海洋安全、海洋警備、海上交通、
国際警備、そして海洋資源の保護としています。

水兵の足元に置かれた模型は、沿岸警備隊のカッターです。
わたしは以前コネチカット州にある沿岸警備隊の士官学校で
併設されている博物館を見学したことがあり、そのときに
沿岸警備隊について調べて初めて知ったのですが、沿岸警備隊は
出発点が、

合衆国税関監視局=United States Revenue Cutter Service

つまりカッターに税収をかけて歳入を維持するシステムから生まれたため、
今でも沿岸警備隊の船は大きさに関係なく、「カッター」と称するのです。

この模型は

LST-280

というカッターで、1943年に認可されました。
第二次世界大戦中はランドタンカーとして、
あるいは重量のある装備などを戦地に輸送する役目を行いました。

また、模型の後ろに時鐘と国旗っぽいリボンがあります。
この時鐘はカッターLST-73 で使われていたもの。

LST-73は、ここピッツバーグからオハイオ川を数マイル下ったところにある
Dravo Corporationによって建設され、144年9月2日に進水を行いました。

この造船会社は1998年に買収されて消失しました。

太平洋戦線に投入され、なんと、

1945年3月から4月にかけての沖縄群島の急襲と占領

に参加し、任務中の実績に対し二つのバトルスターを獲得しています。
(沖縄群島のことをOkinawa Guntamと間違えている)

沿岸警備隊の女性隊員のことをSPARと称します。
正確には「米国沿岸警備隊婦人予備隊員」なのですが、
なぜSPARかというとモットーのラテン語「Senper Paratis」を省略したものなのです。

そして沿岸警備隊の女性の歴史は実は沿岸警備隊結成前から始まっていました。

以前も当ブログでお話ししたことがある、女性灯台守、

「アメリカで最も勇気のある女性」

アイダ・ルイス(1842−1911)
沿岸警備隊が組織される前に灯台守りとして多くの人々を救出し、
栄誉メダルを授与されています。

ロードアイランド州ニューポートに生まれた彼女は、16歳の時
ライムロック灯台の灯台守だった父が発作のために倒れた後、仕事を継ぎ、
1858年、近隣の家族4人の船が転覆した時に彼らを救出しました。

彼女はこの英雄的な救助劇のその後も、ライムロックで灯台守を一生の仕事として、
その生涯には少なくとも18人の市民を救ったとも言われ、その最後の救助は、
彼女が63歳の時であったとされます。

これがアイダにも授与されたコーストガードに対するシルバーメダルですが、
授与された人の名前を見てびっくり、

Robert Kennedy

あのRFKか?と思ったら、ミドルネームがC。
調べたのですがテロリストのロバート・コブ・ケネディと、
ロイヤルネイビーの士官、ウィリアム・ロバート・ケネディしかでてきませんでした。

たまたまそういう名前の人が人命救助で表彰されたようです。

2つの視認可能な物体間の距離を測定するために用いられる道具、
セクスタント、六分儀。

六分儀の使い方が分かりやすいのでこちらも2度目ですが貼っておきます。

さて、コーストガードがでてきたので期待していたら、そこに
巨大な軍艦の模型が登場。

重巡洋艦USS「ピッツバーグ」CA-72です。

第二次世界大戦時のアメリカ海軍の軍艦の命名規則は、戦艦が州名、
巡洋艦は都市名となっており、建造された造船所のある都市などが選ばれました。

ちなみに正規空母は南北戦争の戦場(レキシントン、バンカーヒル、ヨークタウン)、
駆逐艦は戦死した士官将官、下士官兵の名前、そして潜水艦は魚の名前です。

「ピッツバーグ」は「ボルチモア」級重巡洋艦の5番艦で、建造は、
わたしが何年か前見学に行った重巡洋艦「セーラム」を展示してある
フォアリバー造船所を買収したベスレヘム鐵工所が行いました。

造船所の場所もまったくピッツバーグと関係ないはずなのに、
なぜその名前になったかというと、同社がこの頃、列車製造のジャンルに手を伸ばし、
ペンシルバニア州の会社を買収して事業を展開していたからです。

「ピッツバーグ」の進水式を行ったのがマサチューセッツであったにもかかわらず、
式を主宰(つまりシャンパン瓶を割る儀式を)したのは、当時のピッツバーグ市長の妻だった、
というのも、ベスレヘム社が当時ピッツバーグ市といろいろ結びついていたという
政治的な裏事情が見える気がします。

ベスレヘム鐵工所はその後アメリカ工業生産の落日を象徴するかのように
1950年代をピークに凋落していくことになり、2001年には破産申し立てを行いましたが、
前にも触れたビリー・ジョエルの
「アレンタウン」という曲は、
まさにその経緯を歌っていたのでした。

(ということをわたしは今初めて知ったことを告白しておきます)

Billy Joel - Allentown (Official Video)

ちなみにその歌詞ですが。

僕らはここ アレンタウンに住んでいる
工場はみんな閉鎖されていってる
ベスレヘム郊外じゃ暇をもてあまして求人票に記入をし
みんな列を作っている
 
親父達は第二次世界大戦にいった
週末はジャージー海岸で過ごしUSOで母親達と知り合い
スローダンスを踊って結ばれ、だから僕らはいまアレンタウンに住んでいる

しかし不安が次第に伝わってきた
ここにいることがだんだん大変になってきた
そう、僕らはアレンタウンに住んで
ペンシルバニアじゃ決して見つからないものをいまだに待っている
もし一生懸命働いて品行方正にしていれば手に入ると先生が約束したものを

壁にかかっている卒業証書は僕たちを何も助けてくれない
学校は何が本当か教えてくれなかった

鉄、コークス、クロム鋼・・
僕らはここアレンタウンで待っている
でも地面から全ての石炭は掘り出された
そして労働組合はどこかに逃げてしまった

自分で翻訳してみてこんな内容だったとは、と改めて驚きました。

「ピッツバーグ」の就役は1944年10月10日。

カリブ海での慣熟訓練のあと、最初に投入された任務は硫黄島攻撃でした。
「ピッツバーグ」は硫黄島における激しい日本軍の抵抗に対抗する
海兵隊への直接支援を開始、その最後の攻撃は
1945年2月25日と3月1日の南西諸島に対してのものでした。

3月18日、「ピッツバーグ」は九州の飛行場と軍事施設を砲撃しますが、
翌19日、日本軍は夜明けに空襲を行い、逆に空母「フランクリン」に火災を起こさせました。
「ピッツバーグ」は時速30ノットで救助に駆けつけ、海上にいた
三十四名の「フランクリン」乗員を救出したのち、軽巡洋艦の「サンタフェ」と共同で
絶賛炎上中の「フランクリン」を牽引するためのラインに乗せるという
『卓越した操船技術』を発揮しています。

ファイル:127 mm twin turret burning aboard USS Franklin (CV-13) on 19 March 1945.jpg炎上するフランクリンファイル:USS Franklin (CV-13) burning, 19 March 1945, seen from USS Santa Fe (CL-60).jpgサンタフェからみたフランクリン

このあと「ピッツバーグ」が「フランクリンを牽引する苦痛に満ちた仕事を行い」ました。

牽引中

この作業中、「ピッツバーグ」艦長のギングリッチ大尉は48時間の間
操舵室にずっと詰めていたということです。(もちろん寝てません)

その後「ピッツバーグ」は沖縄侵攻に参加、
撃墜された味方パイロット救出のために水上機を派出するなどしています。

そして、6月4日に例の台風と遭遇。

時速130キロの風と高さ30mの波によって、まず右舷にあった偵察機が
カタパルトから持ち上げられ、風によって第二艦橋に打ち付けられ、
第二艦橋は座屈しました。

第二艦橋というとこれですか。
偵察機のカタパルトと第二艦橋はずいぶん離れている気がするのですが。

さらに、艦首が上に向かって押し上げられたようになり、
前部はなんと脱落してしまったのでした。

幸いこの台風で人が被害に遭うことはありませんでした。

「ピッツバーグ」は自分が落とした艦首の一部にぶつからないように避けながら
操舵を行いました。

エンジンの操作によって浮力を保ちながら、7時間格闘しているうちに、
嵐はなんとか収まり、「ピッツバーグ」はグアムに向かいました。

艦首がない

艦首部分(『マッキーズポート』(ピッツバーグ郊外の街)と呼ばれていた)は、
タグボートが拾いに行き、グアムに運ばれました。

「ピッツバーグ」は仮の艦首をつけて海軍工廠に向かい修理をしていましたが
修理中に終戦になったため、修理終了後も予備役を経て退役しました。

この後は模型のアップを掲載しておきます。
煙突は二本、わずかに後傾しています。

武装は9× 8インチ(203 mm)/ 55口径銃、
12× 5インチ(127 mm)/ 38口径砲、
48×ボフォース40mm砲、
22×エリコン20mm大砲です。

最後にちょっと心温まる逸話を。
修理の際、艦首と艦尾が数千マイル離れることになったため、彼女には

"Longest Ship in the World"

というニックネームがつけられたそうです。

 

 

続く。

 


「ヨークタウン」に描かれた「赤城」の航空標識〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-16 | 軍艦

いよいよESAMの「赤城」模型シリーズ最終回です。

「赤城」ルームのガラスケース展示をまずご紹介していきます。
これは状況的にどうみても真珠湾攻撃真っ最中ではないでしょうか。

こういうシーンを第二次世界大戦50周年記念のポスターにする、
というセンスはいかがなものかという気もしますが、
まあ要するにリメンバーパールハーバーってことなんだと思います。

右側にチラッと見える解説によると、炎上しているのは
「ウェストバージニア」と「テネシー」ということです。

ということはその前に展示してある模型はそのどちらかだと思うのですが、
わたしには見分けがつかないので鑑定はあきらめます<(_ _)>

絵の両側に祀られている砲弾形状のものは、

エアクラフト・フロートライトMk.4

第二次世界大戦中に使われていた水上用の信号ミサイルです。
軍用機などから投下され、位置を知らせるための
フレア&スモークシグナルです。

この写真ではわかりにくいですが、素材は先端がメタル、ボディは木製です。

説明がないのでわからないのですが、迷彩塗装の日本機があることから
どこか南方の日本軍基地(小屋の前には国旗が揚っている)でしょう。

なかなか力作ですが、なんのために作られたのでしょうか。

ボーイングB-29スーパーフォートレスです。

「太平洋戦にはテニアン、サイパン、グアムから出撃し、
低空から焼夷弾を落とすなどの戦略に用いられた。
B-29は広島と長崎に原子爆弾を落とすことで
都市と産業に壊滅的な打撃を与え、そのことが
1945年8月に
戦争を終わらせることになった」

その夜間攻撃と2都市への原爆投下で失われた民間人の命については
全くなかったかのようなこのシラの切り方、いや淡々とした記述。

スミソニアン博物館で起こったB-29「エノラ・ゲイ」の展示をめぐる騒動で、
こと原子爆弾についてはどこの博物館も異様なくらいディフェンシブになり、
このような態度に終始するしかないのも、またアメリカという国の一面です。

そしてなぜか唐突に現れる日本降伏調印の後の記事。
1945年9月2日付けサンフランシスコエグザミナーという新聞のものでもので、
まずヘッドラインは

「日本降伏調印;
マッカーサー指揮を執り完全なる応諾を要求」

その下に、

「裕仁正式に我が国のルールに屈する」

左の写真は、捕虜になっていた痩せさらばえたアメリカ軍人を
カメラの前で抱擁して見せるマッカーサー。

捕虜の名前はジョナサン・ウェインライト中将
タイトルに「リユニオン」(同窓会)とありますが、
彼はウェストポイント出の将官でフィリピンにおけるマッカーサー将軍の
補佐を行っていた人物です。

1941年12月に始まった日本のフィリピン侵攻に対し、連合軍は、
バターン半島とコレヒドール島に撤退することになりました。

その後マッカーサーが敵前逃亡し、 オーストラリアで

"I shall return." 私は必ず帰ってくる

という有名な負け惜しみを言ったわけですが、マッカーサーの後を
引き継いでフィリピンの連合軍司令官になったのがこの人でした。

 5月5日、バターンに続き日本軍はコレヒドールを攻撃したため、
ウェインライトは人員の損失を防ぐため日本軍に降伏します。

このときの彼の選択は、もしマッカーサーが敵前逃亡しなければ
彼に委ねられていたはずのものだったってことですわね。(ここ注意)
もしかして、その後のウェインライトの運命もまた、
マッカーサーが負うものであったかもしれないと言うことでもあります。

 

コレヒドールで降伏後、ウェインライトは日本軍の捕虜となります。

アメリカ人は彼の痩せ細った姿から、日本軍が将軍すら(中将)
ちゃんとした扱いをしなかったということで、もう怒り心頭でした。
この新聞の記事でも、

「ジャップはアメリカ軍の将軍を拷問した」

という見出しになっています。
トーチャーといっても、「憲兵とバラバラ死美人」の憲兵隊みたいに、
逆さ吊りにして水責めというようなものではなかったはずですが、

アメリカ人はウェンライトがこれだけ痩せてしまったことをもって

「拷問されたも同じだ!将軍なのにろくに食べ物も与えずに」

と怒っている訳です。

しかし、わたしがここで言い訳してもしょうがないのですが、
ただでさえ食料がなかった太平洋の基地で、日本軍の捕虜になっていた人が、
これだけ痩せていたってなんの不思議があろうか、って思いません?

だいたいウェンライトの元々のあだ名って「スキニー」ですよ?
もちろん中将ともあろう人に、ろくな食料も(出したとしても日本食なので
あまり太れなかったと思うけど)与えなかったことはお詫びするしかないですが、
この人、もともとこんなあだ名がつくくらい痩せていたってことですよね。

 

さて、「ミズーリ」における降伏調印式では、誰が仕組んだのか
(わたしはアメリカのマスコミだと思う)ウェインライトを連れてきて

わざわざマッカーサーと対面させたわけですが、これだって、
両者の因縁関係を考えればどうなのよという気がしないでもありません。

だいたいがマッカーサー自身、敵前逃亡についてはウェンライトに対して
かなり疚しく思っていたはずなのです。
「アイシャルリターン」も結局口だけ番長になってしまったわけですし。
ましてやウェインライト中将の方が、内心

「おめーがオーストラリアに逃げたおかげで俺は酷い目に」

と恨み骨髄であったとしてもなんの不思議がありましょうか。

周りの人間が何を期待してこの二人を会わせたのかわかりませんが、
(おそらくヘッドラインの写真を撮るためだけだったと思う)

それでも記事に残されているこのときの二人の会話からは、
これらの邪推が
当たらずとも遠からずではないかと思えてきます。

”Hello, Jim, I'm grad to see you."

”Good to see you,too."

なんですかこの英語教科書の最初のページみたいな会話は。

 

ウェインライト中将は自分が降伏したことをずっと恥じていたそうです。
(ね?こんな人がマッカーサーの敵前逃亡をよく思う訳ないですよ)

そして「国民を失望させた」と、捕虜生活中忸怩としていたのに、
ここにきて、あなたはアメリカの英雄だと言われてもうびっくりですよ。

マッカーサーもまたそんなウェインライトを英雄として称えるかのように
彼を抱き抱えているわけですが、こういう事情を踏まえたうえでもう一度見ると、
ウェインライトはどちらかというとマッカーサーの態度に戸惑っているようです。

古狸の彼はおくびにも出さなかったでしょうが、マッカーサー、
実はウェインライトが捕虜になった1942年、

彼に捕虜のまま叙勲するという案に、激しく反対

しているのです。

なぜか。

反対の理由は、コレヒドール降伏は失敗であり、その責任は
全て指揮官が負わねばならないのだから、叙勲などとんでもないというわけです。

こうして叙勲案はマッカーサーその人の拒否が理由で中止になりました。

 

おそらく救出された後、ろくに栄養状態も回復しないまま
「ミズーリ」艦上の調印式にに引っ張り出されていたウェインライトは、

マッカーサーが自分の失敗を詰り、叙勲を握り潰したことも知っていたはずです。

それならば、そもそも早々に敵前逃亡したくせに、とか、
フィリピンの責任を押し付けてきた張本人が
どの面下げて、
ぐらいのことは目の前の男に対して思ったに違いありません。

終戦後、ウェインライト中将にもう一度叙勲の案が持ち上がります。
マッカーサーは当然ながらこれに反対せず、
何食わぬ顔でウェインライトを祝福しました。

 

真珠湾関係の展示が中心のはずのこの部屋に、なぜか
朝鮮戦争で名誉の戦死を遂げたアフリカ系航空士官、

Jesse Leroy Brown (ジェシー・リロイ・ブラウン)
1926-1950 

を顕彰するケースがあったりします。
ブラウンはアフリカ系とチカソー、チョクトーを祖先に持つ、
紛れもないマイノリティであり、そんな中から初めて誕生した
近代プログラムによる訓練を受けたパイロットでした。

苦学しながらオハイオ州立大学で優秀な成績を収めたかれは、
米海軍航空隊に入隊し、訓練を受けて航空士官の道を掴みます。

朝鮮戦争開始後、コルセアのパイロットであった彼は、
中国軍に捕虜になっていた米海兵隊を救出する作戦に投入され、
6機編隊でチョシン貯水池に出撃しました。

任務は3時間にわたるサーチ・アンド・デストロイです。

任務中、彼のコルセアは地上からの小火器の攻撃を受け、
機を制御できなくなった彼の機は谷に激突しました。
機体は衝撃で破壊され、彼は脚を機体の一部に挟まれて動けなくなりました。

上空を旋回してその様子を見ていた彼の列機のうち、
トーマス・ハドナー・Jr.は、自分の機をあえて激突地点に墜落させ、
戦友の体を機体から引き出そうと試みました。

そのうち連絡を受けた救助ヘリが到着し、痛みで意識の朦朧とした
ブラウンの「脚を切ってくれ」という頼みを実行しようとさえしましたが、
ハドナーとヘリパイが45分にわたって行った救助活動も虚しく、
日没になり、現地に彼を置いていくしか方法はありませんでした。

意識を失う前に彼が最後に言った言葉は、

「デイジー(妻)に愛していると伝えてくれ」

だったそうです。

現地を引きあげたハドナーは、ブラウンの救出の継続を
上司に頼みますが、ヘリの不安定さを理由に許可されませんでした。

零下9度の山頂では生存している可能性もなかったからです。

彼が確実に死んだとされる二日後、米軍は機体が敵の手に渡ることを
防ぐために、彼の体ごと上空からヘリをナパーム弾で焼却しました。

パイロットは上空からブラウンの身体が炎に包まれるのを報告し、
主の祈りを無線で唱えたといわれています。

その後、彼の遺体も、機体も、回収されないまま現地に残されました。

仲間を救うために現場にコルセアで勇気ある着陸を行った
列機のハドナーは、ブラウンの遺骨を墜落現場から回収するために
2013年になって平壌を訪問しています。

(交渉中のハドナー:右)

驚いたことに、北朝鮮当局はこれを許したそうです。
その際彼は、天気が予測可能な9月に行うようにと言われています。

 

さて、それでは「赤城」模型の残りの写真をご紹介していきましょう。
展示は「真珠湾攻撃に向かう途中」という設定なので、
艦尾には深夜につける赤灯と、グリーンのライトも見えています。

プールを実際に航行させて撮影をしているので、これは模型でありながら
実際の船と同じ機能を持っているのがすごいところです。

小さな船を糸で引っ張って特撮するなんてのと訳が違います。
言うてみれば10mのフルハルバージョンですな。

流石に喫水線の下までは映らないので、
微妙に(というかコメント欄によるとだいぶ)
本物とは違うようですが、結構いい線いってますよね。

ちなみに黄色いのは電気コードです。

はえ〜こんなところまで。
艦尾下甲板の銃マウントはもちろん、舫杭など
細部まで抜かりなく再現されています。

これは艦尾側に立って航空甲板の高さから撮ってみました。
「赤城」航空甲板は後部で下に向かってカーブを描いています。

そのままカメラを下に向けるとこのような眺めが広がっています。
一番左のボートがデリックにかけられているんでしょうか。

小さな階段まで再現されています。

この写真を点検し、以前いただいたコメント欄での御指南により、
あらためて空母の作業艇の運用についてわかりました。

制作には当時のお金で1000万円かかったということですが、
総製作費が25億円のなかでまあなんてことはないかなと(笑)

ちなみに興行収入は14億5千万くらいだったそうで、完全に赤字です。

そしてさすが、視覚効果賞でアカデミー賞を獲得しています。
完全に模型と特撮チームの獅子奮迅の努力に対する評価です。

ところで、映画劇中でもアップになっていたこの艦橋ですが、
最初の段階で何かおかしいと思ったあなた、あなたは素晴らしい。

実は模型ファンであればとっくにお気づきだと思いますが、
「赤城」の艦橋は左舷側にあるはずなのに、この模型では
堂々と右舷側に存在しているのです。

その理由は、聯合艦隊の航空母艦『赤城』艦上のシーンの撮影を
なんと退役直前の本物の空母「ヨークタウン」上で行ったからです。
(ついでに『エンタープライズ』のシーンも使い回しした)

「ヨークタウン」の艦橋が右舷にあったため、模型も
同じようにするしかない、とフォックス制作部では考えたのでしょう。

しかしそんなところで整合性を取る必要って果たしてあったのかな。

世の中に、果たして「赤城」甲板でのシーンでは右に艦橋があるけど、
聯合艦隊航行のシーンでは左に変わっている!と気づく人って
どれくらいいると思います?(多分わたしも初見では気づかないと思う)

そもそも映画のこのレベルの矛盾シーンなんていくらでもあるんだから、
それなら模型を史実通りに作った方が良かったんじゃないかって気がします。

ちなみにこちらが映画出演時「赤城」に扮した「ヨークタウン」。
みなさん、甲板に描かれた「線」をよく見てください。

飛行甲板の前部に、日本海軍空母の特徴の一つである風向標識が
映画撮影のために同じように描かれたときにとられた写真です。

しかし、実際の空母と比べるとなんだか飛行機のアス比が随分違うような・・・。

模型展示でも探照灯が点いています。
これは艦橋のシーンで探照灯をつける瞬間があったからで、
映画では艦橋にちゃんと人が並んでいました。

ここでは誰もいないのに探照灯だけが点いているという
怖い状態になっています。((((;゚Д゚)))))))

というわけで、お話ししてきた模型「赤城」のシリーズは終わりです。
熱烈な模型ファンの方、ニューヨーク北部にいくことがあれば、
ぜひこの航空博物館に脚を伸ばして実物を見てください。

オルバニー国際空港からなら車で20分くらい、
ニューヨークJFK、ボストンからはどちらも3時間くらいです。

ちょっと現地まで大変ですが、実際に行ってみる価値は大いにあると思います。

 

続く。