ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ズアーブ兵部隊と古兵予備軍団(傷病兵部隊)〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-09-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

「レキシントンの戦い」の再現ショーが見られたボストン、
南軍からの攻撃に対応するために作られたフォートがあったサンフランシスコ、
そしてここピッツバーグでも、南北戦争の痕跡は至るところにあります。

なにしろペンシルバニア州ではあのゲッティスバーグの戦いが行われ、
ピッツバーグには砲兵工廠や陸軍連隊のヘッドクゥオーターがありましたから、
市内には有名な将官の墓所なども普通にあって、車で走っていると

「ここに南北戦争で戦った北軍の誰それのお墓があります」

という立て札を目撃したりします。

南北戦争の兵士を顕彰するために作られた記念博物館、
「ソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム」を、たまたま
コロナ肺炎以前に見学していたことから今回のシリーズ制作となりましたが、
案の定そうやって知識を得ていくと、今まで見逃していたものごとが
急に意味をもってクローズアップされてくるという現象がありました。

歴史家でもジャーナリストでもないわたしがアフォリエイトでもない
無料のブログ(というか逆にブログの写真掲載のために月会費を払っている)で
今までいろんなことを追求してきた意味のほとんどはそこにあります。

今まで曖昧糢糊としていた知識が、ある場所に踏み込んで行った途端
ぱっと開けて旧知のものごとと繋がったときの喜びと興奮は
何ものにも替え難いというほどのものではないにしろ、
当ブログ継続の大きなやる気と動機になっているのは間違いありません。

今回の滞在では当初予約していたホテルから一方的に予約をキャンセルされ、
野球場の道向かいにあるホテルに変更することになったのですが、
これが今にして思えば結構な「あたり」で、ゲームが中止になっているおかげで

シーズンなのに周りが混雑することなく、交通至便であることがわかりました。

川沿いの遊歩道にホテルから歩いて出られて散歩コースにはことかかないし、
ダウンタウンのように夜になると周りに怪しげな人がうろついていることもありません。

 

というわけで毎日せっせとあちこちを探索しているわけですが、
到着して次の週末に遊歩道の公園を歩きにいったら、なんとそこが

「フォートピット」という砲兵工廠があった場所であることがわかりました。

当時の煉瓦造りの建物を利用した博物館があり、おそらくここでは
南北戦争時代の遺物なども展示されているのだと思います。
コロナのおかげで閉館していましたが、こういうのも偶然とはいえ、
たまたま南北戦争について調べていた最中であったことを思うと不思議な気がします。

ここには1754年に構築されたピット要塞の一部が保存されています。
ピッツバーグに残された最も古い建築物と考えられているとか。

南北戦争時代、ここはピット要塞として北軍の司令部ともなっていました。

さて、それでは南北戦争関係展示の続きをご紹介していきます。
ケースごとにテーマがあるようなのですが、ここにはこんなことが書かれています。

「北軍兵士が着用した『普通と違う』ユニフォームのいろいろ」

ほとんどの人たちは南北戦争のユニオン=北軍のユニフォームは
ダークブルーだと思っておられるでしょう。
確かにそれは間違っていはいませんが、その間、ユニオンブルーとは
少し違うタイプのユニフォームを着ていた組織もありました。

この見るからに民族的なユニフォームの男性はズアーブ(Zouave)兵です。
右下のズアーブ兵はノア・パンバーン上等兵といい、ロバートE.リー将軍の正式降伏と
仮釈放に出席するために選ばれた155番目からの小さな派遣団の1人でした。

彼は戦後も連隊のヴェテランとして様々な催しに
ズアーブ兵のユニフォームを身に付けて参加していたということです。

ユニフォームは彼の死後、息子によって当会館に寄付されました。

南北戦争時のズアーブ兵

アルジェリア・チュニジア人が中心となったフランス語を喋る兵隊で、
南北戦争は義勇軍として北軍・南軍のどちらにもズアーブ兵部隊がありました。

第155ペンシルバニア志願連隊は最も有名なズアーブ兵部隊でした。
北軍のブルーをあしらったユニフォームに赤いサッシュベルトをしています。

彼らの民族衣装はファッションにも影響を与え、
ゆったりしたパンツは「ズアーブパンツ」、丈が短くノーカラーで
トリムのあるボレロ 風の上着は「ズアーブジャケット」。
この言葉は今でもアパレル用語として使われています。

ゆったりしたパンツはサルサパンツと言うこともありますが、
ズアーブパンツというのもよく使われる用語です。

エルマー・エルズワース少佐 Elmar Ellswarth

このシリーズが始まってすぐ、「ジョン・ブラウンの亡骸は墓土の下」という歌詞の
「グローリー・ハレルヤ」というタイトルの曲をご紹介したと思いますが、
そもそも、ジョン・ブラウンって誰?といいますと、南北戦争時代、
人種差別=黒人の奴隷制度に反対し、南部の武器組織を急襲して失敗、
死亡した人物であったのです。

いまでもいろんな替え歌ができているこの曲ですが、当時も

「エルズワースの亡骸は墓土の下」

という替え歌がありました。
オリジナルができてから数年後には替え歌ができていたということですから、
あらためにこの曲の汎用性の高さがわかりますね。

そのエルズワースというのがこのエルマー・エルズワース少佐で、
なぜ彼が歌に歌われることになったかというと、彼こそは

「南北戦争が始まって最初に死んだ将官」

であったからです。

Elmer Ellsworth

その写真がなぜこの一角にあるかと言うと、彼はズアーブ士官候補生部隊を率いていたからです。
リンカーンの大親友でご覧の通りのイケメン士官でもありました。

その死に方というのがなかなか不条理なので、説明しておきます。

エルズワース少佐は、占領した南部の街にあったアレキサンドリアホテルに
南軍の旗が掲揚されていたのを見て、オーナーに無断で屋上に上がり、
オーナーに無断で旗をナイフで切り落として意気揚々と降りてきたところを
オーナーであったジャクソンという男にいきなり撃たれてしまったのです。

この版画は階段を降りてきたエルズワースをジャクソンが撃ち、
エルズワースの部下が銃剣を構えてジャクソンに向かっています。

部下であったこのズアーブ兵は上で紹介した写真のフランシス・ブラウネル上等兵で、
少佐がやられた次の瞬間問答無用でジャクソンを倒しました。

リンカーンはこの親友の死を嘆き、彼の遺体は大統領権限で
ホワイトハウスの一室に
一時納められていたということです。

Veteran Reserve CorpsVRCの制服です。

日本語で言うと「古兵予備軍団」ですが、実態は、障碍を負っていたり
衰弱した軍人および元軍人からなる部隊で、南北戦争時代、北軍にのみ存在しました。

彼らは前線で必要とされる健常な兵士らに代わって軽作業等に従事していました。

第21VRC歩兵連隊B中隊の兵士

傷病兵軍団のユニフォームは一般部隊とは違うデザインで、ここにもあるように、
ジャケットは空色のカルゼ地、紺色のトリム、

騎兵用ジャケットと同型の裁断、腰/腹部にかかる丈です。
ズボンはジャケットと同じ空色でした。

写真の右袖に見える階級章の裏布はトリムと同じ紺色です。

VRCには将校もいて、空色の布地に襟および袖口に
紺色のベルベットをあしらったフロックコートが支給されましたが、
空色は汚れが目立ちやすいと現場からクレームでもあったのか、
後には通常部隊と同様の紺色のフロックコートの着用が許可されています。

VRCの軍楽隊です。

軍楽隊員というのは当時の基準でいうところの
「軽作業部隊」「invalidな人でもできる部隊」とされていました。

それにしても「古兵」といいつつ若く見える人ばかりですね。
健康そうに見えてもどこかに具合の悪いところがあるのでしょうか。

ここの説明に

”Invalid Corps"=傷病兵部隊

が別名だったと書かれていますが、
実際はこちらが最初の正式名であったのです。

しかし、イニシャル「I.C」廃品(Inspected-Condemned)を想像させ、
この部隊名が士気に悪影響を与えているということになったので、
南北戦争期間中に名称をVRCに変更することにしたのでした。

2大隊からなっており、一等大隊には障害が比較的軽い者が配属されました。
軽い、つまりマスケット銃を扱えたり行軍ができる程度の能力があれば、
警衛や憲兵(Provost)としての任務に従事できました。

二等大隊はより深刻な、例えば手足の切断やその他の大怪我を負った者が
料理人、倉庫番、看護師、公共施設の警備員の任務に配属されるために組織されました。

古兵予備軍団は24個連隊を擁し、各連隊は1個師団および3個旅団が編成され、
いかに対象となるような将兵が増え続けていたかがわかります。

障害が軽度であるとされた一等大隊員は二等大隊員の2倍から3倍程度いて、
次のような任務に就いていました。

捕虜収容所の看守

徴兵の執行

憲兵隊長(Provost marshal)補佐

前線と後方の間の交代兵員の移送

新規入隊者、捕虜の護送

鉄道の警備

ワシントンD.C.での警邏

動乱の際の市街の防衛

戦争を通じて、60,000人以上の陸軍将兵が古兵予備軍団に参加し、
そのうち1,700人がいわゆる殉職しています。
このうち戦闘における戦死者は24名でした。

連合国軍(南軍)にもこの種の傷病兵部隊が存在したそうですが、
北軍ほど組織化された者ではなかったようです。

 

ちなみに、1865年7月7日、リンカーン大統領を暗殺したとされる
共謀者4人の絞首刑が執行されていますが、これを担当したのは
第14古兵予備連隊F中隊から派遣された4人の兵士でした。

ついでのついでに、よくご存知かもしれませんが、
この時に絞首刑になった4名の顔写真をあげておきます。

Mary Surratt.jpgメアリー・サラット

Lewis Payne cwpb.04208 (cropped).jpgルイス・パウエル

David Herold retouched.jpgデビット・ヘロルド

George Atzerodt2.jpgジョージ・アツェロット

の女性を含む4名で、刑の執行場所はマクネア砦でした。

Here's Where the Lincoln Co-Conspirators Were Hanged in DC 150 Years Ago |  Washingtonian (DC)

処刑台の近くに2名兵士の姿が見えますが、これがVRCから派遣され
執行を行った後の4名のうち2名の兵士であろうと思われます。

リンカーン暗殺とその後の処刑についてはもう少し後で
詳しく説明したいと思います。

 

南北戦争が終結すると、必要性もなくなり、古兵予備軍団の部隊は
1866年までにほとんどが消滅し、残っていた部隊も普通連隊と統合され、
古兵予備軍団は完全に消滅することになりました。

 

続く。

 


ゲッティスバーグルーム〜ピッツバーグ ソルジャーズ&セイラーズ 記念博物館

2020-09-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

南北戦争に参加した全ての軍人たちを顕彰するために
1910年代からここピッツバーグに作られた、
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
略称SSMM、最初に誰もが足を踏み入れるのは、

「ゲッティスバーグ・ルーム」

です。

ここにはSSMMの壮麗な建物の歴史を物語る写真もありますが、
最も目を引くのがこの

アレキサンダー・ヘイズ准将(1819-1864)

の巨大な肖像画です。

ヘイズはペンシルバニア州出身で、この近くの墓地に墓所があるのですが、
南北戦争前、土木建築技師となってピッツバーグ市内に架かる
橋梁建設のプロジェクトに関わったことからこの特別な扱いになったようです。

ヘイズは士官学校の成績が25人中20位だったということですが、
その当時は一学年がそんなに少なかったというわけですね。

ちなみにその後南北戦争が起こり軍役に復帰した彼は
ゲティスバーグの戦いで戦功を挙げましたが、
ポトマック軍との戦いでミニエ銃の弾を頭に受けて亡くなりました。

Alexander Hays.jpg

44歳で准将というのもすごいですが、この写真どう見ても44歳には見えません。

これが「ゲッティスバーグの間」でございます。
絨毯は時々取り替えて天井も塗装し直していると思いますが、
オーク製の凝ったパネル壁面は昔の写真に写っているそのままです。

開館10日後の写真。掛けられている絵も変わっている模様。
この部屋は元々共和国大陸軍(南北戦争の退役軍人)のメンバーのための会議室でした。

部屋の真ん中にある展示物は、「パレードキャノン」(Parade Cannon)
祝砲などを撃つための大砲というのが定義でしょうか。

パレードといえば、今年の7月4日、ジュライフォースのパレードは
どこも中止になり、花火だけの建国記念日となったところが多かったようです。

それこそアメリカ建国以来初めての事態ではなかったでしょうか。

ゲッティスバーグの間には二つだけ展示があります。
もう一つがこれ、

Limber and Artillery Chest

リンバー=前車というのは、大砲のの架尾や砲弾車(caisson、ケーソン)、
などの後部を支えて、牽引を容易にするため2輪の荷車のことを指します。

どう見ても4輪だが、とおっしゃるあなた、確かにそう見えますが、
実は前車はやはり2輪なのでございます。

この1860年当時の前車とケーソン(砲弾車)、
左側が前車で2輪、やはり2輪の砲弾車と組み合わせて4輪で使用します。

つまり写真は、向こう側の2輪がリンバーで、こちらの「武器箱」は
2輪の車と一体型になったものであるということです。

南北戦争の英雄たちの写真・・・なのですが、我々日本人には
よっぽど有名な軍人でもない限り聞いたこともない名前ばかりです。

この人たちはペンシルバニア州から北軍に参加した将官です。

左から、

デビッド・グレッグ准将 農場主、外交官

David McMurtrie Gregg.jpg

退役後一般人の生活があまりにつまらないので、もう一度
軍隊に入れてくれ!と頼んだけど断られた人。

ストロング・ビンセント准将 弁護士(ハーバード卒)

Strong Vincent.jpg

ミシガン軍との戦いで弾丸が太腿の付け根を貫通しその後死亡。
享年26歳(それで准将って・・)

サミュエル・W・クロウフォード将軍 軍医

Samuel W. Crawford - Brady-Handy.jpg

軍医として軍隊に参加しながらいつのまにか指揮官になっていた人。

ジョン・F・レイノルズ少将 職業軍人

GenJFRenyolds.jpg

北軍で最も尊敬された上級指揮官の1人。
ゲティスバーグの戦闘開始直後に戦死。

レイノルズが首を撃たれた瞬間が版画化されていました。
ほとんど即死状態だったということです。

さきほど「日本人はほとんど名前を知らない」と言い切りましたが、
この4人についてはちゃんと日本語のWikiもあり、どうやら
南北戦争に詳しければ知っているというくらい有名であることがわかりました。

南北戦争当時ここピッツバーグのアレゲニー郡には1814年から100年間
アーセナル(武器弾薬庫)があったのでその関係の資料が集められています。

奥の版画にも描かれているように女性が弾薬を巻く仕事に携わっていました。
男性軍人が監督を務め、作業室は「ラボラトリー」と称していたそうです。

右奥に見えるのが彼女らの「巻いた」弾薬カートリッジ。

南北戦争で北軍が使用した砲弾(Artillery Shell)の断面です。
ここアレゲニー武器弾薬廠で生産されたものです。

Civil War Artillery Projectiles – The Half Shell Book by Historical  Publications LLC - issuu

炸薬で破裂すると、内部に仕込まれた小球が飛び散って
破壊的なダメージをもたらすというわけでなかなかエグいです。

このケースには当時の衣装や装備などが収められています。

当時の士官たちのイケてる軍隊生活の一コマ。

ピッツバーグにはリベラルアーツのDuquesne universityという大学があります。

フランス語式にSは無音で「デュケイン」と読むのですが、この語源は
独立戦争前に入植してきたイギリス人とフランス人(+インディアン)の間で起こった
フレンチ・インディアン戦争(1754〜63)に遡ります。

その戦場となったのが現在のピッツバーグで、その名前も
当時のイギリスの首相だったウィリアム・ピット(小ピット)に由来しているのです。

OlderPittThe Younger.jpgピット

このときイギリス軍バージニア民兵隊を指揮したのは21歳のワシントン少佐
ポトマック川を上ってフランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」のある
フランス軍の「デュケイン砦」を目指したという話が残っています。

その後デュケインは地名として使用されるようになり、この写真の
「デュケイン・グレイ」はこの地域で米西戦争の際結成された歩兵隊の名称で、
制服のグレイが名称に取り入れられています。

色や肋骨服のデザインはウェストポイントの制服に通じるものがありますね。

エポーレット付きの肋骨服にサッシュという正装をした

ジェームズ・S・ネグリー准将(1826-1901)

地元の出身で(ピッツバーグ大卒)、「ストーンズリバーの戦い」では
北軍の勝利に大きな働きをした軍人です。


こちらは1850年ごろ、つまり南北戦争の前のドレスユニフォームで
名称は「ピッツバーグ・ブルー」といいました。
袖章から、軍楽隊のメンバーの制服であることがわかります。

この頃は戦前ということもあり、制服はこのサッシュ(帯)
に見られるように装飾的で軽い着心地を追求する傾向がありました。

ドレスユニフォームの肩に付けるこのような飾りの房を
「エポーレット」(フランス語で”肩”)といいます。

上のシルバーのものは1812年製であることがわかっており、
1850年製の金色のケース入りエポーレットと比べると素朴な作りです。

どちらも初級士官のドレスユニフォームのためのものです。

1800年ごろからペンシルバニアではマスケット銃の生産を行っていました。

この図は、1836年に発行されたマスケット銃による銃撃に必要な
「11のステップ」を図にした歩兵のドリルのためのマニュアルです。

ドラム型の「キャンティーン」つまり水入れです。
ドラム形状の側面は、「スターブ」と呼ばれる木片でできており、
周りを鉄のバンドで固定されています。
内部に水が注がれると、木が膨張してしっかりと密閉されます。

木製のキャンティーンは1800年から1850年くらい、南北戦争前まで
兵士たちの間で使用されていました。

このキャンティーンには「SNY」とペイントされた跡があり、
ニューヨークステイトの意味だということです。

手前の銃はフレンチモデルの42型パーカッションピストルということですが、
ちょっとググったら普通に売買されていてちょっとびびりました。

アンティーク銃売買サイト

安いのは100ドルから上は天井知らず?(とはいえせいぜい1000ドルくらい)
どれも説明を読んでみると、普通に使用できるみたいなんですよね。

まことについでながら、同じサイトで日本の鎧兜を扱っていました。

江戸時代の武士の鎧

兜付きでスタート3000ドル。安いのか高いのか。

続く。

 


ソルジャーズ&セイラーズメモリアルホールと博物館〜南北戦争のヴェテラン

2020-09-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

ペンシルバニア州はアメリカでも最も古い州の一つです。
その中でもピッツバーグは古くは鉄鋼で栄えた街で有名で、わたしなども
実際に行くまでは「鉄鋼の街」「工業都市」をイメージしていました。

イメージを大いに助長したのはビリー・ジョエルの「アレンタウン」という曲で、
あの曲の効果音に入っていた鉄鋼を打つ音がどこからでも聞こえてくるような街だと
今にして思えばとんでもない勘違いをしていたものですが、
現代のピッツバーグは
アメリカの中でも住みやすい都市として
トップに名前を連ねています。


さて、歴史のある街らしく、古い様式の石造りの教会などが数多く残り、

1700年代に創立のピッツバーグ大学や工学系の名門校カーネギーメロン大学、
自然博物館などが集中するオークランド地区の一角に、

Soldiers and Sailors Memorial Hall and Museum
兵士と水兵の記念ホールおよび博物館

があります。
滞在時に見学して参りましたので、シリーズとしてご紹介していきます。

SSMMはその名前が表すように、アメリカのために戦った軍人を顕彰する
慰霊施設であると同時に、軍事博物館でもあります。

このビザンチン様式絵画みたいなタイルの貼ってあるところが
地下にある駐車場から出てくる階段となります。

わたしが見学した時にはまだコロナ前で、地下にある駐車場は
ピッツバーグ大学のオリエンテーションに参加する父兄の来訪のために
無料で解放されていました。

 

ピッツバーグの歴史的建造物で、かつランドマークであり、
国の歴史遺産に認定されているこの建物は、創設以来
軍事に関わる収蔵品の保存と全ての退役軍人たちを称えるための
会合などが行われてきました。

まずは建物の正面に足を運んでみましょう。

フランスの新古典主義の手法による「ボザール様式」は
1800年代後半から1900年にかけて流行した建築様式です。
イタリアやフランスのバロック&ロココのエッセンスが取り入れられています。

市庁舎やカーネギーメロン大学の学舎など、市内に多くの建築を残した建築家、
ヘンリー・ホーン・ボステル(1867−1961)が設計し、1910年に完成しました。

"Lookout"


まずわたしが足を運んだのは水兵のブロンズ像の前です。

望遠鏡を持ってたたずむそのセーラー服の襟は風になびき、
彼が今海を望む場所に立っていることがわかります。

彫刻家フレデリック・ヒバードが開館して10年後制作したもので、
「Lookout 」(監視、見張り)という題名が付けられています。

"parade Rest"

水兵像とはファサードを挟んで反対側に兵士像があります。

同じヒバードの作品でこちらの題名は「Parade Rest」
分列行進の「止まれ」の状態の陸軍兵士の姿です。

制作年は水兵像より1年後で、彫刻家がまず水兵像、
続いてこちらを手掛けたことがわかります。

製作年月日から想像するに、これらの像は第一次世界大戦で犠牲になった
兵士と水兵を顕彰するためにここに設置されたのに違いありません。


ところでヒバードの作品には南北戦争関連のものも多く、
 たとえばグラント将軍の像などもあるわけですが、この度のBLM関係で
作品が引き倒されたり落書きされたりということはあったんでしょうか。

”America"

兵士と水兵を従えるようにファサードの中央にあるのは、
剣を携えた女神像で、彫刻家チャールズ・ケック「アメリカ」

 

この後館内に入って行ったわけですが、正面から入れると思いきや、
扉は閉ざされていたので建物沿いに歩き、とても博物館の入り口に見えない
小さな入り口をやっとのことで見つけて入館しました。

まずは当ホール建築の写真からご紹介です。

左上、1908年9月11日撮影の工事現場の様子

土台となる部分ができて行っている感じですね。

メモリアルホールの計画は、1891年、南北戦争が終わって14年後、
戦争に参加したヴェテランたちが中心となって起こされました。

設立に際して求められたポリシーは、

記念碑は、私たちの偉大な産業の中心地の富、知性、愛国心を
表せば表すほど、荘重で立派でで印象的なものでなければなりません」

というものでした。

その1ヶ月後の写真が下で、10月24日撮影です。
右上はその2ヶ月後12月28日で、特徴的なギリシャ神殿風の柱がもう取り付けられています。

進捗の早さは流石に鉄鋼の街の総力を挙げたプロジェクトです。

工事を請け負ったのはエイクリー(Eichley)ファームいう建築業者で、
現在もピッツバーグで設計・施工・デザインなどのビジネスを行っています。

左上:1909年の3月24日にはもうすでに大まかなフレームは完成。

右下:1910年5月、完成間近。

丘の上と右後ろに見えている建物は現存するピッツバーグ大学関連の施設です。

同じ方向から現在の写真です。

そして、1910年10月11日、晴れて完成相成り、SSMMはオープニングの日を迎えました。
メモリアルホールにおけるオープニングセレモニーの様子が二枚の写真に残されています。

ステージの上には来賓が並び、その中にはゲッティスバーグの戦いで有名な
ダン・スティックルス将軍Dan Stickles始め、
南北戦争に参加した将官(政治家になっていた人あり)が含まれました。

ステージ側から撮られたのがこちらの写真です。
客席を見るとそのほとんどが白髪の老人ばかりで、客席側の出席者もまた
南北戦争の
ベテランが中心であるらしいのがよくわかります。

実はこの二枚の写真を撮るために、会場に二台のカメラがスタンバイしており、
同時にシャッターが押されたものと思われます。

客席側のほとんどがカメラ目線になっているのにご注意ください。

後ろ側から撮影した写真には、舞台袖側に三脚を立てたカメラマンが
手を上げてこちらを見るようにと合図をしている様子が写っています。

その甲斐あって、ほとんどがこちらを見ているわけですが、
写真のご老人のばかりの中に一人だけ帽子をかぶった女性がいます。

この女性、アンナ・シャープ・マクドウェル(Anna Sharp Mcdowell)は、
ペンシルバニアの
陸軍第3連隊にとって不可欠な存在だったといわれています。

彼女の父親が陸軍の退役軍人であった関係から彼女は食事係を務め、そのかたわら
彼らのスケジュール管理などの事務的な仕事をしていましたが、歌が得意だったので
何かしらイベントがあると歌手として喉を披露し皆を楽しませたそうです。

部隊のアイドルというか、マスコットガールみたいな存在だったんでしょうか。

女性であり、さらには南北戦争の退役軍人でもなかったにもかかわらず、
彼女はこの退役軍人会の正規メンバーに認められてここにいるわけです。

記念館が完成して公式にオープンしてから10日後、
SSMM評議員における最初の会合が行われました。

その会合が行われた部屋がこの「ゲッティスバーグの間」です。
ここには、南北戦争の資料の一つとして
ゲッディスバーグの戦闘で第二軍を率いた
アレキサンダー・ヘイズ准将の肖像画が(おそらくその頃から)あります。

 

 

そして完成したばかりのソルジャー&セイラーメモリアル前に集合したのは、

National Encampment of the Union Veterans Legion(UVL)

つまり南北戦争のユニオン(北)軍の退役軍人たちで、1911年9月15日の日付です。
全員がスーツに帽子着用なのが時代ですね。

 

今ベテランの会合は、全員ベースボールキャップ(部隊マーク入り)
にボマージャケットか夏ならTシャツの集団になることでしょう。

こちらはさらにその11年後、1922年のUVLの「戦友会」ですが、
さすがに少しだけ人数が減っている感じです。

わたしなどまたしても、

「ブルーのために戦ったのか、それともグレイだったのか」

「ゲッティスバーグの演説を聞いた思い出を彼は語る」

「彼らはいつかこの世からいなくなるだろう。
その時この世界はどんなに寂しいものになるか」

と南北戦争のベテランのことを歌ったスタンダードナンバー、
「オールド・フォークス」(Old Folks)を思い出してしまうわけです。

Carmen McRae / Old Folks

 

ちなみにピッツバーグのあるペンシルバニア州はアメリカ合衆国側(北軍)でした。

我々日本人にはいまいちピンとこない

北軍=ユニオン
南軍=コンフェデレート

という名称ですが、
地図にするとこんな感じです。

薄紫は合衆国にとどまった奴隷州となります。

ちなみにカリフォルニアは北軍側ですが、今回、
サンフランシスコにあったグラント将軍の銅像は、
BLMの皆さんによって
きっちり破壊されております。

どうもよくわからないのですが、奴隷解放を旗印にしていたはずの
北軍の将軍も許されないっていうのはどういうことなんですかね。

わたしなどニュースで「風と共に去りぬ」を放送禁止にしようという動きがあると聞いて、
こいつら本当にこの小説を読んだことあるのか?と情けなくなりました。

 

 

名前が書いてあるだけでどういう人たちかわからなかったのですが、
一人ひとり検索してみると、

1937年、南北戦争のベテランであるルイス・マラゼー(一番右)が
85歳でピッツバーグの自宅で亡くなった

というニュースが引っかかってきました。

南北戦争のベテランで、1927年にここで行われた戦友会にやって来たのは
この人たちだけだったとということになります。
ニュースによると、マラゼー氏がなくなったのはこの会合の10年後。

南北戦争が終わったのは1865年ですから、1852年生まれのマラゼー氏は
終戦時わずか13歳の「少年兵」ということになり、最年少組です。

13歳で戦争に参加ってそれはないんじゃないか?
と思った方、南北戦争には普通に子供が参加していたんですよ。

The Civil War's Child Soldiers: "Danny Boy"

海軍の水兵の制服の子、一人だけですがアフリカ系の少年もいます。
おそらく年格好から言って、写真の一人(左から3番目)を除く6人は
ビデオの写真のような「子供連合軍」だったのでしょう。

写真を見ると、下手すると10歳くらいの子供兵士の姿もあります。
だからこそ、南北戦争のヴェテラン=オールド・フォークスは、
第二次世界大戦が始まる寸前まではまだ生存していたのです。


次回からはソルジャー&セイラーメモリアル・ミュージアムの展示を
順にご紹介していくわけですが、展示の目的であったところの
南北戦争関係の資料からということになります。

 

続く。

 

 


「秋の日のヴィオロンの」 エニグマとMCRラジオ〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

新しい戦争形態である「ブリッツクリーク」への準備段階で、
ドイツ軍は陸軍部隊があまりにも速く前進するのに対し、
ケーブル式通信では間に合わず、その結果として、
短波の無線に頼らざるを得ないことを認識し始めました。

しかしその形では誰もが短波で送信されたモールス符号を聞くことができるため、
今度は情報の漏洩が懸念されるようになります。
そのため新しく完璧なコードシステムと送信する暗号機が開発されました。

それがエニグマ(Enigma)です。

1918年に特許が申請されて以来、軍が軍用エニグマを完成させ、
運用を
開始したのが10年後の1926年のことです。

ドイツはエニグマ暗号機のシステムに絶対の自信を持っており、
それが決して破られることはないと終戦まで信じていました。

血の滲むような努力によって解読に成功したあとも、
連合国側は解読した事実をドイツ側に悟られないように、
ときには自軍の犠牲をもみて見ぬふりをするという徹底した方針をとり、
ドイツ側を安心させて使い続けさせていたのです。

基本的に、陸軍版エニグマには3つのローター(暗号円盤)があり、
これらのローターの順序は指示シートに従って毎日変更されました。

写真のエニグマは、ドイツ海軍で使用されていた4ローター式のエニグマで、
1942年まで使われていたタイプです。

ローターは奥に見えている4つのスロットに収まった歯車状のもので、
手前がキーボード、本体手前もまたキーボードです。

パソコンの単体キーボードのように使っていたのかもしれません。

これは予備の持ち運び用ケースに入ったローターです。
蓋についているコードについては後述します。

 

キーボードとローターの間にあるのが「ランプボード」で、
キーボードで平文の一文字を打ち込むと、ランプボードの一つが点灯し、
それが暗号文字として表示されます。

逆に暗号文を受け取った時も、キーボードで暗号文を打ち込むと、
あら不思議、ランプボードには平文の方が出てくるという仕組みです。

これさえあれば、全く頭を使わずに暗号の発信と受け取りができるというわけ。

一つのローターで、アルファベットの数26!の多表が得られるので、
3つのローターエニグマで可能な設定の数は、2 x 10から145の累乗となります。

エニグママシンは、極秘の指示シートに従って最初にセットアップする必要がありました。

この指示シートがエニグママシンと一緒敵の手に渡るとコードが危険にさらされるため、
(実際に撃沈したUボートの乗員のポケットからこれが見つかったことがある)
各メッセージに独自のコードが含まれるように、間違いのないシステムが考案されました。

 

それでは、エニグマの暗号の送り方を簡単に説明しておきましょう。

1、送信オペレーターはランダムな3つの文字を選択します。

2、続いてローターをそれらの文字に設定し、これらをモールス符号で
受信する側のエニグマオペレーターに送信します。

3、受け取ったオペレーターはローターをこれらの3文字に設定します。

4、送信者は先ほどと違う3つの新しいランダムな文字を選択し、
それらを自分のエニグマに入力して、3つのエンコードされた文字を得ます。

5、彼はこれらをもう一度無線で送信し、受信側のエニグマオペレーターは、
これらの3つのエンコードされた文字を自分のマシンに入力します。

6、受信側のエニグマオペレーターは、3つのローターを設定し、
送信側と受信側の両方で、マシンを同期させます。

 

これも後述しますが、このオペレーターが人間であるのが災い?し、
「癖」とか「手間省き」という慣れから来る運用の雑さがでることで、
連合国は解読の手がかりをつかんだという面もありました。

ドイツ軍人は、エニグマの機械が敵の手に落ちることを
決して許さないように厳しく指導されていました。
オペレーターは、敵軍に囲まれた場合、または艦艇や潜水艦の乗組員は、
艦が沈没することになれば、必ずエニグマを破壊して脱出しました。
(うっかりポケットに入れたままつかまってしまった人もいますが)

このエニグマは、どういう状況かまではわかりませんが、
ドイツ軍の手によって破壊されたものです。
ローター部分は持ち出して別に破壊したらしくその部分は空洞になっています。

 

このエニグマの前面には数字の打たれたプラグ穴がたくさん開いていますが、
この部分を「プラグボード」といい、後から追加されたシステムです。

プラグボードは野戦で使用される暗号機が盗まれたり鹵獲されたりする事態に備え
後期型に追加されたシステムで、ご覧のようにアルファベット26個分の
入出力端子がついていて、こんな使い方をします。

wiki

任意の二組のアルファベットを、ケーブルで繋ぐと、
文字を入れ替えることができる仕組みで、たとえばこれは
「A」と「J」、「S」と「O」を入れ替えている図です。

戦争中、エニグマのローターに対するオーダーとプラグボードの基本設定は、
8時間ごとに、その後1時間ごとに変更され、また、
ローター設定、個​​々の文字は、すべてのメッセージごとに変更されました。

これは展示されていたエニグマ。
プラグボードにあらん限りのコードを突っ込んでみましたの例。


ちなみにエニグマ本体の上に乗っているのは専用プリンターです。
このプリンターを載せることで、ダイレクトに紙テープにコードがプリントされました。

現存しているエニグマ用プリンターは世界でたった3機で、
ここにはそのうちの一つがあるというわけです。

 

関係各位の努力の結果、エニグマは初期型からすでに解読と、それを知った
ドイツ側がプラグボードなどの追加で暗号を強固にしていくという
いたちごっこと、波状攻撃の繰り返しが延々と行われました。

冒頭に挙げたこのエニグマ暗号機は、なんと10ローター式。
T-52というタイプで、ジーメンス社が制作を請け負いました。
使用者も軍の最高司令部とスウェーデン・スイスの大使館に限られていました。

ここにあるのは、世界で現存する5機の同タイプのうちの一つです。

ローターが3つ、及び4つのマシンで送信されたメッセージを
デコードするのにかかる平均時間は1時間でしたが、
このマシンで送られたメッセージのデコードには4日かかったそうです。

左は3ローターのエニグママシン。右は4ローター式です。
右の4ローター式は海軍で使用されていたものです。

 

さて、繰り返しますが、ナチスの絶対的な自信にもかかわらず、
イギリスは1941年にメッセージを解読することに成功しました。

これは、1932年に初期のエニグマ解読を行った若干27歳のポーランド人
数学者、マリアン・レイエフスキの貢献が大でした。

マリアン・レイェフスキ - Wikipediaマリアンだけど男です

連合軍の指導者たちは、最終的にはイギリスのブレッチリーパークにあった
政府暗号学校(特にアラン・チューリング)の解読が
二次世界大戦の勝利に貢献したと信じています。

ドワイト・アイゼンハワー司令官は、エニグマ解読が勝利を決定づけたとし、
ウィンストン・チャーチルは、イギリスのシークレット・インテリジェンスサービス
SIS、またはMI6)の責任者であるスチュワート・メンジーズを、
国王であるジョージ6世を紹介したとき、彼を自分の「秘密兵器」を紹介し、
エニグマ解読チームが「戦争に勝つためのツールだった」として賞賛しました。

ヒンズリー(左)

ブレッチリーパークでチューリングとともにコードブレークを行った
ハリー・ヒンズリー卿は、彼と自分の同僚が、戦争を
「2年以上、おそらく4年」短縮したと主張しています。

彼は、第二次世界大戦後、イギリスの諜報活動の歴史の専門家になりました。

 


戦争が終わったとき、連合軍が最も恐れたのは、ソ連がこちらより早く
エニグマの機械を捕獲し、中身を改良して利用することでした。

ですから彼らは、エニグマのマシン提供に7500ドルの報奨金を提供し、
博物館に寄贈される予定にないマシンのすべてを破壊したとされます。

 

ところで、エニグマが解読された理由やきっかけはいくつもありましたが、
その一つが先ほども述べたように

「エニグマ運用の際の心理」

を追求することによって突破口が開いた例でした。

特にドイツ側ではエニグマが決して破られることはないと安心していたため、
送信オペレーターは、ついつい油断して、これらすべてのランダムな文字を
毎回新しく設定する必要はないと考える傾向にありました。

彼らは、自分にとって日常的なルーチンをこなしているこの瞬間にも
暗号解読は試みられていることに気づいていなかったのです。

というわけで、ドイツの送信オペレーターが無意識に選んでいた
最も一般的な
「ランダム」な6文字ベスト3はというと、

HITLER

BERLIN

LONDON

だったそうです。
全然ランダムじゃねーじゃん!
とおそらく連合国のコードブレーカーは心の中でツッコんだことでしょう。

ある「怠け者の」オペレーターなど、よっぽど変えるのが面倒だったのか、
戦争中ずっと「TOMMIX」の六文字を一度も変えずにを使用していたそうです。

これ自分の名前からとった(トーマスとか)とかだったら笑うな。

クレジットカードは取得された時に備えて、暗証番号に
推測されやすい誕生日などを使っちゃダメ、
と今でもいいますが、
こういうことなんですよね。

さて、話題を変えて、こんどは連合国軍側の暗号についてです。

ナチスに征服された国の一部の市民はその支配を受け入れましたが、
受け入れがたいとした人々は、占領者に抵抗するために
レジスタンスとなって大きな個人的リスクに身を置きました。

同盟国はさまざまな方法でこれらのレジスタンスグループと連携し、
彼らを外からサポートしようとしました。

イギリスの特殊作戦執行部(SOEやアメリカの
戦略サービス局(OSS)などの諜報機関は、
秘密裏に支援をおこないつつ、敵に関する情報を密かに収集しました。

第二次世界大戦で戦った両陣営は互いに心理戦を行いましたが、
特にこの手の技術に優れていたのイギリスだったそうです。

彼らはあたかも本物のようなドイツの新聞、配給カードや文書を制作し、
敵を撹乱し騙すことにかけてはヨーロッパ一ともいわれていました。

さすがのちのスパイの本場です。
ところでこんな話をしていたらふと、

「ジェームスボンドになりたかった男・イアンフレミング」

をまた観たくなりました。

ヨーロッパ全土のレジスタンスグループは、BCRブロードキャストと
それらに含まれることがあるコード化されたメッセージを聞くために
MCR-1ラジオなるものを利用しました。

MCRラジオは特殊作戦執行部隊(SOE)のジョン・ブラウン大佐が開発した
秘密受信機です。

SOEと特殊部隊による使用を目的としており、水密に密封された
缶詰スチールビスケット缶で配布されたため、
「ビスケット缶レシーバー」というニックネームが付けられました。

信頼できる定期的なコミュニケーションを確立することは、
ドイツの占領に対するレジスタンス活動にとって不可欠だったので、
第二次世界大戦中、MCR-1は多くのヨーロッパ諸国で、
レジスタンスグループに非常に人気のある受信機になりました。

BBC放送の受信、英国首相のスピーチ、およびその他の国の首脳の言葉。
多くが占領下のヨーロッパに向けて密かに発信されました、

レジスタンスのためにメッセージをコード化して
放送中に紛れ込ませて伝えるということもありました。

たとえばVIPの到着や次の爆撃の確認などです。

有名な話では、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の際
SOEがフランス各地のレジスタンスに工作命令を出すための暗号放送として、
ヴェルレーヌの「秋の歌」の冒頭が使われたというのがあります。

具体的には「秋の日の・・・」が何かの形で朗読されれば
「近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦がある」

後半の「身にしみて・・・」なら、
「放送された瞬間から
48時間以内に上陸作戦が行われる」

そのことは前もってこのMCRラジオを通じて連絡されていました。

「秋の日の」は6月1日・2日・3日、それぞれ午後9時のBBCニュースの中で
「リスナーのおたより」として流され、「身にしみて」は
6月5日午後9時15分から
数回にわたって放送されました。

こんなに何度も同じ詩のフレーズを短期間に紹介すれば気づかれるのでは?
しかも秋の日でもなんでもない6月に。

と思ったのはわたしだけではなく、もちろんドイツ側は暗号を解読しており、
ラジオをチェックしていた軍は上陸作戦の暗号だと察知しました。

しかし、詰めが甘いというのか、いくつかの部隊に連絡がついたものの、
肝心の
ノルマンディー地方にいた第7軍に連絡がつかず、
一番大事な警報が伝えられるべきところに伝えられなかったそうです。

・・・・・ドンマイ。

 

続く。

 

 

 


ウェストポイントの体力錬成〜ウェストポイント軍事博物館

2020-05-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウェストポイント軍事博物館の展示より、今日もウェストポイントの歴史に関わるものをご紹介していきます。

現在も残る校舎、「セントラルバラック」前に整列するカデットたち。
1900年撮影。

同じ頃、砲術の訓練ですが、指揮官が馬の上にいることに注意。

わたしが撮った写真に写っているバトルモニュメントが遠くに見えています。

ウェストポイントには、ハドソン川の流れを望む高台があり、
大砲や記念碑などが展示してあるトロフィーポイントという一角があります。
映画「長い灰色の線」でもしょっちゅう出てきたところですが、
そこで1870年に撮られた写真です。

南北戦争真っ只中といった時期ですが、ご存知の通り
この戦争は、同じアメリカ人の間で起こった戦争であるので、
その間ウェストポイントの候補生たちがどのようになっていたのか、
日本人のわたしがどれだけ検索してもインターネットではわかりません。

かなり古い時代(1800年ごろ?)点呼を取っているところでしょうか。
後ろの人があくびしています。

1873年、サマーキャンプの一コマ。

今はコロナでそれどころではなくなっているのですが、
平常であればアメリカの学制は9月から6月までです。
この3ヶ月もの間が
夏休みということになるのですが、その間学生が
何もせずに遊んでいられるわけではありません。

子供は子供でサマーキャンプに通わされますし、大学生になれば
夏は大学の主催する集中講義やあるいはインターンシップで
企業に就職して実地経験を積み、それが大学の成績にも反映されます。

夏の間のキャンプや講座は「別腹」なので、当然費用も別にかかり、
日本のように1ヶ月だけ休みになる方が親にとっては楽だといえます。

話がそれましたが、陸軍士官学校でももちろん夏の間
遊ばせてくれるわけではないということですね。

ところで、この写真の後列一番左に写っている候補生をよく見てください。
不鮮明ながら彼がアフリカ系であることがわかるでしょう。

Cadet Henry O. Flipper in his West Point cadet uniform. It has three larger round brass buttons left, middle and right showing five rows. The buttons are interconnected left to right and vice versa by decorative thread. He is wearing a starched white collar and no tie. He is a lighter-colored African American with plated corn rows of neatly done hair. He is facing the camera and looking to the left of the viewer.

ヘンリー・オシアン・フリッパー
Henry O. Flipper1856-1940(1877年卒)

は、以前も
バッファロー大隊(黒人ばかりの陸軍部隊)の件で紹介したことがあります。
彼はアフリカ系としては史上初めてウェストポイントを卒業し、士官になりました。

ただし、不当な差別の連続でついには不名誉な解雇をされており、
彼の名誉が回復されたのはクリントン政権下でのことです。

 

1800年後期、候補生ジャケット。

右側、候補生フル・ドレスコート。
日本では「肋骨服」と呼んでいたもので、現在のフルドレスも
基本的にはこの頃と変わっていません。

1896年ごろの士官用バヨネット、つまり銃剣の先です。

MModel 1896、鞘付き。
士官候補生用ライフルが導入されると同時に同数の特別な銃剣も作られました。

これらの長い銃剣は、審美的な理由と、パレード使用のためのサイズと重量
といより実用的な理由でから、1963年まで使用され続けました。

この長期間にわたる光沢のある鋼の連続研磨は、
銃剣に有害であったため、最終的にクロムメッキされました。

 

フルドレスで捧げ銃する候補生。1905年撮影。

左から右に

フルドレスのcadet First classmen、1923年。

海軍兵学校では最上級生の4年生を「1号」といいましたが、
ウェストポイントでも最上級生を「ファーストクラスメン」とします。

1899年ごろの野外戦闘服、cadet private。

cadet first sergeant

陸軍には陸軍候補生隊という学生部隊がありますが、
リクルートに始まって9段階のランクのうち
ファーストサージャント(軍曹)は下から五番目です。

Cadet Officer のサマードレス(インディアホワイト)1875年。

Cadet Corporal夏用フルドレス、1875年。

「アーミー」のAを刺繍したカデットのフットボール用セーター。
ガラスに映っているのは陸軍候補生隊の制服ファッションショーです。

野外の砲撃訓練中。おそらく第一次世界大戦ごろ。

同じく銃撃訓練。

1870年ごろの候補生用「ドレッシングガウン」。
左袖のB・O・ベイカーは所有者の名前。
ローブの裾には陸軍士官学校と海軍兵学校の間で行われる伝統のゲーム、
アーミー・ネイビー・ゲームの1930〜33年のスコアがプリントされています。

 

文武両道の陸軍士官学校ですから、体力錬成は大事な日課。
説明には Calisthenics(徒手体操)とあります。
全員が今のアメリカ人より痩せている気がします。
っていうか絶対に皆痩せてるよね。

「おいっちにーさんしー」という声が聴こえてきます(嘘)

写真が撮られたのは1904年のこと。
日本は日露戦争真っ最中のころです。

冬なのか、地面が凍り付いているように見えますね。

ウェストポイントにフットボールが導入されたのは1891年でした。
彼らは初めて結成されたフットボールチームのメンバーです。

1896年に行われた校内フットボール大会で優勝した
1898年クラスに授与された記念のトロフィーボールです。

候補生フェンシングチーム、1900年。
軍隊なので、偉い人は座っています。
髭が顧問の先生で、左はキャプテンかな。

フェンシングチーム使用のフェンシングジャケットもありました。
1908年ごろ使用されていたもので、寄贈した持ち主は
アルバート・スニード准将(1908年卒)です。

 

ところで、ウェストポイントとアナポリスの間には因縁のライバル関係があり、
とくにフットボールは「アーミー・ネービー・ゲーム」として有名である、
ということについて、当ブログではかつて熱く語ってみました。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

歴史を遡れば、史上初のアーミーネイビーゲームが行われたのは
1891年の11月29日のことです。
最初の試合は海軍のボロ勝ちで、24対0。陸軍は手も足も出ませんでした。

この年に一度の試合は、そのうち二つの軍事アカデミーの間の
ライバル関係を象徴する最も知られたイベントとなって今日に至ります。

今年はできるのかなあ・・・・。

「ジェームズ・ホイッスラー」の画像検索結果ホイッスラー画

昔、ジェームス・ホイッスラーというのちに有名な画家になる生徒が
ウェストポイントに何かの間違いで入ってしまい、
すぐに退校になった話をしたことがあるかと思いますが、彼は 
このアーミー・ネイビー・ゲームにしばしば起こる「場外乱闘」について、

「士官候補生たるもの、フィールドの外で蹴られたボールのために
他の大学などと争いが起きるなどということは厳に慎まなくてはならず、
それらは常にアメリカ合衆国の将校の尊厳の下に行われねばならない」
キリッ(AA略)

などと言っていたようです。

途中で候補生不適合のためやめてしまったホイッスラーですが、
こういうことについては不寛容でいられないほどには
軍将校に対してはっきりとした理想を掲げていたらしいことがわかります。

こちら、同じ画家によるアナポリスのプレーヤー。
背景がなぜか帆船です

フットボールのみならず、全てのスポーツ試合において、
アナポリスとウェストポイントは昔から、そして未来永劫ライバル関係にあります。

ライバル関係が拗れて(というかおそらくそういうことにした方が盛り上がるから)
試合前に相手のマスコットの動物を盗み出すという暴挙に出たり、
試合前に一人ずつ捕虜を交換して牽制し合うなどといった慣習については、
当ブログでも書きましたので、ご興味のある方は是非そちらをご覧ください。

この一角にあった凛々しい女性士官候補生の肖像画。
1996年に卒業したクリスティン・ベイカーは、史上初の女性士官候補生です。

彼女は候補生隊で4,400名からなる旅団を率いていました。
女性だから大目にみてもらっていたのではなく、マジで優秀だったようです。

「Kristin Baker USMA Wiki」の画像検索結果

現在、彼女のランクは陸軍大佐、カーネル・ベーカーです。
部下には、

「イエス、マム!」

とか言われてるんだろうなあ。

「女性か男性かはあまり関係がないと思います。
軍服を着て任務に当たる限り、ストレスに順応し、
対処する能力に男女の差はなく、もしあるとしたら個人差です」

と彼女はインタビューで語っています。

続く。

 


バトル・オブ・ブリテン〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

さて、今日のテーマは、「バトル・オブ・ブリテン」です。

まだ日本が真珠湾攻撃を行う前の1940年7月から、数ヶ月間にわたり、
ドイツ軍がイギリスに侵攻するための前哨戦として、まず
イギリス上空の制空権を奪取するために行った一連の空中戦、
これらを「バトル・オブ・ブリテン」(英国空中戦)と称します。

 

1939年9月。

ナチスがポーランドに侵攻してから2日後に、イギリスはドイツに戦争を宣言しました。
チャーチル首相が、ヨーロッパを征服する計画に干渉するな、という
ヒトラーの要求を拒否するという形になり、ドイツはこれを受けて
1940年7月からイギリス海峡を介してドイツ空軍を攻撃に向かわせたのです。

結果、イギリス空軍(RAF)はドイツ空軍に勝利し、ヒトラーに
第二次世界大戦での最初の大敗をもたらしました。

しかしドイツはこれらの軍事的損失にもかかわらず、イギリスの都市を爆撃し続け、
1941年5月まで「ザ・ブリッツ」(電撃)と呼ばれるキャンペーンを行いました。
(『1941』でダン・エイクロイドが『ドナルドがやったのか?』と言ってたあれです)

これらの爆撃で亡くなった英国市民は4万人から4万3千人に上るといわれています。

当博物館では「バトル・オブ・ブリテン」テーブルと呼ばれているものです。

このテーブルは、バトル・オブ・ブリテンの戦闘期間にRAF戦闘機司令室で使用され、
敵機とRAF戦闘機の位置情報が刻々とをプロットされたその実物です。

レーダーやその他のソースからの情報は、ヘッドホンを介して
このテーブルを担当する専門のプロッターに中継されました。

この情報には、航空機の高度、プログレッシブマップの座標、および
「フレンド・オア・フォー」(敵または味方か)の識別情報が含まれていました。

テーブルにはこのような地図が描かれており、
ドイツ空軍が到達するポイントを座標で表します。

こちらは、イギリス軍の女性部隊Women's Auxiliary Air Force(WAAF)
プロッターに情報を加えていっている様子。

ロンドンのスタンモアにあった司令部での写真だそうです。

下にいるブロンドのお嬢さんが一人何がおかしいのか笑っていますが、
上の階から見ている
おぢさんにも、顔を綻ばせちゃっている人もいます。

真面目にやれ(笑)

テーブルの写真奥に写っているのは、スピットファイアのコントロールパネルです。

これが英独軍の間で行われた空戦を高所から撮影したもの。
ドッグファイトの痕跡が空刻まれた瞬間。


左:RAF戦闘機パイロット

右:RAF戦闘機パイロット(1940年夏)

彼らの足元にある説明は、左を「夏用」としているのですが、
どう見ても右が夏用だと思います。(そうですよね)

RAFというのは皆さんもご存知だと思いますが、

Royal Air Force(英国空軍)

の略です。

 

バトル・オブ・ブリテンは114日間続きました。

その間、RAF並びに同盟国軍のパイロット544人が戦死し、
1880機を超えるドイツ軍機と1550機のイギリスの航空機が破壊されました。

たとえば、RAFの「スピットファイア」パイロットの平均余命は
4〜6週間だったといわれています。

また、この航空戦の大きな特色の一つとして、RAF戦闘機の
500人以上の搭乗員が、外国籍であったことが挙げられます。

イギリス空軍は消耗率の高いパイロット要員を補うため、
イギリス連邦諸国やイギリスの植民地だけでなく、外国からも
パイロットを採用して戦地に赴かせていました。

その内訳と参加人数です。(wikiによる)

ポーランド 145–147
ニュージーランド 101–115
カナダ 94–112
チェコスロヴァキア 87–89
ベルギー 28–29
オーストラリア 21–32
南アフリカ 22–25
フランス 13–14
アイルランド 10
アメリカ 7–9
南ローデシア 2–3
ジャマイカ 1
パレスチナ 1
バルバドス 1

カナダとオーストラリア、ニュージーランドは英連邦繋がりでわかるとして、
なぜポーランドがこんなに多いかというと、ポーランド亡命政府が
イギリス政府と協定を結び、自由ポーランド陸軍とポーランド空軍を
イギリスで編成していたからです。

そして、このポーランド人パイロットたちは戦前には高度な訓練を受けており、
さらに実戦経験も積んでいたベテランで大変練度が高かったといわれています。

たとえば、第303コシチュシコ戦闘機中隊は、他より遅れて参戦したにも拘らず、
バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の撃墜数をあげました。

これは、イギリス側の全パイロットの5%にすぎない人数で、
バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を達成したことになります。

この戦いでエースとなったポーランド空軍の

スタニスワフ・スカルスキ(Stanisław Skalski)1915- 2004

は、この時の功績で戦後将軍になっています。

彼の部隊は精鋭揃いで「スカルスキ・サーカス」と呼ばれたそうですが、
熟練の航空隊を「サーカス」(例:源田サーカス)と呼ぶのは
この辺りから出てきたのかもしれないと思ったり。

Josef František.png

チェコスロバキアから参加しエースになった、

ヨゼフ・フランチシェク軍曹(Josef František、1914-1940年10月8日)

没年月日を見ると、空戦で戦死したようですが、事故による墜落で、
ホーカー・ハリケーン戦闘機の墜落原因はわかっていないそうです。

なんでも、
ガールフレンドにいいところを見せようとアクロバット飛行中失敗した
という噂もあるそうで、それが本当ならガールフレンドは一生のトラウマものですな。

ちなみにオーストラリア空軍ですが、バトル・オブ・ブリテンの間に
日本軍が瞬く間に太平洋のイギリス領を占領してしまったため、
自国防衛のために、とっとと切り上げて帰国しています。

まず、右上の時計を見てください。
プロット室の写真に同じのが写っているのですが、これは
RAF戦闘機の司令室で使用されていた時計です。
文字盤には王冠のマークと「RAF」の文字が見えます。

マネキンがきている制服は、

Leicestershire(レスターシャー、イングランドの一地方)の
Home Guard (民兵組織)のユニフォームだそうです。

ホームガードとは第二次世界大戦中のイギリスで編成された民兵組織で、
ナチス・ドイツによる本土侵攻に備えて、17歳から65歳までの男性で組織され、
募集によって総兵力は150万人までになったといわれています。

ナチス・ドイツでいうと国民突撃隊や日本では国民義勇隊というところです。


ドラマ「おじいちゃんはホームガード」より(嘘)

 

ラジオで首相が呼び掛けた直後、政府が見込んでいた15万人を
大きく上回る24万人の志願者が、24時間以内に手続きをしました。

ただし資格者は、むしろ戦場に行かない若年か老年層に限られました。
写真のおじいちゃんも第一次世界大戦のベテランで、昔取った杵柄なのでしょうか。

「素晴らしき戦争」で皮肉られた祖国防衛のための自己犠牲ですが、
あの悲惨な第一次世界大戦を経験していた多くのイギリス人男性が、それでも
いざ国難となったとき、自分の愛する人たちを守るために
立ち上がったという事実を嗤うことはアッテンボローにも許されるものではないでしょう。

写真のユニフォームは「LDV」という腕章をしていますが、これは

Local Defence Volunteers

地域防衛ボランティアの頭文字です。
名称はその後チャーチルの命令で「ホームガード」に改められました。

こちらも同じレスターシャー地方の
Civil Defense Corps (市民防衛軍)の制服。

ただしこれはバトル・オブ・ブリテンにはなんの関係もなく、
1949年に主に冷戦核攻撃などの国家緊急事態が起きたときを
想定して結成された防衛隊です。

隣のレスターシャー繋がりで手に入れた展示ではないかと思われます。

ヨーロッパ全域をカバーできた大英帝国軍の航空勢力図とともに。
RAFの使用した飛行機の写真は、左上から順番に

ハボック  HAVOC 対地攻撃、軽爆撃機、夜間戦闘機

ハドソン HUDSON 哨戒、爆撃機

メアリーレット MARYLET

ホイットレー WHITLEY 爆撃機

マンチェスター MANCHESTER 爆撃機

メリーランド MARYLAND  輸送機

トマホーク  TOMAHAWK 戦闘機 (アメリカではP40ウォーホーク)

リベレーター LIBERATOR 偵察、哨戒 爆撃、掩護

ディファィアント DEFIANT 夜間戦闘機

カタリナ CATALINA   水上艇、偵察、哨戒爆撃機

アメリカで製造された機体が結構多かったことがわかりますね。

 

1940年、英国王室から関係者に送られたロイヤルクリスマスカードです。

バトル・オブ・ブリテンの期間中は、バッキンガム宮殿も空襲を受けました。
この爆撃で宮殿内のスタッフが十五人負傷、一人が亡くなりましたが、
国王ジョージ六世(英国王のスピーチのあの人)と妻のエリザベスは、
ほとんど退避することなくロンドンに留まり、国民の尊敬を集めたといわれます。

その年のロイヤルクリスマスカードには、その年の9月9日に投下された爆弾によって
損壊した宮殿のプールの前に立つ国王夫妻の写真が選ばれました。

撮影した日にちは9月10日となっています。

クリスマスと新年のご多幸を祈って」

という定型文がなにか別の意味に見えてくる強烈なカードです。

 

続く。

 


ノーマン・ロックウェル連作「四つの自由」〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

Sell / Auction Norman Rockwell Four Freedoms Posters at Nate D Sanders

2019年に閉館してしまったボストンの軍事博物館、
第二次世界大戦国際博物館の展示物をご紹介しています。

このように展示品はケルビンのボールを始め、16インチの戦艦の砲弾、
日本海軍の対空砲(ホッチキス製)、爆雷(右)などが並んでいます。

アメリカ海軍の水兵がジャケットを着ているマネキンの後ろは
日米戦の舞台となった太平洋地域に絞った地図です。

大東亜戦争のことをアメリカ人が「パシフィック・ウォー」と呼ぶのがよくわかります。

海軍省検閲済みの市販の大東亜鳥瞰図定価40銭。
昭南島(シンガポール)、ハワイ、パナマ運河主要部の地図、
そして戦局写真ち米英海軍勢力一覧表がおまけについています。

これに付されている説明には

「1942年に印刷された太平洋地域のこの日本地図には、
自然資源などの採掘地が記されています。
米国とちがい、自然資源の確保は、日本が経済を近代化し
成長するという野心に不可欠でした。
この地図はゴムその他の生産地が示されています」

とあるのですが、ちょっとこの説明は?です。

こちら普通にハワイの地図ですが、アメリカから見たら、
「日本人はこのような地図を見ながら虎視淡々と以下略」
の証拠にみたいに思えるのかもしれません。

さて、ここからは戦費公債購入を呼びかけるポスターシリーズです。
アンクルサムがバールのような物を持って腕まくりをしつつ、

「ジャップ・・・次はお前の番だ!」

次、というのは第一次世界大戦の次ということでしょうかね。
アンクルサムは『Uncle Sam』つまりUSでアメリカの擬人化です。

バターンとコレヒドールで捕虜になったアメリカ軍人を取り囲む日本兵。
「忘れることのないように」「仕事をやり通せ!」とあります。
敵への怒りと復讐心を掻き立てやる気を煽る戦時高揚ポスター。

「まさか戦争終わってるんじゃないだろうな」

これも公債ポスターですが、兵士の着ている服が微妙すぎて
彼がアメリカ軍なのか日本軍なのかわかりません。

敵地に必死の思いで潜入してきたら、もう戦争は終わっていた
(もちろんアメリカの勝ちで)という意味なのか、
戦争が終わったことを知らずに戦っていた日本兵なのか・・。

こちらは志願兵募集のポスター。
肩にハクトウワシをのせたアンクルサムが上着と帽子を投げ捨て、
腕まくりしながら敵に歩み寄る様子が描かれています。

いわゆる「リメンバーパールハーバー」ポスター。
今でも米軍はヒッカム基地に揚っていた銃痕のある星条旗を保持しているそうです。

「ここでの死者の死を決して無駄にしてはなりません」

左はアメリカ海軍の潜水艦の写真、右は貶しているの褒めているのか?
メガネで出っ歯の人相の悪い日本人が勉学に励んでおります。
こんな顔して勉強するやついないっつーの(笑)

なんて書いてあるかというと

「もしあなたがジャップのように一生懸命頑張れば
私たちは東京をそれだけ早く叩くことができるのです」

ということは、アメリカはとりあえず日本人が勤勉で働き者、
ということを認めてくださっていたってことですかね。

それはいいけどこのポスターの男の顔は酷すぎない?

 American Poster: Save Freedom of Speech............. Buy War Bonds ...

公債購入を呼びかけるポスターは、人気のイラストレーター、
ノーマン・ロックウェルも手掛け、彼の最高傑作とされています。

この「言論の自由」というポスターは、1941年の
ルーズベルト大統領の一般教書演説をテーマに描かれたものです。
ロックウェルは大統領の言葉次のようにアレンジしました。

欲望から解き放たれること (Free=解き放たれる)

恐れから解き放たれること

崇拝の自由

言論の自由

1943年のサタデーイブニングポストに掲載されて以来、再版を重ね、
戦争中には400万という史上最も複製された作品の1つになりました。

戦争債権の販売は、ルーズベルト大統領とモーゲンソー財務長官ののもと、
財務省は全国ツアーで「4つの自由」をうたい、
1億3300万ドルを超える戦争債券を売りあげたといわれます。

公債を売るためにボブ・ホープ、ビング・クロスビー、そして
ジャック・ベニーなどのエンターテイナーが献身的な協力をし、
また、「四つの自由」というタイトルの交響曲も作曲されています。
(今日全く聴かれることはないようですが)

ロックウェルは戦争協力のためのさまざまなポスターを描き、
1977年にフォード大統領から大統領自由勲章を授与されました。

オリジナルはストックブリッジのノーマンロックウェル博物館にあり、
わたしはこの実物を見たことがあります。

Amazon.com: WholesaleSarong Save Freedom of Worship 1943 Buy war ...

同じくロックウェルの「四つの自由」のひとつ「信仰の自由」
ルーズベルトの演説より、ここに描かれているのは8名の祈る人で、
下段右の帽子の男性=ユダヤ人、ロザリオを持った若い女性=カトリック、
と異教であれどもアメリカ人としてその信仰の自由は保証される、
ということを表しています。

 

「四つの自由」の三つ目、「恐れからの自由」です。

絵は、両親が見守る中、この世界の恐怖に気づかずに
ベッドで安らかに眠っている子供たちをあらわしています。

子供たちの布団を整える母親、そして立っている父親の手には
現在進行中の紛争の恐怖を報じる新聞が握られています。

しかし、彼の注意は完全に彼の子供たちに向けられており、
憂慮すべき見出しには向けられていません。
この 父親は、絵画の中で鑑賞者、つまり

「古典的ないわゆる’ロックウェル・オブザーバー’」

の役割を与えられています。

手には眼鏡があることから、彼はもうすでにこの
「ベニントン・バナー」を読み終えたところでしょう。
新聞の見出しは一部が隠れているものの、

"Bombings Ki ... Horror Hit"

というもので、いずれにしても穏やかでないニュースであることは確かです。

なおこの絵はロンドンの爆撃の最中に描かれたということです。

 

「欲望からの自由」は別名「サンクスギビング・ピクチャー」、
または「I'll be home for Christmas」として知られています。
「4つの自由」シリーズの第三作目で、描かれているのは
バーモントのロックウェル自身の友人や家族で、
それぞれを撮った写真を元に作画されました。

当時も今もアメリカで大変人気のあるポスターですが、戦時中、
飢えと困難に耐えていたヨーロッパでは、ずいぶん反発されたようです。

 

オーブンから出したばかりの七面鳥に釘付けになる皆の目、
テーブルの上のフルーツ、セロリ、ピクルス、クランベリーソースなどは
アメリカ人なら誰でもノスタルジーを感じずにはいられません。

アメリカの繁栄と自由、そして伝統的な価値観を象徴する作品は
アメリカ人には熱狂的に受け入れられました。

ただ、ヨーロッパ人の反発と同じく、欲望からの自由がどうしてこのシーンなんだ、
という説は当時からあったようです><

ガスマスクの使い方に対する広報宣伝です。
絵柄と全くそぐわないのですが、

「あなたのガスマスクを手入れしてください。
ナップサックや枕にしてはいけません」

って、わざわざポスターにするようなこと?

Give 'em both Barrels (彼らにバレルを与えよ)

こちらは兵士ですが、向こうはリベットを持った民間人です。
ジーン・カールの作品で、兵士が前線で戦うことができるように
後方における産業での戦争協力を呼びかけているのです。

 お上はこれが戦争に勝つために労働が重要であることを訴える
良いポスターであると満足していたようですが、肝心の工場労働者の調査によると、
このポスターに描かれている労働者がギャングにしか見えないため、
多くの人がFBIの
戦争犯罪を喚起ポスターだと思っていたということで・・・、
つまり画力に若干の問題があったと。

ドンマイ(笑)

ニューヨークセントラル鉄道で、列車修理の仕事に
女性を募集するポスターです。

「男性を戦いにいかせてください」

実にダイレクトです。

潜水艦に爆雷を装填する水兵が、

「奴らにこいつを喰らわせてやれ!」

海軍の志願兵募集ポスターです。

アメリカで発行されたこのリーフレットは、

「わたしは抵抗をしません」

と赤字で書かれており、これを持っている日本人は人道的な扱いを
保証されるとあります。
英文では、

「この紙を持っている日本人をすぐに
最寄りの公務員に連れて行ってください」

とあり、日本語で

「上の英文の内容は、『この人はもはや敵ではなく、国際条約により
完全に身の安全が保証されるべき者なり』ということが書かれている

左図は当方に来ている諸君の戦友の一部」

として、捕虜収容所で笑っている日本兵の写真があります。

日本軍の兵士は捕虜になるのを拒んで自決する者が多く、
通訳の日系二世はその説得が大変だった、とも言われています。

 

ここからは戦時中の人種隔離政策を表す資料となります。

 

上二つの小さな看板はいずれも差別政策に法って、
白人と「カラード」でシャワー室が分けられたもの、そして
「カラード」専用の待合室の札。

下は真珠湾攻撃以降、日本人排斥の法律が正式に発令され、
地域から出ていき収容所に入ることを布告するもの(左)、
英語と日独伊三ヶ国語で書かれた「エイリアン・オブ・エネミー」
身分証明書を郵便局で申し込むこと、というお知らせ(中)
収容所への入所を勧告する公報(右)です。

 

日系人としてアメリカ軍に入隊し、ヨーロッパ戦線で負傷した
トム・カサイとその妻、ルースの写真。
手紙は、トムがフランスで負傷したことを伝えています。
パープルハート勲章はその時に授与されたものでしょう。

下のニューヨークの病院から発行された通知書によると、
カサイさんは左腿に銃弾を受けたということです。

トム・カサイという人がロスアンジェルス育ちで水泳のチャンピオンだったこと、
陸軍に入隊し、真珠湾攻撃の頃には厨房で働いていたことが書かれています。
彼が軍に入隊した後、妻と彼の両親はアリゾナの強制収容所に入所し、
そこでカサイが負傷したことを知らされ、ルースはニューヨークに駆けつけました。

実家はマーケットを経営していたようです。

左の日系人青年はフランク・マサオ(マス)・イモン。
戦争前はニュースリポーターとして働いていました。

開戦後は諜報局で語学研修を受け、通訳の任務を行いました。
右上の日記には、真珠湾攻撃の報を受けて衝撃を受けたことが記されています。

イモンさんが情報局の訓練で使った教科書には、

「NO TOUCH PROPERTY OF MAS 」(マスの所有物につき触るな)

とシールが貼ってあります。

このケースには敵に配布するためのプロパガンダ・ビラが展示してあります。

どこの国が作成したのかわかりませんが、アメリカ兵に向けて
なんのために戦っているのかとか、命を無駄にするなんて気の毒に、
みたいな言葉を投げかけ厭戦気分を書き立てようとしています。

骸骨化した兵士のイラストが妙にアニメっぽい。

オーストラリアに旗をたて、嫌がる女性を拐おうとしているアメリカ、
ニュージーランドは隣から傷だらけになりながらアメリカを攻撃しようとしています。
どうもこの比喩の意味がわからないなあと思いつつ、次のを見ると、

日本から打ち寄せてくる波に立ち向かい溺れるオーストラリア兵、
後ろで太ったアメリカ人(ルーズベルトらしい)が、
オーストラリアの領土を抱え込んでいます。

手書きの文字は

「オーストラリア人が尊い血を流している間、ルーズベルトは
彼の利己的な目的を予定通りに進めているのである」

オーストラリアは連合国に加わり太平洋における戦争で日本と戦いましたが、
そこに至るまでアメリカの戦争に参加させられることに反対する世論が
オーストラリア国内にもたくさんあったということなんですね。

そりゃ、オーストラリアにしてみれば別に日本に盗られた土地もないし、
アメリカに付き合って戦争するのはごめんだ、というひとがいたとしても
全く不思議なことではありません。

当時の反米論がこんな形でプロパガンダしてたってことになりますが、
今までこんな角度から米豪関係を見たことがなかったのでちょっと新鮮です。

 

そしてここからはどこで収集したのか、日本に関するグッズの展示。

三国同盟が締結された時に提灯行列で祝われたというその証拠、
ハーケンクロイツの印刷された提灯が展示されています(笑)

この大きさから見て戦艦級以上の中将旗でしょう。
割れた先を折りたたまないと床についてしまうくらいです。

詳しい説明はなく、博物館の人に尋ねたのですが、ただ
「長門の中将旗」ということしかわかりませんでした。

この中将旗が博物館閉鎖後どうなっているのか、そして
今後どこでどうなるのかが気になって仕方ありませんん。

 

 

続く。

 

 


ボストン 第二次世界大戦国際博物館〜真珠湾攻撃

2020-05-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

ある年の夏、アメリカに行くと必ず滞在していたボストン郊外の街に
軍事博物館があったことを、偶然インターネットで検索していて知りました。

第二次世界大戦中の軍事資料を一堂に集めた、

The International Museum of World War II

という名前の博物館です。

1999年からあったというのですが、実際にボストンに住んでいた時期も含め、
毎年この地域に滞在しながら全くその存在を知りませんでした。

もっとも住んでいた頃もその後も、軍事博物館などというものを
検索したことなど一度もなかったのでそれも当然かと思われます。

というわけで、存在を知った2018年の夏、東海岸滞在中に
わたしは一度だけここを見学してきたのですが、驚いたことにその後

2019年、突然博物館そのものが閉鎖され、消滅してしまいました。

しかも、わたしが訪問してこの時に撮影できた展示品はごく一部で、
残りはまた次回渡米した時に、と思い開館情報を調べると
閉鎖したというお知らせが出てきて唖然、という次第です。


どちらにしてもコロナ騒ぎで今年の渡米は叶いそうにありませんが、
この、地球上のどこに行っても今は見ることができなくなった
貴重な歴史遺物をご紹介して、ありし日の博物館を偲びたいと思います。

今回は、その展示の中から対日戦に関する資料をご紹介していきます。

とにかくこの博物館に足を踏み入れるなり圧倒されたのが所蔵物の多さです。

時間があれば残らず写真に収めたかったのですが、それも叶わず、
結果として閉鎖によって永久にその機会が失われてしまいました。

さて、画面中央にあるのは、訓練に使われていた
アメリカ海軍の潜水艦の潜望鏡一部分です。

1941年ごろに使われていたものと説明があります。

日本帝国海軍提督用儀礼服も一揃いマネキンに着せてあります。

展示物は数が多すぎてほとんど説明がないのですが、この絵は
まだ日本に本土空襲が行われる前に、

「もしアメリカ軍が本土にやってきたらどうなるか」

ということを予想して描かれたものだと思われます。
その理由は、実際に本土攻撃を行っていないP-38などが描かれていることで、
爆撃されているのは軍需工場や港など。

サラリーマンや子供連れの女性などが山に避難していますが、
実際の空襲は都市を無差別に焼き払うようなものだったため、
工場付近から逃げれば何とかなるというようなものではありませんでした。

空をたくさんのB-24リベレーターが飛んでおり、実際にも
B-24は本土空襲を行っていますが、B-29登場以降はそれが主力となりました。

ちなみに、広島で捕虜になっていて原爆で死亡したアメリカ人は
B-24の搭乗員であったということです。

「時は迫れり!!」

というこの時計の意味するところは・・?

まず、ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワ、マーシャル、アドミラルティ、
ニューギニア、サイパン、グアム、パラオ。

全てのかつての日本の領地だった土地に立った日の丸は
この順番に連合軍によって奪取されていったことを表すために
旗竿が真っ二つに折られてしまっています。

5分前にあるのはフィリピンで、フィリピン侵攻に先立ち、アメリカが
攻略したのはパラオ諸島、その直前がサイパン・グアムでした。

この絵が描かれたのは1944年(昭和19年)の10月から3月までの間でしょう。

フィリピンが陥ちれば次は日本本土である、と啓蒙しているのです。
現に、レイテ沖海戦で聯合艦隊壊滅後、日本軍は完全に補給を断たれ、
レイテ島10万、ルソン島25万に部隊が取り残された形となり、1945年6月以降は
ジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなりました。

多くが餓死、あるいはマラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死亡。
大岡昇平の「野火」はこの戦地での惨状を描いたものです。

大正天皇の御真影。
写真を元にレタッチ?されていますね。

「大正三年十一月十四日印刷 同年同月十七日発行
画作兼印刷発行者 日本東京市浅草公園第五区?番地
天正堂 土屋鋼太郎

実写版でリメイクされた「火垂るの墓」で、御真影が燃えてしまったので
責任をとって一家心中する校長先生なんてのが出てきていましたが、
これは少し「やりすぎ」な設定としても、戦時中には
皇族の写真発行については政府が干渉するようになったのも事実です。

皇室のブロマイドや絵画は1890年くらいから市井で大量に売られ、
商業誌や新聞にも掲載されていました。
とくに皇室グラビアは人気があり、商業誌の売り上げにも寄与したそうです。

大正時代には大正デモクラシーなどの影響もあり、イギリス型の
「開かれた皇室」を目指す動きが強まりました。
この写真は御在位されて3年後のもので、この後大正天皇が
病床に伏されるようになると、留学中の皇太子殿下(昭和天皇陛下)の写真が
グラビアを飾るようになってきます。

日中戦争が始まるまでは、御真影を神の如く崇めるような文化はなく、
この写真風版画も、火事の時にもち出せなければ責任をとって云々、
というような悲壮な信仰の対象にはなっていなかったのは確かです。

しかし日本国民の皇室と天皇陛下に対する敬愛は、戦前と戦後で
根本的に全く変わっていないとわたしは信じています。

左は土屋貞男さんの出征を祝うためののぼり。
アメリカにこれがあるということは、土屋さんは外地で戦死し、
どこかでアメリカ兵がそれを発見し「記念品として」持ち帰ったのかもしれません。

右はおそらく航空兵が敵機を認識するために使われたものです。

飛行するXFM-1-BE 36-351号機 (1937年撮影)

上のベル FM-1「エアラクーダ」は、第二次世界大戦前に
ベル社がアメリカ陸軍航空隊向けに試作した戦闘機ですが、
飛行性能が悪く、開発は中止されました。

にもかかわらず日本にこのようなものがあったということは、
この頃は開戦前でまだ両国の情報は遮断されていなかったということですね。

下のダグラスA-20エドワード・ハイネマンの作で、
アメリカのみならず連合国で多用された双発攻撃機です。

イギリスでは「ボストン」、夜間戦闘機としては「ハヴォック」
アメリカ海軍ではBDと呼ばれていました。

こちらは戸松茂さんが入営の際につけたたすきで、
「祈 武運長久」と書かれています。

戸松さんも、どこかの戦地で亡くなったのでしょうか。

向こうに和服のマネキンがいますが、なぜか展示品の中に
着物と帯があったようで、わざわざ黒髪の日本人風のマネキンを調達して
展示しています。

この写真のデータは、残念なことにいくつかの写真とともに
消えてしまい、皆さんにお見せすることができなくなってしまいました。

アメリカ潜水艦の模型(年代物)の向こうには
昭和20年の日付のある寄せ書き。
海軍の部隊で全員が名前を書いたものだと思いますが、
階級などは全く名前に添えられていません。

これも説明がないので断言はできないのですが、左下に
英語で誰かが誰かに寄贈したと思われるサインがあることから、
日本に爆撃を行なった航空機から撮られた写真だと思われます。

「東京上空30秒前」という映画で登場した模型の空撮シーンと
酷似していますが、東京空襲の時かどうかはわかりません。

割れたゴーグルは撃墜された飛行士の遺品でしょうか。

 

そしてここにもあった、真珠湾攻撃をしらせる無線電報。

AIRRAID ON PEARL HARBOR X THIS IS NO DRILL

珍しく説明が添えられているので翻訳しておきます。

「日本軍の真珠湾への攻撃は1941年12月7日、
ハワイ時間の午前7時48分にはじまった。

353機の戦闘機と艦爆と艦攻が6隻の空母から二波に分かれて出撃。
アメリカ軍にとっては全くの不意打ちであった。

銃に人員が配置されておらず、弾薬庫には鍵がかかっており、
航空機は翼を並べて飛行場の格納庫に駐機されていたのである。

きっちり90分間で空襲は終了した。
2,403名が死亡し、1,178名が負傷した。

8隻の戦艦が損壊し、そのうち4隻が沈没、巡洋艦3隻、そして
駆逐艦3隻が損壊あるいは破壊され、188機の航空機が撃破され、
159機がダメージを受けたのであった」

全くの不意打ちであればこれほどやられても当然です。
いまさらですが、ルーズベルトはどうしてこれほどの被害が出ることを予想しながら
知らんふりをしていたのか、理解に苦しみます。

もし極秘にそのことを真珠湾に警告して米軍に迎撃させたとしても、
彼の望み通り、開戦にこぎつけるという結果に変わりはなかったと思うんですが。

 

この電報の横には、日本が中国進出後にアメリカを始め各国から
(ABCDラインですね)禁輸措置を受けて”バーンアウト”したことが
さらっと書いてありますが、そのあとはおおむねこんな風に続きます。

「アメリカ側は日本のステルス攻撃に対する注意が全く欠けていた」

「アメリカ政府は日本が開戦したがっていることを知っていたが、
ハワイが攻撃されることを全く予想していなかった」

「日本の攻撃は予想外(unthinkable)であったため、その前に
日本のミニサブ(潜航艇)が駆逐艦に撃沈されたという報告も、
航空機がレーダーに捕らえられていたという報告も上がらなかった」

「日本軍は全てをきっちりと行い、その運命の朝、
艦船はもちろん航空機もオイルタンクも、ドライドッグも爆破した。

続く戦況も日本が優勢であったが、6ヶ月後、アメリカ海軍は
ミッドウェイで帝国海軍を打ち破ることによって軌道修正をした」

そして、攻撃のおわったヒッカム基地の惨状。
炎上爆発が起こっています。

海軍の写真班によって撮られた真珠湾攻撃の写真。
USS「ショー」DD-373が爆破炎上する瞬間です。

12月7日、 「ショー」はドライドック で 爆雷システムを調整していました。
日本軍の攻撃で、三発の爆弾を受け、 炎上。
必死の消火活動が行われましたが、総員退艦の命令がだされた直後、
前方の弾薬庫がは爆発したのがこの写真です。

その後仮修理を経てサンフランシスコで艦首を取り替え、
1942年8月31日にパールハーバーに戻り、終戦まで活躍しました。

彼女に与えられたあだ名は

「A Ship Too Tough to Die」(死ぬにはタフすぎる船)

というものでした。

説明がなかったのですが、おそらく真珠湾攻撃で戦死した水兵の一人でしょう。

上の写真の意味が全くわかりません。

総員配置のためのメモ

艦尾で育ったサトウキビを食べないように注意してください。
おそらく毒性化合物の扱いです。

????

写真を遠くから撮ったので日本語が読めません><

日本のグラフィックマガジンに掲載された真珠湾攻撃の記事ですが、
なぜかご丁寧に英訳されております。
これも大変読みにくいのですが頑張って翻訳します。

ハワイでのアメリカの太平洋作戦基地への奇襲!

海鷲たちが水平と垂直に空を横切って織りなす猛烈な攻撃で、
厳重に警戒された真珠湾に侵入し、我特殊潜航艇も加わり、
空中と海の両方から猛烈な攻撃が行われた。

我が軍のこの輝かしい成功は、全世界の耳目を魅了した。
さまざまな敵の艦艇や航空機の破壊は、一度に20隻の艦艇、
460機以上の航空機にのぼり、地球を恐怖で震え上がらせた。

見よ!

海鷲たちの大軍勢は港に易々と進入し、無力な敵の多くの船のうち、
まず2隻を屠り、艦攻中隊は小物には目もくれず、戦艦に向かう。
攻撃の雄叫びは朝の沈黙を一瞬にして震えさせた。

今日まで厳重に保護されていた真珠湾は一瞬にしして血塗られ、
アメリカに目に物見せたのである。

本文の日本語と照らし合わせることができないの残念です。

冒頭のハワイ攻撃を報じる第一報に続き、こちらは
日本がアメリカに宣戦布告したというヘッドラインが踊ります。

写真のベッドに寝ている人は真珠湾で負傷した海軍軍人でしょう。

こちらはちゃんと日本語が読めますのでそのまま書いておきます。

海鷲飛躍 ハワイの奇襲

12月8日午後2時、大本営海軍部は宣戦の大詔渙発直後、
早くも大戦果を発表して曰く

『帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し、
決死的大空襲を慣行せり』

と。
あゝ迅雷耳を掩う(おおう)の暇もない世紀の壮挙!
三千四百海里の波濤を蹴ってハワイ付近に達した我が航空母艦から
飛び立った海鷲は、暁の漠雲の中に飛び込む、やがて
断雲の間から島が目に入る、占めた(ママ)布哇だと思うまもなく、
オアフ島の山々が瞭(はっ)きりと見えてきた。

指揮官旗を先頭に機体は山肌すれすれに飛ぶ。
遥か前方の島はフォード島である。

その周囲に黒い小さい艦(ふね)らしきものが點々と見える。
軍艦だ、紛れも無い敵太平洋艦隊である。

なんたる天佑ぞ!何たる神助ぞ!
搭乗員の面はいやが上にも緊張する。

攻撃部隊はこの時あるを期して長年月猛特訓せし神業を縦横に発揮し、
世界第一と称する同軍港の覆滅を目指し、今将(まさ)に
雄渾無比の電撃奇襲作戦を敢行せんとするのである。

こちらにもご丁寧に英訳がつけられておりますが、
漢字に振り仮名の多いのを見ると、この絵と文章は、
子供向けの海軍ファン向け雑誌に載せられたものだと推察されます。

もちろん、ちゃんと海軍省の認可番号が振ってありますが、
まさかアメリカ人もこれが少年雑誌向けとは思っていない様子・・・。

 

続く。

 


「ジャパニーズ・ミリタリー・タビ」〜ウェストポイント軍事博物館

2020-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの軍事博物館より、
第二次世界大戦に関係する部分をご紹介しています。

太平洋戦線が一眼でわかるように地図に書きこまれています。
まず、赤い点線--------は1942年7月までの日本の防衛線。
赤で記された部分は日本が1942年7月に日本が占領していた土地です。

この解像度では全く見えませんが、日本が勝った戦闘は赤、
アメリカ連合国側は黄色の星印のようなマークが付けられています。

赤い星はパールハーバー、シンガポール、ジャワ海、香港、バターン
そしてウェーキ島、キスカ、アッツ島に付いていますが、黄色い星は、
ミッドウェイ、ガダルカナル、珊瑚海、ブーゲンビル、カビエン、ニューギニア、
レイテ、タラワ、エニウェトク、サイパン、テニアン、グアム、ペリリュー、
フィリピン海、硫黄島そして沖縄と、列記された地名を見るだけで
くっらーい気持ちになってしまうところに付けられているわけです。

キスカとペリリューはミッドウェイ海戦の陽動作戦で攻略したものの、
あとからきっちりアメリカに取られていますが、星の色は赤になっています。

将軍アイク

こちら、ドワイト・アイゼンハワー(1915年卒)のサービスコート実物。
アイゼンハワーは、軍人、教育者、政治家として国に奉仕しました。

第二次世界大戦中はヨーロッパ軍作戦指揮官として、またのちに
連合軍ヨーロッパ最高司令官として指揮を執っています。
彼の統率力とカリスマを持ち合わせながら気取らない気さくな性格は、
アメリカ人の最高に良い面を代表していると言われています。

どのように気さくだったのか、ジッポーライターで兵士のタバコに
火をつけてあげていたくらいしか知らないのですが、まあ、なんというか
マッカーサーなんかと比べれば段違いに親しみやすそうではあります。

アイゼンハワーは最高司令官としてD-デイ、ノルマンディー上陸作戦を成功に導き、
ひいてはヨーロッパ戦線での究極の勝利をもたらしたといっていいでしょう。
1953年に第34代合衆国大統領となり、冷戦という難しい時期に二期を務めました。

引退後はペンシルバニアのゲティスバーグに農場を持ち、1969年に死去。
この軍服は1952年ごろ着用していたもので、
ファイブスターランクの記章と勲章がそのまま付けられています。

ついでに、アイゼンハワーの奥さんマミー、芳紀16歳ごろ。
グレタ・トゥンベリさんかと思った(笑)

身長179センチだったアイゼンハワーの愛妻の身長は155センチでした。

 

また、アイゼンハワーは参謀長時代、原爆投下に対しては
「原爆を使用しなくても日本は降伏する」

と強く反対していたという話が有名ですが、これは
決して人道上の理由からではなく、現役の軍人としては
軍隊だけで勝ったことにしたかっただけだと思います。

制服の右側に展示されているのは、アイク使用のピストル、カリバー380
ジャケット下のウェストバンドに装着されていたものです。

海兵隊と看護候補生隊

海兵隊のブルードレスといわれる上着(コート)です。

第6海兵隊部隊の一員として太平洋戦線に参加した
オットー・カー二世が着用していたものです。

第6回兵隊部隊は1944年の9月にガダルカナルに展開し、
その後の主な任務は沖縄への侵攻、その後は日本の諸島への侵攻でしたが、
終戦後の1945年10月、第1師団として中国に派遣されました。

そこで日本の地方の政府の降伏を受け入れ、共産主義者らが
日本国内を混乱させることを阻止すべく任務に当たっています。

1946年4月、師団はアメリカ本土で奉仕することなく解散しました。
戦後、カーは予備士官プログラムを推してして陸軍士官となり、
その後はMPオフィサーとしてベトナム戦争に参戦しています。

第二次世界大戦中、17歳から35歳までの全ての人種の女性が
看護医療隊で戦地医療の訓練を受けるプログラム、

カデット・ナース隊(Cadet Nurse Corps)

が組織されました。
この制服は、ずいぶん身体の大きな人のものだったらしく、
パッと見にはわかりませんでしたが、女性用です。

新しく看護学校が作るのではなく、既存の看護師養成学校が
このプログラムを受け入れ、そこで士官候補生を育てる、
という形でカデット・ナース隊は編成されました。

A model posing for a recruiting poster in the cadet winter uniform – gray with red shoulder straps – and a gray beret

募集ポスター。
誇りを持てる専門職に入隊する!
アメリカ陸軍士官看護部隊へ来れ!
などというタイトルが踊ります。

やはりその上で、お洒落でかっこいい制服を用意するのは
古今東西同じリクルートの手法です。

日本軍の遺品

三丁の銃のうち、右側だけがアメリカ製、左二丁は日本軍のものだそうです。
そしてその下にあるのは日本陸軍の鉄兜ではありませんか。

展示の説明にはただ「日本兵の個人用国旗」とありますが、
出征した兵士が故郷を出るときにもらう国旗のように寄せ書きがないので、
わたしはこれは小隊の旗手が携えていた部隊用国旗だと思います。

日本軍歩兵の上着(二等兵用)、としか説明がありません。
先ほどの鉄兜はガダルカナルで採取されたもののようです。

陸軍の南部式短銃、7ミリ口径。

ジャパニーズ・ミリタリー・タビ。(原文通り)

日本軍の捕虜となって

日本軍のアルミ食器の類ですが、WRIGHTと名前が書いてあるのは、
これが捕虜になったジョン・M・ライトJr.中将が使用していたからです。

ライト中将はコレヒドールの戦いで捕虜になり、5年間の捕虜生活をしました。

第二次世界大戦中、日本海軍が「鴨緑丸」という民間船で捕虜を輸送中、
1944年12月、「ホーネット」の艦載機ががこれを爆撃したため、
アメリカ人捕虜がこれによって270名死亡するという事件がありました。

ライト中将はこれに乗っていて奇跡的に助かった一人です。

アメリカ側の記述では地獄船といわれた収容環境で捕虜が苦しんで死んだこと、
沈没後、助かった捕虜が酷い扱いを受けたことを怨みつらつら書いていますが、
なぜかハルゼーが、捕虜を運んでいるのを知っていながら攻撃させたことは
まったくスルーしております。

POW研究会「鴨緑丸」

同じく日本軍の捕虜になっていた、ウィリアム・ブレイリー大佐の着用していた靴下。
穴を繕った後がたくさんあります。

ブレイリー大佐は、戦後捕虜体験を
「The Hard Way  Home」(困難な帰路)という本に表しました。

The Hard Way Home : William C Braly : 9781495271045

きっと辛い目にあったんでしょうねー(棒)

ブレイリー大佐が捕虜時代着用していたシャツ。

これもブレイリー大佐使用グッズ。
この人、捕虜時代の私物を何もかも持って帰ってきたんですかね。

民間防衛組織

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、アメリカでは
民間防衛部隊が大幅に編成されることになりました。

(実はルーズベルトの下で真珠湾攻撃以前から国防評議会が活性化していましたが)

民間航空パトロール隊や、市民防衛隊は、1000万人ものボランティアで組織され、
火災、化学兵器攻撃後の除染、応急措置、などを行う訓練を受けました。
市民防衛のメンバーは、写真のようなヘルメットを着用する資格を持ちました。

民間防衛組織は第二次世界大戦後も継続して活動を行い、
次に来た零戦の市民防衛の基盤となりました。

戦後、特別な民間防衛ヘルメットが製造されました。
ヘルメット前面のデカールは間違った方向を向いていますが、
それでも空襲監視員の記章です。
内部のマーキングは、このヘルメットが
ニューヨーク州マンハッタンで使用されたことを示しています。

民間防衛軍空襲監視員の紀章アップ。

戦後の市民防衛の一番の関心は「原爆が落とされても生き残る」。
人の国に2発も落としておいてよう言うわ。

電撃戦

なぜか一面がブリッツクリークコーナーになっていました。
ブリッツクリーク、電撃戦とは機甲部隊の機動能力を活用した
戦闘の教義となっています。

おそらく士官候補生の学習向けにまとめてあるのかと思われます。

図解でブリッツクリークの手法らしきことが説明してありますが、
細かい字が撮れなかったので、解説はご容赦ください<(_ _)>

ドイツ空軍の士官のサービスコート。

1939年から1941年までのドイツ軍戦車と戦闘車両。

左前:PzKpfw I 軽戦車

左後ろ;PzKpfw II 軽戦車

右前; SdKfz 軽走行個人用輸送車

右後ろ;弾薬車

右側の帽子は、ポーランド陸軍士官用軍帽です。
ポーランド陸軍では制服の仕様を長らく変更していなかったので、
このデザインも十八世機から受け継がれてきたタイプでした。

ポーランド騎兵隊のドレスユニフォーム。

第二次世界大戦の騎兵隊長が着用していたものです。

左側;ドイツ陸軍従軍牧師の正帽。

ここの説明はおおむねニュートラルな態度に終始しているのですが、
たまにこんな感情的な?記述も見られます。

「ナチスの戦争犯罪にもかかわらず、ドイツ軍の兵士は
自分自身をキリスト教徒と見なし、
当時のすべての軍隊にはチャプレン軍団がいた。」

いやー、それをいうならキリスト教徒のくせに、あなたがたアメリカ人も
ヨーロッパの中世から伝わる教会を、わかってて破壊してますよね?
ザルツブルグなんてあなたたちのせいで人類の遺産がだいぶ失われましたよ?

あまりこういうこと言わない方がいいと思うの。お互い様だから。
だいたい、それをいうならキリスト教の名の下にどれだけの人命が
奪われたのか、って話になってしまいますよね。

 

それはともかく、この牧師の帽子は、その軍団の紫色の枝の色(waffenfarbe)
で装飾されていますが、ほとんどの牧師のユニフォームに共通する十字はありません。

右側;SS士官正帽

このキャップは、敵に恐れられたシュッツ・スタッフェル「SS」組織、
ナチの残虐行為と同義となった「死の頭」の装飾が施されています。

(またまた〜略)

戦争中の3つの連隊から38以上の師団までの武装親衛隊は、
通常のドイツ軍と並行して稼働していました。

Waffen-SSのメンバーシップは、元々は人種的に優れていると考えられていた
ドイツ人男性に限定されていました。
しかし、戦争中には多くの外国人ボランティアが受け入れられました。
戦後、Waffen-SSは戦争犯罪に関与した犯罪組織であると判断されました。

 

どうもアメリカ陸軍士官学校、歴史観は極力ニュートラルにあろうとしながら、
ナチスについては
ディスりまくっておkというのが正式な態度である模様。

なぜならナチスは国ではなく、戦後公的に悪魔化された存在なので、
現在のドイツに気兼ねなく叩きまくれるというわけですね!

そうそう、次回はウェストポイントの展示をいったん離れ、
そのナチスが第二位世界大戦に略奪した美術品についてお話ししたいと思います。

 

 

 

続く。

 


米国陸軍地形技術隊(開拓時代から南北戦争まで)〜ウェストポイント博物館

2020-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

少し前にアメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントを見学し、
学内見学ツァーについてここでお話ししたことがあります。

もう昔のことなので記憶にない方のためにもう一度、
ウェストポイントを外側から見た景色をご紹介しておきます。

歴史的なシャーマン戦車が飾ってあるこの門は、
いわば一般見学者が誰でも入っていけるようになっています。

本当の学内に入るには、許可を得たもの以外は、見学ツァーだけで、
彼らは必ず専用のバスで入場しなくてはなりません。

もちろん、当たり障りのないところを回るだけなので、
名前や所属などの申告を行う必要はありません。

見学ツァー申し込みは前もって行う必要はなく、現地に行けば、
ツァー受付のあるこの建物に入っていって、申し込むだけです。

この建物にフレデリック・マレクと名前がありますが、これは
かつてのウェストポイント卒業生です。

「frederic malek」の画像検索結果

マレク(1936−2019)は陸士卒業後ベトナムでは空挺団に勤務、
帰還後ハーバードビジネススクールで修士号を獲得し、
のちにマリオットホテルやノースウェスト航空の社長を務めるほか、
共和党所属の政治家として活躍しました。

彼の名前が付されているのは、彼がウェストポイントの
訪問者委員会の会長を務め、ビジターセンター設立のための
基金キャンペーンを行ったからですが、彼自身その年の卒業生の中で
特に優秀だったという理由もあります。

というわけで、わたしは全く知らなかったのですが、わたしが訪れた時
このビジターセンターは1年前に設立したばかりだったというわけです。

ビジターセンターには、かつての卒業生が寄付した博物館があり、
訪問者は見学前にその展示によってウェストポイントへの理解を
深めることができるという仕組みになっています。

学内ツァーが終わった後、わたしたちは学校内に併設されている
ウェストポイント博物館の見学をガイドに勧められました。

ここもビジターセンターの近くにあり、誰でも入館できます。

博物館の歴史は大変古く、最初にコレクションが公開されたのは
1854年だったそうです。
当時はそれこそ武器コレクションだったわけですが、時代を経るうちに
軍事史にまつわる遺物が集まって現在の形になったのです。

武器などのコレクションは学内の様々な場所を転々としていましたが、
現在の場所で公開されるようになったのは1988年以降です。

展示は大まかに分けて

「アメリカの戦争」

「米軍の歴史」

「戦争の歴史」

という流れになっています。

まず、独立戦争頃のアメリカ軍の制服からご覧ください。
モップみたいなのをもっていますが、これは砲に
弾薬をこめるための大事な兵器です。

右側上は、憲法制定について描いた絵で、真ん中に立っているのが
もちろんあのジョージ・ワシントンです。

アメリカ合衆国成立後、創設された軍隊についての展示です。
左は、1785年、最初のアメリカ軍の太鼓手です。

最初のアメリカ軍人の制服は、独立戦争のときに大量生産された
ストライプの布の余切れで作られたということですが、
言われてみれば、赤白のストライプが基調になっていますね。
ただし全員ではなく、この目立つ色は「軍楽隊」専用でした。

このころは、フランス革命に参加したベテランが帰国して、
独立戦争に
関わることになりました。

右側は合衆国で最初に成立した軍隊の歩兵(二等兵)です。

右側肖像画の軍人は、アーサー・セントクレアという当時の政治家です。
独立戦争では、タイコンデロガで戦った経歴がある軍人ですが、
この人が知事になってやったことの一つに、
インディアンとの戦争(というか土地を奪うための迫害)があります。

「懲罰的遠征」と称する侵攻部隊を編成しますが、
このときマイアミ族、ショーニー族との戦いに破れ、
「セントクレアの敗北」として歴史に残ることになりました。

この絵はどちらも、セントクレアの敗北でけちょんけちょんにやられているアメリカ軍。

顔に網をかぶっているようですが、顔中に刺青を入れ、
頭頂を残して髪を剃り上げ、残った髪に羽などの飾りを結び付けています。
このイロコイ族の戦士の姿は当時の絵画に残されていたもので、
写真が残っているわけではないようです。

十七世紀の「バフコート」と呼ばれる皮のコートで、
分厚い皮を使用することによって簡単な鎧の役割を果たしました。

刀はもちろん、矢もある程度は防ぐことができたようです。

1847年の米墨戦争で編成された第3ドラグーン連隊の二等兵。

中央メキシコへの遠征に割り当てられ、ベラクルスに上陸して戦いました。

何か海軍的なものがあったので、注目してみました。

「地形技師」(トポグラフィックエンジニア)のドレスコートだそうです。

1841年ごろ、アメリカ陸軍には、士官学校卒士官による

「米国陸軍地形技術隊」 US Army Corps of Topographical Engineers

というのが組織されており、国家的土木工事となる灯台や沿岸要塞、
航海路の制定を行うという任務にあたっていました。

南北戦争の前には工兵隊に統合されましたが、そのころには
五大湖の湖沼調査などの仕事なども行っています。

ウェストポイントで教育を受けた選り抜きの技術者だけで編成され、
大変社会的地位は高く、通常の兵科士官よりもランクは上とされました。

この「軍団」の軍事遠征は当時秘境であったアメリカの開拓を行う
「探検隊」のような任務を負っていたということもできます。
たとえば・・・・。

レッドリバー遠征!(1806)

ミシシッピ川の源流を探せ!(1806)

アーカンソーとレッド川の源流を探せ!(1807)

ミシシッピ川探検!(1817)

ラスボス!イエローストーン遠征(1819)

秘境!テキサス国境探検(1842)

カナダ国境、前人未到の秘境を訪ねて(1846)

大陸横断鉄道ルートを探せ!(1855)

ほか多数(川口浩探検隊風に)

上の測量機もおそらくこのために開発されたものでしょう。

「リングゴールド陸軍少佐の死」

と題されたドラマチックな版画です。
サミュエル・リングゴールドはウェストポイント卒の砲兵少佐で、
1846年に行われた米墨戦争で両足に銃撃を受けたにもかかわらず
持ち場を離れることを拒否し、三日後に死亡したという人物です。

アメリカはこの人物を英雄として称え、「リングゴールドの死」
という歌も作曲されたということですが、
我が日本でいうところの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎、広瀬中佐、そして
陸軍の肉弾三勇士的位置にあったというわけですね。

ここからは南北戦争関係の展示です。

以前、ジャズのスタンダードナンバーで、
「オールド・ピープル(昔の人)」という、南北戦争を経験した
当時の老人たちを歌ったナンバーがあることをご紹介しましたが、
その歌詞に、

「ブルーのために戦ったのか、それとも灰色か」

という一節がありまして。

南北戦争、英語でいうところのシヴィル・ウォーは、ご存知のように
アメリカ国民が南北に分かれて戦ったわけですが、
そのため、南北戦争そのものが「ブルー&グレー」とも呼ばれています。

つまりここにあるブルーの制服は北軍のものですね。

上の絵画は、南北戦争の兵士を描いたもので

「カードに興じる少年」

当時は戦争に年齢制限はなかったので、この絵のような
子供もまた、戦争に参加していたということのようです。

南北戦争といえばご存知ゲディスバーグの戦いですね!

なぜ有名かというと、この戦いが南北戦争の決戦となったからです。
両軍の総力を結集したこの戦闘によって、アメリカ合衆国軍の優勢が決まり、
アメリカ国軍の敗北、そして消滅につながりました。

ちなみに、アメリカ国軍を「南軍」合衆国軍を「北軍」というのは
日本だけで、南北戦争というのも日本独自の呼び方なんですよ。

ご参考までに。

南北戦争の起こった1861年当時、医学は戦争という
過酷な現場で役に立つほど進歩していたわけではありませんでした。

この戦争によって、まず野戦病院のテントが開発され、戦場近くの
ホテル、学校、倉庫、工場、住居が病院として供出されました。

この戦争における全戦死者に対する病気での死者は数%で、
最も多い死因は下痢と赤痢によるものだったと言います。
戦場における非衛生的な滞在が原因です。

そして当時の外科医は、彼らのカウンターパート同様、
無害な生物と病気の原因となるものを区別することもできませんでした。

そして、どちらの軍においても、外科医は
「Sawbones」と兵士から呼ばれていました。

「骨を見る人たち」、つまり、医師の治療とは怪我をした部分を
ただ切除するしかなかったことからきています。
当時の医療ではそうするしか方法がなかったということですが、
問題は切断したからと言って死なずに済むとは限らなかったということです。

麻酔とクロロフォルムはどちらも頻繁に利用されましたが、
それによって死ぬ人も多く、麻酔は痛みを和らげるよりも
安楽死に多く必要とされることになりました。

しかし、戦争も後期になってきた頃には治療もオーガナイズされ、
救急車(写真一番上)などが投入されるようになって、連合軍は
まだましな医療を受けられるようになったといいます。

 

いずれにせよ、どちらの軍隊にとっても、本当の英雄とは、
死んだ人ではなく、
病人や長引く負傷の苦痛に耐え抜いた人だった、
と当時有名な軍医も言っています。

 

上の写真の人がいるテントは「野戦病院」で、一番下は
テントを並べた野戦病院での治療の様子です。

南北戦争で戦場において使用された医療箱です。
当たり前ですが、全ての入れ物は瓶です。

右側、当時の手術道具、左はそれを運ぶ鞄。
手術道具と言いつつ、ノミとトンカチがあるのが怖い。
(まあ今もそうですけど)

当時の医学的資料で、負傷した骨の見本。
右は多分大腿骨かどこかだと思いますが、すっぱりと下で切られています。
左はこれどう見ても銃弾を受けた頭蓋骨ですよね?

これらは全て死んだ兵士の死体から研究のために切り取られたものだそうです。
((((;゚Д゚)))))))

黒人ばかりで組織された部隊「バッファロー・ソルジャー」は、
アメリカ史上初、正規のアメリカ陸軍の平時の黒人だけの連隊として、
議会によって創設され南北戦争にも参加しました。

バッファロー大隊については、当ブログで取り上げていますので、
詳しいことはそちらでどうぞ。

バッファロー大隊

当ブログ的にはものすごく見覚えがあるこのシェイプ、
南北戦争で使われた浮遊機雷じゃなかったですか。

「インファーナル・マシン」(地獄のマシン)

という厨二的な名前がついていたという記憶もあります。

わざわざ金色のプレートに

「南軍の魚雷」

と書いてあります。
石炭魚雷という名前のこの魚雷は、中に爆発物で満たされた
中空の鉄の鋳物が入っており、南軍のシークレットサービスが 
北軍の蒸気機関車による輸送に害を及ぼすことを目的に作られました。

石炭の間の火室にシャベルを入れると爆発を生じるもので、
機関車のボイラーに損傷を与え、エンジンを動作不能にします。

最悪の場合、壊滅的ボイラー爆発によって火災を起こし、
さらには船を沈めることもできました。

魚雷とありますが、必ずしも海でなく、陸で使われるもの、
地雷と現在定義されるものも全て当時は「トルピード」と呼んでいました。

ただいま治療中。

米西戦争の後、陸軍が占拠駐在していたキューバで黄熱病の流行がありました。

黄熱が蚊によって媒介されるという仮説を立てたのはキューバの医師でしたが、
陸軍軍医のウォルター・リード少佐はこのことを実験と観察によって確認、
研究を残し、その功績を称えられました。

死後、メダルが贈られ、1938年には「イエロージャック」という映画にもなっています。
発見したのは実はキューバの医師ファンレイだったのに、とは言わない約束です。

続いて、ウェストポイント博物館展示をご紹介していきます。

 

 

続く。

 


ウィーン攻勢とオーストリアの独立〜ウィーン軍事史博物館

2020-04-02 | 博物館・資料館・テーマパーク

長らくお話ししてきたウィーン軍事史博物館シリーズ、最終回です。

今回一番残念だったのは、ちゃんとした予備知識なしで行ったため
全部を効率的に見ることができなかったことですが、もし前もって
計画を立てて臨んだとしても、おそらく膨大な展示を全て網羅することは
不可能であったと思われます。

展示は一箇所ではなく、何箇所にも分かれているのですが、まずその一つが
「大砲ホール」という、550もの銃砲が展示されている部分です。

全てを見学し終わって、疲労困憊しながら博物館を出て、
死ぬほど暑い日差しの中をまた駅に向かって歩き始めた時、
博物館のウィングと思しきこんな回廊状の建物が見えました。

遠目には回廊のスクリーンで当博物館の展示品などの写真を
イメージ風に見せているのだと思っていたのですが、
この写真を拡大すると、回廊の内部に何か見えています。

実はこれがウィーン軍事史博物館の「大砲ホール」だったのです。

博物館HPより。
第一次世界大戦中の大砲のコレクションはかつて1000を越したそうですが、
第二次世界大戦中は鉄を調達するためにその多くが供出され、溶かして
あらたな大砲を作るために失われました。

見られなくて残念だったもう一つの展示パート、パンツァーハレ。
この戦車は常設展示のある建物の庭から見えるところにあったものですが、
パンツァー、戦車をまとめて観ることができるゾーンは、
本館を出て少し歩いて行った別のところにあるのです。

ウィーンアーセナルのパンツァーホール

ただ、この日のタイトなスケジュールと外の猛烈な暑さを思うと、
もしパンツァーハレがあることを知っていたとしても、
果たしてここまで行くだけの気力があったかどうか・・・。

本館の外には、航空機も展示してあります。
これも例によってあまりの暑さに近くに行く元気もなく、帰り道に
望遠レンズでなんとかこれだけ撮ったという体たらくでした。

ウィーン軍事史博物館には、航空機だけを集めた別館があります。

航空博物館ゼルトヴェク「ハンガー8」

なぜここがハンガー8(アハト)なのかはわかりませんが、
ザルツブルグにあったレッドブルのCEOが道楽で作った
飛行機のコレクションを展示する博物館の「ハンガー7」は
ここにかけたネーミングであるのは確実。

ここにはもし次の機会があったら必ず行きます(`・ω・´)

というか、今はそんな日が来るといいね、ということになってしまいましたが。

 

さて、ウィーン軍事史博物館はオーストリアが戦争をしていた頃の
軍事遺産を展示し次世代に残すことを使命としていますので、
それは第二次世界大戦の敗戦まで、ということになるわけです。

このゾーンには、ドイツ敗戦後にオーストリアで起こったことを表す
資料が展示されていると思われます。

まず目につくのは「MP」(ミリタリーポリス)のヘルメットとキャップ。
オーストリアが分割統治されたときのアメリカ(イギリスかも)軍のものです。

右上のポスターはウィーンの有名な劇場で行われる
「国際見本市」の告知のようですが、日付は1945年5月7日となっています。

これは、5月7日にはオーストリアには連合国の進駐が始まっていたということです。
わたしも含めて、オーストリアという併合国がどのように終戦を迎えたか
あまり認識していない方が多いと思いますので、今日は最終回として
このことを書いてシリーズの締めとしたいと思います。

 

ヒトラーが地下壕で自殺してからドイツでは各軍の降伏が相次ぎました。
国が降伏するのではなく波状的にあちらこちらで降伏が始まったのです。

ドイツ軍全軍が降伏したのは降伏文書に署名した5月8日でしたが、
オーストリアは多少事情が異なります。

アンシュルス(併合)によってドイツの一部となっていたオーストリアですが、
連合国四カ国、つまりアメリカ、イギリス、ソ連、中国の、
今考えたらすごいメンツで集まって出された「モスクワ宣言」において、

「オーストリア併合は無効である」

と宣言が行われ、戦後はオーストリアを元に戻す、ということを
周りが寄ってたかって決定したのです。

つまり、オーストリアは併合され無理やり戦わされていたので、
併合を解除してドイツから解放してあげるからね、というわけです。

このモスクワ宣言は前年の11月に出されましたから、
ドイツが早々に敗戦することを見越してのものであったことになります。
戦争継続中であったため、オーストリアがこれに呼応することはありませんでしたが、
やはり内部では終戦に向けた模索がされていたに違いありません。

そして1945年4月、ソ連赤軍がウィーンに侵攻してきました。

これをウィーン攻勢といいますが、このとき攻めてきた陣容がすごくて、

4個軍:85個師団、3個旅団
ソビエト赤軍:644,700名
ブルガリア軍100,900名

これを迎え撃ったのがウィーンに残存していたドイツ国防軍

戦闘は市街戦に及び、ほぼ全ての部分が包囲され攻撃を受けました。
疲弊しきったドイツ軍はリンツまでの撤退を余儀なくされ、この間
ウィーンは歴史的な建造物がいくつも失われ、市内は荒廃し、
警察がいないのをいいことに盗みが多発、侵攻してきたソ連赤軍は
暴力・略奪・強姦を数週間行いました。

余談ですが、ドイツでも赤軍は暴虐の限りを尽くし、
ここでも紹介したあのウィーンの歌姫、田中路子は、
ベルリンの自宅に自作の日の丸を高々と掲げ、そこは
庇護を求めて駆け込んでくる文化人のサンクチュアリになっていました。

Hildegard Knef

そのうちの一人がドイツの女優、ヒルデガルト・クネフです。

若き日ゲッベルスに目をつけられたこともあるという美貌の女優は、
赤軍がベルリンに進駐してきたとき、恋人とともに兵士として
戦闘に加わっていましたが、捕らえられ、収容所に入れられます。

そこでロシア兵から彼女の身に加えられた体験は非常に過酷で屈辱的なものでしたが、
囚人仲間に手助けされて脱出してから、髪を切り男の姿に身をやつして、
天鵞絨で作った日の丸の翻る田中路子邸に転がり込み、命を永らえました。

田中路子はナチス嫌いだったそうですが、それよりも侵攻してきたロシア軍は
どこの国でも特に女性には鬼畜のように恐れられる存在だったようです。

満州における日本女性の受けた苦難も、そのことを証拠付けています。

 

後ろに掲示してあるこの告知をアップにしてみましょう。

「オーストリア軍事政府」の制定事項の告知のようです。
ソ連が侵攻してきたと同時に、オーストリアでは

カール・レンナー(1870年12月14日 - 1950年12月31日)

を首班とする臨時政府が成立しました。

Karl Renner 1905.jpg

社会民主党の議員としてアンシュルス(オーストリア併合)には反対していたレンナーは、
ドルフス政権の独裁によって投獄されていたという経験を持ちながら、
併合以降、彼の理想とする修正的社会主義の考え方から、容認発言をし、
後世の歴史家からは日和見主義的と批判されているようですが、
初代大統領になったことで「オーストリア建国の父」とも呼ばれています。

これがどういう経緯かというと、なんとレンナー、田舎でくすぶっていたところを
侵攻してきたソ連に呼び出されて、

「新政府の樹立をしてくれないか?」

と要請されてその気になったというんですね。
ソ連にしてみれば、八方美人と思われていたレンナーを
本格的な親ソ政権ができるまでの「つなぎの傀儡」にしようというところです。

まあ、神輿に担ぐには切り捨てやすいヤツがいいと思われたんですね。

併合廃止後、新しい政府を自分の手で作り上げることができるチャンスに
レンナーは張り切って独立宣言を行いました。

これが1945年4月27日のことです。

同時にオーストリアは、連合国による分割統治を受けることになりました。

前にも一度上げた統治国地図ですがもう一度。

首都ウィーンはこんな状態に細分化されていました。
やはり最初に攻め込んだソ連が最も広い占領地を獲得しています。

この占領統治は軍政によるもので、先ほどの告知にあった

Militärregierung(ミリターレギエルンク)

これら連合国の軍事政府のことを指します。
英語とドイツ語で表示してあったのはそういうことだったんですね・

ウィーン攻勢で市内のいたるところに残された兵士の所持品など。

その後、連合国の元に成立した連合国委員会が誕生し、国政選挙の結果、
結局レンナーが当選し、初代首相となったというわけです。

ソ連は傀儡政権までのつなぎにしようと思っていたレンナーですが、
どうも英米が疑うほどソ連寄りではなかったらしく、
連合国統治後、ドイツのようにオーストリアが東西に分けられそうになると、
領土拡大を密かに狙うソ連に領土は二つに分けさせないと警告しました。

分割統治以降、ソ連軍の占領以来の略奪行為と法外な賠償要求は、
左派支持者も含めた国民のみならず、他の連合国もこれにはドン引きし、
選挙でもソ連を支持する共産党はぼろ負けしたというのが、
オーストリアがそのままの形で独立を果たすことができた一因でしょう。

我が日本を事後法で裁く極東軍事裁判でも、ソ連兄貴ったら、
日本に対して、

「日露戦争の復讐をしようとして」

他の国をすらドン引きさせていますからね。

「それ一体いつの話よ?」

って感じで(笑)

そして、西側世界的にはそれまで悪役だったナチスが滅びたので、
こんなソ連を悪にして心置きなく冷戦にのめり込んでいったという構図です。

 

そうそう、わたしが偏向だと断言するNHKの「映像の世紀」の七不思議の一つですが、
なぜかソ連のこういう一連の暴虐ぶりについては一切何も言わないんですよね。

「映像の世紀」といえば、一部には大変評価が高いのですが、わたしに言わせれば
日本の安保反対学生暴動を、あの赤軍派を全くスルーした上で
「反戦」「民主化」への動きに位置付けたり、必要以上にチェ・ゲバラを礼賛したり、
日本が出てくるとやたらリベラルに立って批判に走ったり、そうそう、
アラビアのロレンスの件もアレだし、そのほかにも政治的な立場が偏りすぎていて
一見まともだけに悪質です。

いつか気力があれば「映像の世紀」糾弾をやってみたいのですが、
当分は折に触れてチクチク文句を言うにとどめておきます(笑)

 

というわけで、長らくお話ししてきたウィーン軍事史博物館シリーズ、
後1日だけ「余談」を残しますが、とりあえずこれでおしまいです。

次に行くことがあったら、(あるといいですね)今度はもう少し
ちゃんと予習をして臨み、
できれば今度は家族抜きで見学して
ゆっくり写真を撮ってきますので、そのときにはまたお付き合いください。

 

終わり。

 


「トリエステの鷲」ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵〜ウィーン軍事史博物館

2020-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回、オーストリア海軍の階級について少し説明しましたが、
ドイツ軍とはまた少し違う呼称を採用していることがわかり、
興味をお持ちの方もおられると思いますので、挙げておきます。

Admiräle(アドミリール 将官)

提督(Großadmiral グロスアドミラル)

大将(Adomiral アドミラル)

中将(Vizeadmiral バイゼアドミラル)

少将(Konteladomiral コンテルアドミラル)

短い海軍の歴史ゆえ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍には
提督と呼ばれる海軍軍人が5人しかいません。

テゲトフは伝説的な勇将でしたが、若くして40代で亡くなったので
生きていればこの数は6人になったところです。

アントン・フォン・ハウス提督(1851-1917)

18歳で海軍に入隊し、北京の義和団の乱の平定にもきていたという
ハウスは、そこでの功績を認められて中将に昇任。

第一次世界大戦が始まると、同時に勃発した国内の内乱を抑えつつ、
イタリア海軍相手に戦略家ぶりを発揮し、ドイツ海軍から
唯一?その能力を認められていたといわれる軍人です。

彼が提督に任命されたのは1916年で、つまりK.u.K海軍にとって
最後の提督ということになります。

ウィーン軍事史博物館にはハウス提督を讃える絵画、そして
彫像もあったというのですが、そこにいる時にはこの人が
それだけの人物とは思わず、わたしは写真を撮りませんでした<(_ _)>

少将を表す「コンテルアドミラル(Konteladomiral)のコンテルですが、
もともとフランス語の「コントルアミラル」(コントルアミラルで
大将に対する統制を行うというような意味)から来ており、ドイツ語化しています。

繰り返しになりますが、佐官と尉官も挙げておきます。

Stabsoffiziere(佐官)シュタフスオフィツィール

 大佐(Linienschiffskapitän リニエンシッフスカピタン)

 中佐(Fregattenkapitän フレガッテンカピタン)

 少佐(Korvettenkapitän コルベッテンカピタン)

Oberoffiziere(尉官)オーバーオフィツィール

 大尉(Linienschiffsleutnant リニエンシッフスロイテナント)

 中尉(Fregattenleutnant フレガッテンロイテナント)

 少尉(Linienschiffsfähnrich フレガッテンフィンリッヒ)

少尉だけが名称が何度か変わっており、なぜかフレガッテンが付きます。

Offizieranwärter(士官候補生)オフィツィールアンヴェーター

 Seefähnrich(ジーファーリッヒ)

 Seekadett(ジーカデット)

 

以下、下士官兵も。

Unteroffiziere(下士官)ウンターオフィツィーレ

 Oberstabsbootsmann (甲板長  オーバーシュタブスボーツマン)         

 Stabstelegraphenmeister(通信長 シュタッブステレグラフェンマイスター)

 Stabsbootsmann(ボースン シュタッブスボーツマン)

 Stabsgeschützmeister(水雷長 シュタッブスグシュツマイスター)

 Unterbootsmann(甲板員 ウンターブーツマン)

 Untergeschützmeister,(水雷士 ウンターゲシュツマイスター)

 Untertelegraphenmeister (通信士 ウンターグラフェンマイスター)

 

Chargen(兵 )チャーチェン 

 Bootsmannsmaat(甲板員 ブーツマンズマート)etc,

これによると、甲板長、通信長、水雷長は下士官だったことになります。
水兵は配置名の下に「マート」がつきます。

また水兵、つまり船乗りは Matroseマトローズとなります。

マトローズはいわゆる「マドロス」のドイツ語です。

 

さて、と説明したところで、今日のテーマの紹介に参りましょう。

冒頭写真は、このゾーンに展示してあった肖像画です。
背景を見ていただければ、彼らが海軍航空隊に関わる人物だと想像できます。

まず、この真ん中の人物です。

Gottfried von Banfield.jpg

ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵
Gottfried Freiherr von Banfield (1890-1986)

タイトルにFreiherr (フライヘア)とついていますが、これは
神聖ローマ帝国における貴族、「男爵」のことです。

ドイツ語圏ではバロンといわずフライヘアを使うそうなので、
マンフレード・フォン・リヒトホーヘン男爵も、自国では
バロンではなく「フライヘア」をタイトルとしていたはずです。

バンフィールドはオーストリア海軍でもっとも優れた戦闘機パイロットで、
第一次世界大戦では飛行艇で敵機を落とし、エースとなっています。

その飛行技術は、余人をして、

'Eagle of Trieste’(トリエステの鷲)

と呼ばしめたほどでした。

ところで、バンフィールドという名前がどうもドイツっぽくないな、
と思っておられた方、あなたは鋭い。

バンフィールドの名前を持つ父親はイギリス人でしたが、
息子のゴットフリートはモンテネグロにあるオーストリア艦隊の母港で生まれ、
彼自身はオーストリア国籍を取得したのです。

代々祖先が軍人の家系に生まれた彼は本人もその道を志し、
軍事中学を出てフィウメの海軍兵学校に入学しました。

士官に任官したのち、ウィナー・ノイシュタットにあった飛行学校で
パイロットの訓練を開始し、オーストリア海軍が募集した
最初の海軍航空隊に操縦士として入隊を果たしたのでした。

オーストリア海軍の軍港プーラで彼は水上艇の訓練を受けますが、
着陸の事故で足を骨折し、一時現場を遠ざかっていました。

そして第一次世界大戦が始まります。

バンフィールドは戦艦「SMS ズリーニ」の偵察機部隊乗組となり、
ローナー飛行艇E21の搭乗員として、カッタロの基地から出撃して
モンテネグロまでの空中作戦に偵察のため参加しました。

SMS Zrínyi.jpgズリーニ

イタリアが参戦した後はトリエステの水上艇基地の指揮官に就任。

1915年6月からトリエステ湾における伊仏軍との空中戦を幾度か行い、
すぐに初撃墜を記録しています。

この戦争で彼にとって辛かったのは、彼かつて操縦の教えを受けたことのある
フランス人の教師と戦場で出くわすこともあったということでしょう。

飛行士の戦死率が大変高かったこの時期、しかし彼は
負傷しながらも最後まで戦死することはありませんでした。

バンフィールド大尉がこの時乗って撃墜記録をあげたのはこの飛行機です。

Oeffag Mickl Type H
Blaue Vogel

ブラウエヴォーゲルとは「青い鳥」という意味です。

バンフィールドの撃墜記録は確認9機、未確認11機。
最も成功したオーストリア=ハンガリー海軍の航空機搭乗員となりました。

が、このことを、

「彼が空戦したのは北アドリア海上で、そのため本当に相手を
撃墜したか確かめるすべがなかった(=水増しされていたはず)」(wiki)

というのはなんだかちょっと失礼な気がします。
ちゃんと確認した人の名前も残ってるんだし・・・ねえ?

これらの戦功により、彼はマリアテレジア勲章を授けられた
最後の軍人となり、フライヘア、男爵位を叙爵されたのです。

 

冒頭画像の絵画は、

カール・シュテラー(1885−1972)

の作品で、題名は

「ゴットフリート・フライヘア・フォン・バンフィールド大尉と
彼の
トリエステにおける列機パイロット、

フリードリッヒ・ウェルケ少尉とヨーゼフ・ニーダーマイヤー少尉」

となっています。

しかし、オーストリア=ハンガリー海軍は敗戦によって消滅し、
トリエステ基地に勤務していたバンフィールド大尉は、
戦後イタリアによって捕らえられ、投獄の身を託つことになります。

海軍消滅によって、彼もトラップ少佐のようにおそらく
心に深い喪失の悲しみを抱えたことでしょう。

・・というのは余人の考えに過ぎず、なんとこのおっさん、
自由の身になるや、どこでそうなったのか、トリエステの公爵家令嬢である
マリアと結婚して
とっととイギリスに移住を決め、
裕福な嫁の実家の海運会社を経営するという逆玉人生を爆走し始めました。

そして「イル・バローネ」とか「アワ・バロン」とか呼ばれて、
地元では結構な有名人で、もちろん名士ともなったというじゃありませんか。

この男前で海軍軍人、パイロット、しかもエースだったりしたからなあ。
きっと全方位にモテモテで困るMMK人生だったんだろうなあ。

1927年と言いますから、彼37歳の時には、地元のテニス選手権で
優勝したりしていますし、彼らの間に生まれた息子は
のちに有名な作曲家になり(ラファエロ・デ・バンフィールド)、
本人は晩年にレジオンドヌール勲章をもらうなど、
側からはイージーモードに見える人生を送り、おまけに長生き。

彼が亡くなったのは1986年。96歳は大往生といってもいいでしょう。

ただ、ひとつ、不思議なことがあります。
バンフィールド大尉、結婚してイギリスに定住していたはずなのに、
なぜか亡くなったのはトリエステとなっていることです。

 

かつてオーストリア=ハンガリー海軍の最後の海軍士官として空を駆け、
「トリエステの鷲」と呼ばれたことと、ここが彼を最後に呼び寄せ、
彼の終焉の地となったことには、やはり関係があったのでしょうか。

 

続く。

 


ギャレーとヘッジホッグ〜USS 「スレーター」

2020-01-29 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨークのハドソン川河岸に係留展示されている博物艦、
駆逐艦「スレーター」。

長々と外から見た様子について描写してきましたが、ようやく
見学ツァーの一員として乗艦するときがやってきました。

ラッタルを渡ってから一行は舷門のところでこの艦の歴史的な価値、
多大な努力によって完璧な姿で保存されていることなど説明されます。

そのあと左舷側の舷側に沿ってコースを進んでいくのですが、
すぐにこのような初めて見るコンパートメントを発見しました。

「エスケープハッチ」(脱出用ハッチ)というのが正式名称です。

非常用のハッチといいながら、上部に滑車と鎖があり、ここから
ものを出し入れしていたらしいことがわかります。
内部で火災が起きた時にはここからホースを入れることができるように
消火栓も近くに設置されています。

上部構造物の壁にはアプリケーターがセットされています。
この部分、青いですが、ダズル・カモフラージュの濃部分です。

ツァーに同行していた一人の男性のTシャツが気になって仕方ありません(笑)

「YAMATOって何〜!」

さりげなく後ろに忍び寄り、写真を撮っておきました。
どうも「倭(やまと)」という和太鼓グループがこの年アメリカで
ツァーを行い、この男性はそのコンサートでTシャツを購入したようです。

「人の輪の真ん中に太鼓」

という日本語が書かれていました。

最初に見学したのはギャレーです。
メスドックという水兵用の食堂の一階のデッキにあり、ここで
212名の下士官兵の食事を用意しました。

この時の説明によると、ギャレーというのは平時一番危険な場所だそうです。
波高が高い時、あるいはヘビーな横揺れに見舞われたりすると、
熱湯でもあるスープ類が鍋からこぼれたり、熱された鍋の蓋が飛んで
調理人を直撃することもあるからです。

スープやシチュー類を煮込むために三つの巨大な鍋があり、
これは「コッパーズ」(Coppers)と呼ばれていました。
見たところ女性の後ろの大きな鍋は銅製ではありませんが、
慣例的にそう呼ばれていただけなのかもしれません。

このタイプはアメリカ海軍のスタンダードで皆同じ形をしています。
鍋は低圧の蒸気を使って料理を行う仕組みですが、
この蒸気は艦を動かす補助ボイラーから取られていました。

食材はメスデッキの階(階下)の倉庫に収納されており、そこへは
前方の乗員の洗面所内にあるハッチでいくしかありませんし、
野菜などの倉庫は逆に一階上の上部構造物デッキにあり、
パンの棚は廊下にあると言った具合に散らばっていました。

駆逐艦は小さいのでこれは仕方がありません。

食事の時間になると、重い鍋や食べ物を手で持った人が
前方の梯子を使ってそれらを毎回階下に手で下ろしました。

本日のメニューは

「ドライビーフのクリーム和え」

まず「ドライビーフ」というのが既に謎ですが、ローストビーフとは
全く別物だろうし、まさかビーフジャーキーのことじゃないよね?

まさか高級ステーキ店で出てくる「ドライドエイジドビーフ」のことかしら。

クリームというのは、ミルクを温めてそれに脂と小麦粉をぶちこみ、
ねるねるねるねしてそれに胡椒をぶちこんだもの。
うーん、ハーブを使えとは言わんが、味付けに胡椒だけってどうなんだろう。

左に半分見えているのがオーブン。
オーブンではいつもパンを焼いていて、ことに夜になると
切れ端などをお目当ての乗員たちの人気のスポットでした。

粉を混ぜる「ドウミキサー」はホバートのA-200モデルです。

ギャレーは物資が持ち込まれ、海の状態がそんなひどくない限り、
乗組員に十分な栄養を与え続けることができました。

しかし、駆逐艦乗組員の多くは、北大西洋の船団勤務中、
戦闘ステーションに貼り付いているか、荒天でキッチンの火が使えず、
コーヒーとサンドイッチだけですませていた記憶しかないそうです(涙)

 

説明が終わり、ギャレーを出るとき、わたしは解説の人に

「スレーターにはアイスクリームメーカーはあったんですか」

と聞いてみました。
すると彼は、その質問待ってました、という調子で、
わたしというより見学者全員に聞かせるように、

「スレーターにはアイスクリームメーカーはありませんでしたが、
第二次世界大戦中の軍艦、とくに大きな艦はほとんどが
アイスクリームが食べられるようになっていました。
潜水艦はキッチンが小さいですが、任務がハードなこともあって
アイスクリームメーカーを持っていることが多かったのです」

と説明しました。
ここで説明したこともありますが、駆逐艦の場合、護衛する戦艦や空母に
ゲダンクと呼ばれるアイスクリームショップがあるので、たとえば
海に落ちた飛行機の搭乗員を助けたら、その搭乗員の体重と同じだけ
駆逐艦に対しアイスクリームが振舞われるという風に、
ご褒美兼『餌』にされていたという報告もあります。

そんなアメリカ人のアイスクリーム愛をかつてここでご紹介したことも。

米海軍アイスクリーム事情〜ハルゼー提督とアイスクリーム

ギャレーを出てそのまま艦首に向かって歩いていくと、
艦首旗を掲揚する

Bow Jackstaff

部分に近づきます。
ここには錨鎖などがあるため、立ち入ることはできません。

現在ここに掲揚されている旗はユニオンジャックです。
伝統的に、アメリカ海軍の軍艦が港にいるときに揚げられます。

ユニオンジャックとともに、かつての「スレーター」艦首にて。

「ミッドウェイ」の内部見学で、空母ではトレーニングジムにもなっている
広い「フォクスル」=艦首楼(Fo'c's' le=Forecastle)
をご紹介しましたが、駆逐艦の場合はこの部分がフォクスルということになります。

ところで、このフォクスル=Forecastleですが、なぜこう呼ぶかというと、
帆船時代の名称の名残です。

その時代、船首部分は最初に敵の船と交戦するための城、つまり
「前方の城」だったことに由来します。

ここには通常錨鎖とそれを止めるペリカンフック、チェーンストッパーがあり、
アンカーを上げ下げするために使用される電気駆動式の油圧ホイスト、
アンカーウィンドラス(巻き上げ機)があります。

今はどうかわかりませんが、「スレーター」では一度に
一つのアンカーしか処理することができなかったので、
二つ目のアンカーを使用する場合には、最初のアンカーを固定してから
切り替える必要がありました。

フォクスルの後方には弓形の囲いがあります。
「Gun No.1」の周りを取り囲むようになっていて、
エッジには銃座から見ての角度が10度ごとに刻まれており、
配置につく前にかぶる鉄帽がフェンスに人数分掛かっています。

ここには3"/50 口径対空銃が設置されています。
駆逐艦の主砲としては5”/38 口径の銃を装備することになっていたのですが、
生産不足のため、この台座タイプが主砲として、
最初の駆逐艦4クラスに採用されました。

そのうち生産が需要に間に合うようになり、最後の「ラドロウ」級、
「ジョン・C・バトラー」級に5”/38 口径が搭載されるようになりました。

装填は手動で行い、昇降ギアによって銃弾は運ばれます。
ここでは実際に使用していた弾を見せてもらえます。

俯角のリミットは13度、仰角は85度。

「上部構造物に射線が当たらないように設計されています」

どんなに夢中になって撃ちまくってもこの部分には絶対に当たらないので安心ですね。

「スレーター」ではより正確な銃撃のために、ディレクターコントロール
(射撃制装置)を使用していました

「注意:カバーの取り外しの際にはシフトレバーを元の位置に戻すこと」

と書いてあります。

ディレクターコントロールから送られてくる情報通りに
ここを覗きながら角度を調節するためのスコープだと思います。

「ちょっと持ってみますか」

言われて一人の男性が持たされ、

「重いなこりゃあ」

男性の腕の筋肉が重さで緊張しているのに注意。

#1ガンの後ろには、
MK 10 ヘッジホッグプロジェクターが設置されています。

ヘッジホッグは、先日江田島の第一術科学校に展示されていたのを
ご紹介ついでに説明もさせていただきましたが、繰り返しておくと、
この「ハリネズミ」は、爆雷攻撃の欠点を克服するために、
イギリスで開発された攻撃方法です。

 

第二次世界大戦時、ソナーは船の前方でしかスキャンできなかったため、
潜水艦がいると分かっていてもソナーに引っかからなければ、
爆雷は当てずっぽうに落とすしかなく、攻撃の精度が下がりました。

もっとまずいことは、一度爆雷攻撃を行うと、ノイズと乱流が発生するため、
ソナーがそのあと30分間は使うことができなくなるのです。

この点、艦首近くに設置されたヘッジホッグは、潜水艦をソナーで捉えている
(つまり艦の前方にいることがわかっている)とき、そこに向かって
攻撃を行うということを可能とします。

ヘッジホッグとは、24門の迫撃砲からなり、艦の前方
250メートル先をミサイルで攻撃するものです。
潜水艦の潜むエリアに向けて、迫撃砲は円形、または楕円形をなして
落下していき、潜水艦を取り囲むように海中に落ちてこれを殲滅します。

ヘッジホッグ発射後、海面で水しぶきを上げるミサイル。

こちらは戦後のヘッジホッグの発射跡。

各ミサイルには35ポンドのトーペックスTorpex、英国で開発された
魚雷用の爆薬でTorpedo Explosiveの略語)あるいはTNT爆薬が含まれます。

ミサイルの推進力はロケット式ではなく、無煙パウダーのインパルスチャージです。

ミサイルは先端に接触性のヒューズが付けられており、潜水艦などの
水面下の物体に信管が当たった時に飲み爆発する仕組みでした。

ヘッジホッグには後方に蓋のようなものがありますが・・・・・、

これがそのヘッジホッグの裏側。
コントロール装置一式があり、これ全体がシールドにもなっています。

そしてこれがヘッジホッグのクレイドル、つまり設置されている台。

第二次世界大戦中は護衛駆逐艦とイギリス海軍のフリゲート艦だけが
これを装備していました。

第二次世界大戦中、ヘッジホッグの攻撃を受けて
生き延びた潜水艦はないと言われます。

 

続く。

 


ダズル・カモフラージュと神風特攻〜USS「スレーター」博物館

2020-01-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、朝一番にニューヨーク州オルバニーのハドソン川沿いに
係留されている駆逐艦「スレーター」の見学にやってきました。

入場料を支払うと、艦内ツァーの第一陣が出発するまでその辺で待て、
といわれるので、説明の看板を見たりしながら時間を潰します。

平日の朝でしたが、このあたりは観光客もそこそこ多いのか、
二十人以上が待機しています。
見学者はわたしたち二人以外は全員が中年から初老の白人でした。

第二次世界大戦時に大量生産された無名の駆逐艦などに興味を持つのは、
自分の身内がなんらかの形で第二次世界大戦に参加していたような層か、
あるいはわたしたちのようなモノ好きな日本人くらいかもしれません。

時間まで皆、わたしが前回のシリーズで紹介した「スレーター」
展示までの経緯についての掲示板などを見て過ごします。

わたしは岸壁からもう一度全体の写真を撮っておくことにしました。
「スレーター」艦体は特殊な迷彩柄にペイントされています。

このペイントは実際に「スレーター」がアメリカ海軍の軍籍にあった
1945年当時の仕様をそのまま再現してあります。

「ダズル・カモフラージュ」というこの迷彩は濃淡をつけた色のパターンで、
敵の船、そして特に飛行機にとって艦種が特定しにくくなっており、
移動中もその方向がわかりにくいという効果があるといわれていました。

魚雷などを発射する時、照準は敵艦船までの距離を測ることで決定しますが、
それに必要な船の大きさ、速度、そして現在の向いている方向は
それらの計算に必要な要素となります。

そのとき、艦影を小さく勘違いしたり、艦首の角度を見誤ると
正しい情報が得られなくなり、的中率は極端に低くなる、という理屈です。

しかしながら、1945年以降は採用されなくなりました。
その理由は、この塗装は雷撃の目標はそらすことができても、
日本軍の神風特攻隊のパイロットたちの目はごまかせなかったからです。

むしろ肉眼では見つけることが容易であったため、この塗装は
かえって彼らの目標にされやすいらしいということがわかってからは、
アメリカ海軍のほとんどの艦船はシンプルな塗装へ回帰していったのです。

いわゆる一般的にいうところの「甲板」のことを
英語では「メインデック(デッキ)」といい、上部構造物のことを
「スーパーストラクチャー」といいます。

艦首部分は、メインデッキ、スーパーストラクチャー、そして
スーパーストラクチャーの「二階」にあたる部分の「ブリッジ」、
最上階の「フライングブリッジ」、全てに必ず武器が装備されています。

これはスーパーストラクチャー前方に設置された

3"/50 Caliber Gun(Mk22)50インチ口径3インチ砲

の砲身部分を斜め後ろから見たところです。

スーパーストラクチャー、上部構造物の両舷を防護する

20mm Anti-Aircraft Machine Gun(20ミリ対空機関砲)

は、スイス・エリコン社の対空砲です。

対空機関砲はこの階の前方に2基、中央に4基設置されて
まるでハリネズミのように航空攻撃から最も敵から防護したい
重要な部分(『スレーター』はここにCICがある)を守っています。

舫で吊り下げられているこの物体は、縄梯子状のラッタルだと思われます。

上部構造物を守っているのは20ミリ機関砲だけではありません。
後方に向けてアイランドのようなところに設置されているのは 

Twin 40 mm Gun with MK51(40ミリボフォース機関砲と射撃指揮装置)

Mk.51 射撃指揮装置(Mark 51 Fire Control System, Mk.51 FCS)というのは、
アメリカ海軍の艦砲用射撃指揮装置(GFCS)です。

高速で接近してくる航空機に対して近距離で即応できるシステムで、
移動目標を目視照準・追尾すれば、自艦と目標との相対的な角速度変化を検出し、
さらに見越し角を自動算出することができるというスグレモノです。

一人で操作する比較的お手軽なFCSであり、このボフォース 40mm機関砲などと
ともに使用されていました。

高圧のため危険というマークのついたこの魚雷のようなものは
なんだかわかりませんでした。
おそらく甲板の武器に電源を供給するものか電圧システムだと思います。

上部構造物の最高層にあるのがフライングブリッジです。
カバーがしてあるこれはレンジファインダー、光学式距離計、
つまり測距儀だと思われます。
測距儀の設置されている場所をレンジファインダー・プラットフォームといいます。

岸壁レベルから撮ったので一部しか見えませんが、フライングブリッジ。
ここには航空観測台(スカイルックアウト)と海面の観測台があります。

スカイルックアウト・ステーションは遮るものが全く無く、
空を監視することができるように配置されています。 

レーダーが出現する前は、見張りが重要な役割を果たしていました。
これらの見張り任務のために、第二次世界大戦中、双眼鏡、
ベアリングダイヤル、および標高インジケーター付きの椅子が開発されました。

この椅子は艦体の四方にに1つずつ、左舷に2つ、右舷に2つ設置され、
艦内電話で甲板士官とCICにに連絡を取ることができます。

艦が海上にあるときは一日24時間、かならずこれらのステーションは
見張りが立つことになっていました。

こちらは岸壁に展示してあったコーナー。
よくわかりませんが通信機器であることは確かです。

駆逐艦の乗員が使用していたヘルメットはとにかく重たそうです。
航空攻撃から頭を守るための分厚さですが、20ミリが命中したら
こんなものを被っていたところでなんの役にも立たないでしょう。

魚雷か爆雷か・・・。

いずれにしてもこれらは博物館を立ち上げたメンバーが、アメリカ中から
探し出してきたもので、「スレーター」の装備ではありません。

逸失してしまってありませんが、正しい姿は両腕の上に赤と緑のボール
(鉄の補正球)を乗せているナビゲーション機器です。

昔「マサチューセッツ」の艦内でみたこのジャイロコンパスの名称を
英語で「ビナクル」(Binnacle )というのである、と説明したのですが、
日本では全く受け入れられていない名称のようで、いまだに「ビナクル」で
検索しても日本語インターネッツにはわたしの記事しか出てきません(笑)

そもそもわたしはこの「ケルビンのボール」を両手に持ったジャイロの
日本名を全く知らないのでそうとしか言いようがないのですが、
日本の船舶関係者の方はこれをなんと呼んでいるのでしょうか。

普通に「ジャイロコンパス」?

ヘルムスマン(舵輪)の横に装着してあるのもジャイロレピータでしょう。
「スレーター」にはフライングブリッジにジャイロレピータを装備していますが、
これをここでは「パルラス」(Pelorus )と呼称しています。

沿岸近くで操艦するときに周囲に存在する艦船の位置を知るのに
この「パルラス」は重要な役目を果たします。

探照灯も売店の外に展示してあります。
「スレーター」のためにかき集めてきたものの、搭載しなかったようです。
設置してあるのを見るより、このようにその辺に置いてあると
こんなに大きなものだったんだ、と驚くのが探照灯です。

時間になり、その辺で時間を潰していた我々が入るように言われたのは
ここ・・・・「Head」(海軍用語でヘッド=トイレ)ではなく、

その隣のこちらの部屋でした。
わざわざブリーフィング・ルームと銘打っていますが、トイレの横です。

ここでツァー参加者一同は「スレーター」の歴史などについてレクチャーを受けます。

部屋には「スレーター」の元乗員のらしい写真が飾ってありました。

用意されたビデオを見せてもらい、ちょっとした解説員の説明が終わると、
いよいよ艦内に入っていくことになります。

落下防止のネットが下に張られたラッタルを渡っていくわけですね。

駆逐艦の煙突は一本。英語では煙突のことをStack(スタック)といいます。
「積み重ねる」という意味ですが、なぜか汽車や船の一本煙突に限り
この名称を使うようです。

スタックの横には20ミリ機関銃のマウントが二つ並んでいますが、
マウントの高さを変えて干渉し合わないような設計になっています。

どこで撮ったのか全く思い出せない写真(笑)

説明を見る限りコンパスの使用法が書いてあります。
制作した会社の名前が「アナコンダ・ワイヤ&ケーブル会社」・・・。

調べたところ、この会社は第二次世界大戦中はミサイルケーブルを
生産しており、戦後はプラスチックやゴムの絶縁素材を使い、
ワイヤーを製造するというように転換を図ったもののの、
1982年に工場は閉鎖になったということでした。

ラッタルは艦体中央部分と艦尾にもかけられていますが、
艦尾の方は関係者専用らしくセーフティネットも張ってありません。

「全米で最も洗練された改装」と保存と博物館展示に関わった関係者が
胸を張るところの「スレーター」は、どこをみてもいい加減なところ、
放置され傷んだようなところが全く見当たりません。

ボランティアの手によって毎日手入れがされている様子が見て取れます。

下を覗き込むと、彼らのご自慢でもある現存する「最後のホエールボート」が、
ピカピカの状態で係留してありました。
単なる飾りではなく、外壁の清掃などに日常的に使われています。

さて、いよいよ我々のツァーが艦内に入っていくことになりました。



ラッタルを渡ったところにストレッチャーが掛けてあります。
展示というより昔からここにあるのでしょう。

この貫禄のあるおじさんがわたしたちのツァーの解説者、
ボランティアのリチャード・ウォラースさん。

この博物館が、ナショナル・ヒストリック・ランドマークであること、
そして、保存された歴史的な艦船としては、アメリカどころか
世界でも最も保存状態のよい見本であるということを
高らかに宣言して、いよいよツァーを開始しました。

 

続く。

 

 


「国内でもっとも洗練された修復」〜USS「スレーター」

2020-01-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨーク州都オルバニーに係留展示されている、
駆逐艦「スレーター」を見学することになりました。

ちょうど艦内ツァーが始まることを知り、売店を兼ねた
ゲストハウスに立ち寄ってみることにします。

スレーターのシルエットとネーム、エンブレムが入ったオリジナルシャツ、
オリジナルキャップもあります。

唐突に自慢ですが、わたしは先日ある自衛隊基地を訪問し、
その際そこでお土産にMOCSのキャップをいただきました。
鍔にちゃんと将官用飾りがついているのは大変嬉しいのですが、
帽子のサイドに(普通配置が書いてあることが多い)バッチリ
フルネームが漢字で刺繍されていて、使用する場所を選ぶのが問題です。

アメリカ滞在時専用にしようかな・・。

ワッペンやピンバッジなど、自衛隊内売店と同じような感じ。

1940年代に作成された「正しい水兵帽のかぶりかた」。
「スクエア・ユア・ハット!」は「きちんとかぶりましょう!」みたいな意味かな。

まわりは水兵さんの帽子の被り方あるあるなんですが、
これにつけられたキャプションがスラング多め。
しかし頑張って知識を総動員しいい加減にさっくりと訳していきます。

左上から時計回りに:

「呪いをかけられて縮んだんだね」

「何も聞きたくない」

「首の細すぎるタイプ(帽子をかぶるのに時間かかりそう)」

「洗ってだめにしてしまいましたタイプ」

「これはうざい。(Salty!)前見えてんのか?」(右上角)

「ポール・リビア(独立戦争の英雄)スタイル」

「前後水平(グレイビーボウル)スタイル」

「右舷に傾いてる(特に丈夫な耳を持っていれば可)

 「ここになーんにも考えてない奴がいます」(右下角)
 
「カレッジ・ジョー、あるいはスポーツモデル風」
 
「フローアフト(後流)スタイル、時々巡洋艦左舷スタイル」
 
(字が欠けて読めず)(左下角)
 
「翼みたい」

「ライフガードのかぶりかた。鼻の日焼け防止によい」

「小隊長、あるいはセンター陥没タイプ」

絵がいまいちなのでよくわかりませんが、水兵さんなら
これをみてあるあるにウケてしまうのかもしれません。

 

フェーズ11993−1997

さて、開始を待つために外に出ると、そこには「スレーター」が
ギリシャから廃棄処分を免れてアメリカに帰国し、
展示艦になるまでが写真で紹介されていました。

左)

ギリシャで「アエトス01」として就役していた「スレーター」が
曳航されてニューヨークに到着したところ

中)

凸凹の艦腹になった「スレーター」の塗装の用意が始まる

右)

飛行ブリッジから天井が取り外されている

USS「スレーター」がギリシャからニューヨークの「イントレピッド」
博物館横に帰ってきたのは1993年8月27日でした。

最初の到達目標は、まず艦の浸食具合などを調べ計画を立てることです。
修復の目標は彼女を1945年6月1日の姿に戻すこと。

当時の内装や設備などをしらべ、ギリシャ海軍によって改装されていた
内部は、すべてボランティアによってかつての姿に近いものに戻されました。

修復にかかる費用は、護衛駆逐艦水兵協会が集めた寄付で捻出し、
ボランティアはコネチカットとニュージャージー州の住人から募集しました。

作業はまずギリシャ海軍の仕様を取り除くことから始まり、
この間、艦内の電気システムと空気圧力システム交換するために
飛行ブリッジの屋根を外すという大工事を行いました。
艦体の全ての部分の塗装を行ったことで費用は大変嵩みました。

 

フェーズ2 1997年から2001年まで

右:ジェネレーター(発電機)ビフォー&アフター

左:飛行ブリッジビフォー&アフター

左:兵員用洗面所ビフォー&アフター

右:CICビフォー&アフター

隣の「イントレピッド」博物館内に置かれた執行部では、
「スレーター」の次の「定係港」探しが行われ、その結果、
1997年10月27日、彼女はハドソン川を遡ってオルバニーまで運ばれました。

ここで待ち構えていた現地の新しいボランティアグループは、
マンハッタンで行われていた作業を引継ぎ、次の仕事に移りました。

オルバニーに着いたからには、一刻も早くオープンして
客を集めることが次の目標です。

修復のフィロソフィーは、その安全、そして清潔の許容基準を念頭に置き、
なによりも「卓越性」(=いい仕事)を優先させることでした。

 

「スレーター」が現役時代備えていたすべての機器や細々したものを
備えた区画を完全に復元する目標は、段階的に実現されていきました。

まず最初のステップは各コンパートメントにすでに存在するものを記録すること。
それからなにが必要かを調べる作業に進みました。

続いての作業プロセスは、ギリシャ海軍時代の改修跡をを削除、つまり
古い塗料を落とし、セラミックタイルの分厚い層と糊をはがし、
彼らが付け加えたスペースを取り壊すことです。

その後、第二次世界大戦時代に実際に使われていた
ブラケットと棚が手に入ったことで金属を加工する仕事は完成しました。

電気の配管関係はコード関係も全てカスタムメイドされ、照明器具は
第二次世界大戦時代の「オーセンティックな」パーツが取り寄せられました。

各コンパートメントはスプレーによる塗装が施され、
新しく設置された機器などはすべて清潔に修復されることを優先しました。

そして最後にデッキが修繕&塗装されて一般に公開されたのです。

フェーズ3 オルバニー 2002〜現在

左から:

ーホエールボートのモーター修理が行われている

ーホエールボートの修理完了

ー海水の浸食で鍍金の4分の1が剥がれた「スレーター」艦腹修理前

 

艦体の修理は全ての段階において骨身を惜しまぬ努力が払われ、
パーツの調達、設置、装備の改装などは、ボランティアによって
細部に至るまで敬意を払って行われました。

特に「スレーター」のホエールボートは新品のようになりましたが、
これは当時の護衛駆逐艦が運用した26,000ほどの同タイプで
現存する最後のボートとなりました。

2007年に行われた最後の工程は、SL海面探索レーダーと
CICのオペレーターコンソールにインストールする作業と、
マストにアンテナを設置する作業でした。

爆雷を保管するラックと、それを海に落とすための
爆雷プロジェクタのローラーローダーは、ギリシャ海軍が
取り外してしまっていたので、2008年になってメンバーはそれを探す仕事、
そして艦尾の機械室の修復に取り掛かりました。

2010年には艦首側の乗員用トイレ(ヘッド)、そしてデッキの板張り替え、
オリジナルのTBL通信トランスミッターを備えた通信室が完成します。

これらのプロセスによって、「スレーター」は国内でも数少ない
完璧な状態に修復された歴史的軍艦のひとつとなったのです。

それにとどまらず、関係者は決して終わることのないメインテナンス作業を
続け、完璧な状態を常に目指しているということです。

 

修復開始当初の問題は、「スレーター」の海面にある艦体部分の修復で
ドライドックに上げるためにファンドを立ち上げる必要があることでした。

そのプロジェクトは300万ドルの予算を必要としましたが、
しかし、従来の入館料や寄付などによる収入ベースではそれを見込めず、
関係者としては頭の痛いところだったのです。

艦船の海面下の修復には艦体をドライドックに上げる必要がありますが、
やはり問題となったのは一にも二にも資金です。

「スレーター」が最後にドライドックに入ったのは1993年、
ギリシャ海軍籍にあったときで、それから20年以上経っています。

政府の支援が全く見込めない中、寄付だけで資金集めを行い、
「護衛駆逐艦歴史博物館」は なんとか1400万ドルを得て、
スタテン島のキャデルドックで修復を行いました。

船殻は圧力洗浄され、耐腐食剤が塗布され、海面下部分も新しく塗り直されました。
艦体の塗装には新しいパターンが採用されました。

作業はオルバニーに移転してからもさらに行われ、
タンクの洗浄、ビルジのメインテナンスまで完成し、完璧な状態になりました。

新しいカモフラージュペイントは、完成の日に向けて施されました。
このペイントは地形と同じようなパターンで、目立つようですが、案外
艦体を背景に隠し見え難くする効果があり、艦体の大きさが視認しにくいそうです。
つまりそのことによって魚雷の狙いを外しやすくするという狙いがあるんですね。

 

とにかく、このこだわり抜いた修復の全ては、かかわった人たちの
熱意と完璧なものを作り上げたいという執念のなせるわざだったといえましょう。

 

さて、というところがわかったところで、見学ツァーのスタートです。
心して見せていただきましょう。

 

続く。