◎ジェイド・タブレット-12-5
◎ニルヴァーナ-5
◎ニルヴァーナとその実感-5
◎人間の側に立っていないこと
第六身体アートマンとは、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっているもの。そうした創造滅亡ですらもない心を、ダンテス・ダイジは石ころの心と表現した。
『「奥深い心」
すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない
人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない
人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している
それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない
また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ
だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す』
(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)
そこには既に人間はいないし、ややもすれば人間の側の都合なんか考えてはくれない。
本当にこの石ころの心がニルヴァーナかどうかは、実体験という、体験とは言えない体験をせねばわからない。
石ころの心が流出源であるという見方は、
『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。
神とは、ニルヴァーナの中なる
マーヤーの流出源にすぎない。 』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)
という一節にも見られ、古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。古事記では、最初水に浮いた脂のようなものが漂い、火たる葦牙(あしかび)が出現する。ついで、海水をかき混ぜて、しずくを垂らして、大地を造った。