アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

石ころの心

2024-05-29 03:25:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-5

◎ニルヴァーナ-5

◎ニルヴァーナとその実感-5

◎人間の側に立っていないこと

 

第六身体アートマンとは、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっているもの。そうした創造滅亡ですらもない心を、ダンテス・ダイジは石ころの心と表現した。

 

『「奥深い心」

 

すでに人間はいない

あらゆるものを構え

その中でとりとめもない

人間の喜びと人間の悲しみとを持つ

そのものはすでにいない

 

人間の喜びと悲しみとから生れる

あのしみじみとした心の果てには

すでに人間はいない

 

人間にとってあるというすべてのものは

ことごとく消え果て

ただその奥深い心だけが

何の束縛もなく現前している

 

それは人間の心ではない

人間の喜びも悲しみも

その心のどこにもないのだから

人の子の悲惨な死も

甘美な恋慕も

その心には見えない

 

また その心は

石ころと人間とに区別がつかない

めくらで不人情な心だ

 

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

 

そこには既に人間はいないし、ややもすれば人間の側の都合なんか考えてはくれない。

本当にこの石ころの心がニルヴァーナかどうかは、実体験という、体験とは言えない体験をせねばわからない。

石ころの心が流出源であるという見方は、

『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。

神とは、ニルヴァーナの中なる

マーヤーの流出源にすぎない。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)

という一節にも見られ、古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。古事記では、最初水に浮いた脂のようなものが漂い、火たる葦牙(あしかび)が出現する。ついで、海水をかき混ぜて、しずくを垂らして、大地を造った。

 

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