◎弟子の覚悟を試す
魏伯陽は、内丹(クンダリーニ・ヨーガ系)の中国最初の専門書である周易参同契を著した人物。周易参同契の特徴は五行(木火土金水)、八卦の易の体系でもって内丹の手法を説明したところ。
クンダリーニ・ヨーガといえば、この世の次元を超えて何かぶっ飛んだ素晴らしい体験が待っているかのようなイメージが先行するかもしれないが、その修行に入るためには、この世に対するあらゆる未練とか、世俗の欲望をすべて捨ててかからなければまず成功することはないだろうということが、以下の逸話の中に見て取れる。
魏伯陽は呉の国の人である 。生まれつき道術を好み、山に入って一心不乱に神丹(しんたん)を練っていた 。その時、三人の弟子が常に彼の側に仕えていたが、そのうち二人の弟子は本当に道を求める心がないのを、彼は早くも見抜いていた 。
ある日、仙丹が練り上がった時、彼はその弟子たちの心を試そうと思い、三人の弟子に向かって言った 。「日頃の苦心もその甲斐あって、今日、仙丹も出来上がったが、これを我々が服用する前にまず犬で試した方がよい。もしこれを服用して犬が何の障りもない様子であったなら、その後初めて我々が服用しても遅くはあるまい」 。そして、彼が山に入る時に一緒に連れて行った一匹の白犬にその仙丹を試してみた 。
わずかな仙丹というものは、陰陽の二気が十分に和合していないものは、中にわずかな毒を含んでおり、これを服用すればたちまち一命を失うものである 。ところが今、伯陽が練った仙丹は、その陰陽の和合がまだ十分でなかったと見え、その犬はそれを服用するや否や、たちまち倒れてしまった 。
これを見た伯陽は弟子たちに向かい、「お前たちも見る通り、犬は今、その仙丹を服用するや否や倒れてしまったところを見ると、この仙丹はまだ十分に練れていないと思われる。もし我々がこれを服用するならば犬のように死んでしまわねばならぬ。さてどうしたらよいか」と、いかにも心配そうにしばらく沈吟していた 。
そして、いかにも思い切った様子で言った 。「自分も幼い時から世を捨てて家を離れ、艱難辛苦を凌いで、ここまでやってきてようやく練り上げた仙丹がまだ十分に練れていなかったとは、もはや神明に見放されたのだろう。こうなっては今更、どの面下げて故郷へ帰られようか。生きて長く世を煩わすよりも、いっそのこと思い切って、自分はこの仙丹を服用しようと思う。お前たちはまだ年も若いことであるから、ひとまずここを去って、他に道術の優れた仙聖を求めたらどうか」 。そう諭し、その仙丹を服してそのまま息が絶えてしまった 。
この時、傍にいた「虞生(ぐせい)」と名乗る一人の弟子はこれを見て、「自分の師は決して普通の人間ではない。それなのに今、自ら進んで死を求めるというには、そこに何か深い理由がなければならぬ」と気づいたので、自分もまたその丹を服して死んでしまった 。ところが、後に残った二人の弟子は、伯陽にそんな深い考えがあったとは思いも寄らなかったので、急に死ぬのが恐ろしくなり、「仙丹は長生をする為めにこそ練るもので、これを服して死ぬのであって見れば、むしろこのまま逃げ去って惜しい命を助かった方がよい」と互いに相談をして、死んだ伯陽と弟子の葬式を取り行う為にそのまま急いで山を下って去って行った 。
ところで伯陽はこの時、すべて死んだふりをして、ひそかに二人の立ち去るのを見計らっていた 。しかし、この時急に起き上がり、かねて作り置いていた妙丹(みょうたん)をとってきて死んだ弟子と犬とを蘇生させ、再び練り上がった仙丹を服して一緒に昇天することが出来た 。
そこで一日、村人に会った時、一封の書状を認(したた)めて詳しくその後の模様を記し、彼の逃げ去った二人の弟子へ送り届けさせると、その二人の弟子はこの手紙によって初めて自分たちの悪かった事を悟り、足摺(あしずり)して後悔したそうである 。
魏伯陽に一の著書がある 。それは『参同契(さんどうけい)』という書で、前後二巻ある 。この書は易経を解説したようにも見えるが、その実は全く易の爻象(こうしょう)を借りて仙丹を練る方法を述べたものであるという事だ 。
師匠が、いきなり飼い犬を毒殺したのに驚いた人も多いと思う。
師匠が自らの術の精華である丹薬を服用し、あっと言う間にこの世を去った。師匠亡き今、弟子たちが効果的な修行を続けて行ける保証はなくなった。
よって、残った弟子二人が死の丹薬を服まなかったのは、現代人としては妥当な判断であるが、内丹(クンダリーニ・ヨーガ系)の道に進もうとする人間としては決定的な覚悟が欠けている。
その覚悟とは、この世のあらゆるものに別れを告げる覚悟である。財産、家族、地位、名誉、世間の評判、親友、恋人、将来の夢こうしたものすべてを捨ててみせる覚悟のことである。
ここをわきまえている師匠であれば、入門時に徹底的に、弟子のこの部分をテストしてかかり、入門させないものだと思う。だからといって、魏伯陽が不徹底であると断ずることはできない。
むしろ弟子のカルマを見て、彼らのためになると見て、殊更(ことさら)に入門を許し、更に弟子のために我と我が身を死んで見せるのは、彼らへの大きな思いやりが見て取れる。弟子のために身を捨ててみせたのであってこれ以上の愛情はあるまい。
※従来版の魏伯陽は抄でしたので、全文を上げてみました。