◎霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中の本来的位置
禅語録の無門関第十一則州勘庵主から。
『趙州和尚がある庵主の処を訪問してたずねた、「居るかい。」。
するとその庵主がグッと拳を立てた。そこで趙州は「ここは水が浅くて船を泊めることができない」といってすぐに出て行った。
また他の庵主の所に行って「居るかい」とたずねた。するとその庵主もまたグッと拳を立てた。
そこで趙州は、「おまえさんこそは自由に物を与え、自由に奪い去ることができて、活殺まことに自在である」といって、ただちに礼拝した。』
二人どちらも拳を立てたが、一人は正解で一人は不正解に見えるが、そうではなくて、正解の人が時所位(「time」、「place」、「occasion」)を得ていたということ。つまり合気道の植芝盛平言うところの天之浮橋に立っているということ。
このように外形は異なっているが、中味が違う例は、一人の僧が御簾を巻き上げるのはダメとされたが、別の僧が御簾を巻き上げるのは可とされた。同様に坐禅中にある僧が居眠りしていたら棒でたたかれたが、臨済は坐禅中に居眠りしても咎められなかった。
上手く立ち回れば、正解になるだろうと思うかもしれないが、上手く立ち回ることを求めているわけではない。その要素は、「柔軟性」「臨機応変さ」「主体性」とも言われるが、正解は、『随処に主となれば立処みな真なり』(臨済宗の開祖である臨済義玄)であって、どのような行動をするかどうかが核心ではなく、悟っているかどうかが問われている。これは、「どんな時、どんな場所でも、自分自身が主体となって堂々と振る舞えば、その場その場が全て真実となる」という意味ではなく、今ここを生きているかどうかということ。
その先に、「覚者の行動はすべて合理的」(ダンテス・ダイジ)とか、
『「国家意識のある宗教といふものは魂の向上した人でないと分らん」、「矢張り然し、人類愛の上から見ても、世界に対する所謂人類愛と、国家に対する愛と、郷里に対する愛と、家族に対する愛と、個人に対する愛といふ様に、段々小さくなつて来る。日本国民としては国家に対する愛が必要であり、又広汎的に云へば世界一般の人間に対する愛が必要である。焦眉の急を要する問題として一番どれが主であるかと云へば、自分の祖先の墳墓の国である。これを愛するのが一番急務であり、大切な事であると思ふ」』(出口王仁三郎)
が、ある。
この意識は覚者共通のもので、『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に、その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。 』(ダンテス・ダイジの冥想非体験(性愛冥想)から引用)にも見える。
