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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天地一杯の水が 手桶に汲みとられた

2025-05-18 05:52:28 | 達磨の片方の草履
◎内山興正氏の詩

内山興正氏は、日本の曹洞宗の僧侶、詩人。 澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる。 兄弟子に横山祖道、弟弟子に弟子丸泰仙がいる。

『生死

手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ 』
(求道 自己を生きる/内山興正/柏樹社 P52-53から引用)

詩人は、歌人と同じで、心の中に淡い恋心のようなものがないと、詩は作れないと思う。
自我自分のことを“私という思い固め”すなわちマインド(頭)と表現している。

桶の水で大悟した千代野(岐阜県関市松見寺開山の無外如大尼禅師のこと、鎌倉円覚寺の開山仏光国師無学祖元の弟子となった)が、水を汲みに谷に下りた時に、桶の底が抜けて水もすべて落ちてしまった。
桶の水に写っていた美しい月もとたんに消えてしまったことを見て、
千代野は忽然として大悟した。

その時の歌。
『とにかくに たくみし桶の 底脱けて
  水たまらねば 月もやどらず』


“水たまらねば”とは、成熟が一定水準にならないと、月である宇宙全体(天地一杯の生命)にならないということ。

仏光国師無学祖元が来日したのは、南宋滅亡前夜。隠元も明国滅亡前夜に来日。中国は王朝滅亡前夜に高僧、文化人が日本に移民してくる。
今や中国もそのような雰囲気だが、この時代は、高僧はいないので、来日しても文化人だけだろう。大陸王朝滅亡時には、その王朝の精華が日本にやってくるのだが、宗教の精華はあったのか?

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