◎湧き起こる思考をすぐ消すプロセス
湧き起こる思考あるいは想念を、起こったらその都度消すという作業は、実際に始めてみると意外にくせものである。
思考が起こったら、その瞬間に消そうと思う。
いや、「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思わねばならない。
いや、「「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思う」という思考自体も消そうと思わねばならない。
という具合になかなか容易なことではない。
さて、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の作者パトゥル・リンポチェは、これの注釈において、湧き起こる思考の消し方の進化について説明している。
要約すると、見仏の状態にとどまっていれば、思考は生じたまさにその瞬間に消える(解脱する)ということであって、自分が消そうとするのではないということ。
このことが書かれているのは、以下の部分となる。『何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P101から引用)
このこつを前提に、湧き起こる思考の消し方は次のように三段階で進化する。(上掲書P102)
1.初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
2.中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
3.最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。
そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)
これにより、見仏の意識は、平常活動時にも維持されることとなり、聖胎長養はここに完成すると考える。
この本は、入門という表題になっているが、それが悪い冗談のように思えるような深遠な内容の本である。
ダライ・ラマにとっては、「このような認識はゾクチェンでは当たり前」みたいな認識なのだろうが、恐れ入るばかりである。
これの引用文全体は以下。
※[]内はダライ・ラマのコメント、【】内はパトゥル・リンポチェの注釈。
『[何らかの対象に対する強い執着や嫌悪を感じているとき、あるいは強い喜びや悲しみを感じているとき、そんなときにでも実践がうまくいくのは、リクパへの直接的な導き入れがなされているからです。このテキストでもいわれているように、どんなときでも「あなたのリクパの力が試されていると知りなさい。常に解脱の土台である智慧を認識し続けることが大切」です。 このときに重要なのは、解脱の土台である智慧ないし、あなた方が直接導かれた自発的に示現するリクパという智慧から逸れないでいる、ということです。]
【また、あなたの実践が、あらゆる思考は「生じたままで解脱している」という要点を欠いた ものであれば、あなたが気づかないうちに心に入り込んでくる、どんな僅かな思考でさえも、輪廻のカルマを積み上げる原因となる。
したがって重要なのは、粗大な思考であれ微細な思考であれ、それらがいっさい痕跡を残さないようにするために、生じてくるあらゆる思考を、それが出現すると同時に解脱している状態のままに保つということである。だから「一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは」と述べられた。
どんな思考が湧き起こっても、あなたは、それらの思考が微細で錯乱した混乱状態のなかに増殖してゆくのを許してはならない。また、心が作り上げた何らかの想念に心を傾けてもならない。あなたがすべきことは、ありのままで純粋な想念から決して離れることなく、湧き起こってくる思考の真の本性を認識することである。真の本性は、まるで水面に書かれた文字のように、「生じると同時に解脱している」のであり、後にはどんな痕跡も残さない。このようにして真の本性を保持するのである。それゆえ、「意識にいかなる痕跡も残さない」と述べられた。
このとき、もし湧き起こる思考を浄化することができず、こうした思考を自ら解脱するものとして融解することができなければ、それがどんな僅かなものであっても、迷乱を永続させるカルマの鎖を切断する際の妨げとなるだろう。だからあなたは、思考の真の本性を赤裸々に見て、思考が現れたまさにその瞬間に、以前に示された智慧とそれを同一化させなければならない。 こうした状態に留まるとき、思考は浄化され、消え去り、あとにいかなる痕跡も残さない。この融解こそが要点である。それゆえ、「なぜなら、あなたはそれを、自らが解き放たれている法身であると認識するからである」と述べられた。
水面に文字を書いたり絵を描いたりする場合を例にとってみよう。 水面に書かれた文字は、書かれたまさにその瞬間に消え去ってしまう。つまり文字を書くことと、それが消え去ってしまうのは同時である。これと同じように、思考は生じると同時に解脱する。 そして思考は「おのずから生じ、おのずから解脱する」という、壊れることのない流れとなる。それゆえ、「水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように」と述べられた。】
[「水面に書かれた文字」のように思考を体験しつつ、一方では思考の本性であるリクパの状態から外れない。このような状態に留まることができれば、どんな思考が生じようとも、それは持続することはなく、ただ水面に書かれる文字のように生じているにすぎないものとなります。]
【思考の出現を押さえ込むことなく、生じるものを生じるままにする。そうすれば、いかなる 思考が湧き起ころうとも、それは真の本性へと浄化されるための道となる。これこそが、あなたが保持しなければならない実践の本質である。それゆえここに、「出現と解脱は、あるがままに持続する」と述べられた。】
[リクパの体験に留まっている限り、湧き起こるさまざまな思考―――これらは「自発的に生じている」-――はリクパの広がりの中で解脱するのです。もし実践がうまくいけば、どんな思考が生じても、それらはリクパのエネルギーであり、それはリクパと空性が裸のままに統合する体験に栄養を与え、さらにそうした体験を増大させるための食べ物としての役割を果たします。これが、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」という言葉の意味です。]
【湧き起こる思考は法身の戯れであると訓練することによって、どんな思考が起きようとも、それらはすべてリクパの力の訓練として生じる。だから、思考がいかに五毒に汚されていても、それが多ければ多いほど、思考が清澄で鋭敏なままに解脱しているリクパの訓練として役立つことになろう。それゆえ、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」と述べられた。
あらゆるものに浸透するリクパの真の本性から、その内的な力として、何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。それゆえ、「心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である」と述べられた。】
[思考に支配されることなく、リクパの真の本性を認識し続けることができれば、どんな思考が 生じても、それらはすべて「法身という王」なるリクパのエネルギーとして生じるようになります。ここでは、リクパは「法身という王」と呼ばれ、思考はその王のエネルギー、ないし王の眷属として生じるとされています。またこうした思考は長引くことがありませんから、根本テキストには次に見るように、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしい ことか!」と書かれているわけです。]
【心の中に生じる思考、また無明によって迷乱した知覚は、リクパの智慧である法身の広がりにおいて清浄である。それゆえ、どんな思考が動き出し、生じようとも、光明が途切れることがないこの広がりにおいては、まさにそれらの本性において空である。それゆえ、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!」と述べられた。
長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。 それゆえ、「事物の生じ方は以前と同じかもしれないが」と述べられた。】
[パトゥル・リンポチェは、あなた方がこうした体験をマスターしてしまっても、それまでと同 じように、思考は依然としてさまざまなかたちで現れるかもしれないが、しかし、そこには重大な違い――それらが解脱しているという点――があると述べています。]
【そのとき、リクパのエネルギーとしての思考が、喜びや悲しみ、希望や恐怖として生じると いう点は、凡夫のそれと同じかもしれない。しかし凡夫にとってこうした体験は、彼らがカルマという潜在形成力を蓄積し、執着や激しい怒りの餌食となっている結果として生じた、抑圧的で従属的な、固定した体験にすぎない。それに対し、ゾクチェンの行者にあっては、思考はそれが生じた瞬間に解脱しているのである。
――初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
――中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
――最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。】
[ここでパトゥル・リンポチェは解脱の三つのありようについて語っていますが、このうち三番 目の解脱が最良のものとされています。ここでは、自ら解脱する思考が、廃墟に侵入する泥棒に喩えられています。廃墟には失うものは何もないので、泥棒は何も得ることができません。つまりこれは、「リクパの本性」を保持し、その真の状態を失わないとき、思考はどんな害も及ぼすことはできない、ということを意味しています。
思考は生じるけれども、自ら解脱する。解脱をもたらすさまざまな方法のうち、パトゥル・リンポチェがここで最後に述べている方法は最も甚深なものです。
そして彼は次のように結論を述べます。]
【ゾクチェン行者は、こうした解脱の方法に関する要点を身につけている。それゆえ、「その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ」と述べられた。
次のような言葉がある
解脱の方法を知るのではなく
ただ、瞑想の方法だけを知る―
これでは、神々の瞑想と、どう違うのか?
この詩句は、解脱の方法に関する要点を知らず、ただ精神に何らかの平穏をもたらすだけにすぎない瞑想に頼っている人々は、単に高い領域の瞑想状態に迷い込むだけである、ということを意味している。】』
(上掲書P98-103から引用)
湧き起こる思考あるいは想念を、起こったらその都度消すという作業は、実際に始めてみると意外にくせものである。
思考が起こったら、その瞬間に消そうと思う。
いや、「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思わねばならない。
いや、「「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思う」という思考自体も消そうと思わねばならない。
という具合になかなか容易なことではない。
さて、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の作者パトゥル・リンポチェは、これの注釈において、湧き起こる思考の消し方の進化について説明している。
要約すると、見仏の状態にとどまっていれば、思考は生じたまさにその瞬間に消える(解脱する)ということであって、自分が消そうとするのではないということ。
このことが書かれているのは、以下の部分となる。『何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P101から引用)
このこつを前提に、湧き起こる思考の消し方は次のように三段階で進化する。(上掲書P102)
1.初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
2.中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
3.最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。
そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)
これにより、見仏の意識は、平常活動時にも維持されることとなり、聖胎長養はここに完成すると考える。
この本は、入門という表題になっているが、それが悪い冗談のように思えるような深遠な内容の本である。
ダライ・ラマにとっては、「このような認識はゾクチェンでは当たり前」みたいな認識なのだろうが、恐れ入るばかりである。
これの引用文全体は以下。
※[]内はダライ・ラマのコメント、【】内はパトゥル・リンポチェの注釈。
『[何らかの対象に対する強い執着や嫌悪を感じているとき、あるいは強い喜びや悲しみを感じているとき、そんなときにでも実践がうまくいくのは、リクパへの直接的な導き入れがなされているからです。このテキストでもいわれているように、どんなときでも「あなたのリクパの力が試されていると知りなさい。常に解脱の土台である智慧を認識し続けることが大切」です。 このときに重要なのは、解脱の土台である智慧ないし、あなた方が直接導かれた自発的に示現するリクパという智慧から逸れないでいる、ということです。]
【また、あなたの実践が、あらゆる思考は「生じたままで解脱している」という要点を欠いた ものであれば、あなたが気づかないうちに心に入り込んでくる、どんな僅かな思考でさえも、輪廻のカルマを積み上げる原因となる。
したがって重要なのは、粗大な思考であれ微細な思考であれ、それらがいっさい痕跡を残さないようにするために、生じてくるあらゆる思考を、それが出現すると同時に解脱している状態のままに保つということである。だから「一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは」と述べられた。
どんな思考が湧き起こっても、あなたは、それらの思考が微細で錯乱した混乱状態のなかに増殖してゆくのを許してはならない。また、心が作り上げた何らかの想念に心を傾けてもならない。あなたがすべきことは、ありのままで純粋な想念から決して離れることなく、湧き起こってくる思考の真の本性を認識することである。真の本性は、まるで水面に書かれた文字のように、「生じると同時に解脱している」のであり、後にはどんな痕跡も残さない。このようにして真の本性を保持するのである。それゆえ、「意識にいかなる痕跡も残さない」と述べられた。
このとき、もし湧き起こる思考を浄化することができず、こうした思考を自ら解脱するものとして融解することができなければ、それがどんな僅かなものであっても、迷乱を永続させるカルマの鎖を切断する際の妨げとなるだろう。だからあなたは、思考の真の本性を赤裸々に見て、思考が現れたまさにその瞬間に、以前に示された智慧とそれを同一化させなければならない。 こうした状態に留まるとき、思考は浄化され、消え去り、あとにいかなる痕跡も残さない。この融解こそが要点である。それゆえ、「なぜなら、あなたはそれを、自らが解き放たれている法身であると認識するからである」と述べられた。
水面に文字を書いたり絵を描いたりする場合を例にとってみよう。 水面に書かれた文字は、書かれたまさにその瞬間に消え去ってしまう。つまり文字を書くことと、それが消え去ってしまうのは同時である。これと同じように、思考は生じると同時に解脱する。 そして思考は「おのずから生じ、おのずから解脱する」という、壊れることのない流れとなる。それゆえ、「水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように」と述べられた。】
[「水面に書かれた文字」のように思考を体験しつつ、一方では思考の本性であるリクパの状態から外れない。このような状態に留まることができれば、どんな思考が生じようとも、それは持続することはなく、ただ水面に書かれる文字のように生じているにすぎないものとなります。]
【思考の出現を押さえ込むことなく、生じるものを生じるままにする。そうすれば、いかなる 思考が湧き起ころうとも、それは真の本性へと浄化されるための道となる。これこそが、あなたが保持しなければならない実践の本質である。それゆえここに、「出現と解脱は、あるがままに持続する」と述べられた。】
[リクパの体験に留まっている限り、湧き起こるさまざまな思考―――これらは「自発的に生じている」-――はリクパの広がりの中で解脱するのです。もし実践がうまくいけば、どんな思考が生じても、それらはリクパのエネルギーであり、それはリクパと空性が裸のままに統合する体験に栄養を与え、さらにそうした体験を増大させるための食べ物としての役割を果たします。これが、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」という言葉の意味です。]
【湧き起こる思考は法身の戯れであると訓練することによって、どんな思考が起きようとも、それらはすべてリクパの力の訓練として生じる。だから、思考がいかに五毒に汚されていても、それが多ければ多いほど、思考が清澄で鋭敏なままに解脱しているリクパの訓練として役立つことになろう。それゆえ、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」と述べられた。
あらゆるものに浸透するリクパの真の本性から、その内的な力として、何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。それゆえ、「心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である」と述べられた。】
[思考に支配されることなく、リクパの真の本性を認識し続けることができれば、どんな思考が 生じても、それらはすべて「法身という王」なるリクパのエネルギーとして生じるようになります。ここでは、リクパは「法身という王」と呼ばれ、思考はその王のエネルギー、ないし王の眷属として生じるとされています。またこうした思考は長引くことがありませんから、根本テキストには次に見るように、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしい ことか!」と書かれているわけです。]
【心の中に生じる思考、また無明によって迷乱した知覚は、リクパの智慧である法身の広がりにおいて清浄である。それゆえ、どんな思考が動き出し、生じようとも、光明が途切れることがないこの広がりにおいては、まさにそれらの本性において空である。それゆえ、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!」と述べられた。
長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。 それゆえ、「事物の生じ方は以前と同じかもしれないが」と述べられた。】
[パトゥル・リンポチェは、あなた方がこうした体験をマスターしてしまっても、それまでと同 じように、思考は依然としてさまざまなかたちで現れるかもしれないが、しかし、そこには重大な違い――それらが解脱しているという点――があると述べています。]
【そのとき、リクパのエネルギーとしての思考が、喜びや悲しみ、希望や恐怖として生じると いう点は、凡夫のそれと同じかもしれない。しかし凡夫にとってこうした体験は、彼らがカルマという潜在形成力を蓄積し、執着や激しい怒りの餌食となっている結果として生じた、抑圧的で従属的な、固定した体験にすぎない。それに対し、ゾクチェンの行者にあっては、思考はそれが生じた瞬間に解脱しているのである。
――初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
――中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
――最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。】
[ここでパトゥル・リンポチェは解脱の三つのありようについて語っていますが、このうち三番 目の解脱が最良のものとされています。ここでは、自ら解脱する思考が、廃墟に侵入する泥棒に喩えられています。廃墟には失うものは何もないので、泥棒は何も得ることができません。つまりこれは、「リクパの本性」を保持し、その真の状態を失わないとき、思考はどんな害も及ぼすことはできない、ということを意味しています。
思考は生じるけれども、自ら解脱する。解脱をもたらすさまざまな方法のうち、パトゥル・リンポチェがここで最後に述べている方法は最も甚深なものです。
そして彼は次のように結論を述べます。]
【ゾクチェン行者は、こうした解脱の方法に関する要点を身につけている。それゆえ、「その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ」と述べられた。
次のような言葉がある
解脱の方法を知るのではなく
ただ、瞑想の方法だけを知る―
これでは、神々の瞑想と、どう違うのか?
この詩句は、解脱の方法に関する要点を知らず、ただ精神に何らかの平穏をもたらすだけにすぎない瞑想に頼っている人々は、単に高い領域の瞑想状態に迷い込むだけである、ということを意味している。】』
(上掲書P98-103から引用)