アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人生を否定的に見る宗教の隆盛

2023-03-31 06:49:44 | 無限の見方・無限の可能性

◎肯定的な宗教、否定的な宗教、あるいは楽天的な宗教、厭世的な宗教

 

仏教とキリスト教は、代表的な生を否定的に見る宗教で、厭世的宗教。古神道は、生を肯定的に見る宗教で、楽天的な宗教。

 

OSHOバグワンは、キリスト教については明示していないが、自分を罪人と考えるから、否定的に見る宗教と考えているのだろうと思う。

 

さてOSHOバグワンは、生を肯定的に見る宗教と否定的に見る宗教の優劣について、肯定的に見る宗教の方が優るとする。

また無選択を究極と同義として使っているが、わかる人はあまり多くはないのではないか。

 

その理由は、

  1. 生を否定的に見る人間は、無選択へと飛躍できない。苦悩からジャンプするのはむずかしいが、肯定的に見る人が幸福からジャンプする方がやさしい。幸福な時の方が勇気が湧いてくるから。苦悩する時、人は臆病になり苦悩にしがみつく。

 

  1. 人は、肯定的で幸福な時に、未知の幸福にジャンプでき無選択に到達できる。逆に否定的で苦悩にある時、未知の苦悩に進むよりは既知の苦悩に居る方が楽だから、まず未知の苦悩には進まない。

 

  1. 否定的な宗教には、否定的な頭(マインド)の人が育つ。クリシュナムルティは、無選択を説くが、彼の講話を聴く聴衆は否定的な人だから理解できる人はいない。逆に肯定的な人たちは講話を聴きに来ない。否定的な頭(マインド)の人に無選択や二元性の超越や肯定性と否定性の両方を説くことには、意味がない。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P138-143)

 

このような理屈で、OSHOバグワンは、人は人生を肯定的に見ることに切り替えなければならない、とする。

 

さらに彼は、生を否定的に見る宗教の定番の地獄について、次のように誰も天国にも地獄にも入りはしないと説明する。

『不幸であるときには冒険的になれない。 冒険できるのはあなたが何となく幸福であるときだけ だ。幸福であれば、既知を去ることができる。幸福であるから、あなたは未知を恐れない。 幸福がしっかりした現実となっているので、あなたにとっては、どこにいようとも幸福が一緒だ。マインドが肯定的であれば、あなたにとっては、地獄などない。自分がどこにいようとも、天国はそこにある。それで未知の中に入れる。あなたにとっては、天国はいつも自分と一緒だ。

 

よく言われるが、人は天国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。誰も天国に入りはしないし、誰も地獄に入りはしない。人は自分の地獄と天国を携えている。どこへ行くときも、自分の地獄や天国と一緒に行く。 天国や地獄は扉ではない。 荷物だ。人はそれを携えていく。』

(上掲書P139から引用)

 

またOSHOバグワンは、次のようにさりげなく、人の悟りのプロセスの大要を示す。すなわちそれは、

  1. 自分の頭(マインド)を肯定的にする。
  2. 地獄から天国へと進む。
  3. 天国からモクシャへ(天国でも地獄でもない究極)に進む。

※モクシャはニルヴァーナと同じ。

 

『幸福なとき、あなたは退屈する。それで未知へと向かう。未知は魅力的だ。無選択とは未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性から無選択へ、それがとるべき道筋だ。まず自分のマインドを肯定的にする。 地獄から天国へと進む。そして天国からモクシャへと天国でも地獄でもない究極へと進む。苦悩から至福へと進んで初めて、その両方を越えた超越へと進むことができ る。だからこそスートラは「まず自分のマインドを否定性から肯定性へと変容しなさい」と言うのだ。この変化は、焦点を変えることにほかならない。

 

生というのは、その両方か、あるいはそのどちらでもない。その両方か、あるいはそのどちらでもない! それはあなたしだいだ。あなたが生をどう見るかにかかっている。否定的なマインドで見れば、生は地獄のように見える。それは地獄ではない。あなたの解釈だ。

見方を変えて、肯定的に見てごらん。』

(上掲書P140から引用)

 

生を肯定的に見る宗教は、過去何千年世界宗教たり得なかったから、こんな時代になっているのだろう。

コメント
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