アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

出口王仁三郎の鎮魂法-5

2023-03-02 07:19:46 | 冥想いろいろ

◎集団向け幽斎修業の実際

 

大本教は明治時代にチャネリング、憑神霊をメインとした古神道修行をカリキュラムとして持っていた。とはいえ大神が憑依できるほどに浄化されたレベルのシャーマンは、出口ナオ、出口王仁三郎だけだったのだから、集団修行の現場には、修行の指導者としてそのレベルに届いていない人物が当たったようだ。

 

その点では、指導者を神知る者にするという最近では常識的なラインも意識されていなかったか、意識はされていたが、現実的には無理だったか。

 

神知る手法には、神下ろし、見神、神人合一の三種あるが、大正の終わりには神下ろしを大々的にやるのは、やめてしまった。

 

この手法では、鎮魂法という臍下丹田に意識を集中させることで、トランスに導くのだが、トランスに導く方法は、マントラを唱えるのやら、観想法やら薬物摂取やら無数の方法がある。だが、トランスに導くのは比較的容易でも、そのトランスから正しい方向に進ませるのは、容易なことではない。とりわけ集団でトランスをやらせる場合は難易度が高い。最近でも教団が信者を何千人何万人集めてイベントを行いその熱狂的マス陶酔でもってトランスを狙うようなこともあるのだろう。

 

真正の悟りを目指すには、既に100年前からマスターが悟っていないとだめなようだというのはわかっていた。それは、大教団でも少人数グループでも同じ。

 

それがわかって以後、出口王仁三郎は、神下ろしメインでなく信者が大神を知ることをメイン目標に転換しようと思っていたのだろうが、さらに神人合一を大目標にするには、国家神道で現人神のおわす時代にそれは不可能だったのだろう。

 

終戦後の吉岡発言では、「日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。」と手厳しい。

 

以下に出口王仁三郎の当時の、集団神下ろしでの幽斎修行すなわち「トランスをメインに据えた修行法」の実際を挙げてみる。

概要は次のような具合。

1.審神者は「ウー」の言霊によって霊をおくる。

2.憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発する等発動のはげしいものは、別室で特別に審神した。

3.三日間岩戸のなかにこもり、無言で、鎮魂の自修や、神書の黙読、浄書するというメニューもあった。

『だが、修業者の聴講する課目については、一定のさだめがなく、講師の都合によって、その日その日の課題がかえられることもあった。そして、それ以外に特別の講座が、必要に応じて臨時におこなわれている。こうした講座とともに、希望者にたいしては幽斎修業がなされている。

 

幽斎修業は、修業者にたいして、手を一定の形式に組みあわせて、瞑目静座させ、審神者は天津祝詞を奏上し、天の数歌をとなえ、石笛を吹きならして、「ウー」の言霊によって霊をおくる。

 

本来、鎮魂は各自の浮遊せる霊魂を臍下丹田にしずめるものであったが、なかには憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発するものもあった。そこで発動のはげしいものは、別室へみちびいて特別に審神した。

 

また別に、希望者に、岩戸修業をおこなわせたりもした。この修業は、三日間岩戸のなかにこもり、無言の業をなすものであって、鎮魂の自修や、神書の黙読あるいは、浄書などをした。食物はハッタイの粉と梅干・水だけが許された。三日日のおわりに先達者にしたがって、「う、し、と、ら、の、こ、ん、じ、ん、うしとらのこんじんさま。ひ、つ、じ、さ、る、の、こ、ん、じ、ん。ひつじさるのこんじんさま」ととなえ、つぎに「三千世界一同に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ。しゆみせん山にこしをかけ、うしとらの金神まもるぞよ。三千世界の神、仏事、人民用意をなされ」と発声した。そして天津祝詞一回・神言一回を奏上し、「惟神霊幸倍坐世」を四回となえてそののち、五六七殿に参拝しておわることになっていた。

 

しかし、以上のような講話や鎮魂については、一九二〇(大正九)年五月二三日の公告で、

「従来の鎮魂帰神の実修法を更め、単に静座瞑目せしめて、お筆先を守護神に聴かしむるに止め、施術者の霊を注ぎ気合を掛くることを廃す。(但し静坐の姿勢は従前の通り)病気鎮魂及び憑霊の発動者には、特別鎮魂を施すことを得。其要領は従前の通りとす」

 

さらに同年六月には講座修業の方法を改め、

「神諭の拝読及び解説に主力を用ふる事、神諭の精神を体得するに必要な霊学講話を行ふ事、霊魂教育法として修業者に静座瞑目せしめ、その守護神に神諭を読み聞かせること」

と通達し、各支部や会合所も本部の方式にならうように指示した。』

(大本七十年史 上巻第3章 教勢の発展 修業者の激増から引用)

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