◎説明をはぐらかす
古代インドのカタ・ウパシャッドでは、子供のナチケータスは、父親によってその身を死神ヤマに布施として与えられようとしていた。
ナチケータスは、自分たちを死神の家の前で3日も待たせた償い(三つの恩典)として、死後のメカニズムについて説明してくれるように、死神ヤマに求めた。
『「死んでいった人について、次のような疑問があります。―――『彼は(死後の世界に)存在している』という人々もあり、他方『彼は(どこにも)存在しない』という人々もあるのです。このことについてわたしはあなたに教えられて知りたい。(三つの)恩典のうちの第三の恩典はこれです」(20)
「この点については、古来神々でさえ疑問をもっていた。それは理解しやすいことではないから。この事柄は微妙である。ナチケータスよ、他の恩典を選ぶように。私を悩まさないでほしい。それ(を教えること)を私に免れさせてほしい」(31)』
(世界の名著 バラモン経典原始経典/中央公論社P134から引用)
このやりとりの後、死神マヤは結局説明させられるのだが、その内容は我ら俗人が期待するような内容ではなく、本来の自己たるアートマンを奉斎することで、かの恒常なるものに至ることを勧めている。
さて、死後の成り行きについて、我々が期待するようなことを説明することは、百害あって一利ないことを彼らは知っているから彼らはまともには説明してこないのではないかと思った。
というのはオーディンの箴言にこんなのがあったからである。
『誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。誰も自分の運命を前もって知りはしない。知らない者は心配がなく、平穏な心でいられる。』
(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P31から引用)
つまり、ほとんどの人は、現在只今において、自分の末路について受け入れる勇気も覚悟もないのが現実だろうからである。キュブラーロスの指摘するように、自分の死を受け入れるのには準備と段階が必要なものだ。