◎見ている自分は純粋な意識
(2017-09-30)
さて、世界が与えてくれるあらゆる経験は、見ている自分が解脱するために存在していた。
パタンジャリのヨーガ・スートラでは、見ている自分は、純粋な意識であるとする。
現代科学は、他の事物や他人は自分とは独立したものであって、自分は孤絶した観察者の立場で、それらを評価したり論じたりできるというのが建前である。しかし現代では、自分と他人や他の事物は相互に影響を与え合っているのが次第に知られるようになってきた。このことは伝統的な宗教の見方であり、山川草木悉皆成仏(山川草木みな仏)、アカシック・レコード(世界はひとつながり)などと言う。
ところが、あらゆる知識や考え方は個人的なものであって、分断されているのが、この社会の通念。
自己と他者、見ている自分と見られるもの、生と死、男と女は両極であり、この両極の分断という苦しみは、つらいトレーニングなしでは通過することはできない。
そのトレーニングの成功確率は、それに自分を捨てられる比率、賭けられる比率に対応して高まる。
ヨーガ・スートラから
『2.20 見る者は純粋な意識であるが、見る者はマインドの幻影を通して見る。
2.21 見られるものは、見ている自分だけのためだけに存在する。』
自己と他者、生と死、男と女、子供と老人、巨富と貧困ですらマインドの造り出す幻影である。こうした幻影という現実は、見ている自分のためだけに存在する。
肉体ですら幻影という偽物だが、肉体こそ現実、金こそ現実、美醜こそ現実のように、その偽物たちでもって真剣に訓練を重ねないと、偽物であることを見抜きそれが偽物である世界に逆転して生きることはできない。
逆転して初めて、『見ている自分は純粋な意識』と言えるのであって、覚醒以前に『見ている自分は純粋な意識』と言うのは、空念仏である。