◎ジェイド・タブレット-06-50
◎青春期の垂直の道-49
◎大涅槃、マハパリニルヴァーナ
釈迦は生涯に二度ニルヴァーナにアクセスしている。それについてOSHOバグワンの説明がある。
まず第六身体に居たままでは、第七身体ニルヴァーナに到達できないとする。
第六身体とは、宇宙全体が自分であって、過去現在未来が一体であって自分であり、生も死も自分である状態であって、始めもなく終わりもなく、広大にして限りなし。これを棄てるとニルヴァーナに到達する。
『第七身体は、この身体の中では決して到達できない。この身体においては、せいぜいこの第六身体の境界線の上に立ち、第七身体を眺められるだけだ。その飛躍、その空、その深淵、その永遠は、その地点から見ることができ、そこになら私たちは立てる。だから仏陀の生涯には、ふたつのニルヴァーナが記されている。ひとつのニルヴァーナは、ニランジャナ川の岸辺の菩提樹の元で成就された。それは、彼が死ぬ四十年前だ。これがニルヴァーナと呼ばれる。その日、彼は第六身体の際に立った。・・・・そして彼は、四十年の長きにわたってそこに留まった。彼が亡くなった日は、マハパリニルヴァーナと呼ばれる。その日、彼は第七の次元に入った。だから人が「死後、タターガタ(如来)には、どんなことが起こるのですか」と尋ねると、彼は「タターガタはないだろう」と答えた。
しかしこれは、マインドを満足させなかった。何度も何度も、人々は尋ねたものだ。「マハパリニルヴァーナの中で、覚者には何が起こるのですか?」これに対して仏陀は答えた。「あらゆる行為が止み、あらゆる事象が止む所、それがマハパリニルヴァーナと呼ばれる」。
何かが第六身体で起こり続けているかぎり、それは存在だ。これを越えるものが非存在だ。だから仏陀が存在しなくなる時、残るものは何もない。ある意味では、彼は決して存在しなかったとも言える。彼は夢のように、砂の上に描かれた線のように、描かれては消えゆく水面に描かれた線のように消え去ってゆく。彼は消え去り、何も残らない。しかしこれは、私たちのマインドを満足させない。どこかにあるレベルに、どこかの片隅に、たとえどんなに離れていようと、彼は存在するはずだと私たちは言う。しかし第七次元では、彼はただ空、形なきものになる。
第七身体を越えた所に、新しい形をもたらす術はない。境界線に立ち、第七身体その深淵を見る人々はいる。だから、第七の次元について知られていることはすべて、境界線に立った人から伝えられたことだ。そこに行った人々の報告ではない。なぜなら、いかなる説明を伝える手段もないからだ。ちょうど、パキスタンとの国境に立って眺めた人が、そこには家や店、道路や人々や木々や日の出があったと報告するようなものだ。しかしこの人は、インドの国境に立っている。』
(奇跡の探求Ⅱ/和尚P366~367から引用)
釈迦は暁の明星を見てニルヴァーナを感得し、臨終に際してはニルヴァーナに飛び込んだ。








